―メコン川流域の風景 カンボジア・ベトナム・ラオス・タイを巡る―
詩・挿絵・スケッチ 後藤實久
インドシナ半島は、第二次大戦後、東南アジア<South-East Asia>と呼ばれる地域連合体の一部を形成
している。
インドシナ半島には一本の川が流れ、ミヤンマー・タイ・ベトナム・ラオス・カンボジアの5ヶ国の経済・
生活・文明に影響を及ぼしている。
それは、母なるメコン川である。
メコン川は、チベット・ヒマラヤ源流から、中国雲南省を通り、ミヤンマーとラオスの国境、タイと
ラオス国境、カンボジア、ベトナムをとおり、南シナ海に注ぐ大河である。
今回は、度々訪れるマレーシア・シンガポール、ミヤンマー(旧ビルマ)を除き、タイ・バンコクを
スタートし、カンボジア・ベトナム・ラオスを反時計回りに、バンコクに戻る約1か月に渡るメコン川流域
のインドシナ半島紀行である。
中部ベトナム
<メコン川流域の風景ルート図>
■1日目(3月2日) <日本国 志賀の里 ➡ タイ・バンコク> 移動日
『旅たちの朝』
詩 後藤實久
空気凛と立ちて 気力満ちて溢るる
東風春を運びて 樹々笑いて迎える
大空紅色に染め 白雲棚引きて流れ
命歌う小鳥達も 新芽に春を見るや
息する大宇宙も 残る冷気喜びをり
静寂なる心もち 和して沈思する也
見送りし里をや 脳裏に焼付ける也
一筋の時の流れ 我包みて河となり
向かいし国々又 メコン川に混じる
水鏡に近江不二 映して天水境なく
朝霞立ちおりて 鴨一羽湖水に遊ぶ
愛に満つ大自然 神の姿あるを喜び
春の陽光浴びて 慈母の温もり観ず
嗚呼いま故郷を 発ちて異国目指し
わが星の巡礼も 悠久の中を放浪す
<バンコクに飛ぶ>
関西国際空港行、京都駅発バスは、春うららな近畿道を走り、一路南海路を関空に向かう。
前席のフランス人の老夫婦の軽やかな会話に、お二人の人生の豊かさと愛おしさが感じられる。
関西空港を昼頃離陸したシンガポール航空#SQ625便(ボーイング777-200型) は、沖縄、台湾、
香港上空を飛び、同じ日の夕方17時16分にバンコクに着陸した。
時差はマイナス2時間だから、約7時間のフライトである。
シンガポール航空#SQ625便(ボーイング777-200型)
飛行ルート
関空3/2 16:03発➡14:03着3/2バンコック
バンコクの気温は34℃、その熱気にひるんだ。
税関を出て、正面右側に両替(Money Exchange)があり、そのそばのATMで当面の資金150B(バーツ)
を引き出す。
空港出国ロビーへの通路には、旅行者を迎えるタイ民族衣装を着飾ったウエルカム―パネル写真のお出迎え
である。
タイの民族衣装で出迎えるウエルカム・パネル
空港内のポリスによる警戒は厳しく、安全なようである。
バス乗り場<Airport Express>の待合室で、自称ドイツ人という老人に、
「ドイツに電話する金を恵んで欲しい」と、
「ポリスか、ドイツ大使館に相談したら」と返すと、
「行ったが、ダメだと言われた」と、
この電話代という少額が、大きな間違いに引きずり込まれた経験があり、失敗してきているだけに、可愛そうだが断った。
ドイツ人がねだるということ自体がおかしいことであり、ドイツ大使館の自国民保護に関しては、世界の
なかでも手厚く保護され、旅行者間では羨ましがられていることで知られている。
特に、ワンダーフォーゲルという青年たちの渡り鳥運動の発祥の国だけに、青少年はもちろん、自国民の
海外での手助けに力を入れているのは、この目で見てきている事実である。
確かに、大使館や領事館に青少年の海外旅行を助ける宿舎が完備しているともドイツ青年から聞かされた
ことがある。
<国境越えについて>
国同士が陸でつながっているインドシナ半島の今回の旅おいて、単独での危険な国境越えは避け、安全安心
な<国際ツーリストバス>を利用することにしている。 複雑な手続きや、時間的ロス、入出国の度の
外国人税の出費を考えると、より効率的に、安全に越境できるのである。
東南アジアは、無法地帯である多くのデルタ地帯(多国境に接する三角無法地帯)を抱えている。
麻薬・ゲリラ・地雷・山賊・賄賂要求・殺人・誘拐と物騒であり、危険地帯である。
ただ国境越えでは、自分の物は自分で守るという姿勢は忘れず、貴重品は必ず身に着けておきたい。
また、国際ツーリストバスでも、可能な限り荷物は自分の横に起きたい。
また前後左右の客と顔見知りになり、声をかけておくとよい。
入国にビザが必要なカンボジア・ラオスの各ビザ(入国証/VISA/査証)は、一般的には、出発前に日本で
取得しておくとよい。
ちなみに、ビザ免除の国は、タイ・ベトナム二か国である。
バンコクの三月は、実に暑い。 34℃との表示が出ている。
さっそく、トイレに入り、パッチを脱ぎ捨て、フリースを腰に巻き空港を出たが、あまりの熱風にジャケットもリュックにしまい込んだ。
バンコク・カオサン(Kaoson)街行空港バス<Airport Express>に乗る。
2階建てエアコン付きで快適だが、バンコクの地獄ラッシュアワーにつかまり、遅々として進まない。
<カオサン街の屋台>
カオソン街には、屋台が並び、おおくの観光客のバンコクの夜を楽しむ姿で賑やかである。
そのほとんどがバックパッカー、今夜のねぐらを探しながら夜を楽しんでいるようである。
老婆の売るイナゴやサナギ、イモムシやバッター、サソリといった昆虫の幼虫の唐揚げに人気集中。
バンコクの名物<昆虫フライ/昆虫食>が賑やかにお出迎えである。
最初、こわごわとしかめ面して口に運び、数秒後には<Good taste, so good!>と叫ぶと、周りの
若者たちが拍手喝采、その勇気を称えるのである。
バンコクの名物<昆虫フライ/昆虫食>
<リサイクルされた飲物用ペットボトル>
喉の渇きに、屋台でSHINGA Drinking Waterを手に入れて、キャップを開ける時、ポリのシール紙で
巻かれているのに違和感を持った。
普通、飲むためにキャップを取った時点で、使用済みとなるのだが、ここカオサンで手に入れたボトルは、
使用済みのボトルに水を再注入し、キャップの上からシール巻いているのだから驚いたのである。
旅をしていて多くのエリア、中南米・アフリカ・中東・東南アジアの一部では、いまなおシールを
張らずに、再使用している場合がおおく、飲む前にキャップの密封を確かめるのが常で、あやしいボトルは、
絶対に手出しはしないことにしている。
海外では、<不信な者・物には手を出さない、近づかない>というバックパッカーの鉄則を守り、購入を
控えた。
バックパッカーにとっては、<健康が第一・自分の身は自分で守る>を決して忘れないことである。
今回は、日本人観光客が利用するコンビニ<Family Mart>で購入したが、
リサイクルされたペットボトルには注意したい。
ペットボトルの再利用には注意
カオサン通り(Khaosan Rd.)は、埋め尽くす夜の主役である夜店や屋台で賑やかである。
まるで、アフガニスタンの首都カブールに抜けるパキスタンの玄関口ペシャワールの旧市街の
バックパッカーによる喧騒と似ていて驚かされた。
このように騒々しく、いかがわしい雰囲気を若者やバックパッカーは好むようである。
ビートルズの曲がボリュームいっぱいに流れ、感覚を狂わすお香がたかれ、大声で怒鳴り合う雰囲気。
この瞬間、みなどこか無気力に溺れ、時間の流れに身を任す自由を味わっているように見える。
バンコク・カオサン通りを東へ50mほど入った左側にあるゲストハウスに投宿することにした。
赤道に近いバンコクは、3月とはいえ平均34℃と暑いが、夜はエアコンを切った方が快適である。
ただし、裸で寝るのは南京虫やダニに対して無防備である。 部屋を暗くすると活動を始めるようで、
持参した封筒型のポリエステル製YHシーツに潜り込んでしのいだ。
バンコクのダニは小さく、まるで花粉や胞子のようにシーツの上をよたよたとうごめいている。
このダニに噛まれると100倍ほどの赤い刺し跡を残すのである。
それも、わきの下や、太ももの内側など体の柔らかい部分がお好きなようである。
<バックパッカー利用のゲストハウスの標準設備・宿泊代>
バックパッカーは、かかる悪条件のもとでも工夫しながら快適に過ごすことが求められる。
ここマルコポーロ・ホステルの300Bの部屋を紹介しておきたい。
インドシナ半島周遊のゲストハウスの標準として見ておきたい。
当時のレート、1B(パーツ)=3円だから宿賃は900円である。
四畳半のスペースに、ツインのベット・トイレに水シャワー付・天井灯・鏡・タオル掛け・古く温度調整
不可能なエアコン・ノズル付き水洗トイレ・トイレットペーパやタオル無し(たぶんノズルで事後を処理し、
乾燥を待つ)
もう一つ感心したのは足マット付(ほとんどのゲストハウスではサンダルを履くのが常識)と換気扇がついて
いた。
部屋自体に窓はなく、独房のような部屋であり、火災の際の逃げ道の確認と、強盗の浸入を防ぐ工夫が必要で
あった。
<お腹の虫が鳴く>
機中でとったランチの栄養過多を考えて、夜はインスタントラーメンで済ませたが、さすが元気老人、
夜半に腹の虫が泣き出した。
非常食の中からピーナツを取りだして、騒ぎを抑えて朝までしのぐことになった。
バックパッカーのポリシーである<いかに合理的かつ格安の旅を続けられるか>という命題に何時も
対峙しなくてはならず、その解決・打開策を考えて準備・行動をするところに面白みがあるのである。
<▲ 1日目宿泊 MARCOPOLO Hostel – エアコン付き 300B/900円>
Khaosan Rd. 108/7-10, Bangkok, Thai
■3月3日(2日目)<バンコク/タイ➡シイエムリアップ/カンボジア>へ移動
今回のインドシナ半島一周の起点・終点は、タイ・バンコクと決めている。
タイはじめ、バンコクは旅の最後に回し、まずは、カンボジアのアンコールワットに向かうことにした。
アンコールワットは、カンボジアのシエムリアップ/SiemReapにある。
国際バス<カオサン・バス>(バス代300B/9000円)を使用すると、国境越えなどで何かと便利である。
(但し2023年3月現在、コロナによる観光客減少で休止中)
大型のエアコンバスで、他社の運賃800Bに比べても値段的にリーズナブルで、多くのバックパッカーが
利用していた。
インドシナ半島の国境越え<国際バス>や長距離バスは、目的地までの切符購入で途中下車し、バスを
乗り換えて旅を続け、目的地に達することができた。
ただし、チケット購入時、乗換可能かどうか確認しときたい。
観光バス発着の多いカオサン通り
Kaosan Rd./カオサン通りには、朝早くからタイ各地への観光バスが出発を待っている。
特に多いのは、<世界遺産 アユタヤ古都巡り 1日観光400B>のバスのようだ。
アンコールワットのある<シイエムリアップ行国際バス>の出発前の腹ごしらえに、街角の屋台で焼そば
(30B-90円)をいただく。 実にうまい、それもそのはず昨夜以来の空腹であった事を思いだした。
隣の日本からの卒業旅行中の大学生たちは、アユタヤ観光に向かうとの事、こちらの1か月に及ぶインド
