2001『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』後半
<ユーレイルパスで巡るヨーロッパ列車の旅 Ⅰ>
《フランス・スイス・ドイツ編》
『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』の前半は、スカンジナビア半島を南下し、イギリスからアイルラ
ンドに渡る5500kmの旅で終えている。
後半は、アイルランドから、フェリー・アイルランド号でフランスに渡り、ノルマンディー北方にあるシェリ
ブール港に着岸、上陸したところから始まるヨーロッパ周遊5500km、ユーレイル・パスによる鉄道の旅であ
る。
今回は、<フランス高速鉄道ーTGV と ドイツ高速鉄道ーICE>での列車の旅を楽しみながら、モンブラン
山群の氷河を歩き、ドイツ・フランクフルト近くのライン川の世界遺産・古城群を鑑賞、ロマンチック街道を
ローカルバスで南下、ミュンヘンよりベルリンへ北上、10年前まで実在していた東西冷戦の『ベルリンの壁』
に立ち、ベルリン近郊のナチ強制収容所<ザクセンハウゼ>を訪ねて『ホロコースト』の実情を目の当たりに
し、日本への無条件降伏を勧告した『ポツダム宣言』の街に立寄った。
ポーランド・ワルシャワ以降は、次の『ヨーロッパ周遊の旅 11000km』後半・ユーレイルパスで巡るヨーロ
ッパ列車の旅 Ⅱ《東ヨーロッパ & イタリア編》へとつづく。
ドイツ高速鉄道 ICE (2001年当時)
初期新幹線<こだま 0系16連> (2001年当時)
ヨーロッパの旅前半の締めくくりとして、フェリー<アイルランド号>で、日本の青年K君に出会い、船酔い
と言う洗礼を受けながら、ノルマンディー上陸作戦を敢行、いや近くのフランス/シェリブールにフェリーは
無事入港した。
大雨の中、フェリー・アイルランド号は、夜10時、ノルマンディー海岸のシェリブール/Cherburg港に接岸。
連合軍とドイツ軍の大激戦地であったルマンディーへ上陸、ナバロンの要塞を想像し、興奮も最高潮に達し
た。
フェリーで出会った青年バックパッカー2人とK君、4人で近くの列車駅<シェリブール>目指して歩きだし
た。 途中で、近くのユースホステルを知っているというカナダのバックパッカー・サンドラが加わり、
深夜でもあり、YHで一泊することになった。
Irish Ferries / アイリッシュ・フェリー
Irish Ferries 航路図
<アイルランド/Rosslare ➡ フランス/Cherbourg>
▼10/8宿泊 < シェリブール・ユースホステル> (朝食付き 110F)
■ 10月9日 フランス高速鉄道TGVによる列車移動 (列車#6573)
<パリを経由スイス・ローザンヌに向かう> 小雨後晴れ
08:00 シェルブール/ Cherbourg発、 11:09 パリ着のフランス高速鉄道TGVに乗車。
同行のK君(アイルランド・ゲルウエイにて語学留学後帰国途上)は、バイユー/BayeuxにあるInternational
Family Homeに数泊して、パリに向かうとのことで、途中下車する。
実に目的意識を持った好青年であった。
大学でドイツ哲学をまなび、非キリスト派のドイツ人哲学者バッハに関する研究をしているとのこと。 今回
は、フランス人家庭にも滞在し、フランス人の気質を知ったうえで、フランスを旅し、フランス革命以降の歴
史的文化に触れたいとの事であった。
フェリーでは「禅と哲学」、「神と実在」など哲学や人生論、宇宙観を論じ、教わったものである。
素朴で、誠実な、温厚な青年紳士であり、好感のもてる大学院生であった。
シェルブール/ Cherbourg発、パリ/Paris行の列車は、乗って見たかったTGV―フランス高速鉄道で、その雄
姿を写真に収めるためパリ駅のホームを駈けたものである。
1970-80年代当時、世界最速の鉄道であった。
フランス高速鉄道TGVの優れたところは、狭軌でも広軌でも走れるように設計された優れものであり、合理性
を尊重するフランス人好みの高速鉄道である。
在来線にも乗入れることが出来、高速鉄道路線では最高速度574.8km/h(2007/4/3)、運行速度は最高
320km/hで、通常は230km/hに抑えて運行されているようだ。
チェバニー城 (ノルマンディー近郊)フランス
TGV沿線#6573の車窓より
Sketched by Sanehisa Goto
今回のヨーロッパ周遊では、何度も訪れているフランスは、鉄道路線の乗継にとどめているため、パリで乗り
継いで、リヨン経由スイスに向かう。
次の目的地は、スイスのローザンヌである。
まず、パリから高速鉄道路線のTGVでリヨン経由、スイス・ジュネーバーに向かっている。
フランス高速鉄道は、パリ・リヨン間で最初に敷設され、当初の東海道新幹線にどこか似ている。
フランスの鉄道を代表する列車TGVは、ユーロスターよりも日本の新幹線に近いようだ。
ただし、車両の豪華さ、居住性、設備、デザイン・カラーは、断然新幹線よりGTVの方がいいと感じた。
リヨン駅を過ぎると、もうそこには地平線まで見渡せる大平原、それも整然と耕された畑が続くヨーロッパの穀倉地帯である。
なんと壮大な景色であろう、日本の山並みに囲まれた穀倉地帯とは全く違う豊かさを感じる。
ジュネーブ/Geneve’まであと45分の所から、憧れのフランス・アルプスが見えだした。
スカンジナビア半島のノルウエ―以来のトンネルを通り抜けている。
寒さも加わりだした。 新潟空港より日本を出てから、いまだ一度も暑さによる汗をかいていないことに、
ふと気が付いた。
フランス国鉄の高速鉄道TGV#4342の車窓からの、見渡す限りの葡萄畑が整然と列をなし、うねる様は
海のようで、一枚の絵画を見ているようである。
この列車はパリ発であるが、リオン駅/Lyon Part Dieu到着後、電気系統の故障で定刻より25分遅れでリオン
を出発した。
