<ダッガ ➡ 路線バス乗継の旅 ➡ ラジャヒ>
<バングラデシュを旅する>
バングラデシュを旅する計画を立てたが、その情報量の少なさに驚いたものである。旅行者の少なさからか、国の成立ちに至るまでの凄惨な内戦や自然災害のイメージからか、私自身<星の巡礼>と呼んでいる旅シリーズのなか、バングラデシュ訪問を最後まで伸ばし続けたものである。
スリランカ(旧セイロン)をはじめ、インド、パキスタン、ネパールやチベット、ブータンを旅して、ベンガル地方の情報を集めていたので、2010年10月、ようやく腰を上げバングラデシュの旅に出かけてきた。
10月後半と言えば、日本は秋を迎え、旅に最適な季節であるが、バングラデシュは乾季の始まりで、昼間32℃~35℃、夜間でも24℃と暑い日が続いていた。服装は夏服それも半ズボンで充分であるが、イスラムの国であり、多くの寺院訪問を考え長ズボンとした。
バックパッカーとしての宿は、ユースホステルやゲストハウス又は格安ホテルと決めている。バングラデシュにおけるユースホステルは、各地にないので、どこででも見つけられる格安のゲストハウス(名前はHOTELと付けているが)とした。またこの旅では、声をかけられた素敵なファミリーに招待されて、民泊も経験した。
バングラデッシュでは、観光客が少いのか、いたる所で群衆に囲まれ歓迎された
《 悠久に 流るガンジス バングラに 匂いし土の 咲きし笑顔や 》
―ゆうきゅうに ながるガンジス ばんぐらに においしつちの さきしえがおやー
<地図・歴史から見るバングラデシュ>
バングラデシュは、西部及び北部をインドの西ベンガル州、北から西にかけてインドのアッサム・メガラ・ミゾラム各州に囲まれ、南東の一部をミヤンマーと接している。
まずは、バングラデシュの成立ちを見ておきたい。
バングラデシュは、ビルマ(現ミヤンマー)・パキスタン・インドを含む「イギリス領インド帝国」の一部であった。まず1931年にビルマが独立、第二次大戦後の1947年イギリスによるインド支配が終わり、インドを挟んで東西に存在したイスラム地域は西パキスタン(現パキスタン)と東パキスタン(現バングラデシュ)とし、それをもって一つのパキスタンとして独立した。
しかし、1952年、東西パキスタンの距離的分離は、豊かさの違い、言語の違いや、西の東への政治的支配を嫌ってパキスタン中央政府に対する東パキスタンの抗議運動が始まり、バングラデシュの独立運動の機運が高まった。
1971年インドからの支持を得た東パキスタンは、4月10日「バングラデシュ人民共和国」を宣言、大虐殺という悲劇を経験したあと、数度の印パ戦争のあと、ようやく独立を果たした。
わたしが旅した2010年のバングラデシュは、独立後の暗殺、軍人によるクーデターの繰り返しも終わり、民主的なアワミ連盟による安定期に入っていた。
当時、地球の歩き方・バングラデシュ編は発行されていなかったか入手不可能だったと記憶しているが、みずから情報を集め廻った懐かしい記憶が残っている。
バングラデッシの位置 (Kariya Nichigeki提供)
<バングラデシュという国の形>
バングラデシュの面積は約14.4万平方kmで、日本(37.8㎞)の方が2.6倍大きい。日本の本州より少し小さな面積に人口1億6000万人が住み、人口密度1252人/㎢も世界最高である。
旅は、人をかき分け、人にもまれ、人のぬくもりの中を旅することになる。
今回のバングラデシュの旅も、インドやパキスタンと同じく、人の汗の匂いを感じ、人と群れて移動する旅となった。
国土は、川の国といわれるようにポッダ川(ガンジス川)・ジョムナ川・メグナ川による三角州の上に成り立った豊かな穀倉地帯である。
この旅でも、ロケット・スチーマという客船に乗り、ポッダ川(ガンジス川)支流を下りながらその豊かな緑地帯を実感することが出来た。
森林地帯は約30%と極度に狭く、平地の平均標高が7m以下で将来地球温暖化により国土の最大約40%が沈下するといわれている。同じ温暖化でも、ヒマラヤの氷河が溶けて、多くの土を川がベンガル湾に運び、新しい島々が生まれているというから皮肉である。
ガンジス川・プラフマトラ川 デルタ(バングラデシュ)の衛星写真 (wikipedia)
<バングラデシュの国旗>
親日国で知られるバングラデシュの国旗は、日本の日の丸とよく似ている。日本の国旗は白地に赤丸だが、バングラデシュの国旗は豊かな農地をあらわす緑地(イスラムの教え)に赤丸(昇りゆく太陽)である。赤丸が全体の少し左(竿)寄りであるのが日の丸との相違点である。
バングラデシュ国旗 日本国旗
旅全体の様子を知るために<ルート地図>と<スケジュール/ルート表>とを先にあげておく。
<バングラデシュの旅 ルート地図>
バングラデシュの旅 ルート地図
<バングラデシュの旅 スケジュール/ルート表>
■10月11~12日 大阪-バンコックーダッカ
ダッカ国際空港/HAZRAT SHAHJALAL INTERNATIONAL AIRPORT ADHAKA
ダッカ空港を一歩外に出ると、豊かな時間の中に英国植民時代の風情が残る世界に迷い込んでいる自分を見つけることになった。