シナ半島の旅に関心を持ってくれたようで、バックパッカーの魅力について伝えたものである。
バスへ案内する迎えの青年が現れ、ついて来いという。 途中、客を集めながら全員集合の公園に到着した。
同じくアンコールワット観光の後、ベトナム・ホーチミンに向かうという日本で大学院在学中の女性Sさん
に出会い、道中の連れになってもらった。
国境越えの場合、これまで大抵一人での寂しい越境となり、言葉の通じない現地の人たちと、それも外国人
ということで、それらの人たちとも引き離されて入出国の審査を受けたものである。
国境越えの場合、出来限り言葉の話せる人を見つけて、情報の交換、難題の解決、困難への協力など
助っ人として、または相談できる人を見つけておくことである。
陸地での単独国境越えには、どのようなトラブルが待ち構えているかわからないのだ。
例えば、金品の要求(ぼったぐり)・いやがらせ、特に気にくわなかったり、抵抗した時の勾留や、徹
底した所持品の検査などで、他の乗客への迷惑などが起こる場合がある。
国境通過バスは、全員の出入国検査が終わってから出発することになっているからである。
今回は、国際バスなので心配は低くなるが、友人を作っておくことは何かと助け合い、安心である。
カオサン街の麵を売る屋台 朝食の焼きそば(30B/90円)
大学院生Sさんは、自転車でチベットを回り、ネパール、インドに立寄り、これからアンコールワットを鑑賞、ベトナムを列車で北上し、上海よりこちらも乗船した事のあるフェリーで日本に戻るという典型的な学術実践型バックパッカーである。
国際政治学を専攻し、同好会<NGO関係問題研究会>を立ち上げて、活動しているという。
<ランチ・タイム / Kuag Teaw Nam 30B 国境の村ポイペト>
ミンチ・チキン付ヌードル・スープ、土鍋にビーフン・鶏肉・三つ葉・もやしを入れ、薄いナンプラー(魚醤)で味付けし、プリック・ポン(粉唐辛子)がふりかけてある。
ヌードル・スープ <Kuag Teaw Nam> タイ国境の村ポイペトでランチ・タイム
天井扇のゆるやかな撹拌で起こる、生暖かい風に、店の土間に寝そべる老犬の鼾を聞きながら、中庭でのランチである。
ここは、タイとカンボジアとの国境、ビザ(入国査証)取得の待ち時間に、ランチのヌードルスープをかけ
込んだ。
<タイ / カンボジア国境>
バックパッカーの多くは、スケジュールがはっきりしない国をまたいでの旅なので、国境でのビザ取得が
ほとんどである。
ここタイ国境でのカンボジア・ビザ取得には、1200B(3600円)が必要であった。
国際バスの乗客も多くがバックパッカーなので、国境越えには時間がかかる。
午後2時41分、ようやくカンボジアのパスポート・コントロールへと進む。
相変わらずの入国管理事務所の審査員たちの仏頂面な表情に、その国の姿勢が見てとれる。
カーテンが汚れ、窓ガラスが割れ、冷たさを感じる審査員と、旧社会主義国のノルマ性からくる機械的な対応を感じてしまう。
入国審査を終え、カンボジアの土に足を踏み入れた。
道路は未舗装で、凸凹、誇りの舞う国境の村が目に入った。
エアコン付きの国際バスは、ここ国境の村ポイペトまでだという、小型のオンボロ日野小型バスに乗換え
させられた。
埃の舞い込むガタピシの窓、エアコンが生ぬるい空気をかき混ぜている。
デコボコ道に跳ねる堅い椅子に翻弄されながら約5時間の苦闘のすえ、ようやく目的地シイエムリアップ/
アンコールに着いた。
格安の国際バスのからくりに、かえってバックパッカーの心髄を観たようで、かえって納得したものである。
やはり、バックパッカーには、飛び跳ねる座席にしがみつきながら、砂塵を切るバスが似合っていると
いうことである。
タイからカンボジアへ入った国境の街 ポイペト
カンボジア国境の村・ポイペトの雑貨屋とガソリンの計り売り
<カンボジアでの両替>
カンボジアに入国して、バスの運転手に教えられた両替商は、20US$に対して63,000Rielを手渡すという。
調べていた正規のレートは80,000Rielだから、即座に断って、別の両替屋でことを済ませた。
しかし、観光客の実際の支払いはUS$で行われるので、カンボジア・レイル/Reilよりも高くつくことになる。
運転手を信用することがほとんどだが、なかには仲間を紹介し、あとで利益を分配する場合も多いので
両替には充分気を付けることである。
アンコールワットのある街、シエムリアプにバスが到着するとともに、バス停近くのバス会社
<NEAK KROR HORM GIGBUS TRANSPORT>に飛び込み、数日後のプノンペン経由ベトナム・ホーチミン行
の国際バス予約をした。
いよいよ明日はアンコールワットに出かける。
長年夢に見たアンコールワットとの対面が待ち遠しい。
アンコールワットを含めた遺跡は、とにかく広いので歩きをあきらめ、貸自転車で出かけ、スケッチする
のが楽しみである。
今夜の宿は、アンコールワット手前5kmに位置するシエムリアプの街にあるゲストハウス<アスパラ・
アンコール / Apsara Angkor Guest House>である。
<▲Apsara Angkor Guest House 1泊@3US$ 連泊>
アスパラ・アンコール・ゲストハウス と シングルルーム
ゲストハウス近くの屋台で夕食 夕食の焼き飯(2.5$) と コーラー(1$)
<兵どもの跡>
詩 後藤實久
祇園精舎の鐘の音
儚きや栄華忍び
語り継ぎし蝉の声
物憂げな静寂に眠りて
風湧き起りて霊騒ぐ
石に宿りし魂祈り合い
天に向かいて心響かす
川柳 後藤實久
《 土ぼこり 被りて赤き メコン顔 》 被りてーかぶるりて
《 椰子の木も 砂塵纏いて 厚化粧 》 纏いてーまといて
《 荷台にも 仕事場急ぐ 仲間乗せ 》
《 ツクツクの エンジン煙る 砂塵撒き 》
《 子連れママ 頭に乗せし フランスパン 》
《 家族連れ 全部で五人 バイク乗せ 》
《 色どりの 涼しげ目元 ベール着け 》
《 ジュースと 見まがうペット ガソリンや 》
《 一瞬の 埃のシャワー 霞み立ち 》
《 たゆとうと クメールの赤土 陽炎いて 》 陽炎いてーかげろいて
《 声明の 響きし寺院 こころ中 》 声明ーしょうみょう
なんといっても世界遺産アンコール遺跡は広大である。
ゲストハウスで自転車を借りて、➀アンコールワット、②アンコールトム ③タ・プロームの順に回り、最後にトゥクトゥク に乗って④バンテアイ・スレイ寺院遺跡に出かけた。
《世界遺産 アンコール 4大遺跡》
世界遺産アンコールは、4大遺跡である➀アンコールワット ②アンコールトム ③タ・プローム
④バンテアイ・スレイ寺院遺跡から成り立っている。
9世紀初頭に成立したクメール帝国アンコール朝は、アンコール周辺に都を築き、王都とした。
その後、12世紀初めごろ、王都の横に新王宮を造るとともに、隣接地に国家鎮護のヒンズー教寺院
<アンコールワット>を建立した。
しかし、1431年に、この地アンコールは放棄され、スレイ・サントーに遷都されることによって、
16世紀半ばに再発見されるまで忘れられることになる。
再発見と同時に、第一回廊北面に彫刻を施したが、その後ヒンズー教寺院であった<アンコールワット>を仏教寺院に改修している。
日本との関係では、17世紀前半の山田長政たちの南蛮貿易・朱印船貿易で日本にも<アンコールワット>の
存在は知られていた。 しかし、この寺院<アンコールワット>を祇園精舎と誤認し、多くの巡礼者が
左右対称の巨大な王の墳墓としての寺院はクメール建築の最高傑作であり、壁画の緻密さと美しさに目を見張った。 中でも、神々が宿ると言われる第三回廊は必見である。
②アンコールトム
大型の城塞都市として知られるアンコールトムは、中央に四面仏バイヨン<カンボジアの微笑み>が鎮座しており、スケッチに力が入った。
③タ・プローム
仏教寺院として建立されたタ・プロームには、成長した榕樹が絡み付き、<生きている遺跡>と呼ばれて
おり、異次元の体験をしている気分にさせられた。
④<バンテアイ・スレイ寺院遺跡>
クメール芸術の至宝である<世界遺産 アンコール遺跡>の中で、建設当時のままに残る赤土色のヒンズー寺院群の遺跡である。
では、世界遺産アンコール遺跡を、多くの写真・スケッチをまじえながらご案内したい。
《世界遺産 アンコール4大遺跡 ご案内》
➀<アンコールワット遺跡>
アンコールワット(寺院都市)は、1113年より約30年をかけて、スーリヤバルマンⅡ世によって建立
された石造寺院であり、Ⅱ世自身のお墓(廟墓)であった。
寺院を囲む濠と参道、3回廊、5基の塔から構成されている。
回廊は、緻密なレリーフで埋め尽くされている。
西参道方面よりアンコールワットに向かう
Sketched by Sanehisa Goto
アンコールワット北面の第一回廊壁画に描かれた精密なレリーフ画は、遺跡をひときわ美しく彩っている。
これらのレリーフは、古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」が刻まれ、躍動する戦士たちや妖艶に舞う女神
<デバター>が描かれている。
精密なレリーフが刻まれた第一回廊の外観 第一回廊とレリーフが刻まれた壁面
古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」が刻まれたレリーフⅠ (第一回廊の壁面合成)
古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」が刻まれたレリーフⅡ (第一回廊の壁面合成)
<アンコールワット 第三回廊>
神の降臨の儀式が行われ、神の領域と言われる第三回廊には、堂々とした中央祠堂(神殿)がそびえ、
妖艶な女神<デバター>が舞う。
第三回廊に建つ中央神殿
妖艶な女神<デバター>が舞うレリーフ (第三回廊)
神の降臨の儀式が行われた第三回廊のレリーフ
妖艶な女神<デバター> (第三回廊)
Sketched by Sanehisa Goto
②<世界遺産 アンコールトム遺跡>
アンコールトムは、アンコール王朝の栄華を誇った宗教都市の遺跡である。
城壁で囲まれた中央にバイヨンを築き、宇宙の中心として考える宗教観で建設された。
アンコールトム遺跡では、神聖さと共に、人面像<バイヨン>に神秘性を強く感じたものである。
バイヨン<人面像>に迎えられ、アンコールトムのゲート<南大門>をくぐる
各仏塔の四面に彫られたバイヨン(人面像)
各仏塔の四面に彫られたバイヨン(人面像)
<バイヨン ― 人面像>
アンコールトムの中央付近にあるバイヨン (Bayon・人面像) は、カンボジアのアンコール遺跡を
形成するヒンドゥー・仏教混交の寺院跡の仏塔にある。
中央祠堂はじめ、仏塔の4面に彫られている人面像(バイヨン)は、観世菩薩像を模しているという。
また、この像は<クメールの微笑み>と呼ばれ、慕われている。
バイヨン (Bayon・人面像)
宗教都市アンコールトム遺跡
Sketched by Sanehisa Goto
<BAYON/バイヨン/人面像>
アンコールトム(ヒンズー/ 仏教混交の寺院跡)