リオンからは、ラッシュアワーも重なり、故障による遅延のため各駅停車で運行するとのアナウンスがあった。
列車の旅では、必ずあるトラブルによる遅延、慣れていたつもりでいたが、世界でも屈指の超高速列車も、
故障にはかなわないのである。
TGVの各駅停車の普通列車に乗ったと思えば、これまた素晴らしい経験として、想い出として残せることを、かえって喜んだものである。
乗客も、各駅停車に急遽変更になった高速列車を楽しんでいるようである。
旅では、色々なハプニングが起こるからまた愉快であり、楽しいのである。 隣のフランスのおばさんが、
少し英語が出来るらしく、車掌のフランス語のアナウンスを英語で教えてくれたので助かったものだ。
旅も人生と同じPatient<忍耐>が必要である。
車掌が、遅延のお詫びでも言っているのであろう、それを聞いて乗客がどっと笑うのである。
どうもジョークを言って、乗客を和ませているようである。
怒る人もおらず、ただただ爆笑である。 こちらは、おばさんのたどたどしい通訳で、時間をかけ理解しての
笑いとなるのでどうもその場の雰囲気について行けずにただただ苦笑である。
素敵な車掌は、<人生にはジョークが必要>なんだ、と教えてくれたのである。
「遅れてごめんなさい。 彼女とのデートに遅れてしまい申し訳ありません。」
「ご家族と一緒にお食事が出来ずに、奥さんは怒っているでしょうね。」
・・・終着駅ジュネーブまで笑わせていたのだから、プロの心髄に触れたようで、かえって感心し、気が晴れ
たものだ。
最初フランスおばさんだと思っていたのは誤りで、後で分かったのだが、彼女はアイルランドの田舎から出て
きているそうで、スイスに一人単身赴任している夫に会いに行くと言うことである。
たどたどしい英語は、なまりがあるためで、生粋のイングリシュ・スピカーであることが分かった。
そのアイリッシュ出身のロザンナおばさんが、こちらがアイルランド経由の旅行者だと知って大喜び。
スケッチしたタラの丘やクリフ・モホを見せるとこれまた大喜び、夫が駅に迎えに来てくれているから、
ローザンヌまで送らせてくれと言う。
少しおっちょこちょいなので、丁重にお断りさせていただく。
のろのろ走る高速列車は、ようやくジュネーブに19:00着、1時間44分遅れで無事到着した。
通常の倍の時間がかかったことになるが、記憶に残る、心温まる鉄道旅になった気分にさせられた。
列車の旅はいいものだ。
そこには人生の縮図が見られるからである。
<ユーレイル・パス考>
ユーレイル・パスは、基本的に1等車使用パスであり、もちろん2等車も使用できる。
バックパッカーにとっては、すまし顔で埋まる1等車や、路線によっては車両にただ一人で占める1等車より
も、情報を集めたり、人生話に花を咲かしたり、おやつを分け合ったりできる2等車の方が愉快であり、貴重
である。
とくに、2等車での乗客とのコミュニケーションは、降車駅、乗換や、故障時、事故時、強盗遭遇時など、
周囲の乗客に助けられることが多いからである。
ただ列車の便によっては1等車には豪華な食事が付く事もあり、バックパッカーにとってはこの上ない絶品に
ありつける特典も見逃せないのだが、臨機応変に対応することにしている。
ローザンヌ駅に到着 (スイス)
▼ 10/9 宿泊 <ローザンヌ・ジュノテル・ユースホステル> (スイス)
Chemin du Bois de Vaux 36 1007 Lausane
レマン湖畔の近くにあるYH
■ 10月10~11日 スイス<モンブラン氷河歩き> 曇
ローザンヌで氷河歩きの装備を整える (スイス)
オリンピック本部前で
もうすぐモンブランである。
随分昔だが14年程前、子供たちが、米国ニュージャージにあるハーリントンパーク中学を卒業したのを記念
してヨーロッパ一周バス旅行で家族全員で立寄った思い出の場所である。
この2001年当時、すでに子供たちの母は亡き人であり、子供たちはそれぞれ大学生となり勉学に励んで
いた。
今一人、思い出のアルプスに登り、香を焚き、彼女が好きであった生きる力を歌い上げたビートルズ、
プレスリーの曲や、死を見つめて歌い続けた美空ひばりの曲を流すつもりである。
レマン湖よりスイス・アルプスの風景
レマン湖は穏やかである。
靄に霞む対岸のフランスの村が、レマン湖に吸い込まれそうで・・・幻想的である。
空も、山も、わたしも、湖も一体となり、永遠の光の中に吸い込まれて行きそうである。
ベールに包まれた神秘的なレマン湖で瞑想を楽しんだ。
09:15 雲が切れ、スイス側のモンブランが姿を現わした。
この大平原のヨーロッパの、どこからこのような素敵な山々が創られたのだろうか。
ヒマラヤやアンナプルナはあるべきしてある厳しい山々だが、アルプスはそこに山を置いたような山々である
にもかかわらず、ヒマラヤなどに劣らない神々しさを見せつけている。
登山電車の車窓から見るモンブラン
そう、ここアルプスでも山の神をみた。
スイスのMartigueよりシャモニーに向かう登山電車が急勾配をグングン上っていく。
山は霞がかかり、雪も見えてきた。
林にみえるヒュッテは、別荘だろうか。
シャモニー駅ホームで(フランス)
10月中旬と言えば、シーズンオフなのだろう、登山電車も2両編成で、こちらのほかに3組の老夫婦だけで
ある。
シャモニーからモンタンベール/Montenvers登山電車で氷河を目指す。(往復13£・毎時1本)
氷河には、さらにロープウエーに乗り換えていくことになる
この氷河からモンブランが綺麗に見えるからである。 また氷河やクレバス歩きをするつもりである。
この登山電車は、ユーレイル・パスが使えず、切符はスイス・フランで支払った。
当初、ここシャモニーはフランスであると思っていなかったので、スイス・フランで支払ったところ、
釣銭がフランス・フランで帰って来て、はじめてシャモニーはフランス側にあると知ったのである。
(2024年、これまでに数度、アルプスを訪れているが、いつもシャモニー、モンブランと言えば、
フランス側にあるのが不思議に思えてしまうのである。 それだけシャモニーはスイスに近いのである。)