バングラデシュの国旗の色である緑と赤のツートンの二階建てバスが人とリキシャをかき分けて進む中、イスラムの白いキャップを頭にのせ、白いシャツに巻きスカートの男がスリッパ姿で歩いている。
ヒジャブにヒンズーのサリーを身にまとい、赤子を腕に抱いて急いでいるご婦人がいる。
大阪の関西国際空港を出てわずか15時間で、イスラムの世界に入り込んでいるのだから、これまた横時間のタイムスリップと言ってもいいのだろう。
ダッカ国際空港前の光景
これからの約15日間、世界で一番人のよいといわれるイスラムの国バングラデシュに迷い込んでみたいと思う。
格安バックパッカーとしてのわたしの旅スタイルは、その国の空港に着いたら、その地、例えばダッガをまず観光して回るのではなく、その旅で一番遠方の観光地にまず向かい、スケジュールを調整しながら出国地であるダッガにもどるというスタイルを続けている。
その理由は、外国の地では先進国を除いて、クーデターや、災害、事故、逮捕、尋問、スパイ容疑、バス・船・飛行機等の遅延・出発取り消し等、何が起こるかわからないのが実情であるからである。そのためにも旅の最終地すなわちスタート地点で日程調整するのが一番安心安全だからである。
今回のバングラデッシュの旅でも、ダッカ観光は最終日程に回し、まずはこの旅で一番遠方である世界遺産<カントノゴル/KANTANAGAR>のあるディナジプール/DINAJIPURに向かうことにした。
ダッカ空港に到着した日に、次なる目的地ディナジプールへの切符を予約するため列車空港駅からダッカ中央駅へ向かうため、空港を出て警官に道を尋ねながら、歩道橋を渡って空港駅である<ピーマンボンドール駅>に行ってみた。
駅舎はもちろん駅周辺は人々で埋め尽くされ、身動きがとれない状態である。駅舎の窓口には延々と人が並び、何時になったら切符が買えるのかわからない状態でもある。
構内の列車を見ると、英国植民地時代の廃車同然の汚れ切った車体に人々がぶら下がり、屋根も荷物と人で鈴なり、その人々をかき分けて陣取りする気力が失せてしまい、列車での移動を断念することにした。
混雑する列車の旅
駅の写真だけでもとカメラを取りだしたら、駅舎の方から警戒中の武装した軍人がこちらをにらんでいる。アーリア系現住民の中にいる異質で典型的なモンゴリアンに注意が集まり、警戒されているからである。こそっと写真をとり、急ぎその場を離れた。
空港に戻り、三輪オート・リキシャで、バスチケットを予約購入するためモハカリ・バスステーションへ向かうことにした。
ここでもまた、異国の地での第一歩でよくあるトラブルが待ち受けていた。オート・リキシャに乗る前の値段交渉で提示した25TKでOKしておきながら、到着地では250TKというのだから大いにもめたのである。周囲には野次馬が集まり、ケチな東洋人に怒りをぶつけているようである。
運ちゃんも困り果てて、50TK割り引くという。
こちらも200TKが、ここ大都市ダッカでの妥当な物価水準であり、25TKは情報収集時の正確な物価でないことに納得したわけである。
群衆はよっぽどケチな東洋人であると憤っていたのであろうか、ポリスを呼べと言い出したほどである。こちらも運ちゃんと手打ちして早々と現場から脱出することにした。
出発前の情報と、現地の物価の相違、それも大変なインフレに見舞われていることを肌で感じたものである。
すべての物価は、調査資料より5~6倍高騰しているようである。
バックパッカーとしては、大変な予算の変更を余儀なくさせられそうである。
<天然ガスによる三輪オートリキシャ>
リキシャは、バングラデシュを代表する庶民の乗り物である。この旅でも、ことあるごとにリキシャを利用してバングラデシュの生活に密着した。
バングラデシュには、人力・電気・ガソリンそれにダッカで多く走っている天然ガスの4種類ものリキシャがある。電気供給の不足するダッカでは停電の恐れと、二酸化炭素を抑えるため、自国産出の天然ガスによるリキシャが奨励されているようである。
何といっても日本の懐かしい人力車(ジンリキシャ)というノスタルジー、哀愁に満ちた呼び方がバングラデシュに残っているのがいい。
バングラデシュでお世話になる三輪オート・リキシャ
<機中で知り合ったバングラデッシュの青年>
ダッカに向かっている飛行機の隣席にシンガポールでの出稼ぎを終えて帰国するバングラデシュの青年がいた。名をクシュナであると自己紹介した。
港湾での沖仲仕の出稼ぎはとても過酷な仕事であるが、家族への仕送りが出来て満足しているといい、体を壊したので帰国するのだという。
出来たら日本での仕事をしてみたいので何かサジェスションを欲しいとのこと。バングラではなかなか仕事に着くのがむつかしいと訴えていた。
将来、日本が海外の生産拠点としてバングラデシュを考慮する日も近いと思われることを伝えておいた。
モハデカ・バスステーションに待つ天然ガス三輪オートリキシャ
防犯用鉄柵で囲まれた三輪オート・リキシャの運転席
<現地通貨と物価を知るための最初のトラブル>
はじめてその国に入って、物価を知ることは大切なことである。時には事前に調べてきた為替レートや物価水準が異なる場合がある。