お化けのような大樹カジュマルが、遺跡に覆いかぶさっている姿に神秘的な反面、グロテスクな異星人を
重ねた。
遺跡とカジュマロは互いに助け合って、お互いを支え合っているようにも見える。
自然なる生命力が、栄華を極めた廃墟を飲み込んでいく様は、圧巻である。
大樹カジュマルが遺跡を飲み込んでいる姿は想像を絶する
④<バンテアイ・スレイ寺院遺跡>
バンテアイ・スレイ遺跡は、アンコール遺跡より北に30kmのアンコール初期の都が築かれた聖山プノン・ク
ーレンの麓に位置する遺跡で、10世紀半ばに造られた。
この遺跡は、一面赤い世界で彩られ、アンコール建築美術の粋が凝縮されている。
世界遺産アンコール遺跡の中でも、建設当時の姿で残る褐色のヒンズー寺院<バンテアイ・スレイ遺跡>は、
遺跡群の中でもその美しさと緻密さが際立っている。
中でも<東洋のモナ・リザ>と云われる浮彫の女神像が有名である。
バンテアイ・スレイ遺跡の壮麗な建築作品は、<アンコールの宝石>とか、<クメール美術の至宝>と
称えられている。
赤い砂岩で作られているため、アンコール遺跡の中でもっとも温かみのある、色彩に富んだ寺院である。
バンテアイ・スレイ遺跡
バンテアイ・スレイ遺跡は<女の砦>としても有名だが、当時は、シバ神の街<イシバラプラ>と呼ばれて
いたという。
バンテアイ・スレイ遺跡
<東洋のモナ・リザ>と言われる女神像
バンテアイ・スレイ寺院遺跡
世界遺産アンコール遺跡
アンコール遺跡の出入り口付近にある屋台でランチ
地ビール<Angkor/アンコール>も味わう
<▲Apsara Angkor Guest House 1泊@3US$ 連泊>
■3月5日 アンコールワット散策 2日目
いまだ未明、眠りの中に万物がある。 ニワトリが朝を告げる。
午前5時45分、アンコールワットの森に優しい朝陽が顔を出し始めると、小鳥たちが歌い、ジャングルの樹々
が背伸びをする。
ここアンコールの村(シェムリアップ)に、ゆったりとした平和な朝が、心穏やかにまとわりついてくるので
ある。
朝日に浴びて輝くアンコールワット
Sketched by Sanehisa Goto
アンコールの揺蕩う時間にどっぷりつかり、自転車を借りてゆっくりとアンコールワットに出かけた。
アンコールワットに向かう自転車からは、アンコール村の朝の生活風景を楽しんだ。
アンコール村の朝(シェムリアップ)
アンコール遺跡 観光用オートタクシー 兄弟で自転車配達
昔懐かしい氷売り(製氷店)
シェムリアップのマーケット
売られているマンゴ・ジャガイモ・山芋たち
駐輪場で出会った少女に声をかけられ、そのつぶらな瞳に、われを忘れてお土産のブレスレットを譲って
もらった。 その瞳の真剣な中に、家庭を支える責任感が溢れていた。
この少女は、学校にも行けずに、自分の人生を家族のために捧げていると思うと、こころに痛みを覚えた。
午前中、ワットの回廊を、その緻密な表現豊かな彫刻にこころ踊らせながら見て回った。
すでに陽は、アンコールワットの上に上がり、蝉の大合唱である。
アンコールワットに響く蝉の鳴き声のなか、ランチのモンキーバナナを口にしながら、アンコールワット庭園
に咲く<ネムジャンパイの花>をノートに画きこんだ。
アンコールワットの真正面にある宮殿跡の石垣に陣取ってスケッチ、詩づくりに時を過ごした。
その時の情景を詩にしてみた。
<アンコールワットにおりて>
詩 後藤實久
天を仰ぎしや 一点の曇りなく
そのこころ 無限にして平らなり
天を仰ぎし姿 動ずることなし
アンコールワットの 願い 唯一つ
人類の罪の赦しと 平和願いて
祈り天を突きて 赦しこうなり
その姿 静にして その願い動なり
虚にして実なるを 観じて止まぬ
ああわれいまアンコールにおりし
アンコールワットをスケッチ
陽が西に傾いたところで、アンコールワットも暑さのピークを迎える。
ワット正面の夏草の枯れた広場を横切り、回廊を突っ切って、正面の水濠にかかる長い陸橋を越えて、
喧騒の世界に戻った。
夕食は、知り合ったバックパッカーとカンボジアの鍋料理<チュナンダイ 2人前 7US$>をいただいた。
ベースは豚骨で、豚肉・油あげ・春菊・野菜類・キノコ・焼き豆腐を投げ入れ、つけ汁で食べる。
最後に、うどんを入れていただくからうれしい。
カンボジア鍋料理<チュナンダイ> BAYON BEER
地ビール・バイヨン
<▲Apsara Angkor Guest House 1泊@3US$ 連泊>
■3月6日 シェムリアップ/アンコールワット(3日目) 休息&散策
アンコールワットの虜になって4日間、随分と歩き回ったものである。
しかし、アンコールワットの細部を観賞するためには一週間でも足りないであろう。
疲れた体は、眠気から冷めやらないままにパッキングにとりかかった。
その後、ゲストハウス前の屋台で朝食のクメール米粉ウドンを食べ終わったが、ポケットに入れたはずの部屋
の鍵が見つからない。
少し、ドキッとしたが、スタッフが合いカギを探してくれて難を逃れた。
なぜかと言えば、このような場合、100%合鍵を持ち合わせていないのが安宿で、弁償でいつもひと悶着ある
ものである。
アフリカや南米、中東や僻地へ出かける時は、必ず盗難防止のマイキー(錠前またはナンバーチエンキー)を
持参し使うことにしているのだが、今回は東南アジアということで、油断して持参していなかったのである。
明日は、アンコールワットのあるシェムリアップから、首都プノンペン経由、ホーチミン/ベトナムへ、国際
バスで移動する。
プノンペンからのホーチミン(旧サイゴン・ベトナム)行、国際バスのスケジュールを確認しておきたい。
直通国際バス Siemreap-(6H)➡Punonpenー(5H)➡Hochimin
07:00発(毎日) 22US$(エアコン付) 19:00着
出発前に、カンボジアの庶民の生活を見るために市場に出かけ、シエムレアプの街を散策した。
SiemReapの街路樹
アンコールワット・ツアー用オート三輪 ポピュラーな昼食<米粉麺>(6000Riel=150円)
沙羅双樹の花
世界遺産アンコール遺跡にて
Sketched by Sanehisa Goto
お腹がすいたら屋台でソーセージ
今夜の夕定食 (3.5US$)
<▲Apsara Angkor Guest House 1泊@3US$ 連泊>
約束の06:00出迎えのライトバンに乗せられてシエムリアップのバスターミナルに向かい、国際バス
<ベトナム・ホーチミン行>の大型バスに乗車(首都プノンペン乗換)、07:00丁度、時間通りに
出発した。
車窓からは、民家に必ず備わっている水甕(みずかめ)が目に入った。
クメールの地の乾期には、長きにわたり雨が降らず、人々は水がめの水に頼ることになる。
カンボジアの田舎で出会う高床式の民家 と 乾燥期に備えた水カメ
SIEM REAP ➡ PHNOM PENH 行きバス (カンボジア)
プノンペンで国際バスに乗換え、国境を経てホーチーミンに向かう
車窓からのカンボジアの田園風景
(シエムレアプ付近)
Sketched by Sanehisa Goto
プノンペン方面<TAINK KOK 112km>に向かう国道6号線
11:50 首都プノンペンまで1時間の当たりから急に水田が広がり地平線まで延びる。
メコン川のデルタ地帯広がる豊かな穀倉地帯の典型的な風景である。
赤い乾いた土から緑のカーペットへの変化は見事である。
灌漑用水路が完備し、水をためる池には、蓮の花が咲きほこり、ここがカンボジアかと豊かな風景が
広がっている。
丁度二期作のはざまなのだろうか、半分は刈り取られていた。
<キリング・フイールド / クメール・ルージュによる悲劇>
カンボジアの長閑な田園風景を眺めていると、この平和な国を襲った悲劇を思い出さずにはいられない。
それは、1970年代後半、カンボジア国民の四分の一にあたる約180万人の人命が失われた、国民同士の疑心
暗鬼からくる殺戮、<キリング・フイールド>といわれる<クメール・ルージュによる悲劇>である。
クメール・ルージュによる悲劇は、ベトナム戦争を背景とした冷戦下の大国の対立に端を発したといわれる。
1970年までシアヌーク殿下に弾圧され地下に潜っていたポル・ポト派は、クメール人民革命党・カンボジア
共産党を名乗っていた。 しかし、ベトナム戦争を契機に北ベトナム寄り・中立の立場のシアヌーク殿下を、
首相であった右派ロン・ノル将軍がクーデーターを起し、追放した。
亡命したシアヌーク殿下は、中共・北ベトナムの仲介でポル・ポト派と組み<カンボジア王国民族連合政府>
を立ち上げた。
これによりポル・ポト派らはシアヌーク殿下をかついで、クーデーター派を倒し、プノンペンに新政権を樹立
し、徐々に権力を増すと、虐殺への道を邁進していったのである。
中共の文化大革命に倣い学者・医者・教師はじめ知識層や・富裕層を粛清虐殺するとともに、ポル・ポト派が
敵視していた北ベトナム派の内部分子やその家族郎党を粛清していった。
車窓から眺める美しいカンボジアの田園風景に、キリング・フィールドの跡を重ね、クメール・ルージュの
悲劇を想いだしたのである。
国際バスを利用し、国境越えの時間を最小に抑えることにした。
インドシナ半島での単独による国境越えでは、賄賂を要求されるなどトラブルが絶えないことを聞かされて
いたので、出来るだけ煩雑な時間を避けることにした。
アンコール(シエムレアプ)からホーチミンまでの約917kmの間、自分の足での国境越えの場合、バスの
乗換などで約14~20時間かかると言われるところを、国際バスだと、約12時間で済ませた。
■アンコール➔プノンペン➔バベット<国境>モクバイ➔ホーチミン
709km 138km 70km <総距離 917km>
6H 3H 3H <所要時間 12H >
さっそく、ゲストハウス<ほうれん荘>のドミトリーに投宿した。
▲ ゲストハウス<VU’O’NG HOA/ほうれん荘> ホーチミン/ベトナム 連泊 @3US$
36 Bui Vien St., Ho Chi Minh City (081)8369491
ゲストハウス<VU’O’NG HOA/ほうれん荘> ホーチミン市・ ドミトリーの2段ベット
■3月8日(7日目) ホーチミン(旧南ベトナム首都サイゴン)
車の騒音で目が覚める。
バイク部隊の朝の出勤、整然と走っているが、その騒音のすさまじさに眠っておれなかったのである。
みなベトナム経済を支える企業戦士で、同乗の彼女をいたわりながらの堂々の行進である。
その秩序正しさは、事故一つ起さずに、信号無き交差点での互いの譲り合いがなされ、どこかの日本の
大学応援団の交叉行進を思い出したものである。
そこにはベトナム人民の団結の源を、さらにさかのぼればベトナム戦争での国を守るという国民の意識の
高さを感じた。
凄まじいまでのバイタリティーと生きる力を見せつけられた。
この騒音こそ、ベトナム大躍進の建設の音のように聞こえた。
サイゴンと言えば、ベトナム戦争の敗戦時の米軍や南ベトナム人の騒乱に近い混乱ぶりが目に焼き付いている。
さっそく、待ちきれずに街の熱気に誘われて飛び出した。
