shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

『インパール作戦退却路・アラカン山脈白骨街道における露営・慰霊紀行』④

■ 『インパール作戦退却路・アラカン山脈・白骨街道・慰霊地の巡礼記』 2


3) 『マンダレー戦没者慰霊碑』

バガンよりイラワジ河(エーヤワディー河 River Ayeyarwaddy)をフェリーで遡上し、約10時間半でマンダレー・ゴーウエイン埠頭に着く。 ここGae Wein Jettyからバイクタクシ-(1500k=150円)でモンユワ行きバス・ターミナルに移動し、近くのミンガラ・ホテル/MingalarHotelに投宿する。
(シングル・25US$・TV・温シャワー・AC・冷蔵庫・水洗) 
 
ホテルは東西 23Street の 南北・88/89通りの間にある。
バスターミナルは ホテルから歩いて12分である。


翌日旧王宮を散策したあと、マンダレーヒルズにあるマンダレー戦没者慰霊碑』に詣でる。(旧王宮は朝8時以降でないと入れない。外国人はパスポート提示が必要である)


南参道(王宮側)の2頭のライオン像(チンテージーナッカ)より階段をのぼり山門にて靴をを脱ぎ、
さらに上り続ける。
チエード・パヤー、ピーロンチャンター・パヤーを過ぎビャーディペー・パヤーに着いたら、
ウ・ケンティ師の像と写真を飾った踊り場にでる。
ぐるりとまわりこみ右側の白いペンキを塗った垂直に近い急な階段を上がったら、すぐ左手の庭園の中に『慰霊碑』が建っている。
前の売店の主人が墓守をしているようで、すぐ線香をもって迎えてくれた。
 

イメージ 6
写真巡礼のみなさんと静かな祈りを捧げた


イメージ 1
イラワジ河(エーヤワディ河)の日の出
 
イメージ 2
バガンマンダレー間を航行するフェリー

イメージ 3 イメージ 4
マンダレーのモンユワ行きバスターミナル                            ターミナル近くのミンガラー・ホテル

イメージ 5
マンダレヒルズ南参道入口のチンテーヂーナッカ(ライオン像)
 
イメージ 7
 参道の急な階段を素足で登る                                                                                                                                                
イメージ 8
 緬甸方面彼我戦没諸精霊之碑  
 
イメージ 9
 写真巡礼のみなさんと共に慰霊をおこなう

マンダレーヒルズでの慰霊を済ませ、バスターミナルより午前11時発モンユワ行きバス(バス代 2000k=200円)に乗る。


 4)『モンユワ日本人墓地』
 
マンダレーよりの日本製中古バス(HINO)は15:00にモンユワ・Monywaに着いた。


まず、宿泊予定の『Shwe Taung Tarn Guest House70 Yonegyi Qt.Monywa/Tel:071-21478に連絡を取るも満室という。
仕方なくモンユワ・バスターミナル隣接の『GreatHotel20US$に泊まることにしたが、当初予定のジェット・ボートによるモンユワよりカレワへのチンドウイン河遡上に関する情報や協力をえられず断念することになった。


スケジュールを変更し、モンユワから夜行直行バスでアラカン山脈白骨街道を歩くベースキャンプ(基地)に決めているカレーミョウ/Kalaymyoへ直行することにした。 バスターミナルのカレーミョウ行ゲートで17:00モンユワ発、カレーミョウ翌朝3:00着のバス・チケット(11000K=1100)がとれた。(所要:10時間)


モンユワ日本人墓地を訪問慰霊することにしていたので、カレーミョウ行バス出発までのわずかな時間にバイクタクシーを雇い(3000K+チップ1000K=4000K)墓地へ直行した。


道順を記しておくと、モンユワ南端にあるバスターミナルをでて、メイン道路であるボージョ・アウンサン通りを北西に2kmほど行くとアウンサン将軍像がたつロータリーに出る。 このロータリーを回り、さらに北西に進み、右にモンユワ・ホテルをみながら、左のサッカー場がおわる十字路を右にまがる。線路沿い道路のひとつ手前の細い道を左(北)に200mほど行くと、左側に『モニワ日本人墓地』がある。