バングラデシュ入国にあたって、関空での両替が困難だったため、米ドルと日本円を携行したが、可能な限りクレジットカードによるATMでの現地通貨TK(タカ)の引き出しに頼ることにしていた。
ダッカ国際空港の出国ロビーにある両替窓口で当面の小口現金として200US$ X@67で現地通貨13400TK(タカ)に両替した。
次にATMで、クレジットカードによる現金化ができるかをも試みてみた。現地通貨15000TK引出しも問題ないことを確認した。
バングラデシュの旅は、現地通貨28400TK、約424US$=約36920円(1US$=89円 / 1TK=約1.3円 2010年10月現在)でスタートすることになった。
出国時の再両替(現地通貨TK➡日本円又は米ドル)には、両替所発行の両替精算書(レシート)が必要になるので保管しておく必要がある。また、ATMで引出した現地通貨TKは原則として再両替は出来ないので注意する必要がある。ただ闇両替商により30%の手数料で両替することができたのでお伝えしておく。
<両替>
両替は、ATMで現地通貨を引き出すのが一般的であり、確実である。もちろん銀行の窓口や両替商でトラベラーズ・チェックやUS$/日本円での両替も一つの方法である。
わたしは、<DUTCH-BANGLA BANK>のATMをよく使わせてもらった。ATMでは、Cash Cardはもちろん、VISA/MASTERCARDが利用できた。
DUTCH-Bangla Bank Ltd. ATM BOOTH
空港からダッカ中心部に行くには、電車の空港駅<ピーマンボンドウール駅>から乗車してダッカ中央駅<コムラプール駅>で下車するのが一番便利である。
しかし、先にも述べた常時大混雑するバングラデシュの列車旅行は諦めて、バス旅行に切り替えることにした。
バスの予約チケットを購入するためバングラデッシュで最も便利な乗り物である三輪オート・リキシャに乗ってバスステーションに向かった。
<🚐 長距離バス予約 ダッガ/Dhaka➡ディナジプール/Dinajpur 300TK>
最初の夜は、疲れをとるためエアコン付きの、ダッカのダウンタウンにあるホテル・デ・メリディアン/HOTEL DE MRIDIANに宿をとることにした。
鉄格子の物々しい構えに反して、部屋はこざっぱりした清潔な部屋で安心したものである。しかし、その安心感もつかの間、パチッと鈍い音とともに電気が消えた。
バングラデシュでは日常的なものなのであろうか、どこの部屋からも慌てる様子もなくただただ静寂が流れる。
こちらもアフリカや南米の田舎で鍛えられた身、落ち着いてヘッドランプを取りだし、就寝の準備にとりかかる。
その就寝前にやることがある。まず鍵が正常に機能するか、もしもの時の避難路としての窓の位置と、その高さや、隣からの浸入は大丈夫かである。
つぎに、万一の侵入者に対してどのように対処し、貴重品はどこに隠しておくべきか。また侵入者に対してどう立ち向かうか。
まずは、部屋全体の見取り図を頭に叩き込み、持参している登山用スティック(兼防護用)を身近に置き、就寝の準備が整うのである。
この部屋は清潔で問題はないが、たいていの格安ホテルは、名ばかりで部屋の汚さは目を覆うところがほとんどである。
まずは、ノミや虱(しらみ)、ダニの浸入を防ぐ化繊系の滑らかな封筒型シートを敷いて、その中に潜り込むのである。蚊がいる所では上半身用のカヤ又はメッシュ帽を被って寝ることになる。そのほか蚊取り線香を焚くこともある。
格安バックパッカーにとっては睡眠こそが、健康維持の第一条件だからである。
ただ、もし旅行会社催行のツアーであれば、問題にもならない懸案であるから心にとめないでいただきたい。
バングラデッシにも立派な高級ホテルや部屋が沢山あるからである。
しかし、電気が点いてもクーラー、TV, シャワーの回復はなく、汗臭い体は湿らせたタオルで拭き、体をベットに横たえることにした。どうも出力の低い自家発電機による電気回復であるらしい。
デジカメのバッテリ充電は、可能なようで助かる。
関西国際空港からバンコックを経由し、ここダッカへは約15時間のフライト、体は疲れ切っていたのであろうか、ベットに深く沈みこんで朝まで熟睡したものである。
<格安ホテルに泊まる心得>
ユースホステルやYMCA, ゲストハウス、格安ホテル、民宿に泊まるのは、旅の予算内で可能な限りその地に長く滞在し、その地の自然や歴史、現地の生活、人に触れたいと思うからである。
そのためには、その心づもりと、情報収集と、いかなる困難な情況・場所でも生活し、眠ることが出来る体力と技能を身に付けておかなくてはならないと思っている。
長年続けてきた山登り、サイクリングでの野宿や、ツエルトによる野外での寝泊まりの経験が旅にも活かされることになる。
いかにシンプルな旅をするかは、贅沢を切り捨て、現地の生活に溶け込めるかで決まると思っている。
<バックパッカーのサバイバル術>
文明文化から遠く離れた地域、いやより人間的に生活している地域を旅するときに守っている幾つかのサバイバル術がある。今回ももちろん携行した。
・車や古いエアコンや扇風機の騒音に対する耳栓の携行
・停電に対しヘッドランプ等、明かりの確保
・タオル・石鹸・シャンプー・歯磨きセット等の持参
