『モンユワ日本人墓地』2
『モニワ日本人墓地』 『殉国勇士の碑』
『慰霊』弓第215連隊 部隊通信中隊会一同 『鎮魂碑』弓215連隊第1中隊一同
慰霊碑』水上勤務第38中隊 墓地を一望する
5) 『チンドイン河畔・白骨街道慰霊』
夕方17:00 にモンユワを出発したバスはチンドウイン河を渡り、アラカン山系を越えカレーミョウ・
Kalaymyoのバスターミナルに早朝3:00に着いた。
バスターミナルにはチン高地/Chin Height・ファラム/Falamの高校教師の一行が帰省のためミニバスを待っていた。
山岳少数民族であるチン族の教師リーダーのツアン・サング氏がわたしに声をかけてきた。
『あなたもチン高地に行かれるのですか』
『わたしたちはファラムの高校教師で、教員研修会をおえて帰宅するところです。』
という自己紹介を受けた。
わたしが日本からインパール作戦開始70年にあたって、チン高地での悲惨な戦跡を訪ねていることを知り、珈琲に誘ってくれた。
話によると、チン高地はチン州というひとつの行政区として独立しているにもかかわらず昨年まで軍事政権下の支配下にあったという。チン高地からの出入りには厳しく制限され、外国人との接触が制限されていたという。もちろん昨年までは、外国人の入域には許可書が必要であった。
総選挙を意識しだした軍事政権は、昨年より少数民族に対する解放改革政策に転じ、ようやく往来の自由・インフラの整備に着手したという。まず人的交流・物資輸送を活発化させる施策として日本の技術・資金援助をうけて道路拡張整備に全力をあげている。
その結果、州都ハカ/Hakha-ヤンゴン/Yangon間の時間短縮につながっていると説明してくれた。 現在の所要28時間が、昨年までは3~4日間の行程であったというからチン高地はミヤンマー(旧ビルマ)の僻地、いや最果てであったらしい。
電力供給もいまだ追いつかず、灯火制限が続いている。 村落の各家庭ではソーラーパネルによるLED照明に、商店やゲストハウスでは重油による発電機に頼るしかなく、はやめの就寝となる。 炊飯はすべて山からの焚き木や炭に頼っており、アラカン山系の山並みも禿山がつづいている。
いや、ミヤンマー全土が電力不足といっていいだろう。 いつ停電になるかわからないのでヤンゴンの街角ですら大型の発電機が据えられている。
現在、日本企業の進出が目立つが、まずはインフラの整備・協力が最重要であろう。 とくに道路、電力、輸送網、金融や日本語教育の普及にとりかかる必要がある。
紹介してもらった『Chi Taung Tan Hotel』(シングル・25US$)に投宿した。 カレーミョウ・バスターミナルより徒歩約10分のところで交通に便利である。
ホテルのスタッフもフレンドリーで、部屋も清潔である。
バスターミナルの裏には、『New Eden Guest House』というゲストハウスもある。
またカレーミョウには高級ホテルから中級までそろっているので、その目的に合わせて宿が決めることができる。
チン族高校教師(ファラム高校)のみなさん
教師リーダーMr.Tuak Sang とともに
カレーミョウ・バスターミナル
宿泊した『Chi Taung Tan Hotel』
TV/AC/水洗/Hot-shower付の部屋(25US$)
<チンドウイン渡河 及び 河畔での露営・慰霊>
当初、モンユワからジェット・ボートでチンドウイン河を遡上しカレワまでいく予定であったが、かなわずバスでカレーミョウまで直行したことはすでに述べた。
カレーミョウに到着して、まずはカレワを目指しチンドウイン河畔での露営・慰霊に出かけた。
カレーミョウ・バスターミナルを7:00amに出発し、ミッタ川を右にみながら東へ向かうこと約2時間でカレワの街外れで下車する。(バス代2000K=200円)
このミッタ川はチンドウイン河に流れ込む。 ミッタ川に沿って走るカレワ=カレイミョウ道38kmは弓第33師団第33歩兵団(右突進隊)、歩兵第213連隊(右突進隊)、歩兵第214連隊(中突進隊)、歩兵215連隊(左突進隊)ほか各連隊が進撃した道路であり、重要な兵站補給路である。
そして退却時、悲劇の白骨街道となった幹線道路のひとつでもある。 弓第33師団の敗残兵はカレワ道をチンドウイン河にむかい渡河、タイ国境をめざして退却した。
カレーミョウからのバスはカレワの街外れ<ミッタ川にかかる吊橋手前>のバス停でカレワ下車の乗車客を降ろした。
このバス停から歩いて約2km・30分でチンドイン河にでる。 バイクタクシーを利用することもできる。
このような現象は一昨年まで一切見られなかった政治的現象である。 当時はアウンサンスーチー氏の写真を持っているだけで逮捕収監さていたのである。
総選挙の結果、アウンサンスーチー氏率いるNLDが圧勝し、2016年春より軍事政権が姿を消し、民主政権が発足することになった。
ミヤンマーの人々は、仏教をとおして培われた穏やかな性格や、他人に優しく親切であるところが日本人にとてもよく似ている。お坊さんを敬い喜捨をする姿はミヤンマーのいたるところで日常的であり、日本で失われつつある仏こころに接する毎日であった。
街の中心にむかって進むと、路上に屋台がならび人の集まっている広場にでる。 チンドウイン河の渡し場である。
土産物店がならび、定食屋がつづく。 石段から見下ろすと中型貨物船や客船が停泊し、渡し船が人やオートバイ、野菜類を積んで対岸を水澄ましのように行き交っている。
インパール作戦当時は、チンドウイン河を筏(イカダ)を組んで兵士・兵糧・装備・軍事物資を渡したというが流され大失敗する。またジンギスハン作戦として期待された食糧や運搬に利用するはずだった牛の大半が流され、日本軍のインパール作戦敗北の決定的要因となったと聞く。
細長い渡し船は7~8名の定員に1~2名の船頭が一列に座りチンドウイン河を渡る。まず河の半ばまで上流に向けてパドルを漕ぎ、あとは流れにまかせ対岸に着岸する。
フーコン渓谷を源流とするチンドウイン河の川幅は約300mであり、増水時には600m幅になる大河である。 流れも速く、水深もある。 水は濁り、手をつけると生ぬるい川水であった。 インパール作戦当時のチンドウイン渡河を思い描きながら対岸に渡った。
『インパール作戦退却路・アラカン山脈白骨街道における露営・慰霊紀行』⑥
『チンドイン河畔・白骨街道慰霊』-2 につづく