街角の屋台で、豚スープウドンにレモンを絞り、唐辛子をふりかけ、沢山の生野菜を乗せて食べるのだが、
スープの美味しいこと、はまりそうである。
<ベトナム戦争を振返りながら、ベトナム人の誠実さを見ておきたい>
1946年、フランスの植民地であったベトナムは、第二次大戦終了と共に、独立へと舵を切るが、
1950年、フランスの植民地政策は、ベトナムの独立を拒否し、独立戦争の観を呈し始める。
当初は、フランスとベトナム間の独立戦争であったが、大戦終了と共にアメリカ軍事顧問団が派遣され、
朝鮮戦争と同じく共産主義の拡大を防ぐ戦いに切り替わり、徐々にフランス軍はアメリカ軍に入れ変わって
いく。
その関与は、ケネディ・ジョンソン・ニクソン三代の米大統領に引き継がれ、南北のベトナムに分断され
ていく。
南ベトナム防衛を担っていた米軍は、当初、弱小共産国である北ベトナムに敗退するなど予想もして
いなかったが、南ベトナムの共産党軍<ベトコン>の台頭や、ビートルズはじめ反戦の広がり、北ベトナム
の<ホーチミン正規軍>の徹底抗戦、それもゲリラ戦法の導入により、米軍はますます追い込まれ、
ベトナム全土での枯葉作戦・ケミカル戦争へとエスカレートしていく。
一方、ベトコンや、北ベトナム正規軍は、トンネル作戦を導入し、カンボジア・ラオス経由、大量の軍需
物資を南ベトナムのベトコン側に輸送することに成功する。
これを境に、米軍は撤退を重ね、サイゴン周辺を死守するまでに陥る。
いつ終わるかわからない戦争への絶望感から、米軍はベトナム市民をも巻き込んだ大量無差別殺戮へと
落ちていき、戦いの正義を見失ってしまう。
化学細菌戦の後遺症は、いまなお深く残り、多くの市民を苦しめている。
また、残置された地雷は、今なお人々の手足を奪い、命を怯やかしている。
解放されたホーチミン(旧サイゴン)市民の平和な生活を見ていると、戦争程悲惨な解決方法はないと
思えてくる。
博物館にも立寄ったが、戦争のもたらす非人間的な行為は、どのような戦争であろうと変わりはない。
その愚かな過ちを犯すことに変わりはない。
戦争に訴えることは避けるべきである。
今回のベトナム全土、旧南北ベトナムを回って見て、ベトナムの人々の幸せな笑顔に接していると、
憎み合ったベトナム戦争は一体何であったかと考えさせられるのである。
米軍枯葉剤空中散布による枯れ木群 南ベトナム大統領官邸に突入する北ベトナム戦車
朝、万歩計をセットし、ファンデーラ通りにある<ほうれん荘ゲストハウス>を、ランニング・短パン姿で
スタート。
まず、北に向かいダンデム市場のある広場まで行き、朝食のウドン(1US$)をとる。
このダンデム広場横に、近遠距離バスの発着場がある。
広場を右へ直進、途中、旧市場の活気を楽しみ、そのままもと来た道を直進するとサイゴン川にあるフェリー
のターミナルに着く。 たくさんの大型貨物船が停泊し、その間をフェリーが水すましのように行きかう。
川面には水草が揺れ、どうもドンナイ川の支流のようである。
そこにはプンタオ行の船着き場がある。
ここから、北東に向かってメリン広場まで行き、真中の北西への道を進むと、左側に、現在は<市民劇場>と
して市民に開放されている旧国会議事堂(旧南ベトナム)があり、その先を右へ曲ると<人民委員会>の建物
がある。
<市民劇場>として市民に開放されている旧国会議事堂(旧南ベトナム)
この建物を大きく回り込むと、フランス植民地時代の聖マリア大聖堂<サイゴン大教会>がある。
礼拝堂は、質素であり、静寂に包まれ、礼拝者も少ないようである。
聖マリア大聖堂<サイゴン大教会>
その右手にある旧フランス時代の建物であろうか、<中央郵便局>と近くのお土産街には人が溢れ、
静と動のアンバランスに違和感を感じた。 一方、これらの建物は旧植民地時代のものであり、
当時の支配者の権威を象徴しているのである。
旧サイゴン中央郵便局
郵便局を北へ行って、突き当りを右折し、2つ目の角に、ベトナム戦争最後の攻防戦となった旧アメリカ合衆
国大使館がある。
あの有名な1枚の写真、アメリカ軍によるサイゴン脱出の舞台となった場所である。
旧サイゴン・アメリカ大使館を脱出する関係者と群衆 旧大使館に掲げられている米国旗
旧アメリカ合衆国大使館の屋上にある臨時ヘリポートに脱出のため群がる関係者や群衆が映った写真は、
かって戦争で敗北を経験したことのないアメリカの狼狽ぶりを全世界に見せつけたのである。
ヘリコプターに乗り遅れまいとする必死のベトナム市民と、それを阻止する海兵隊員との攻防はこの世の
醜態を晒しているように見えたものである。
放棄された旧アメリカ合衆国大使館前には、合衆国の紋章である鷲のマークが、ここは合衆国総領事館で
あることをかろうじて示している。
ベトナム軍の監視兵に、紋章を写真に撮りたいと申し出たら、一言英語で<ノー>と拒否された。
ただ、少し遠ざかり、椰子の木陰からそっとシャッタを切った。
ベトナムは、現在でも一党独裁による共産主義国家であることに変わりはない。かかる共産国や、
旧ソビエット連邦国では、今なお写真に収めてはならない拠点があることを忘れてはならない。
(サイゴン時代の旧大使館)
戦争は何時も、多くの市民を巻き込んだ両軍のおびただしい屍が築かれた後に、ようやく決着するのである。
果たして、このベトナム戦争で流れた将兵や一般市民の死と、たくさんの血は報われたのであろうか。
この激戦の地に立ってみれば、戦争前の外交の努力による解決にもっと真剣であるべきであると思われてなら
ない。
ここにも東西の冷戦、いやイデオロギーの戦いが続いていたのである。
自由主義と専制(共産)主義の戦いは、いまなお根深く対決し続けていることに、人間不信を見てとれる
のである。
平和な世界は、人間社会である限り無理なのであろうか。
旧アメリカ大使館(現在の合衆国総領事館)を真直ぐ西に向かえば、現在の<南北ベトナム統一会堂>、
旧大統領官邸がある。
多くの参観者がたえず、まるでワシントンDCにあるホワイトハウスの観がある。
旧大統領官邸前の広場には南北ベトナムを統一した指導者 ホーチミンの銅像が建っている。
ここをぐるりと回りこめば、<WAR MUSIAM>(戦争博物館)があり、北ベトナム側から見た戦闘場面を
展示している。
そこには<憎しみと怯え>を映した兵士の姿や、逃げまどい傷ついた多くの避難民や人民が映し出され、
野蛮な殺戮や人間の醜さをこれでもかと展示されていた。
日本もまた中国大陸で同じ過ちを犯し、中国で展示されていた<盧溝橋博物館>での悪魔なる旧日本兵の野蛮
極まりない殺戮を映した写真や、朝鮮戦争で実体験した市街戦での地獄を見た日々を思い出していた。
人間を残虐行為に走らせ、理性を喪失し、復讐戦となる戦争は絶対に避けるべきであることを思い
知らされた。
<WAR MUSIAM>(戦争博物館) ホーチミン
ホーチミン<WAR MUSIAM>
旧サイゴン、ホーチミンの街を歩きながら、平和の素晴らしさをかみしめたものである。
昼食は、屋台で、魚の天ぷらと、野菜かけごはん、マンゴジュースをいただく。
散策後、旅行代理店<KIM TRAVEL>に立寄り、ホーチミン➡ハノイへの長距離バスのチケットを
予約した。
3/09 Hochimin/ 08:00発 ➡ 18:30着/Nha Trang 450km ▲(宿泊)
Nha Trang/18:40発 ➡ 06:30着/Hoi An 550km
3/10 Hoi An / 14:00発 ➡ 06:30着/Hue 120km ▲▲
3/11 Hue 世界遺産観賞
3/12 Hue/ 18:00発 120km ▲
3/13 Ha Noi/ 07:00着
HA PHONG OPEN TOUR BUS <Ho chi minn ➡ Ha Noi>
メコンデルタに昇る太陽、そこには明るい希望の光がある。
100年以上にわたった植民地支配を抜け出て、新しい未来に向かっての民族の礎を築く、という力強い
エネルギーを感じる。
今朝もまた、ドンナイ川には沢山の貨物船が行き交い、労働者を運ぶフェリーが忙しい。
ホーチミンの街はオートバイや、自転車が溢れ、騒音の中に国土回復の槌音が聴こえてくるようだ。
メコン広域デルタ(ドンナイ・デルタ)に昇る朝日
ドンナイ川の渡船でホーチミンに向かう勤め人 ドンナイ川に停泊する大型船
ゲストハウス<ホウレン荘>の横丁には、沢山の屋台が並び、朝食にアイスコーヒーやサンドイッチ、
オムレツを作ってくれる。 17000D/ドン(1US$=15000D)だから安い、沢山のバックパッカーが
利用している。
朝食はじめ、ランチも、夕食も楽しめるから、うれしい。
まるでバックパッカー食堂である。
何よりも、情報収集の基地として、世界中から集まるバックパッカーの生の地域情勢を収集できることが
嬉しい。
ひとりの日本人に出会った。
社会問題を研究し、日本全国を写真展と講演会をしてまわっているM氏。
ベトナム戦争の後遺症である枯葉剤による奇形児の問題や、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)問題を取り上げ
ているとのことである。
ベトナム戦争時、ゲリラの潜む山林やジャングルなどを丸裸にして敵軍をあぶり出すため、米軍が枯葉剤を
散布したことは良く知られている。
しかし、枯葉剤に含まれる猛毒のダイオキシンは、がんや精神障害など、枯葉剤を浴びた人や、ダイオキシン
で汚染された食物を食べた人は色々な症状・障害に苦しんでいる。
特に奇形児の問題にも見られるように、何代にもわたってダイオキシンの影響が引き継がれていると言われ
ている。
日本の民間団体も<国際里親制度の教育支援システム>などを通して、子供たちの支援を行っている。
戦争は、勝つためにはいかなる手段をもいとわないということである。
幼い頃、経験した朝鮮戦争でも、ソウル漢江にある爆破された鉄橋を修復すために子供を含めた地元民を
駆り集め、連合軍の飛行機が機銃照射する中で強制的に働かせ、その大半が死亡させるということも平然と
なされていた。
戦闘員と民間人の区別などありえないし、動くものはすべてを破壊しつくし、隠れている敵は枯葉剤で
あぶり出すのである。
戦争の残酷さは、われわれ日本人が沖縄戦などで見られた焦土作戦で、沢山の人の命が奪われた
経験を持っている。
ベトナムの苦しみを理解できる一人でありたいと願う。
戦争は、絶対避けるべきである。
お世話になった屋台
ホーチミン滞在中の食事の数々
<ささやかなお別れ晩餐会>
昨晩は、タイのバンコック以来、国際バスで一緒させてもらった同じバックパッカー仲間であるK嬢と、
ここホーチミンで別れ、それぞれのスケジュールに従って旅を続けるため、ささやかなお別れ晩餐会を
持った。
ベトナム風生春巻きに、野菜炒め、マカロニスープ、バナナシェーキ、アイスクリーム。
ビールで乾杯し、彼女の国際政治学に関する論文がとおり、大学院を無事修了できるように祈った。
旅の途中での仲間は、バックパッカーにふりかかる万一の不測の事態に備えて、その証言者として大切に
することにしている。
バックパッカーである単独での行動には、いつも危険がついて回るからである。