・蚊取線香やダニ・虫刺され軟膏、防虫ネットの準備
・大樹から落下する毛虫対策(腫れ・痒み止め軟膏)
・バングラデッシュの旅では、ゴキブリに出会わなかった
・イスラムやヒンズーの国での食事は指食が多いので、マイ箸・フォークの持参
・防菌・消毒ティッシュ、殺菌軟膏の必携
・砂埃対策としてマスクかバンダナの準備
・現地では、可能な限りミネラルウオーターを購入して、飲むこと
・下痢止め薬(錠剤ストッパー)、常備薬、栄養剤の持参
・パスポート・現金盗難対策としてパスポートのコピーや写真を持参、貴重品の分散
・盗難防止・室内浸入防止チエーン錠又は南京錠の持参
・磁石、地図を含む現地情報(宿泊・病院・大使館ほか緊急)ノート、筆記用具
・防護用ステッキ(登山用ストック)による夜間防衛・自主的防禦
・見せ金(20又は50US$紙幣)を脅迫・強盗遭遇・強要に備えてポッケットに別途用意
・カメラ紛失・盗難に備え予備(超軽量カメラ)の持参、予備SDカードへのコピー習慣
・暑さ対策として扇子・サングラス・日除けとしてつば広帽も役立つ
・国籍を曖昧にすることも重要(日本人は金持ちというイメージから狙われやすい)
・緊急修繕用小物(銅線・ガムテープ・裁縫セット)
・ほか
<バングラデシュの格安ホテル事情>
学生時代、ユースホステル・クラブを立ち上げた関係上、世界各地に散らばるユースホステルを愛用してきた。ユースホステルの無い地域では、YMCA, ゲストハウス、格安ホテルの順に宿泊先を決めている。もちろん未開の土地では、一軒家に一夜の宿泊をお願いしたり、軒下や納屋を借りることもあった。荒野や砂漠、川下りではもちろん野宿するしかなかった。
今回は、ユースホステルの無い地域であり、格安ホテル・YMCA・民泊となった。
- <HOTEL MERIDIAN > Dhaka, Abdullahpur バスセンター前 1100TK
House No.11, Road No.12, Sector No.6, Uttara, Dhakka
HOTEL DE MERIDIAN ダッガ
< HOTEL DE MERIDIAN>Receipt <HOTEL DE MERIDIAN> Single Room
■10月13日 2日目 <ダッカ>
6時30分起床。シャワー・洗顔・歯磨きにあたっては生水が、口や鼻・目に入らないように注意する。
タオルを生水で濡らした時は、雑菌の付着を防ぐために必ず乾かすことに心がけた。また果物も皮をむき食べられるもの<リンゴ・バナナ・オレンジなど皮付きのもの>に限定した。 海外では急性の細菌性胃腸炎を防止し、細菌やウイルスの体内浸入を防ぐことが旅成功の秘訣であるからである。
生水で洗った野菜サラダは胃腸の大敵である。しかし、野菜不足は便秘のもとになりやすい。便秘も又下痢と同じく健康管理上旅先では注意が必要である。生野菜の代わりに干しブドウや乾燥野菜又は皮付き果物を食したい。
ダッカの暑さや、騒音のため寝不足である。
旅行前に読んだ体験談のように、イライラする街であることは確かである。しかし、ことごとく人間の根源的な生きる力がみなぎっているようで新鮮なエネルギーを感じる。
食事は街角の中華風屋台と決めていたが、スモッグ(排ガスとホコリ)やゴミの山をみて、中華料理店に飛び込むことにした。
コーンスープ・野菜あんかけ・フライドチキン・焼き飯を見た時、ここがバングラデッシュであることを忘れたほどである。世界中、どのような田舎でも出会える中華料理店は、旅において健康を保証し、困難に打ち勝つ勇気と希望を与えてくれるものである。
長距離バス用の果物とミネラルウオ-ターを買込む The Daily Starで天気やニュースをチェック
<格安ホテルの部屋は蒸し風呂>
バングラデッシュの電気事情は決して良いとは言えない。覚悟してはいたが、バングラデシュ滞在中、毎晩と言っていいほど3~4時間の停電に見舞われることとなった。
窓一つない部屋には、湿った下水の匂いが上がってきて息苦しい。
その間、エアコン・天井扇などすべての電気が止まるのであり、部屋はサウナ・蒸し風呂そのものになる。大汗をかき、寝るどころではない。
その対策として、濡れタオルを用意し、扇子であおぎ、ひらけた戸からの蚊の浸入を防ぐため蚊取線香を焚くことになる。
ホテルの電気スイッチにも気を付ける必要がある。スイッチそのものが古く、英国植民地時代の前時代的なものを今も使っており、スイッチの止めネジに電気が流れていて感電することもあるので注意が必要である。
ベッドには、南京虫の潜んでいそうな毛布が1枚である。さっそく、持参したポリエステル系の封筒型シーツに潜り込むのだがこれまた暑い。結局半裸になり、シーツの上に体を横たえるが、翌朝南京虫やダニに噛まれていてびっくりすることになる。
部屋に供えられていたミネラルウオータ2本も調べてみたが、やはり2本とも蓋を開けた跡があり、そのうちの1本は水が減っていた。もちろん手は付けず、買い込んだ1.5Lボトル(20TK)を開けて使った。コップも持参したステンレス・カップを使用した。
細菌性下痢になったら旅は悲劇である。いつも細菌浸入防止には細心の注意を払うべきである。