Sketched by Sanehisa Goto
<フランス・シャモニーでのトイレ考>
便器や、遮蔽物がない。 ただ、壁と床があるだけの空間、どうして用を足すのであろう。
何かの間違いかと、空間から出たり入ったり、入口にはトイレマークが付いているから間違いではないのだ
が・・・。 はて、昔の小学校にあった飼い葉おけ型溝もない。
一生懸命考えてもわからず、せめて手を洗おうとすると、かべに穴が開いていいて、水が流れ出ていることに
気づいた。 そう、壁と床との角に排水口が開いていることに気づいたのである。
これだと、壁に向かって用を足せばいいことになる。
フランス人の考えの奇抜さに驚かされたものだ。
モンタベール行<Montenvers>登山電車
切り立った<ダン・デユ・ジェアン>4013m
終点<モンタベール>展望台より
氷河ツアー<メール・ドウ・グラス>とモンブラン山群マップ
氷河へは登山電車で<モンタンベール>に向かい、ロープウエーに乗換る
(シャモニー谷・フランス)
グラン・ジョラス/Les Genacs Jorass 4208m
Lev Mel de Glace<メール・ドウ・グラス>氷河を歩く
ドイツへ向かう列車GTV2000で仕上げる
Sketched by Sanehisa Goto
<氷河を歩く>
エキュー・デ・グラモンテにある登山電車の終点駅<Buffet de la Gare>に着いた。
氷河へは、ここからまだロープウエーに乗換えて向かう。
モンブランの<メール・ドウ・グラス>氷河ツアー<アルプス雪渓トレッキング>に参加する。
さっそくメール・ド・グラース/Mer de glace Montenvers氷河を目指す。
鉄梯子でオーバハングに近い垂直な崖を下っていく。
一歩一歩が、不気味に口を開ける氷河に走るクレパスに身震いを感じる。
瓦礫を被ったような、薄汚れた氷河に下り立つ。
クレパスが大きな口を開け不気味である。
用意してきたピッケル、アイゼン、手袋、サングラス、ヘルメット変わりの頭を落石から守るための帽子を
付ける。
氷河の下に隠されたクレパス、クレパスを覆い隠す雪庇が一番危険であることは冬山登山、とくに雪庇を
造る崖っぷち歩きの危険から学んできた。 慎重に一歩づつの前進となる。
いつも氷河で行う儀式を行った。
氷河のかけらを口に含んでみるのだ。
宇宙が口に飛び込んできたみたいな、体がふわっと浮く感触を味わう儀式である。
メール・ドウ・グラース氷河
氷河へ下る垂直梯子
メール・ドウ・グラース氷河ツアーに参加
<氷河トレッキング上の注意>
氷河トレッキング・ツアーには、上級・中級・初心者コースがある。
個人的にニュージランドや、パタゴニア、アラスカの氷河で散策歩きはしたものの、技術的には全く修得して
いないものだから、安全と時間的制約により<初心者コース>に参加した。
もちろん、初心者と言えどもクレパスが口を開けている氷河、一応目を通しておくように注意書きが
配られた。
ただ、初心者コースは、ロープに結ばれず、認められたエリアでの行動は自由であった。 それだけ危険度が
低いエリアが指定されているようだ。
上中級コースでは、次のような<氷河歩きテクニック>が書かれていたので記しておきたい。
荒々しい<メール・ド・グラース氷河>の表情
1 氷河では原則としてロープで結び合うこと
2 横に並んで歩いてはいけない
3 破損を防ぐため、ロープを緩めての引きずり厳禁
4 たえずロープの傷み具合をチエックすること
5 各人のロープ間隔は約3.5mとすること
6 何よりも経験を重ね、ロープさばきを身に着けること
7 雪をかぶった(クレパスが隠れた)氷河には近づくな
8 クレバスと直角に進行すること(横並びで進むな)
メール・ド・グラース氷河の危険なクレバス
ダン・デユ・ジェアン4013mを背に
モンタンベール展望台より
氷河ツアーを終え、ジュネーブに立寄り、市電<トラム>に乗ってみた。
突然3名の検札係が乗込み、各ドアーを固めると共に、そのうちの一人が順番に検札を始めた。
日本では何度か経験したことがあるが、市電で、白昼に、混んでもいないのに、何故であろうかと考え込んで
しまった。
世界を回っていて、南米か東南アジアでもない最先進国スイスで検札制度があること自体、市民を信用して
いないような気がしてならなかった。
スイスと言うすべてが素晴らしい国と言うイメージに当てはまらない情景に出くわしていささか面食らった
のである。
市電の窓からは、コンクリートでカモフラージュされ、遮蔽物に隠されたジェット戦闘機がこちらをにらんで
いた。
検札は、中立国としての平時における危機対策<治安維持>の一つではないかとふと考えたものである。
<トラムでの話>
おなじ市電<トラム>での出来事であるが、検札のことを考えているところに、婦人車掌がやってきて、
ジュネーブ駅に着いたから降りろと言う。
そういえば、検札も終わり、乗客がみな降りてしまっていた。
見渡したら、田畑の真中に市電は止まり、車庫行きを始めたから驚きである。
ジュネーブ駅は、街の中にあり、人で混雑しているべきであると・・・考えるのがノーマルである。
車内でのアナウンスもなく、なんと不親切な対応であろうかと、またまた脳裏に残っている先進観光国
スイスのイメージが急に崩れていった。
それも、フランス系婦人車掌らしく、英語で話そうとせず、フランス語でまくしたて、ただただ野良犬を
追い出すように手で追い払う仕草には、いかに汗臭く、薄汚いバックパッカーでも腹を立てたくなったのを
抑えたのである。
ふと昔、カナダ旅行をしていた時、モントリオールでのフランス語一辺倒の接し方に違和感を持った
ことを思い出していた。
フランス人の傲慢さと言うか、異文化や言語を解しようとしない偏執的なプライドに、いささか辟易する
ことがあることは確かである。
それも、英語が話せてもフランス語しか話さないというイングリッシュ・コンプレックスが垣間見えて、
憐れに思える事さえあった。