暗いベトナム戦争後の平和を歌うハイビスカスやジャカランタが咲き乱れるホーチミン・旧サイゴン
<バックパッカーとしての生き方>
バックパッカーという旅のあり方は、その地での政変(クーデーター)はじめ、スパイ容疑での投獄、
金品の要求に対する暴力や発砲、バイセクシュアルの危険、遭難、病気、拉致、投獄、強盗、薬物、
略奪などあらゆる危険がいつ襲ってくるかわからないので、いつも注意を怠らず、身を守り、危険から
逃げ出さなければならないのである。
案外、バックパッカーには危機に対する察知能力と、知略と臨機応変と、撤退または逃走という戦術が
求められるのである。
それと何といってもバックパッカーは、スカウト(斥候・スパイ・密偵)としての観察力と判断力を養い、
それに生き抜くための方法を学び、訓練しておく必要がある。
野草の見分け方、泥水を飲める知識、星座や地図で方角を見極め、いま何時かを太陽の位置で知り、火を
起こす方法、強盗から身を守る方法や、どこでも寝られ、追跡の技術を持っているのと、
そうでないのではバックパッカーの行動エリアが全く異なってくるから愉快であり、面白いのである。
幸いにも、少年・青年時代を通してスカウトであった事が、人生そのものをバックパッカーとしてとらえ、
世界中を歩き回る機会を持ちえたことをこころから喜んでいる。
<ベトナムの原風景― ストリート画廊写真展より>
ベトナムの原風景
<ゲストハウス ほうれん荘>
バックパッカーは、一体どんなところに泊るのだろうか。
出来るだけ若者たちと交わるため、原則としてユースホステルやゲストハウスに泊まることにしている。
今夜も泊るゲストハウス<ほうれん荘>の3階に、二間続きのドミトリー(8人相部屋)がある。
一階のインターネットカフェ―の細い階段を上ると、薄汚い大部屋に出る。
天井扇が今にも吹飛びそうな音をさせながら風をかき回し、二段ベットの上段に生ぬるい風を送り続けて
いる。
4つの下段には、二人の日本人男性、ノルウエ―の女性と、インドからの38歳男性が占め、上段にはアンコー
ルワットから合流し、ここホーチミンで別れるKazumi嬢、中国成都からの男、フランスの陽気野郎と、わた
しの合計8名の相部屋(ドミトリー)である。
この監獄に似た相部屋の暑さのなか、野郎たちは、上半身裸にショートパンツで過ごせるが、女性は
大変である。
この部屋以外に、シャワー付きトイレがあるが、水の出が悪い上に、排水に勢いがなく泣かされた。
その上、トイレットペーパーがなく、日本から持参した簡易式ウオッシュレットが大活躍、水をかけたあと
イスラム式に左手で処理をすることとなった。
これがまた、使用後、何とも言えない爽快感が得られたことと、意外と清潔であった事に気づかされた。
窓から出られるテラスは、涼しく冷たい風に触れられるというので、夜遅くまで賑やかである。
ただ、シャワーを浴びられると、その水がテラスにあふれ、大騒ぎとなるのである。
▲ゲストハウス<VU’O’NG HOA/ほうれん荘> 連泊 ホーチミン
盗難防止用鉄格子のはまった二段ベット4台 8人の相部屋
■3月9日 (8日目) ホーチミン➡ハノイ <南北ベトナム縦断バスの旅>
HA PHONG OPEN TOUR BUS <Ho chi minn ➡ Ha Noi>
今日は、聖なる日曜日。
ここホーチミンという街は、破壊しつくされた旧サイゴンからの復興のために、人々は日曜も休むことなく
働いているようである。
オートバイ軍団の、一斉に走り出すエンジンの爆発音、建築現場の発破や電動工具の騒音、それにどこから
集まったのか老若男女の発する声・・・
まるで<WAR MUSIAM>でみたキリングフイールドの写真から連想した、泥にまみれたヘリコプターが
ホーバリングしながら、兵士を吐き出したり、泥だらけの負傷者をヘリに載せたりと、新生ホーチミンの
喧騒の一日の始まりである。
実際、ホーチミンの復興は、まるで阿修羅な地獄絵を見ているような凄まじいほどのエネルギーの爆発で
ある。
その騒音は、大躍進の建設の音のようにも、平和を喜ぶベトナム民衆の歓声にも聞こえてきた。
今日は、目的地ハノイ(ベトナム首都)に向かうが、途中、バスを変えながら世界遺産のある<HOI AN>
と、<HUE>に立寄ることにしている。
ホーチミン➡ハノイ間には世界遺産が幾つかあり、通しの切符を買えば、自由にバスを乗換、乗継できる
長距離バスにした。
HA PHONG OPEN TOUR BUS <Ho chi minn ➡ Ha Noi>
ハノイへ向かう乗換自由な長距離バス HA PHONG OPEN TOUR BUS
<Ho chi minn ➡ Ha Noi>
ホーチミンからハノイまでの4泊5日のバスによる、1240kmの南北ベトナム縦断の旅である。
まずは、バスターミナル近くの屋台で、行動食や非常食・水などを仕入れた。
バス乗車前に行動食/非常食として果物・パン類を購入
食事は、時間になるとバス会社とタイアップしているのであろうか、食堂に停まってくれるので心配は
いらない。
乗車賃は、ホーチミンからハノイまで、シート席で25US$/ベッド席で38US$, 節約のためシート席に
したが、乗ったどのバスも全席、ベッド席で、シート席券の者にも、空いているベット席を使ってくれ
とのこと、少し得したような気持ちにさせられた。
どうも、バス会社同士、または列車との競争が激しく、シート席は販売促進としてのツールであって、
お客を逃さないためのチケットのようである。
<スリーピング・バス>三列で、一列に6ベット席 計18席あり
ベトナム南北縦断バスのベットシート
ホーチミン➡ハノイ間は、南シナ海の海岸沿いの国道1号線<QL1A>を北上する。
ホーチーミン(旧サイゴン)より、首都ハノイへ通じる大動脈である。
この日、ホーチミンを08:00に出発し、国道一号線(QL1A)は、ファンティエト/Phan thietで南シナ海に
出る。 その後は、美しい海岸を見ながら北上、Mui Ne Beachでランチ・タイムと休憩。
さらにCa Na Beachの風を受けながら、ほとんど出会わない自動車やオートバイ、のどかな海岸線を
見ながら、うとうとしていると、18:30この夜の宿泊地ニャチャン/Nha Trangに到着した。
バスが追い抜いた2台の貨物自動車のロゴマーク<SAGAWA>に、一瞬日本にいるような錯覚を覚えた。
日本の中古車の性能の良さは、全世界で人気があり、ここベトナムでもトラックやバスは漢字ロゴを消さず
に走り回っている。
帰国して調べたところ1997年、<SG 佐川ベトナム有限会社>が、現地法人としてホーチミン(旧サイゴン)
に設立されていた。
この道路は、パークハイウエーのように両側に緑地が続き、場所によって南シナ海の広い海原を見ながら
バスの旅を続けられる。
ただ、ゴミの花が続き、このパラダイスの風景も心なしか色あせて見える。
現在、ベトナムも発展途上の国、経済の豊かさと共に国民の意識も変わり、国土も美しく変わりつつある。
人民委員会も布告を出して、美しい社会主義国家建設に力を入れている。
国道沿線に広がる水田のその整然とした風景を見ていると、まるで日本の農村風景を見ているようで、
ベトナム人民の勤勉さと、誠実さを見てとれる。
そう遠くない時期に豊かな国に生まれ変っていることであろう。
休憩のために立寄ったモーテルのトイレに行って驚いた。
靴を脱いで、スリッパに履き替えての用足しである。
なぜなら、この清潔を重んじる同じ人間が、一歩街に出るといまだゴミをまき散らしているのだから、
理解できないのである。 しかし、これは発展途上国で見られる現象でもある。
ベトナム縦断バスからの風景
<DOI MOI ドイモイ 祖国復興統一スローガン>
ドイモイは、<社会主義指向型発展>の理念のもと、ベトナム共産党の一党支配体制を堅持しつつ、
市場メカニズムや対外開放政策を導入し、豊かな国家を作り上げるための<祖国復興統一スローガン>
である。
バスは、ホーチミン(旧サイゴン)の南北に流れるドンナイ川を渡って東へ向かう
Mui Ne Beach (南シナ海に面してビーチが広がる)
<ランチ・タイム> Mui-Ne Beach
ヤシの木が茂り、真赤な花が乱れる、白波がビーチをなめている。
青空に浮かぶ無数の白雲、ただようジャンクの群れ、ここ<Mui-Ne Beach>は、フランスのニースに
劣らない有名なリゾートである。
ホーチミンからのほとんどの乗客が下車、この浜でバカンスを過ごすようである。
Mui-Ne Beachのヤシの木
<ベトナム鉄道公社 統一鉄道>
ベトナム鉄道公社<統一鉄道>の機関車が国道1号線に並行してベトナムの南北を縦断している。
今回のベトナム縦断の旅では、列車に乗ることがなかったが、機会を見つけてはその精悍な列車を
写真に収めた。
NhaTrang駅 のDOI MOI NhaTrang付近を走る 南北ベトナム縦断列車
中国路線 ドモイ号/DOI MOI ホーチミンに到着するディーゼル機関車
バスが到着後、ニャチャン/Nha Trang にあるディスコティック<BAR CAFÉ’>で、ウイスキーの
シングルショットを流し込み、社会主義国のディスコ曲に酔って、旅の疲れをとった。
▲ <GH OTO SAN CAFÉ> 57B Nagayen Thien Thuart St. Nha Trang に宿泊予定であったが、
旅のスケジュールの日程調整が必要となり、急遽、ニャチャン/Nha Trangでの宿泊をキャンセルし、
その日の夕方の夜行バスで<ホイアン/HOI AN>に向かった。
007 Discotheque CAFF’ BAR
Nha Trang Central Vietnam
ニャンチャン 中央ベトナム
■3月10日 (9日目) ホイアン/HOI AN
<闇夜の小用>
深夜、乗客が眠りの中にあった時、夜行バスは路肩に停まった。
みなトイレタイムと思い、外に出てみたがトイレはなく、暗闇に木立ちが数本。
バックパッカーには、当り前の行為も、西欧からの観光客には決めかねてうろうろ、困り果てていた。
まだまだ世界の多くの場所で、深夜のトイレはじめ、昼間でも物陰で済ませるトイレタイムがあるから、
その心づもりで備えておかなければならない。
山登りや、カヌートリップなどをしておれば、野外でのトイレマナーを身に着けることができる。
夜行寝台バスの車内風景
夜中の間に、スコールがあったのか、空の雲が垂れ込め水田が靄っている。
見渡す限りの水田、その緑の絨毯の水々しさに、統一ベトナムの豊かさを見た思いである。
整然と区割りされた田圃に、日本の田植えを終えた農村風景が重なった。
ベトナム農民のこよなく稲作を愛する気持ちが、この水田の幾何学的模様に現れている。
道路わきの赤土にできた水溜りにも曇り空が沈んでいた。
トウボン川を渡っている。
ここからホイアンに入っていく。
日本の農村風景と見まがうほど整然とした水田 ホイアン手前のトウボン川を渡る
Vietnum Rice Field
Near Hoi An
Sketched by Sanehisa Goto
ベトナム人は勤勉で、働き者である。