ただこのホテルではゴキブリを見かけることはなかった。
また防犯上、玄関扉には鉄格子がはめられ、外部からの浸入を防いでおり、出入りもガードマンがカギを開け閉めしている。それだけ治安は良くないということであろう。
この旅、バングラデシュでは、自分で自分を守る必要がありそうである。
バックパッカーとしては興味ある国だが、難度の高い国として、すべてに注意を払いながら行動したい。
歩行者陸橋よりみるダッカの通勤通学前の交差点
リキシャが行き交うダッガの朝風景
<食事は粗食だが、痩せない理由>
バングラデッシュは湿度が加わる蒸し暑い国である。少しでも歩いたら汗が噴き出てくる。どうしても歩くのが億劫になり、1KMなら5TK、約3円と、街中に溢れるリキシャに飛び乗ることになる。
結果として歩くことが少なくなり、粗食でもカロリーオーバーとなり、太り気味になってしまうのである。
一方、食べ物を買って帰る際、子供たちや老人たちの手が伸びて、恵んでくれと買い物袋に手が伸びてくることが多い。貧しい人々が、ここダッガには沢山いるのである。
賞味期限が過ぎたら投廃棄される大量の食べ物がでる国<無駄の多い国・日本>からやって来たと思うだけで自責の念に駆られる。
バングラデシュの貧困率は、年々改善しているということだが5人に一人はいまなお貧困状態の中にあるという。
歩道は露店で賑わう
東南アジアでよく見られる複雑な電気電話の混在線
鶏も路上で売られている バス待ちの人達
<バングラデシュの人々は親切であり、人懐っこい>
街を歩いたり、駅やバス停にいるとよく現地の人に話しかけられることがある。
英語で話しかけてくる人は、たいてい教養のある人たちで、こころからこの国で困ったことはないかと身を案じて話しかけて来る人たちである。
東洋系に興味があり、英語や現地語で話しかけてくる人たちは、これまた親切心があり、何かを尋ねたら応じてくれる人たちである。この中には、周囲に自分の英語力を誇る人もいるし、家族や知人に紹介したいタイプの人も含まれる。
全く英語が出来なくても、異国の旅人に憧れる青少年や若者たちもおおい。
彼らとは、ただ目が合っただけで、すでにコミュニケーションが成立ち、言葉を交わさなくても友人としての心が通いあうものである。
最後に、初めから利害を求めて接してくる人たちがいる。商売として、カモとして、騙すために近づく世界で一番世俗的な笑顔と甘い言葉でフレンドリーを装う人たちである。
この部類では押し付けガイドが含まれる。断れば、最期まで付き纏ってくるから質が悪い。
これよりしつっこいのは、一応親切に付き合っておきながら、最後にこれだけ親切にしたのだからヘルプしてくれと、例えば自分を日本に呼んでくれとか、日本の企業に紹介してくれとか、叶わないなら当面の生活をヘルプして欲しいとか、金銭を要求する輩も少なくはない。
現地のごくわずかな人々ではあるが、日本ははるかに豊かな国なのだから自分たちを助けてくれてもいいではないか、という甘えの人達も見られる。今後、日本の製造業が労働力を求めて現地生産のためバングラデッシュに進出することになる日が近いと思われるが、現地の労働事情や労働者の質を日本の各企業は、研究しておく必要があろう。
バングラデッシュの旅では、貧困の中の親切という心の物差しで見てみる方法もありそうである。
以上で見たように、どこまで対価を求めた要求なのか、親切なのかを見分ける必要があるが、事件に巻込まれないためにも、現地事情が分からない間は深入りしないことであろう。
相手から申し出があった場合は、一応断ることである。同情や安易な深入りから申し出を断るためには、大変な努力が伴うことを覚悟しておきたい。
以上は、現地の生活に密接にかかわりながら旅を続けるバックパッカーとしての姿勢で見てきたが、今後、普及するであろうツアー旅行では、かかる心配はないと言っていい。
以下も、格安冒険旅行で必要な視点でものを見ていくことになる。この旅は、現地溶け込みの密着旅行であることをご理解いただきながら、バングラデシュの旅を楽しんでいただきたい。
<バスに正しく確実に乗る方法>
リキシャに乗り、バスターミナルを指示するとともに、行き先のバスに乗ることを伝えておくと、ほとんどのリキシャは、その行き先バスのチケット・カウンター又はバス停まで連れて行ってくれる。
バスターミナルといっても、大きい所ではターミナルの外側にあり、行き先によってバス会社は自分の駐車スペースを持っているので注意が必要である。
ターミナルによっては、内と外の二か所ある場合が多く、外の場合は予約チケットで座席が指定され、動き出したら満員になるまで誰でも乗せる場合がおおい。発車間もなくは大混雑となる。
さらに、バスは先を急ぎ、渋滞のなか、クラクションを鳴らし続けるから、大変な騒音である。
さらに夜、停電ともなると、街中の自家発電機が一斉にうなりを上げ、喧騒は一段と高鳴り、バスの中でも耳栓の出番となる。
今回のバングラデシュの旅は中古HINOバスで ラッシュ時のバスの屋根に乗る人々
<街角の屋台での食事と、注意すべき事>
バングラデシュでお腹がすいたら、街角にある軽食屋台に飛び込めばよい。ミルクティーと揚げ物で充分腹を満たすことが出来る。スナックやバナナなどの果物も手に入るとともに、食事として付けカレーにライス又はナンといった軽食を頼むことも出来る。