あとで分かったことだが、ジュネーブの市電には、市内と、フランス国鉄が管理する郊外の2つの駅がある
らしい。
トラムを下りて、うろうろして困っていると、親切なご婦人に声を掛けられ、ローザンヌ・ユースホステルに
戻るところで、降ろされ困っていることを告げると・・・
券売機で切符を買ってくれ、16番のトラムに乗って、停留場<Cornavin>で降りたところだという。
切符代も、受取ってもらえず、ただ笑顔で<Good luck!>といって見送ってくれたご婦人はちゃんと英語で
対応してくれたスイスのご婦人であったことになぜか胸をなでおろしていた。
なんとか、一応迷わずローザンヌ・ユースホステルにたどり着くことが出来た。
▼ 10/10~11連泊 <ローザンヌ・ジュノテル・ユースホステル>
■ 10月12日 フランス高速鉄道 TGV2000 にて 列車移動
<スイス/ローザンヌ➡ドイツ/フランクフルト>
05:50 起床
久しぶりに腹筋をする。 日本出発時の太鼓腹が細くなり、バンドが腹に食い込むほどである。
今日は、スイス・ローザンヌを出発し、いよいよドイツ入りをする。
フランス高速鉄道 GTV2000 の2階にある一等に陣取り、ローザンヌより、チューリッヒ経由、車窓から
<ドイツの黒い森>楽しみつつ、フランクフルトに向かうのである。
フランクフルト行・フランス高速鉄道TGV2000にてスケッチの仕上げ
仕上げたモンブラン西群の峰々
チューリッヒの駅で朝食をとる。
久しぶりにご飯を食べたくなったので、カラス貝とイカ天が沢山入ったパイラにたっぷりとレモン汁をかけて
いただく。 (18.50スイス・フラン)
スイスでは、大小・男女によりトイレ代(2.5Sf)が異なることに驚かされた。
日本ではトイレ代を要求されることはないが、旅先では、その国の小銭を持ち合わせず、大変な目に
あわされることが度々あった。
同国人同士のコミュニケーションの上手なのは、カナダ人とドイツ人である。
彼らは、旅の情報はもちろん、困難克服・危機直面・突破にあたって、一致協力する傾向が強い。
旅、それも一人旅を原則とするバックパッカーにとっては、いち早い情報ほど、生命の危機・リスクを避ける
ことができることを知っている。
初対面の日本人同士は、カナダ人やドイツ人のようにはスムーズなコミュニケーション(情報交換)は難しい
と云える。 まず、相手が日本人か、中国人か、韓国人か、それともアジア人かの判断がなかなかむつかしい
のである。 お互い英語での接触から始まり、相手の国籍の判別から始めることになり、案外時間がかかるも
のだ。
胸やリュックに各国の国旗や、日の丸が付いていれば、分かりやすくコミュニケーションもスムーズに運ぶの
だが、日本人にとってはリスクが高いと云える。
2001年当時、すでにバブルは弾けていたが、犯罪者や誘拐犯にとってはまだまだ日本人は<ねぎを背負った
カモ>(歩く身代金)と見ていたのである。
13:00 スイスとドイツの国境の街<バーゼル/Basel>に到着。
車内アナウンスは、ドイツ入国にあたり入国・税関申告が行われる旨、告げている。
車掌の計らいで2階にある家族用コンパートメントを割り当てられ、まるで豪華なカラオケ空間を楽しみ、
ドイツの民謡やクラシックを聴きながら、描きためていたスケッチに彩色を施していた。
疲れると赤ワインを注文、YHの朝食で出されたガーリック・バターパンのかけらをかじりながら、ベルリン
フィルハーモニーの交響曲を鑑賞するというユーレイレ・パス最大の特徴を楽しませてもらった。
列車でのアナウンスを聞いていても、アルプス圏にいる間は、フランス語・ドイツ語・英語の三か国語で案内
される。 それもフランス語はウグイス嬢が、ドイツ語は声太の小父さまが、英語は精悍な青年の声が響き、
アナウンスを聞いているだけでも楽しい時間を過ごせるのである。
ドイツ高速鉄道ICE 列車番号72 (スイス・バーゼル/Basel駅にて出発を待つ)
列車番号ICE-72の電車は、 バーゼルを13:13に出て、16:06にフランクフルト/ Frankfurtに
到着した。
今夜宿泊予定のフランクフルト・ユースホステルは人気があり、すぐに満室になるという情報なので、
すぐにYHに向かった。
情報通り満室との事、キャンセル待ちであったが、案外早くにキャンセルがあり、ドミトリーに通される。
さすがにまだ早い時間帯、簡単な手洗い洗濯を終え、久しぶりの浣腸による大腸の整理を行い、ビタミン・
カルシュームを補充し、誰もいない6人部屋のベットに大の字になって早めの午睡をむさぼった。
ここフランクフルト空港はヨーロッパのハブ空港であり、ヨーロッパのどこの国に行くにしても必ず着陸する
ところである。 今までに何度もヨーロッパを訪れ、フランクフルトに立寄りながら一度も街中を歩いたことがないのである。
午睡から覚め、さっそくフランクフルトの街へ散策に出かけた。
▼ 10/12 宿泊 <フランクフルト・ユースホステル>(ユーゲントヘアベルゲ)
<フランクフルト・ユースホステル> (右緑の看板)
<スケジュール・チェック表>
旅行中、バックパッカーとして、必ず「スケジュール・チェック」を行動前日の夜に実施している。
- コースの確認(地図に赤線を入れる)
- 時間確認<列車・バス・飛行機の発着>
- 行先・乗降・乗継地点の確認
- パスポート・チケット・予約票などの確認
- 次の国の通貨単位・予算額・両替の確認と準備
- 乗車地点へのルート・交通機関(バス/電車/タクシー/徒歩)・運賃・所要時間の確認
<バックパッカー緊急処理方法―トイレ考>
世界を旅していると、トイレが完備しているところは至って少ない。 かえって、砂漠地帯や、未開の地、
観光どころではない地域が多く存在する。
また、同じ旅行でも冒険的要素が加わるバックバックの旅は、文明的観光地よりも、未開の文明を求めて観光
未開発の地を巡り、土着の生活に密着したり、さらに未開の奥地に歩を進めることが多い。