落ちつきの中に、自尊心を持ち、プライドを感じさせる民族である。
第二次大戦を機に、フランスの植民地から離脱し、分断国家であった南北を統一し、ベトナム社会主義共和国
を建国したという誇りを感じるのである。
ベトナムは、北ベトナムのホーチミンの指導のもと、統一され、長年の植民地闘争100年近くに終止符が
打たれた。
フランスに植民地化され、日本の侵攻を受け、東西冷戦の拠点になり、米軍・南ベトナム連合軍(国連軍
としてほかに多くの国が派兵していた軍隊を含む)と戦って、ベトナム全土を解放したのである。
すべてのベトナム人が、統一されたこの平和と幸せをかみしめているのであろう。
成し遂げた統一の自信に、誇りさえ感じられる。
ベトナム社会主義共和国 国旗
<ベトナム統一>
漢・唐の時代には中国の支配を受けたが、10世紀に独立、いくつかの王朝支配を経て、19世紀後半に
フランス植民地に編入された。
第二次世界大戦中の日本軍の進駐と、戦後のフランスからの独立運動<第一次インドシナ戦争>を経て
フランス植民地体制が崩壊し、国土は社会主義陣営のベトナム民主共和国(北ベトナム)と資本主義陣営
その後、南北統一を妨害し、米国による傀儡政権を立てた南ベトナムでは、解放勢力である共産党<ベトコン
>の勢力が増した。 南北ベトナム統一の機会を待っていた北ベトナムの指導者ホーチミンは、ベトコンに
対し軍事援助を始める。
米軍の全面介入によるベトナム戦争<第二次インドシナ戦争>を経て南ベトナムの政権が崩壊し、
1976年に統一国家としてベトナム社会主義共和国が成立した。
古都ホイアンは、華僑の文化が色濃く残り、その昔は日本人町もあった事で知られている。
有名な来遠橋(日本橋)などがある旧市街は「古い町並み」として世界遺産にも登録され、どこか懐かしい
雰囲気が感じられる。
夜はランタンに明かりが灯され、昔日本のお宮さんで見られたような夜店の風景に、ノスタルジーを感じた
のである。
古都ホイアン旧市街
古都ホイアン旧市街の路地裏
<来遠橋>
来遠橋の別名・日本橋は、ホイアンの象徴と言われ、ベトナム紙幣にも描かれている。
来遠橋は、16-17世紀頃にこの地に憧れ、朱印船貿易によって移り住み、日本人街を形成した先人たちに
よって架けられた事から別名「日本人橋」とも呼ばれ、日本人にとっても非常に縁の深い木造橋である。
日本人街と中国人街をつないだ来遠橋は、和と中華が折衷する独特の建築様式として、細部に至るまでの
見事な装飾に驚かされる。
20.000Dベトナム・ドン紙幣に見られる<来遠橋>
茶房でベトナム茶である<ジャスミン風味の蓮茶>を飲みながら、スケッチをしていると、約400年前も
同じ日本人がこの橋を渡りながら、周囲の景色を見ていたと思うだけで懐かしさが込み上げてきた。
来遠橋/日本橋
来遠橋に豊臣家の桐の紋の提燈が掛かる 日本の家紋の見られる提燈
来遠橋
《 来 遠 橋 》
詩 後藤實久
この橋を渡りし 商人の心意気
幾歳月の 命預けし 荒波越えて
命見るなり 来遠橋に迎えられ
歩みの橋に 無の風を見るなり
橋を出た街道は 中山道に似て
ホイアンの街に 宿場町を重ねし
ああここに 日本人街在るを喜ぶ
来遠橋の額 来遠橋の入口
ホイアン< 来遠橋の額>
茶房で来遠橋をスケッチ
来遠橋を背景に
<豪商フーフンの家/ 馮興家>
来遠橋の先に、3ヵ国の建築様式が交差する歴史的建造物である<馮興家>がある。
土壁はベトナム式・柱や扉は中華式・屋根は日本式の3ヵ国の建築様式が折衷したここホイアンでしか見られ
ない建物である。
自然光の差し込む2階建ての家屋内、天井には四角い取り外し可能な窓があり、台風シーズンの洪水時には、
荷物を持ち出せるように生活の知恵が生かされている。
二階のテラスからは、来遠橋を渡ってくる観光客が目に入り、当時の豪商フーフンも、日本からの南蛮貿易の
乗組員たちを眺めては、さらなる世界への飛躍を誓っていたに違いないと想像してみた。
三か国折衷の フーフンの家/ 馮興家
<豪華絢爛な華僑寺院 廣肈會館>
17世紀頃から住み着いた中国の各省出身の華僑は、豪華絢爛な装飾で彩られた門構えや、華やかな中華様式の
庭園を持った華僑寺院を建てたという。
ろうそくの炎がゆらめき、線香のけむりがたゆたう厳かな雰囲気は、今も変わらない華僑の人たちの篤い信仰
心を見る思いである。
豪華絢爛な華僑寺院 <廣肈會館>
Hoi An Central Vietnam
Sketched by Sanehisa Goto
<トウボン川沿いの景色 と ホイアン旧市街のランタン風景>
ホイアン旧市街を流れるトウボン川の両岸には、青空と川面に映える黄色い建物が南国風なエキゾチックさ
を見せている。
レストランやカフェー、露店や屋台が並び夕涼みがてらに、のんびりと散策を楽しんだ。
ここでも、スケッチをしながら、日本からの南蛮貿易である朱印船貿易に従事した多くの日本人を想い描い
てみた。
彼らは、幕府から貿易許可書である朱印状のもと、東南アジア各国に日本人町を造り、交易に励んでいた。
ここホイアンも朱印船(南蛮)貿易の拠点として栄えた港町であった。
港町として繁栄した ホイアンの風景
南蛮貿易は、16世紀半ば以降,来日したポルトガル人やスペイン人との間で行われた貿易のことで、
長崎や平戸を中心に貿易が行われた。 主に鉄砲,火薬,時計,ガラス,中国産の生糸・絹織物などが
輸入され,日本からはおもに銀が輸出された。
一方、朱印船貿易は、江戸幕府から与えられた朱印状を持った西国の大名や京都・堺・長崎などの商人が,
東南アジアなどへ船を出して行った貿易のことをいう。 中国産の生糸や絹織物,武具用の鮫皮や鹿皮,
砂糖などが輸入され,日本からはおもに銀や硫黄,銅,刀などが輸出された。
日本から渡った人々による,日本町が東南アジア各地にできた。
ここホイアンや、これから向かうタイのアユタヤにも日本人町があった。
これらのホイアン旧市街を美しく飾っているのは、沢山のランタンではないだろうか。
その素敵なランタンの装飾にカメラを向けてみた。
ホイアンの街では、満月にあたる旧暦の14日、毎月日の入りと共に電気の灯りを消しランタンの火で過ごす
<ランタンの日>が催される。
ホイアン旧市街のランタン風景
Hoi An Central Vietnam
Sketched by Sanehisa Goto
ホイアンの、朱印船時代のどこか開けた旧市街を見て歩き、疲れた足を引きずってホテルに帰ってきたら、
朝声かけられたお婆さんが、売れ残ったお土産を指さして、<一ついかが?>と英語で問いかけてきた。
なんと素敵な笑顔のおばあちゃんだろう、2つで1US$という。
素焼きに色を塗った簡単な笛である。
いまも本棚に飾られ、風を吹き込み、鳴らしてはあの日を、またあの笑顔を想い出している。
笑顔は、世界平和のシンボルである。
ベトナム戦争後の、統一ベトナムでなお根強く流通する米ドル紙幣が、おばあちゃんの手に握られていた
のが、印象的であった。
ここは、米軍・北正規軍・ベトコンが入り乱れて戦ったダナン近くの<キリング・バトル・フィールド>
なのである。
地下道に隠れては、米軍を待ち伏せ奇襲するベトコン、それを恐れてジャングルにひそみ、地下に潜った
ベトコンを炙り出すために枯葉剤を撒く米軍、この辺りは一木一草が消え去った地球終末の地と言われた
ところである。
どんなに破壊されても、自然も、人間もその苦しみを癒して、あるがままの姿に戻しているのだから偉大で
ある。
お土産を売るチャーミングな老婆
ここベトナム中部の3月、ホイアンの夜中は、ジャケットを羽織るほどに涼しい。
▲<Thien Trung HOTEL / チイエン チュン ホテル> @10US$
63 Phan Dinh Phung St. Hoi An
Thien Trung HOTEL
Hoi An, Vietnam
メコン川流域の風景ルート図
■3月11日 (10日目) ホイアンを離れ、フエに向かう
今朝も、暑さと騒音に目覚め、じっとりとした体を起こし、まずは、ホイアン旧市街の残りの街並みを見て
歩くことにした。
ホイアンは、飛騨の高山の街とよく似ていて、すべての家屋を昔のままに、手入れし、立替・新築して
残している。
ホイアンの街を、朱印船でやって来た日本人や、異国人が歩く姿を想い描きながら、川べりで茶を飲み
ながら<詩 ホイアンの夢>を走り書きした。
《ホイアンの祈り》
詩 後藤實久
一服の緑茶に かすかなる風を味わい
古の武士 遠きより来りて越南の茶喫す
國を背負いし その心意気を胸に秘め
ホイアンの地にて 遠き祖国の家を想う
荒波に命かけ おのれ捨てし その姿に
人の残せし夢と 道の尊さを 学ぶなり
愛する人を想いてや 向かわずして祈り
愛語を聴くや この月灯りを見るに等し
<ベトナムの食事>
スプーンを紙で拭く、箸を水につけて拭く。
ボトルの水の汚れを視認し、キャップの未開符を確認する。
これが屋台でウドンをいただく事初めである。
朝の<ベトナムうどん>は、とても美味しい。
豚骨でだしを取り、ハーブで香りと味を調え、モヤシ・キャベツ・セリを盛り付け、
その上からカポスを絞り、唐辛子を振り掛けていただくのである。
昼もまた屋台、海鮮焼き飯をいただく。
これまた旨い。
水代わりの、ベトナム産ビール<BIA SAIGON LAGER>も、フランスパンに合う。
その時の状況により、ミネラルウオーターよりビールの方が安くて、衛生的である場合もあり、海外では
よくビールを水代わりにいただく場合が多い。
昼食 海鮮焼き飯 市場周りにも屋台が多い
イカ、エビ、玉ねぎ、ホウレンソウ、トマトを魚醬で味付けした焼き飯も美味い。
屋台は、その国のおふくろの味を楽しめて、世界中の屋台を楽しんでいる。
しかし、注意を要する場合もある。
中国 桂林の屋台で食べたハクビシンの焼き飯、一発でサーズ<重症急性呼吸器症候群 / SARS: severe
acute respiratory syndrom>にかかり、一目散に日本に飛んで帰り、日赤に飛び込んだこともある。
レントゲンを見て驚いた、両肺が真っ白、膿で覆われていたのである。
入院にあたり、死を覚悟して頭を丸めたものだ。
夜は、パラパラのベトナム米の焼き飯風、色付け黄飯または白米飯に、
鶏肉のささ身をちぎってのせ、その上に野菜煮をたっぷりのせ、出汁スープをぶっかけ、これにカボスを
かけ、カラシ味噌(コチョジャン風)をまぜて食べる。
これがまたいろいろな具の取り合わせがあり最高に美味いのである。
ベトナムの食事代は、平均して15000~20000D(約1~1.5US$)となり、これに
コーラー又はビール加え、約2~3US$となる。
バラエティーに富んだ夕食 夕食はレストランでいただいた
<世界遺産 ホンアイを離れる>
時間通りに、ホンアイにあるバス会社のオフィス<Nanh Ca‘fe>17 Phan Dinn Phung St.前を出発した。
ホンアイの隣接都市で、ベトナム第4の大都市であり、ベトナム戦争時の激戦地区であったダナン/Da Nang
を離れると静寂が戻った。
ベトナム初のトンネルを抜けると、あと76KMでHue/フエだと、道標が示している。