現在、墓守がおらず管理が行き届いていない様子である。またゴミ処分所に隣接しているため墓地にゴミが流れこんでいるのであろうか。
しかし優しいビルマの風が墓地一面にただよい清々しい気持ちにさせられた。 亡き将兵のひとり一人の笑顔がわたしに微笑みかけているなか、鎮魂碑に静かに手をそえ祈りをささげた。
懐かしい旧友に久闊を叙した気分にさせられた。


この墓地は、鎮魂碑建立趣旨からしインパール作戦参加部隊のひとつである弓第33師団歩兵第215連隊(通称号6824)の大隊・中隊・通信隊ほかの戦没者を偲んで造られたことがわかる。


インパール作戦時、歩兵第215連隊(連隊長・笹原政彦大佐)は左突進隊としてカレーミョウよりムアルペンのチン高地・レタ山脈というアラカン山系を北進しインパールにむかった部隊である。


今回、わたしが走破するカレーミョウ、タイゲン、テディム、トンザン道(正面突進隊・八木連隊)の西に位置するアラカン山系を北進した連隊でもある。


歩兵第215連隊左突進隊の戦闘記録は、高木俊朗著『インパール』(文春文庫)に詳細に書かれている。


ここで、インパール作戦そのものと、相前後する当時の状況をみておきたい。


日本軍がビルマを完全制圧した1942年中ごろ、連合軍側は、一旦ビルマ・インド国境のインパール方面と中国雲南方面に退却していたが、1942年末ごろ反撃に転じ三方(インパール・アキャブ・雲南方面)からビルマに進攻をはじめた。


こうした中で第15 軍司令官牟田口廉也中将は、インド東北部インパールの攻略を主張し、1944年3月8日、第215連隊所属の弓第33師団をはじめ三つの師団(ほかに烈第31師団・祭第15師団)を投入したインパール作戦を開始した。


当初から補給を無視した無謀な作戦で、インパールまでの重畳するアラカン山岳は15002000 メートルに達し、その距離320 キロに及ぶ、まさに日本アルプスを縦走するような観があったといわれている。


1944年4月末、日本軍はイギリス軍の圧倒的な火力と空軍力の前に苦戦を強いられ、後退・退去を余儀なくされ、戦死者約3・5万、傷病者約万の合計約7・5万人の大きな犠牲を払った作戦は失敗に終わった。


その後、翌1945 年に入るとまもなく、さらに悲惨なイラワジ会戦へと突き進むことになる。インパールの敗北が重く圧し掛かり、貧弱な装備と弱小な兵力のため大敗北を喫し、再起不能に近い多大な損害を受けた。


その後、南へ南へと後退しながらタイ国境を目指した。 白骨街道はビルマ戦線の終了までつづいたと言っても過言ではない。


戦争とは敗戦・終戦で終わるものではない。 敗者は戦後、戦犯としての責任を追及され処刑・断罪されるのである。


ここモンユワ日本人墓地に祀られている弓第33師団第215連隊第3大隊もまた悲劇に巻き込まれている。
それはタイへの撤退時、ビルマ側の村・カラゴンでおこった。英国空挺部隊を支援していた村民を敵性村民として上部からの命令で大量虐殺を実行した。 戦後、第3大隊の幹部や兵の一部がBC級戦犯として起訴され、処刑されたり刑に服した。


戦争責任者を裁くA級戦犯でさえ、勝者が敗者を裁く権利はないと言われているなかで、作戦命令を下した師団幹部や連隊幹部にではなく命令を実行した部隊の長や兵士に罪が押しつけられ処罰される理不尽なことが、戦争処理では無慈悲に行われたのである。(ウイキペディア参照)


かかる悲惨な第215連隊の将兵を悼んで慰霊をすませた。


待たせていたバイクタクシーに飛び乗りモンユワのバスターミナルにもどり、早めの夕食をとり、車中での夜食と水を購入してバスを待った。


イメージ 10 
モンユワ・バスターミナル
 
イメージ 11
 カレーミョウ行 バスチケット売り場