その場合の生理上の排尿等の処理は、その場の自然条件に合わせて処理することになるが、長距離バスでの
処理程スリルに富むことはない。
周囲に気づかれずにいかに処理するかに全神経を使わなくなるからである。
もちろん、定期的に休憩をとってくれる路線や運転手であればいいが、ほとんどは運転手の生理に合わせるこ
とになるから大変なのである。
運転手に告げて処理するのが普通だが、地方での満員、それも通路にも寝ころばれたり、立たれているとどう
してもバスを止めてまでの勇気はうせるのである。
時には、荷物それもニワトリなどを積み込まれていると、一度席に着くと身動きできない場合もある。
また深夜満員バスで(未開の地ではほとんど長距離夜行バスは超満員が普通)停車させてまで処理する勇気が
わかないのである。 一晩中苦悶しながら次の街まで我慢せざるを得に事が多い。
そこで、長距離夜行バスでの緊急処理法として、山登りで使用するチャック付きナイロン袋や、ラバー付
ボトル(一種のし尿瓶・折り畳み式)を使用する方法をとっている。
ご婦人の利用については、いまだその効果について聞いていないので、またの機会にその効果について確認し
ておきたい。
使い方は、男性にとっては至って簡単である。 袋や瓶に流し込めばいいだけである。
チャック付き、蓋つきだたら匂い漏れもなく快適に処理できる。 座席に坐ったままで処理できるから、
旅に出かける前に使い方をマスターしておく必要がある。
処分は、次なる停車でトイレに流すか、天然の肥料として大地に還すか、いずれかの処分方法になる。
長距離バスの場合、ドライバーの都合で、炎天下や、夜空の星を見ながらの野外処理をすることがあるが、
イスラムの国々では着用のワンピースが即簡易トイレに変わる便利さがある。
裾の中に坐ると、その行為を見られずに済ませることができる優れものに変わるのである。
こちらは、時としてポンチョをかぶり、坐って用を足したことがあるが、できれば巻きスカートを持参すれば
よいと思う。
<列車の席の選び方>
ユーレイル・パスによる快適な列車の旅をするにあたって、席の確保が大切である。
幹線を走る列車は、ほとんど満席で満足できる席を確保することは難しいので、予約をとる事にしている。
予約をとっておいて、より良い席が空いている場合は、席を変えることもしばしばである。
特にコンパートメントの車窓は、一般車両の窓にくらべ約3倍もあり、風景を楽しむのに最適である。
なお、混んでおらず一人でコンパートメントを独占できれば、即貴賓席に変身するのである。
ただ、コンパートメントが満室(6人)の場合は、貴賓席が一転して難民空間、足の置き場がない程の窮屈さ
を感じるようになる。
この点も考慮して席選びを行うことが大切である。
■ 10月13日 ドイツ・ライン川下り 霧、紅葉が美しい
昨日、今日とドイツの<黒い森>地帯を走り抜けている。
濃い緑の樹々が大地を覆い、家を隠し、古城が顔を出すさまは、重厚さを感じさせる。
06:00 フランクフルト・ユースホステルにて起床。
07:45 ケルン/Ko”ln行の列車に乗り、Koblenzのクエリー<ライン川遊覧船>乗場に向かうが、
11:00 出航の観光船はキャンセルされ、次便14:00発まで待たされることとなった。
なぜ、キャンセルするのかの一切のアナウンスがない。
同じくライン川のクルーズを楽しみにしていたというフランスからの若き夫婦(奥さんが日本の方)と
知り合い、3時間程おしゃべりに興ずる。
待合室のテレビでは、アメリカがアフガニスタンにいるタリバンに対して、同時多発テロの報復爆撃している
映像が流されている。
ただ、無差別にシビリアンを攻撃しているアメリカへの悪印象をドイツ人に与えているように映る。
霧モヤのかかる神秘的なライン川は、お昼ごろからすっかり晴れ、素晴らしいライン川の景色を見せてくれ、
絵筆の時間を楽しんだ。
ライン川下り遊覧船<ベルリン号>の前で(Koblenzにて)
ライン川の紅葉の散る様を眺めていると、ふと<葉っぱのフレディー>の散り舞う姿が脳裏に浮かんだ。
一枚の葉が、音もなくスーッと舞い、満足しきった表情で、土の上にふわっと着地する様子に、おのれも
あのようにありたいと望んでいる。
そのためには、すべての欲を捨て、裸の自分になる必要がありそうだ。
でも無理ではないよ、との声が聞こえたような気がして、うれしさが込み上げてきた。
旅に出ると、純粋な自分を見つめ、生を見つめ、死を考えることが多くなるような気がする。
旅は人生を考える歩き禅<経行>(キンヒン)であると云えるかもしれない。
ふと愛唱の短歌がよぎった。
《岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水は流れる》 不知詠人
ライン川クルーズの風景
Sketched by Sanehisa Goto
<ライン川・リバークルーズ>
ライン川は、スイスのボーデン湖を発してフランス・ドイツ・オランダを経て、北海にいたる全長
1233kmの大河である。
■世界遺産<ライン川クルーズ>航路案内図 <KD社ラインクルーズ船>
<コブレンツ/Koblentz14:00発 ➡ 20:00着 ビンゲン/Bingen>
65km・ 6時間リバークルーズ
ライン川全長1233㎞の内、ドイツ国内を流れる<コブレンツKoblenz ~ ビンゲンBingenの間、65km>が、
今回は、ライン川を遡上するゴブレンツ出航のビンゲン着のクルーズ船<ベルリン号>に世話になった。
(写真・スケジュール・ルート図一部 KD社提供)
いよいよライン川リバークルーズの始まりだ。
ライン川もすっかり靄も晴れ、クルーズ日和である。
ゴブレンツのクルーズ乗場で
➀ ライン川遊覧船 ゴブレンツ出航 14:00発
② シュトルツエン・フェルス城 (進行方向の右手)
➂ マルクスブルグ城 (進行方向の左手)
④ シェーンブルク城 (進行方向の左手)
⑤ シュタールエック城 (ユースホステル) (進行方向の左手)
⑥ ゾーンエッグ城 (進行方向の左手)をバックに
ゾーンエッグ城を背に