最終目的地Hanoi/ハノイへは、あと546㎞走ることになる。
ダナンの中央広場にひるがえるベトナム国旗
バスは、ベトナム戦争時の激戦地ダナンを過ぎ、第一次インドシナ戦争の停戦ラインで、南北ベトナムを
ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)においても、軍事境界線付近での攻防は激しく、
死闘が繰り返された。
激戦地という悲惨な跡地は生い茂った草に覆われ、いまはそのあと影も見られなかった。
いまなお、ベトナム戦争時のバトルフィールドは、多くの地雷が処分されずに埋設されている
危険地帯である。
第一次インドシナ戦争における南北ベトナムの停戦ライン北緯17度線
BEN HAI River/ベンハイ川付近図 (Wikipedia)
人民も柔和で、戦いの悲惨さを飲み込んでしまっているのだろうか。
平和とは、過去の苦しい思い出を胸奥にしまい込み、装うことなのかもしれない。
幻の停戦ライン北緯17度線南に流れるベンハイ川 河口に浮かぶ平和な小舟
フエ川に浮かび漁をする小舟
Hue' Central Vietnam
Sketched by Sanehisa Goto
ダナン/Da Nangより、フエ/Hue’への道路は、ベトナム戦争中、南北ベトナム両軍の軍需物資や、避難民、
戦車、大砲、戦闘員(ベトコン・南北正規軍・米軍)が行き交った幹線であり、停戦ラインの攻防が
なされた。
この辺りは、海岸と山岳地帯が接する隘路であり、大変な戦闘がなされたと想像する。
ではなぜ、ベトナム人は、第二次大戦後も戦い続けなければならなかったのか。
それは一つに、ベトナム人民の悲願であった植民地からの完全独立であり、もう一つは第二次世界大戦の
戦勝国間の取り決め、即ち、南北朝鮮や東西ドイツにも見られるような分断国家、南北ベトナムの悲願で
ある国家統一に他ならない。
正義と理想を掲げたホーチミン率いる北ベトナム政府が、国家統一をなしたことは歴史が証明している。
ただ、朝鮮半島だけは、いまだ国家統一の気配すら感じられず、対決姿勢を鮮明にしている。
それは、ソ連の崩壊によって前途を見通せなくなったからである。
ベトナムで見る限り、国際共産主義国家の大同団結が、ベトナムの国家統一への大きなエネルギーとなって
後押ししたことは見逃すことができない。
ベトナムの南北分断は、日本にとっても他人事ではなかった。
ポツダム宣言による日本降伏がなされる前後にソ連軍は、北海道侵攻を企てていた。
ソ連軍の手は、満州・樺太に侵攻し、北方四島をへて北海道をうかがっていたのである。
そのころ、朝鮮半島では、北緯38度線で南北朝鮮が分断された。
<世界遺産 Hue’/フエを巡る>
朝8時にホイアン/Hoi Anを出たバスは、14:00丁度にフエ/Fueに到着した。
さっそく、今夜泊るゲストハウス<ビンミン/Binh Minh Guest House>に荷物を預け、
古都フエの街に飛び出した。
涼を求めて堀べりの屋台で遅めの昼食をとる
堀越しに見える阮朝王宮 王宮のお堀に咲く蓮の花
まず、世界遺産<阮朝王宮>(グエンちょうおうきゅう) 近くの堀べりにある屋台で腹ごしらえ、
焼うどんを注文し、王宮を眺めながら、のんびりと食事を楽しんだ。
屋台のテーブルには、いつも魚醤や練唐辛子が置かれているので自分で好きな味付けできるのがいい。
また、屋台が、お堀に蓮の花が咲き、堀越しに阮朝王宮が眺められる絶好の場所にあるのがいい。
―阮朝王宮 グエンちょうおうきゅう 1803年建造―
世界遺産<阮朝王宮 / DAI NOI >の荘厳さに、ベトナムという国の奥深さと歴史を見た思いである。
フエは、1802~1945の間続いた阮(グエン)王朝の都があった古都で、中国の明朝にあった紫禁城に
模して造られているようで、規模は小さいが午門の優美な装飾に目を見張った。
長年の植民地時代という屈辱に耐えられたのも、自分たちの歴史や文化、生き方を培ってきた精神的
健全さがあったが故とみてとれる。
たとえば、朝鮮の人達が持つ感情<恨>もまた、その韓民族にしか持ちえない心情であろう。
タイを除いて、東南アジアにおける西欧、特にイギリス・フランス・オランダの植民地政策は、
ながい歴史の上に成立した国家への進出だけに、一面非常に統治しやすかった。
それ以上に植民地先の民衆が従順であり、服従したことによるであろう。
その国独特な文化・歴史・宗教・道徳・倫理をもった教養ある民族であったがゆえに、植民地として
安定した統治が出来たとも云える。
しかし、かかる成熟した植民地は、アフリカや中南米における植民地と異なり、いち早く解放闘争に
目覚めていったことも確かである。
そのきっかけは、第二次大戦における、アジアの新興国であった日本の<アジア解放戦争>という
スローガンによってその機会は訪れたとみる向きもある。
ただ、日本も西欧列強に見習っての中国進出であり、満州国建国であり、資源獲得のための東南アジア
進出という侵略的植民地化を推し進めた事は残念であった。
フランス植民地としてのベトナムを眺めた時、この<阮朝王宮>を造りあげた王朝や人民を侵した
フランスの無謀さと、好戦的でなかったベトナムの歴史と風土、人民を見たような気がした。
そのベトナム人の芯の強さは、フランスを追い出し、アメリカに打ち克った粘り強さと、団結力からも
うかがい知れる。
この<阮朝王宮>に接した時、堀に囲まれ、城壁の上に建てられた王宮に、そして、その文化の高さに
目を見張ったものである。
阮朝王宮への入場口<和平門>
煌びやかな 阮朝王宮の<午門>
東門(顕仁門)も鮮やかで装飾も素晴らしい 阮朝王宮
この素晴らしい建造物を造りあげた祖先に、誇りさえ感じられるフエの人々、自分たちも未来のベトナムを
築いていくのだとの自信をのぞかせているようだ。
その阮朝王宮を、スケッチに残すことにした。
Hue’ Cetral Vietnam
Sketched by Sanehisa Goto
阮朝王宮前で、スケッチに彩色し、悠久の歴史の中に遊んだ
宿に戻る途中、あまりの暑さに茶屋で一服、日光浴を楽しみながらフエの街の風景をスケッチしていたら、
聾唖者の青年がやって来て、しきりに手振りでスケッチを素敵だと褒めてくれた。
しかし、だんだんと自分のオッパイあたりや僕チンあたりを触ったりと、にやにやしながら何かを
アッピールしていることに察した。
以前、ベトナムの人にはゲイやオカマが多いとは聞いていたのだが、実際にアプローチされてみると、
少し慌てたものだ。
しかし、何を血迷ったかと一瞬思ったが、あまりの暑さに上半身裸で、日光浴をしながらのスケッチを
したことに気づき、青年に間違ったシグナルを送っていたことに反省したものである。
今まで、髭を生やしたベトナム人に出会ったことがない。
これは一体、ゲイやホモと関係があるのだろうか。 こちらの足の毛でさえ触ってくるのだから驚きで
ある。 一種のセックスアッピールなのだろうか。
ベトナムでは、裸の男を見たらホモ・ゲイと思えと・・・変な話である。
郷に入れば郷に従え…いや、気を付けたい。
先ほどの、世界遺産<阮朝王宮>の入場にあたって、寺院でもないのに、係官からショートパンツが
短すぎるので入場を断られ、ひと悶着あった事を思い出した。
その時は、ショートパンツを膝辺りまでずらして、なんとか入場を許してもらったものだ。
半ズボン、特にショートパンツは、イスラムの国々や、ヒンズーの世界でも、また仏教寺院や教会
などでの着用はこころすべきである。
宿に戻る途中、あまりの暑さに茶屋で一服、Hue’の街の風景をスケッチ
王宮家沿いにて
Sketched by Sanehisa Goto
<フエ川の風景> 中央ベトナム
フエ川の風景
フエ川 Hue’ River での漁業
Sketched by Sanehisa Goto
▲<Binh Minh Guest House> 8US$ Hue’、 Central Vietnam
《Hue’ ➡ Ha Noi ➡ Vientian/ラオス 移動スケジュール》
3/12 Hue’ 17:30発 ➡ 17:00着 Ha Noi ▲長距離夜行バス 車中泊
3/13 Ha Noi ハロン湾1泊2日ツアー参加 ▲ハロン湾 観光船泊
3/14 Ha Noi 街散策・ホーチミン霊廟訪問 ▲ゲストハウス泊
3/15 Ha Noi 18:00発 ➡ ▲国際バス(20US$) 車中泊
3/16 Vien Tian/ラオス 08:00着
ホーチミン➡ハノイ縦断オープン・バス会社<Hanh Café>
■3月12日(11日目)<フエ/Hue’ ➡ 首都ハノイ/Ha Noi> バス移動日
所要時間12H ・ 総距離719km
バスに乗って、それもベトナム最終地ハノイに向かう長距離バスで不安になったことがある。
すでにホーチミンで、ハロン湾クルーズやハノイでの宿泊代を含めた通しのバス代を払い込んでいる
のだから問題はないのだが、その領収書にPAIDの印以外、発行者の会社名・担当者名・ハノイの
事務所の住所・電話番号もなかったからである。
ハノイに到着してどこへ行けばいいのか・・・
スマホで会社の所在と電話番号を探し出し、ようやく緊張も解け、ベット席に潜り込んで、しばしの睡眠
をむさぼった。
ただ一人で行動するバックパッカーのモットー《何事も安心せず、確認せよ》を実行することの大切さを
再確認させられた。
<社会主義体制下の小学校>
社会主義体制下では、集団行動を重視した教育を行っている。
全校生が二列に並び、行進曲を歌いながら行進し、近くの公園に出向き、体操・マスゲームを行っている。
少年少女が首に巻き付けている赤いネッカチーフの結び方訓練や、社会主義スローガンであるホーチミン
語録の大声での唱和など社会主義教育を徹底させ、祖国統一後の復興や、社会主義思想の徹底を図り、
愛国心の向上に力を入れているようである。
もうすぐハノイだ。
国道の検問所も、また厳しい目を向ける警察官も目立ってきた。
街の道路は広く、街路樹や中央分離帯もあり、フランス植民地時代の都市計画が生きている。
少し気になったのは、旧サイゴンであるホーチミンよりも、公衆トイレが汚いことである。
整然と区割りされた水田には、満々と水が満ち、稲が植え付けられたところである。
日本の田園風景に重なり、その美しさに見惚れた。
日本の田植え風景にそっくりなベトナムの水田
東南アジアの中では、一番の手入れの行き届いた田圃であり、ベトナム農民の誠実さが見てとれる。
このベトナムの農民軍の粘りが、巨大な近代アメリカ軍に勝利したともいえるのではないだろうか。
■3月13日 (12日目) <ハロン湾クルーズ1泊2日> 42US$
ホーチミン➡ハノイ縦断夜行バスは、ソンホン川に並行して北上、橋を渡ってハノイの南郊外に到着し、
朝07:00過ぎ、夜行バスを降ろされた。
夜行バスは、ソンボン川を渡ってハノイ南に入っていく
少し不安がよぎったが、バス会社のオフィスが近くにあり、手伝ってもらいハロン湾ツアー事務所に
連絡を取ってもらった。
間もなく、マネージャーであるフン氏がオートバイで迎えにきてくれた。
荷台に乗せると、出勤途上のオートバイや自転車群を次々抜き去って、ハノイ中心にある、バックパッカー
