6) 『トンザン-サザジョウ道・白骨街道慰霊』
チンドウイン河での慰霊をすませたあと、河原での一夜の露営をとおして英霊との交わりをもちカレーミョウにもどった。
カレワよりカレーミョウにいたる弓第33師団の将兵がトラック輸送された道をたどってみたいとヒッチハイクに切り替え、ミッタ川沿いの道を軽トラに乗せてもらった。 この砂塵が、この凸凹道が将兵を悩ませたであろうし、また飢えや病をかかえての徒歩退却時の悲惨な<白骨街道>を思い描き、その苦しみをすこしでも分かち合った。
いよいよアラカン山脈に連なるチン高地にむかうことになる。
その目的地はチン高地北部にある標高1500m付近に位置するトンザン/Tonzanである。
インパール作戦時、トンザンはヤザジョウ/Yajyajo(タム=カレーミョウ道カバウ渓谷にある村落)からの弓第33師団歩兵第214連隊・中突進隊(作間連隊)の進撃ルートであり、カレーミョウを発した工兵第33連隊・正面突進隊(八木連隊)や歩兵第215連隊・左突進隊(笹原連隊)が目指した村落である。
カレーミョウ(標高200m)・バスターミナルの南側ゲート、向かって右より3番目のカラミ切符売り場前から、トンザン行ミニバス(トヨタ・ハイエース・6:00am発・12000K=1200円)は12名の客と屋根に荷物を積み込み出発した(実際出発したのは7:58amであった、アラカン時間に身を任せる)。
途中、タイゲン村10:08amで朝食兼昼食をかねて休憩、標高約2400m・11:08amのケネディピークを抜け、ティディム標高約2170m・12:08amに到着。乗客半分と積み荷をおろし給油をおこなう。
ティディム村は『土の村』といった印象だ。 一面土埃におおわれた世界がひろがる。 バナナの葉・家々・バラの花でさえ土埃の色をしている。まるで砂漠の中にたたずんでいるように見える。
村民は一生この土埃と付き合ってきたのであろうか。 インパール作戦中の日本軍も又この土埃に悩まされたに違いない。
もちろんわたしも土埃人形だ、メガネも手も鼻毛も土埃にまみれている。 酷悪路にたえるながらの難行苦行のミニバスの旅である。
弓第33師団のインパール攻略道であった《カレーミョウ=トンザン=チカ(ビルマ/インド国境)=(インパール南道)=インパール》はトラック道であり、兵員輸送に車を使える道である。 軍上層部では機動的にインパールへいちばん近い部隊であると期待していた。
しかし、第17インド師団の防御が固く激戦の連続であった。とくにティディムやトンザンでの攻防は激しく、弓第33師団歩兵第214・215連隊等はインパールへ向かうためには英印軍の堅固な守りを避け、自動車道を迂回して、インパール南道西側のアラカン山中の峻嶮な山道をビシェンプールにむかうことになったほどである。
カレーミョウからティディム経由トンザンへのアラカン山脈チン高地越えは、マニプール川を二度渡川し、アップダウンを繰り返すアドベンチャーな自動車旅行である。絶壁や折れ曲がる道路を車は峻厳なアラカン山脈を縦走する。チン族のみなさんは慣れているのであろうかオヤツを食べながらの自動車旅行だが、こちらは耐え難い長旅だ、カーブや凸凹に悲鳴をあげる。酔い止め薬の服用をおすすめする。 嘔吐物ナイロン袋も必携だ。
現在、ようやく政府の手がはいったチン州は、まずアラカン山脈チン高地を縦貫する幹線道路全線の拡張工事をおしすすめ、日本政府の技術・資金援助をあおぎ、JAICAの指導のもとなされている。
工事による待ち時間は、外に飛び出して新鮮な空気を求めたり、人の死角を探し出して小用を足したりとひと時の息抜きである。土埃(つちぼこり)にも閉口だ。水・マスク・マフラー・バンダナ・ニット帽・のど飴などが必要だ。
土埃で風景が変わり別世界に見えるほどである。横転したトラックなどを見るたびに緊張感がはしる。
ティディムを下ると、マニプール川にかかる二番目の橋を渡った(2:50pm・標高635m)。ここより一挙にトンザン目指して駈け上って行く。
4:00pm、標高1440m地点、終点トンザン村に到着した。カレーミョウ=トンザン間の所要時間はミニバスで約8:00時間の長旅である。 ドライバーに頼んでおいたので、今夜宿泊のゲストハウス『Zoland Guest House』前で降ろしてもらった。
トンザンでは、アラカン山脈に散華した英霊を慰霊することにある。
翌日リュックにテント一式と借りた厚手の毛布、慰霊のため持参した白米・玄米・南高梅・日本酒・天命水・線香・鈴・折鶴を詰め、アラカン山脈を横断するトンザン=ヤザジョウ道(弓第33師団歩兵第214作間連隊の進撃路)にむかった。
トンザン=ヤザジョウ道はアラカン山脈に囲まれ、遠く雲海に隠れるマニプール川を見下ろす素晴らしい山道である。
トンザンにある分岐をヤザジョウへの山道に入り、約10kmをトレックしてアラカン山脈に取り囲まれた美しい地点に設営した。
さっそく簡易祭壇を設け、英霊への70年の歳月を詫び、そのご苦労を偲び感謝をささげた。
最後に、持参した日本からの品々をアラカンの赤い土に眠る英霊に届けた。
帰りのトレッキングでは、チン族のクリスチャン墓地に詣で、英霊(日本将兵)の墓はないか探しもした。 わたしと同じ1941年生まれで、インパール作戦時すなわち1945年当時4歳だったチン族の人の墓の前に座って当時の様子を聞きもした。
墓地を囲む松の梢にさわやかな風が音を立てて吹き抜けていった。こころ爽やかである。 平和をかみしめているわたしたちは幸せである。アラカンの山並みはかわらぬ太陽の恵みをうけ活き活きとしていた。英霊のみなさんと一緒に『故郷』を静かに口ずさんでお別れをした。
カレーミョウ・バスターミナルでミニバスに乗る
乗客12名、帰省するチン族のみなさん
英霊の眠る阿羅漢(アラカン)山脈をいく
日本の援助により道路拡張工事中、待ち時間もながい
トンザン・ハカ分岐の村タイゲンで休憩
アラカン山脈がまじかにせまる
ケネディーピーク2170mのすそ野を北へ向かう<日本軍もこのピークを見ながら進軍したであろう>
滑落横転しているトラックも見られた
アラカン山脈に息づくティディム村に近づく