⑦ ローレライの伝説
ライン川の途中にある水面から130mほど突き出た岩山が、ローレライ伝説で有名である。
昔、ライン川を航行していた船員たちがこのローレライの岩の近くを通りかかると岩の上から
歌声が聴こえてきて、そのあまりの美しさに舵を取るのも忘れてしまい水没してしまう、という
伝説である。
ドイツの詩人・ハイネはこの伝説をとてもロマンチックな詩に作り上げ、作曲家ジルヒャーが
曲をつけて歌い継がれてきた。
中学時代、音楽の時間に歌唱指導されたことをかすかに覚えていた。
『ローレライ』(近藤朔風訳)
なじかは知らねど心わびて
昔の伝説(つたえ)はいとど身に沁む
わびしく暮れゆくラインの流れ
入り日に山々あかく映ゆる
うるわし乙女の巌(いわ)に立ちて
黄金の櫛とり髪の乱れを
梳(と)きつつ口ずさむ歌の声の
あやしきちからに魂(たま)も迷う
漕ぎゆく舟人歌にあこがれ
岩根も見やらで仰げばやがて
浪間に沈む人も舟も
くすしき禍歌(まがうた) うたう
⑧ プファルツ城 (進行方向の左手、中州にあり)
⑨ フュルステンベルク城 (進行方向の右手)
⑩ ライヒェンシュタイン城 (進行方向の右手)
⑪ ラインシュタイン城 (進行方向の右手)
⑫ ビンゲン乗場到着 20:00着
Sketched by Sanehisa Goto
▼10/13 連泊 <フランクフルト・ユースホステル>(ユーゲントヘアベルゲ)
■ 10月14日 <ロマンチック街道観賞―ローカル・バス移動>
(ロマンチック街道 = ヴュルツブルグ➡アウグススブルグ➡フュッセン 400km)
ロマンティック街道は、ドイツのヴュルツブルクからフュッセンまでの約400kmの街道ルートである。
<ロマンチック街道>標識
日本語標識にびっくり
<ドイツ人気質―時間厳守>
アウグススブルグ行長距離バスは、定刻7分遅れでルクセンブルグを出発した。
乗客は、バックパッカーのアメリカ2、韓国6,現地2,日本1の軽11名である。
運賃は、ユーレイル・パス提示により半額の42DM(ドイツマルク)になる。
日本人観光客が多いのか、レシーバーによる日本語案内もある。
説明によると、ロマンチック街道の入口ヴュルツブルグは、学生20000人を擁する大学都市であり、
ヴュルツブルグで15分の休憩の後、出発時間になったが、韓国からの女子学生3人が戻らない。ドイツではど
のように対処するかと見守っていると、運転手は時間厳守のため、バスをスタートさせるという。
このバスは、路線バスなので定刻発車だから、乗客も文句も言えずにいると、バスに向かって走ってくる3人
を認め一件落着、ちょっぴりドイツ人気質を見た思いである。
<伝統継承>
ヨーロッパの人々は、伝統の中に生き、それをいかに継承していくか、という歴史とIDを守る使命感をわきま
えているように見受けられる。
先代からのよき遺産を守り、引継ぐという歴史観を後世に伝えているようである。
その方法として、祭りがあり、民族舞踊があり、野外演奏があり、人間との調和を大切にしながら伝統を守る
姿勢が見てとれる。
ここ、ロマンチック街道を飾る並木一本一本にも、その伝統への愛情、人生を味わう姿勢が見てとれるような
気がするのである。
ロマンチック街道、いやロマン主義街道は、亡きパートナーの最後の旅行先であり、同じ街道を走ることへ
の感慨深いものが込み上げてきた。
街道を包むモヤや霧も、ロマン主義街道を演出する助っ人である。
ロマンチック街道という緑のトンネルを走っていると、過去いや、中世に戻ったかのような感覚と魅力に満た
されるから不思議である。
目の前の葡萄畑からつくられた赤ワインを、バス休憩の間に野外レストランで飲んでみた。 なんとドイツパ
ンにはさんだ大きなソーセージと赤ワインの取り合わせに、その旨さに驚きの声を上げたものである。
ビールとソーセージの相性は知っていたが、赤ワインは意外であった。
まるで中世ドイツの貴公子でもなったような記憶に残る一品であった。
ランチは、ローテンブル/Rhothem Burgの街中にある広場で人気メニューである<フリュー アム ドム>を味
わう。 ドイツに来たからにはそれぞれの地域のソーセージに、地元のポテト、ドイツビールと決めていたの
で、迷うことなく喰いついた。
<フリュー アム ドム>
ロマンチック街道の街<ローテンブル>で
ロマンチック街道・ローテンブルグ城ブルグ門で、ドイツビアーで乾杯
ローテンブルグ城ブルグ門より市街を望む
Sketched by Sanehisa Goto
ソーセージを口にしながら、ブルグ門での描きかけのスケッチに色を付けていると、日本からのご婦人二人が
通りかけに「個展をされるときは是非読んでください」との声かけ、それから「これくらいは描けるわね」
と。 みなさん他人の絵を見て、自分の腕前と比較して、納得するものらしい。
人生も同じで、自分より幸せな奴は憎く、嫉妬するが、自分より不幸で貧しかったら、内心ほっとし、満足す
るのとよく似ているようだ。
第二次大戦までのドイツの歴史を少しは知る者として、この平和は何時まで続くのであろうかと考えてしまっ
た。
今夜は、ロマンチック街道でも一番ロマンチックと言われるアウグスブルグ/Augsburgのユースホステルに泊る。
ロマンチック街道中心都市アウグスブルグで
紀元前15世紀頃から街づくりが始まったという古い歴史があるアウグスブルグの夜は、教会の鐘の音と
共に深けていく。
6人部屋のドミトリーにただ一人、他人の鼾を気にすることなく久しぶりに安眠できそうである。
貸切のドミトリーでは、他の人に迷惑にならないので、たまった洗濯物を手洗いし、部屋干しにすることに
している。
夕食は、ホステルの近くを探したが中華料理店が見つからず、マクドナルドでチキンバーグにフライド
ポテト、コーク(8.90DM)で済ませるが、飢えたバックパッカーの腹を満たすものではなかった。
明日はいよいよ、ミュンヘンからベルリンに入る。
■ 10月14日 アウグスブルグ散策