ただ、備え付けの生水は避け、ミネラルウオーターか7Upなどソフトドリンクにすることをおすすめする。また、生野菜のサラダや剥いた果物は避け、バナナやリンゴ・ミカンなど皮付きのものに限ることを心することである。
細菌性急性胃腸炎を避けるためであるが、食事前の除菌用ティッシュでの手指の消毒はもちろんだが、もし携帯しているなら自前の箸やスプーンを使うことである。胃腸に異変を感じたら即、細菌性下痢止め<ストッパー>などを服用することが旅成功の秘訣である。
旅行中の渋り腹は苦痛と共に、トイレ探しが大変である。ましてや長距離バスで、大揺れでの走行しているときの腹痛は想像を絶するものである。
備え付けの生水には絶対手を出さないこと
揚げ物、焼き物は雑菌を殺してくれるのでお勧め 標準的朝食35TK<ナン2枚/オムレツ/ミルクティー>
ダッカの露天商風景
ダッカの露天商風景
<バス旅行>
バスに揺られていると、人口に対する食料事情の緩和のため養殖池や溜池が多く目につく。車窓から、日本の水田風景を見ているようで懐かしい。そこでは食用のエビや淡水魚が養殖される一方、住民の沐浴の場として利用され、アヒルやガチョウがのんびりとあくびをしている。
また、この溜池は灌漑用水にも利用され、大雨の際には排水・貯水池として重宝されているようである。
バングラデッシュの旅では、どこに行ってもこの緑色に濁った溜池が風物詩として見られる。
長距離や路線バスに乗ってわかったが、大抵外国人旅行客は私だけである。多分、外国からの旅行客のほとんどは、旅行会社催行のツアーで専用バスか、飛行機で移動しているのであろう。
バックパッカーさえも見当たらない。多分、バックパッカーにもいまだ未開拓の国と言っていいのではないだろうか。いや、立派なエアコン付きのリクライニングシート付の高級直行バスが走っているということを耳にしているので、多くのバックパッカーも利用しているのかもしれない。
ほとんどすべての標示・標識がベンガル語で書かれており、英語表記が少なく途方に暮れることが多いことは確かである。しかし、どのような場面でも、イギリスの植民地であっただけに英語を話せるインテリがいることも確かであり、助けられることが多かった。
溜池・養殖池が全国的にみられる
<バングラデシュの観光事情と旅行者>
バングラデッシュは、まだまだ未知の国なのであろう。
今回、バングラデッシュを旅していて世界遺産やそのほかの観光地でさえ、不思議なほど多くの観光客やバックパッカーに出会わないことである。たまたま私が出会っていないのであろうか。
バスに乗っていても、物売りや押し売りが少なく、インド・ネパール・パキスタン・ビルマなどで味わった停車ごとの物売り攻勢には出会わなかったからこれまた不思議である。
まだまだ観光地として整備されていないのが実情かもしれない。観光地や世界遺産も赤色レンガが積まれた遺跡やモスク、聖者廟がおおく、観光資源への改良や工夫が必要なのかもしれない。
それ以上に観光客に理解されるムスリムの世界を演出する必要がありそうである。
特に、白人観光客にバングラデッシュを知ってもらい、誘致するためにはまだまだ時間がかかりそうである。国そのものが観光事業に手を染めるだけの豊かさがまだないのかもしれない。
バックパッカーにしては、未開の夢の国であるはずだが、そのバックパッカーですら出会わないのであるから、バングラデッシュはこれからの国と言っていい。
このような静かな隠れた国があったのには驚かされた。
政情不安、テロといった不安定要素がまだ残っているのであろうか。しかし人々の温和さからくる笑顔や、親しみからくる純粋さの残る人々に出会えるだけでも幸せである。
しかし、街角にザルと鍬(クワ)をおき、日雇い労働の仕事を待つ人々は、その朝の声掛けに神妙である。
かかる未開の国をいち早く紹介してきたのが、バックパッカーのバイブルとして親しまれている<地球の歩き方>シリーズである。
しかし私が旅行した2010年時点では、<地球の歩き方 バングラデッシュ版>は、いまだ発行出版されておらず、バングラデッシュの事情は、先輩バックパッカーのブログによるところが多かった。
帰国してから<地球の歩き方2010年版バングラデッシュ>が発刊されたと聞く。
それだけ未開の国であり、情報の少ない国であり、バックパッカーにとって憧れの国でもあったと云える。
街角で待つ日雇い人夫の鍬とザル 1回15TKの体重測りは子供の仕事
<食事時の注意すべき左右の手・指の使い方>
ムスリムの国では、用を足した後、左手の指で後始末をするのでこの手指は不浄とされている。
口にするもの、食事はフォーク・ナイフ・スプーンを使わず、右手の指で食事する。
郷に入ったら郷に従えと、左手を使わず、右手だけでナンをちぎってみたことがある。それに右手指だけで食事をしてみたとき、その難しさに最初はねを上げたものである。
ムスリム国バングラデッシュに来るまでに、随分とムスリムのマナーを学んできたつもりだが、現地の人たちとの会食以外では、いまだナイフ・フォーク又は持参の箸を使っている始末である。