通りに面したベトナム縦断オープン・バス<Hanh Café’> ハノイ事務所に連れて行ってくれた。
その風を切り、オートバイを抜き去るスリルに、年老いたバックパッカーは、すこし興奮したものである。
しかし、<Hanh Café’> ハノイ事務所のトイレに恐怖の声を上げた。
蛇口からの水で尻を洗い、ペーパーで拭いてびっくり、真赤な錆びた土がべったりと付いていたのである。
どうも蛇口の水は、腐った溝の水らしい。
トイレの暗さのなか、最初に顔を洗っていたのだから驚きの声を出してしまった。
ベトナムも、まだまだ発展途上国であることを思い出し、これからの発展を楽しみにすることにした。
水田の素晴らしさを見ているだけに、あまりにもちぐはぐなインフラの後進さ、落差に驚いてしまった。
ベトナム縦断オープン・バス<Hanh Café’> ハノイ事務所
ベトナム縦断オープン・バス<Hanh Café>ハノイ事務所は、バックパッカー通り、エリオス・ホテルの
隣にある。
マネージャー・フン氏によると、ハロン湾クルーズの手配も済んでおり、この後、出航時間に合わせて
ハロン湾ツアーのガイドのジエン氏が車で迎えに来てくれるとのことである。
このオフィスに集合する他数名も参加するので、集合時間までゆっくりと散策を楽しむこととなった。
旧サイゴン、現在のホーチミンから同じ<ハロン湾クルーズ>に参加するというベトナム人夫妻に出会った。
南北ベトナムが統一したことについて聞いてみた。
「ベトナムが統一国家となり嬉しい。 ここ1世紀に渡って他国に植民地化されたり、イデオロギーによる
南北分断を経てようやくベトナム人によるベトナム国家を打ち立てた。」と、興奮気味に話されているのが印象的であった。
<ハロン湾ツアー>
ハノイから国道18号線(QL18)を東へ165kmのところに<海の桂林>と呼ばれるハロン湾がある。
ハロン湾は、世界遺産に登録されているベトナム随一の景勝地として世界的に有名である。
<海の桂林>と言われるように、海から突き出ている無数の石灰質の奇岩が靄の中に浮かぶ姿は、中国・桂林
の山水画風景にそっくりなのである。
霞み立つハロン湾には、おびただしいジャンク風小型観光船が、多数係留され、観光客を待っている。
一瞬、ベトナム戦争の映画の上陸舟艇を観ているような錯覚に落ちたのである。
上陸作戦を待っている兵士が舟艇にあふれかえり、合図を待って上陸するような緊迫感に似ていたから
である。
湾内は穏やかで、シーカヤック・クルーズにもってこいである。 このツアーでも、シーカヤックによる
ハロン湾クルーズに参加することになっている。
ハロンという地名は、龍が舞い降りた場所をさし、その昔、外敵を龍が追い払ったといい、その時に龍が
吐き出した宝玉が奇岩となって海に突き出たという伝説が残っているという。
2008/3/13~14 Ha Long Bay Tour
Sketched by Sanehisa Goto
ここBAY CHAYに、ハロン湾ツアーの大小の観光船が待機している
ハロン湾に浮かぶ観光用海の家
奇岩が突き出すハロン湾
ハロン湾ツアー母港BAY CHAYで出航を待つ<PHU’O’NG DONG号>
ハロン湾に樹立する無数の島には多くの鍾乳洞がある
世界遺産<鍾乳洞―ティエンクン洞>
ハロン湾のBay Chayを出航した<Phu‘o’ng Dong号>は、最初にダウゴ―島にある世界遺産<鍾乳洞―
ティエンクン洞>に立寄り、ライトアップされた鍾乳洞観賞を楽しんだ。
ここは日本の鍾乳洞とは趣きが違い、日本の秋吉台に見られる静寂の中、雫の音が響くような神秘的な
ところではなく、彩よろしくライトアップされ、煌びやかな、幻想的な世界が広がっている。
芸術的・幻想的な鍾乳洞<ティエンクン洞>
<海の桂林>と呼ばれるハロン湾
Sketched by Sanehisa Goto
▲<ハロン湾ツアー> / Ha Long Bay Tour> PHU’O’NG DONG号船上泊
宿泊は、PHU’O’NG DONG号のキャビン(ダブルルーム)である。
ハロン湾ツアー<PHU’O’NG DONG号>船内案内
■3月14日 (13日目) ハノイ/ハロン湾クルージング 2日目
ハロン湾クルージング2日目は、湾のスケッチ と シーカヤッキングに興じる。
神秘的な<海の桂林>をスケッチして楽しむ
ロスアンジェルスからのジョン(バウ) と 私(スターン)でペアを組む
ハロン湾でシーカヤッキングを楽しむ
ハロン湾ツアー仲間と
ハノイにハロン湾一泊ツアーより戻って、旅行社が手配したゲストハウス<Hanoi Spirit House>に入った。
夕食は、近くのダウンタウンに出かけ定食(ご飯・野菜炒め・魚・豆腐)を40000Dでいただく。
屋台や出店を冷やかしながら、集めているマグネットや北ベトナム正規軍の軍帽、日記の小型ノートなどを
購入。
ベトナム戦争時の一方の首都ハノイでの一晩の宿は、<Hanoi Spirit House>のドミトリーに泊まる。
三重からのリサさん、オランダからの女子大学生2人、フランス人女性2人、オーストラリア人夫妻それに
ブラジル青年2人にわたしを加えての計10名の大部屋である。
ドミトリーは、1泊@3US$だが、旅行社の手数料5$を含めて8US$である。
金額に見合って、トイレをはじめ、すべて清潔であった。
今夜の夕食
▲Guest House <Hanoi Spirit House> 8US$
50 Hang Be St., Hoan Kiem Distr., Hanoi 084 Vietnam
Guest House <Hanoi Spirit House>
今日は、ベトナム人民から<ホーおじさん>として親しまれ、ベトナム戦争時のベトナム民主共和国
(北ベトナム)の大統領として、対米戦(反共連合軍とも呼ばれた)の総司令官として作戦指導をして、
劣勢を伝えられた軍事作戦を、人海戦術で勝ち切ったベトナム統一の英雄であるホーチミンの霊廟に
出かけた。
<ホーチミン霊廟>
ハノイにあるホーチミン<Ho Chi Ming>の霊廟には、小雨のなか、朝一番というのにベトナムの人々が
長蛇の列を作っていた。
よく見ると、質素な人民服に身を包んだ老齢の農民らしき人達が混じっている。
ベトナム戦争時、ホーチミンと共にトンネルに潜ってゲリラ戦を戦った老兵士と見受けられる。
霊廟は、ベトナム統一最大の功労者を祀るにふさわしい壮大で厳粛な聖地である。
どこか、モスクワの赤の広場に祀られているレーニンのレーニン廟を思い出していた。
ここホーチミン霊廟は、あの赤の広場の毒々しいサイケな不思議な国ロシアの違和感とは違い、素朴さに
心惹かれる、親しみを覚えた。
ホーチミンの後に続く、優れた指導者が現れるまで、いやベトナム統一の完成を見るまでホーチミン
霊廟、ホーチミンの威光は、この国の象徴としてあり続けるように思えた。
共産主義思想に、個人崇拝やヒーローがあってはならないはずだが、マルクス・レーニン死後、
続く指導者は、為政者の都合により、英雄として祭り上げ、墓所や銅像を造ってしまったのである。
自らの銅像を許さなかったカストロ以外、マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東、金日正は、いまでも
人民を見下ろす銅像として立ち尽くしている。
例えば、北朝鮮の金王家の世襲は、もはや理想主義を掲げた共産主義ではなく、完全なる独裁専制主義で
ある。
ホーチミン霊廟の中庭にも、レーニン像が立ち尽くし、霊廟を見上げていた。
ホーチミン霊廟は、ホーチミン・ベトナム労働党主席の霊廟である。
ホーチミン霊廟に入る前に、各人の身体検査や、服装の厳しいチェックがなされる。
もちろん、ショートパンツはご法度である。 カメラは持ち込み禁止で、入口で預けることになる。
廟の中はベトナム人民軍の軍人により警護されており、私語厳禁で立ち止まることは許されない。
廟の中では撮影禁止となっている。
<ホーチミンの家>
ホーチミン廟を出ると、希望者は入場料(10US$)を払い、ホーチミンが住んでいた家を
見ることができる。
敷地内に入るとホーチミンの家や、各国の要人を招いた大統領府、会議に用いられた政治会議室など
がある。 ホーチミンの執務室にはマルクスの写真や、日本の和人形が飾られていた。
ホーチミンには、すこし似合わない本人が使用していたというクラシックカーもある。
洒落たフランス風 ホーチミンの家 ホーチミンの家に隣接する大統領府
ホーチミンの執務室 ホーチミンのポートレイト
壁にマルクス・レーニンの写真と、奥に日本人形あり
<ホーチミン語録>
独立と自由ほど、尊いものはない!
奴隷として生きるより、生贄に殉じる方が良い!
大胆に前進しよう。勝利は必ずわれわれのものだ!
ホーチミン自筆語録
ホーチミンの家の外観や室内の一部の、色鮮やかな色彩には少し違和感を持った。
フランス植民地時代の洋館を使っているのであろう。 外装もそのままの黄色を引き続き使っているように
思えた。
なぜなら、ベトナム戦争当時、米軍はハノイをも空から爆撃しているから、<ホーチミンの家>の黄色い
建物は絶好のターゲットとなったと思われるからである。
<ホーチミン博物館 / BAO TANG HO CHI MINH>
博物館では、生い立ちから一連の革命運動、老後の生活までホー・チ・ミンの一生を知ることができる。
ホーチミン博物館 正面玄関
ベトナム戦争関係写真展示
ホーチミン葬儀関係写真展示
博物館をあとにすると出口で手荷物が返却されて、すべてのホーチミン霊廟見学を終えた。
帰りは、ハノイの街を散策し、ゲストハウスに戻った。
<ハノイの街角風景>
天秤棒に果物をのせ、売り歩く老女 建物の間を突き抜ける線路
午後は、ゲストハウスのあるハノイの典型的なダウンタウン<H Be St. / フンベ通り>をスケッチし、
過ごす。アイスクリームを味わいながらハノイの風を楽しみ、彩色にとりかかった。
土曜日なのであろうか、沢山のベトナム家族や、恋人たちが繰り出し、絵筆を動かすこちらに声をかけて
くれるのが嬉しい。
Sketched by Sanehisa Goto
いよいよベトナムを離れ、わたしにとって知識の乏しい、幻の国といっていい<ラオス>に向かう。
インドシナ半島の唯一つの内陸国で、1953年にフランスから独立してのち、内戦を繰り返し、1975年に
長く続いた内戦のため、多くの有為な人材が海外に流出し、人材不足から経済開発が遅れた。
農業国であるラオスは、これからの世界経済の工場としての可能性を秘めており、多くの国が開発に
取り組もうとしている。
まだまだ多くの謎を秘めた国として、この旅ではこの国の実態と、将来性を見ておくことにしたい。
<ハノイ/ HANOI ➡ ビエンチャン/ VIENTIAN> 21H
国際夜行バス 20US$ (180000D)
▲Guest House <Hanoi Spirit House> 8US$ 連泊
ラオス~タイ編
に続く
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