& 列車移動 ドイツ高速鉄道 ICE<アウグスブルグ ➡ ミュンヘン ➡ ベルリン>
アウグスブルグ・ユースホステルの豪華な朝食を、壁にかかった十字架上のイエス・キリストが見守るなか<
ストロベリーヨーグルト・オレンジジュース・ハム&エッグ・パン・チーズ・バター・エスプレッソ>をいた
だく。
食堂は、広々とした庭園を眺められ、スイトルームのように広く、また窓からは中世風の街が飛び込んでく
る。 とくに、石畳みの街路には、人の温もりを感じたものである。
タイムスリップし、15世紀のアウグスブルグの空気を吸い込んでいた。
日曜のアウグスブルグは、静かだ。
4階建ての長屋の屋根裏部屋に出窓がある。
多くのユダヤ人ゲットの平和な街並み風景であり、であった。
このような屋根裏部屋の天井裏の空間<アティック>で、ユダヤ人少女「アンネ」は、ナチスのユダヤ人刈り
を逃れ、毎日<夢と恐怖>の「アンネの日記」を書き綴った。
ユダヤ人は、ユダヤ人であったが故に、ナチスのSSの1945年の秘密会議で、ユダヤ人絶滅の方針が採択さ
れ、実行に移されたのである。
多くのユダヤ人が生きることへの執念のもと、同胞の死を乗越えナチスより逃れようと懸命であったことは想
像に難くない。
なぜなら、第二次大戦後、日本敗戦に伴う植民地・朝鮮半島からの脱出に間に合わずに残留し、巻き込まれた
朝鮮戦争を韓国首都ソウルで遭遇していたからである。
北朝鮮共産軍の侵攻による市街戦を経験し、地下の防空壕のような狭い空間に身を隠した記憶がある。
共産軍による人民裁判の名のもと、共産主義に転向しない自由主義者・米国傀儡政府関係者・医師・教師・
科学者・宗教者と言ったインテリゲンチャ―や地主などを無差別に殺戮したのを見ていただけに、
なお切実にナチスにより迫害されたユダヤ人の気持ちが少しは理解できるのである。
戦争や、迫害において弱者ほど悲惨で、抑圧されるものはないからである。
戦争や迫害は、外交や対話無くして、いかなる理由であろうと起こすべきでない。
08:00 大聖堂<ドーム>での早朝礼拝に出席し、旅の安全と導きに感謝した。
今日は聖日、街中の沢山の教会の大小の鐘の音が、こころの扉を叩き、静寂の中に神の国を見ているようだ。
ドイツは、神を信じ、教会に集う多くの信者で成り立つ、敬虔なカトリック教国である。
その神を信じる国で、わずか60年前、ドイツ・ナチスは、ユダヤ人の大量虐殺<ホロコースト・ジェノサイド>をやってのけた。
キリストの愛の前に痛みを感じた多くのドイツ人がいたことであろう。
国を誤った方向に導くことが、滅亡の原因であることを知りつつも、多くの求道者は悩みながら、時の権力者
の方針に目を閉じたのである。
その悲痛な叫びは、長距離サイクリングで駈けた五島列島での隠れキリシタンの叫びと重なった。
ユダヤ人と言うだけで、裁判にも掛けられずに、集団で虐殺されている。
現在ドイツは、国一丸となって、深い反省と償いをもって、世界への復帰を真剣に、態度で示している。
平和の中にあるアウグスブルグの朝、犬と散歩する男性に声を掛けられた。
<Woher kommen Sie? Hatten Sie einen erholsamen Aufenthalt in Augsburg?>との問いに、
<日本からです。 アウグスブルグの朝の散歩で、この国の持つ歴史的な叫びを聴いたような気がします>
と・・・応えてた。
<列車移動> ドイツ高速鉄道 ICE(アウグスブルグ➡ミュンヘン➡ベルリン)
列車番号 ICE#1603 アウスブルグ 10:07発 ➡ ミュンヘン 10:41着
列車番号 ICE#1508 ミュンヘン 11:21発 ➡ ベルリン 17:19着
日本の新幹線がすべての面で世界一だと思っていたが、ドイツ高速鉄道のICEの素晴らしさにも
目を見張った。
ドイツ高速鉄道 ICE初期の列車
<列車ICE#1508 12:30 ニュールンブルグ通過>
第二次大戦における戦勝国は、ここニュールンブルグで、敗戦国ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁く<ニュルン
ベルク国際軍事裁判>が、1945年11月20日より約1年間、開かれた。
ここニュールンブルグが、ナチ党の年次大会開催地であったからである。
この国際軍事裁判では、戦争犯罪としてはじめて「平和に対する罪」および「人道に対する罪」が取り上げら
れたが、形式的なものに過ぎなかった。
日本の東京裁判<極東国際軍事裁判>と同じく、戦勝国が一方的に敗戦国を裁く方法がとられ、騎士道を重ん
じる西欧として、裁判のもとに敗者を裁く姿を示しかったと云われている。
<列車ICE#1508 15:45 ライプチッヒ通過>
ライプチッヒは、クラッシックの巨匠であるバッハやメンデルスゾーン、そしてワグナーらのドイツを代
表する音楽の街である。
またベルリンの壁崩壊、ひいては東西両ドイツの統一の端緒となった住民運動の発祥地として知られている。
<列車ICE#1508 17:19 ベルリン到着>
ドイツ高速鉄道 ICE#1508便は、定刻通りにベルリンに到着した。
▼10/14 宿泊 <ベルリン・ユースホステル>(ユーゲントヘアベルゲ)
10785, BE, Berlin, Kluckstrasse 3
<ベルリン・ユースホステル>
ベルリン・ユースホステルは東西冷戦の象徴であった<ブランデンブル門>や<ベルリンの壁>に近く、世界
中のバックパッカーで溢れかえっていた。
満室と言うことで、キャンセル待ちである。
3人部屋のドミトリーが空いたとのことで、陽気な青年ドイツ野郎2人と同室となる。
夕寝して、夜の街に繰り出すとの事、ベッドにもぐりこんでしまった。 アダルトショップに出向くらしい。
こちらが東西冷戦の象徴であった<ブランデンブルグ門>や<ベルレインの壁>を見学して帰って、熟睡して
いる夜中3時ごろに帰ったようである。
フィンランド・ヘルシンキ以来の2本目のスケッチペンが、その使命を終える。
使用済みペンは、ここベルリン・ユースホステルの入り口付近の植木の下の穴に横たわり、眠りにつく。