その最大の理由は、わが弱点である細菌性胃腸炎を予防するためである。
インドカレーにはナンがついてくるが、バングラデシュでは<チャパティ>がついてくる。
街角の風物詩である丸い鉄板には、ランニングシャツのお兄さんによっていつもチャパティが焼かれている。
円錐形の鉄板に油をひき、メリケン粉をこねて丸めてのせ、ヘラで押さえて丸く伸ばして、天然ガスの火力で焼き上げるのでる。
バングラデシュ滞在中、よく食べた<チャパティとオムレツ>を紹介しておく。
オムレツは、卵1個にカラシ・玉ねぎ・エンドウ豆を投げ込み、かき混ぜてチャパティを焼いた後の丸鍋に放り込んで、強火でさっとかき混ぜて仕上げる。
チャパティ2枚に砂糖入りミルクティーを付けてセットメニュー、35~45TK(約60円)である。
オムレツは、少し油っぽいが、塩を少々ふるとさらにおいしく食べられる。
屋台の前の溝を清掃する少年が、笑顔を見せてくれた。ゴミ箱をひっくり返したように汚れた道路の、水たまりに溜まった汚物を処分している様である。鼻につくヘドロのような匂いは、屋台の客に不愉快な気分を与えるようで、店主が少年を雇って掃除をさせているようである。
店主の心遣いが嬉しい。
掃除に使命感を持った少年も、少額のチップをもらって美しい笑顔を返してくれる。
軽食屋の厨房 軽食屋内外の清掃ボーイ
<街角の有料トイレ>
日本や先進国ではほとんど見られないが、世界の貧しい多くの町や村では、個人営業の有料トイレが街角や個人宅に設けられている。日本でいう一種の公衆トイレと考えていい。いざという場合には便利であり、よく利用させてもらった。
案外、きれいに清掃管理され、ほとんどが水洗である。受付の少年たちの笑顔が素晴らしく、気持ちよく利用できた。ただ手洗いの水は、細菌感染に注意である。多くのところでは、ティッシュまたはトイレットペーパーを用意していないので注意が必要である。 大小で値段が違うようで、5~10TK+チップ5TK。
街角にある有料トイレ(5~15TK)
<ダッガ 朝の散策>
時間と共に街には生活の匂いが鼻につきだす。
気温の上昇と共に、魚や肉、残飯の腐った匂いが満ちてくる。どうもバングラデシュの人々の食生活に、匂いの元があるのかもしれない。街角で見られる魚をさばいたあとの内臓を放置、蝿が真っ黒にたかっていたりする。
流れの止まった下水や溝にも、油が黒く光る液体が動くことなく停滞し、臭いの元を作っているようである。
インフラの遅れにもよるが、生活の排水が後を絶たず流れ出し、臭いの根源になっているというのが実情である。
しかし、風が吹き臭いを一掃すると、柑橘類の爽やかな匂いがときどき混じって流れてくる。そう、散策の歩きの中にも、新鮮な空気に触れることがある。人の住む街を少し離れると、川から吹き付ける湿った新鮮な空気に触れることが出来るのである。
売られるガチョウが悲痛な叫びをあげ、バスに群がる人たちの叫び、鳴りやまないクラクション。ダッガの匂いも、騒音も生きる力の強さをあらわしているといえる。
国の成長過程で見られる生活の風景に触れ、バングラデシュの若さを見たような気がする。
空にはスモッグもなく、清く澄み渡っている。太陽はいつものように万物に恵みの光を与えている。
素晴らしい世界の片隅、ここバングラデシュのダッカでも、イスラムの神を称えるコーランが今朝も響き渡っている。
バングラデシュの人々は、今日も変わることのない営みを始めたようである。
今朝もすでに気温が30度以上のようで、汗が背中を流れだした。 この暑さに騒音と人の群れが動き出したから大変である。木陰から一歩を踏み出せず、ただただ人の営みを眺めることになった。
日本という清潔なところから、人口密度の濃いバングラデシュ、その中でも人が密集しているダッカに来て、人間本来の汚れや、本能に生きる土地に立ってみて、人間の潜在的な根源、生きる強さに触れたような気持ちになった。
本能に生きるとは、秩序があってはならないし、清潔であってはならないし、押さえて生きてはならないのだ。ただただ無秩序に生きてみることである。
しかし、おのれを抑える生活則からなかなか逃げ出せずに、バングラデシュという生活習慣に溶け込んでみることにした。
<列車旅行をあきらめ、バス旅行に切り替える>
現地の駅に行ってみて、列車の行き先・時刻表・値段の標示がすべて難解なベンガル表記で、理解するのに時間がかかることと、間違いを防ぐためにバス旅行に切り替えることにした。
バスも又、ローマ字表記がないので大変だが、アラビックの行き先地名とバスナンバーである数字を覚えるだけで済むという便利さもある。チケット購入にあたっては、印刷した購入メモ<行先・乗車日時・人数・片道/往復>を準備した。
US$(米ドル)にも、ほかの中東の国での反応の高さに比べたら関心が低い。今後はUS$を現地貨幣TKに両替しておく必要がある。
一方、ATMで使えるCASH CARD INTERNATIONALや VISA CARDが便利なのは、その日の為替レートで現地通貨が出てくることである。
<🚐 長距離バス移動 ダッカ/DHAKA ➡ ディナジプール/DIHAJPUR>
2010/10/13 Ticket Fee 300TK 10:30AM Dept.
