shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

『インパール作戦退却路・アラカン山脈白骨街道における露営・慰霊紀行』⑯

インパール作戦退却路・アラカン山脈・白骨街道・慰霊地の巡礼記 12
 
 
 

  8) 『カレーミョウ-ファラム-ハカ道』

     AdventureMemorial Trip to Kalaymyo Falam Haka
On Chin Heights / ArakanMountains in Myanmar


チャンドラ・ボース率いるインド国民軍は、弓第33師団主力がインパール攻略作戦を遂行するにあったって、英印軍の背後よりの攻撃を防ぐため、南にあるチン高地のハカ・ファラム地区の守備にあたった。


すでにチン高地に配置されていた「南チン山地守備部隊」(ファーラム・ハカ守備部隊)ー歩兵第214連隊(連隊長作間喬宜大佐)の第3大隊(大隊長田中稔少佐)とともにその任にあたった。(作間連隊第3大隊に関する記述は、高木俊朗著『インパール』文春文庫に詳述されている)


インパール作戦前、陽動作戦としてベンガル湾に面するアキャブ作戦を進めていたが、その包囲殲滅作戦は失敗した。その原因はインパール作戦失敗と同じく、兵站の無視、英印軍の強固陣地に対する白兵突撃という前近代的な肉弾消耗作戦にあったといわれている。


その英印軍による背後からのインパール作戦分断を懸念して、ハカやファラムのあるチン高地に守備隊を配置していた。


 
またチン高地ファラムはインパール作戦退却路のひとつでもあった。弓第33師団第214連隊の退却時にもたらされた師団命令はファラム経由、パレルへ転進せよとのことであった。 このあとインパール作戦中止命令が下され、弓第33師団はカレワ、マンダレー方面に後退しつつ、タイ国境方面にむかった。


日本軍は、インパール作戦を発起するにあたって、4445師団をもって陽動作戦としのアキャブ戦をしかけた。
そしてその目標がチッタゴンであるかのように英印軍にみせかけたのである。アキャブ戦にあわせてチャンドラ・ボース率いるインド国民軍ベンガル湾の海岸沿いにチッタゴン方面に向かって進軍した。
チッタゴンは現在のバングラディッシュ港湾都市であり、当時英国植民地インドの港・連合軍の兵站基地であった。


この時、チャンドラ・ボースはラングーンから戦線に出発するすべての部隊を閲兵している。インド国民軍将兵はいっせいに「チヤロー・デリー」(デリーを目指せ!)の歓声で激励に応え出発していった。


磯田中将が機関長となった光機関はインパール作戦発起に先立って、インド国民軍の志願兵で編成した工作隊を各方面に進出させた。英印軍の配置を探り、気候、地形などの作戦情報を入手し、食糧確保のための住民工作がその任務だった。


インパール作戦には約6000名のインド国民軍将兵が参加した。チンドウィン河に到着したのはわずか2600名で、その内2000名はただちに 入院が必要だった。400名が戦死し、1500名が飢餓と病気で死亡し、800名が衰弱してイギリス軍の捕虜となり、残りの700名が行方不明となったとある。 (ウイキペディア参照)


かれらもまたインパール作戦退却にあったって、日本軍将兵と同じく飢えに斃れ、マラリアによる病に屍をかさね白骨街道をつくりあげたのである。 デリーを見ることなく多くのインド国民軍将兵が戦病死を遂げた悲劇を忘れてならない。


 


今回のカレーミョウからハカへは、カレーミョウ・バスターミナルのゲート#9から、ミニバス(ハイエース)で7:30発、ハカに18:30着という所要11時間もかかる長旅であった。(ミニバス代12000K)
酷悪路・土埃・酔い止め薬・マスクが必要である。
ミニバスはすべて予約・座席指定制なので前日までにチケット購入が必要である。


ハカは、チン州 州都、標高1800m、坂のある街、1月の昼最高16℃/夜最低6℃、雲海の出来る幻想的な山岳都市である。人口約120,000人、キリスト教徒96%、英語が通じる。


滞在先の「Grace Guest house」 は、 1泊15000K、TV・ホットシャワー・水洗トイレがついている。
夜は冷えるので防寒服が必要である。昼はTシャツ1枚でも暑いぐらいである。
乗車したミニバスドライバーにゲストハウス紹介を依頼したところ、送り届けてくれた。


今回このチン高地に滞在することにより、アラカン山脈での作戦の困難さを体験させてもらうとともに、ハカの標高1800mという高地での生活をとおして70年前の将兵の山岳戦に触れてみた。

ちなみに、アラカン山脈における最高峰はMt. Victoria・ヴィクトリア山 (3,053 m / 10,016 ft) である。


このハカをあとにするにあたって、アラカン山脈やチン高地に入るまえに出会った
ファラムの高校教師 ツアックサン氏 < MR. TUAK SANG - FALAM HIGH SCHOOL TEACHER > とチン州の現況と将来について語りあったひと時を懐かしく思いだしていた。

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カレーミョウ・バスターミナルにてチン高地ファラム高校教師 ツアン・サン氏と
MR. TUAK SANG - FALAM HIGH SCHOOL TEACHER at Kalaymyo bus-terminal


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教師研修会を終えてチン高地ファラムに帰省する ツアン・サン氏の仲間と

政権交代で、チン州にもようやく夜明けという希望が見えてきた。
日本政府も、チン州(アラカン山脈チン高地)を縦断する幹線道路の拡幅整備に資金と技術を提供している。 また日本政府はミヤンマー政府、チン州の協力のもと、テディムにて遺骨収集を再開することとなったと中日新聞が報じている。 (旅友・高原氏よりの情報提供による)

いまだインパール作戦の後始末は終わっていないのだ。

実に よろこばしいことである。
 

ミャンマーで遺骨調査 少数民族地域、39年ぶり

ヤンゴン共同】第2次大戦戦没者遺骨収集事業で、厚生労働省は(1月)22日から職員をミャンマーに派遣し、39年ぶりに少数民族地域での調査に乗り出した。少数民族地域ではインパール作戦で多くの旧日本兵が犠牲となったが、ミャンマー政府と少数民族武装勢力との対立で調査が難しかった。両者の和平が進展し、本格的な収集活動に道が開けた。
 厚労省によると、ミャンマーでは約13万7千人の日本人が戦死した。約4万5千柱の遺骨が残されているが、過去10年の収集は8柱にとどまる。1977年以来となる少数民族地域での調査を通じ、収集を加速する方針だ。    (中日新聞より)
 
 
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ハカ 行はカレーミョウ・バスターミナル、9番ゲートから日曜日以外
毎日7:30am出発する。
 
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運行ミニバスはトヨタハイエース等を使用、定員12名である。
                        
座席指定制で、運転席うしろの揺れの少ない座席獲得が酷悪路を乗り切る最善の方策である。できる限り早めにチケット購入と座席予約をしておきたい。
 
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チン高地入口(チン州境)の検問所
 
 
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 道路拡張工事がすすむ
 
 
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羅漢山脈の美しい山並み(チン高地) 
 
 
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チン高地では崩落現場にも出会う
 
 
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昼食に立ち寄ったタイゲン村
 
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チン高地の幹線道路を縦断する
 
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マニプール川をわたりファラムに向かう


         
     
『カレーミョウ-ファラム-ハカ道』 2につづく