ここベルリン・ユースホステルより15分(約900m)のところに東西ベルリンの象徴<ブランデンブルグ門>
がある。 そして、ユースホステルのごく近くに東西ドイツを分断していた<ベルリンの壁>が南北に築かれ
ていた。 さっそく東西冷戦時代の象徴すべき史跡を訪ねて歩いてみた。
滞在した2001年当時、わずか12年前に<ベルリンの壁>が打ち砕かれ、冷戦時代の終焉を見たあの興奮は、
いまだ体が覚えていた。
<ブランデンブルク門>は、東西ドイツ統一の象徴として、平和の大切さを訴え続けていた。
歴史の証言者として残されている<ベルリンの壁>
ブランデンブルグ門近くの
東西ベルリンに設けられていた検問所跡
& ベルリン散策
第二次大戦の悲劇の一つであるナチスによる組織的ユダヤ人抹殺を物語る強制収容所に、この旅で是非訪れた
いと思っていた。
ドイツでは、ベルリン近郊のOranienburgにあるナチ強制収容所<ザクセンハウゼ>を訪ねることにした。
ベルリンから北へ約40分の所にある。
Sバン、Zoo駅5番線より乗り、Friedrich Str.でS-1に乗換、終点Oranienburg下車。
駅よりすぐのところにある。
Sバーン終点<Oranienburg>駅
さっそく、無料ウオーキング・ツアーに参加して所内を見学することとなった。
1933年に開所した大規模な施設は、1936年から10年間、1945年までナチの強制収容所として政治犯やユダヤ
人の収容施設として利用され、この間約20万人が収容されていた。 収容者は、拷問や虐待、飢えや強制労
働、病気で多くの犠牲者を出した。
ただ、ポーランドにあるアウビシュッツ強制収容所のような大量虐殺を目的とした強制収容所ではなかった。
しかし、何万人もの犠牲者を火葬に付すガス死体焼却炉の後は残されていた。
入口鉄門に
「ARBEIT MACHT FREI ー働けば自由になれる」とある
<ザクセンハウゼ強制収容所>正門鉄扉の標語<働けば自由になれる>をノートにスケッチ
社会勉強中のドイツ人中高生たち
<ザクセンハウゼ強制収容所>の甲子園球場130個分という広大な二等辺三角形の強制収容所の緑の芝生が目
に沁みる。 この敷地に4列、総計68の収容棟が立ち並んでいたという。
収容総囚人数は、約5万人で、開所期間中に総計約20万人がいた。
また、ここザクセンハウゼ強制収容所は、ヨーロッパ中の32のナチ強制収容所の総監督所であり、各収容所で
囚人から奪った金品が集められる保管庫でもあったという。
銃殺場跡
展示写真パネル<死の行進>
ガス死体焼却炉跡
こちらのウオーキング・ツアーの少人数の外国人観光客にくらべ、多数のドイツ人中高生の社会勉強としての
強制収容所見学は、国家として国民として過去への反省を兼ねており、その若き学生たちの顔には苦痛に満
ちた、真剣なまなざしがあった。
ドイツのように先に、自分たちの罪を認め、過去を教訓として生かす方が人間として賢明であるといえる。
<ベルリン散策 ― ポツダム>
ベルリンから約30分、SバーンのS7の終点にあるポツダムは、日本の敗戦処理をめぐって取り決められた<ポ
ツダム宣言>がなされたところである。
日本は無条件降伏を迫った<ポツダム宣言>を受託せずに、戦争を継続したがゆえにアメリカの広島、長崎へ
の原爆投下を、さらにソ連の参戦を、結果として招いている。
この<ポツダム宣言>で、原爆で優位にあるアメリカが、ソ連の日本分割<北海道半分>要求をはねつけてい
たことも書き添えておきたい。 ただ、北方四島はソ連崩壊にもかかわらず、引き続きロシアによって占拠さ
れて現在に至っていることは残念である。
ポツダムの街角で➀ (ベルリン近郊 ドイツ)
ポツダムの街角で② (ベルリン近郊 ドイツ)
▼ 10/14連泊 ベルリン・ユースホステル(ユーゲントヘアベルゲ)
10785, BE, Berlin, Kluckstrasse 3
ベルリン・ユースホステルで、SECOMに就職が決まり、社会勉強にドイツに来ている青年に出会った。 大学
では経済学を専攻し、建築における積算に興味があり、研究したので、就職先で生かせたらとの抱負を語って
くれた。
特に、1か月前の9:11同時テロの攻撃対象となったワールド・トレードセンターの構造計算上の弱点に
ついて専門家として詳しく説明してくれた。
若者が外国を知り、英会話の必要性を感じ、世界観をひろげ、多くの国の歴史・文化・生活・国民性を知るこ
とは、世界共通の平和と平等と自由の概念を身に着け、国際性豊かな人間を作り上げるうえで大いに奨励され
るべきである。
大学4年間において、少なくとも6か月は、海外の提携校への留学を、単位として認める制度を確立すべきであ
る。 もちろん、留学先での語学を助けるため、英会話教育を幼稚園児より開始し、高校卒業までに身に着け
ておく必要がある。
徴兵制度のないわが国では、平和の戦士として国が率先して英会話教育・国費留学に取り組むべきではないだ
ろうか。
いよいよ明日から、東ヨーロッパのいくつかの国を、ユーレイルパスによる列車の旅が始まる。
まずは、最初の東ヨーロッパの国、ポーランドのワルシャワに向かいたい。
この先は、また旧ソビエット連邦の衛星国としての官僚的視線にさらされるのか、少し不安である。
ロシアの現状と、衛星国であった東ヨーロッパの国々との民衆や生活を比べながら、観察してみたい。
『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』後半
ユーレイルパスで巡るヨーロッパ列車の旅 Ⅰ
《フランス・スイス・ドイツ編》
完
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2001『星の巡礼 ヨーロッパ周遊の旅 11000km』 後半Ⅱ
《東ヨーロッパ & イタリア編》
へ続く
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