乗車時間 約7時間 (約350KM)
空港より北3㎞ほど行ったNATTAという街の道路沿い、進行方向にむかって左側にバスチケット・カウンターが並んでいる。ここでディナジプール行バスチケットを購入し、乗車する。
始発のここ<アブデュラプール/ABDULLAHPUR バスチケット・カウンター>の前から、ディナジプール行の午前・午後2本の便が出ている。
始発のダッカからの乗客は12名であったが、市内を通り抜ける間に座席は埋まり満席となった。隣席は同じディナジプールに帰る家族4名、老夫婦に嫁とその1歳の男の子である。
やっとバスは郊外に出た。川の国は風が涼しく、爽やかである。
外国人、いやモンゴル系はわたし一人。ほとんどの人が冷たく観察する中で、柔和な笑いを浮かべた一人の老紳士が英語でどちらへ行くかと聞いてきた。この一言に知らずに身構えていたこころの不安がスーと消えていった。
ハニフ/HANIF エンタープライズ社の長距離バス と 車内
ハニフ/HANIF・シンボル・マーク <ダッカ/DHAKA ➡ ディナジプール/DIHAJPUR>予約チケット
<バス車窓からバングラデシュの情景を眺める>
人が溢れ、騒音を生み、汚れゆく街角には人間の図太い営みが満ちている。
ダッガ、この街の止まらない喧騒の中にいると一種の興奮をさえ覚える。
土ボコリで街路樹も家屋も、人までもが変色しているように見える。すべてが埃をかぶって土色のなかに埋没しているのである。
バスの中でさえ、窓からの土埃には耐えきれずバンダナを顔に巻き付けることになった。
バングラデシュ街角の風物詩 リキシャ
庶民の足 リキシャ
街や村にはどこでも人が溢れている
土埃対策 バスでは土ぼこりを防ぐためバンダナを巻く
ご婦人の色鮮やかなヒマール(イスラム婦人の衣装)やサリーは、蓮の花のように混とんとした池の中に咲く天女の服のように鮮やかに映える。
自転車とリキシャと三輪オートリキシャは、この国の庶民の足である。時にはサイケティックな、オールドファッションな、芸術性を持ったリキシャが、その魅力を競っている姿に魅せられることがある。
東南アジア一帯で走っている三輪オートタクシー<デンプー>
スケッチ <サイケティックなリキシャ>
この時期(10月)のバス旅行(アドベンチャー)は、暑さとの戦いである。
出発から2時間程たったが、いまなお群衆とリキシャを避けながらノロノロと走り続けているバスは、ダッカ近郊からいまだ脱出出来ていない。
この大変な交通事情では、経済もマヒしてしまうと考えてしまうが、人々はいたってのんびりとその日暮らしを楽しんでいるようである。
バングラデシュには、この国独自の時間と秩序がガンジス川の流れのように、滔々と流れているようにも見える。
人びとの顔にもまた、この悠久の流れを人生の旅路の伴侶として受け入れ、幸せを享受しているように見受けられる。
熱い国バングラデッシュではサトウキビの爽やかな汁 や パイナップルの切身が喜ばれる
街中は人で溢れけりバスの通過は大変である
河の国バングラデシュには湿地帯やドブ溜りが多く不潔の元となっている
恐らく観光業者は、このような場所は避けて早朝・夜間に世界遺産の方へ観光客を案内するのであろう。バックパックカーでない限り、この国の素顔に接することは中々ないといっていい。
現実に接し、この国の抱える問題点に向き合ったうえで、将来、多くの日本の企業がこの国の繁栄のために、またバングラデッシュの人々の幸せのために貢献、寄与してもらえればと願うものである。
一杯飯を売ることで生計を立てるご婦人も多い
ダッカを出て約3時間でジョムナ川に出て、川に架かるジョムナ橋を渡ってディナジプールに向かう。
ジョムナ川もガンジス川の支流であり、水上交通のメインルートのひとつとしてバングラデシュの経済を支えている。
ジョムナ川には小舟や、くい打ち小屋に住み、川の恵みを受ける水上生活者が多くみられる。
この地は、ガンジス川の織り成す豊かな三角州であり、海抜ゼロ地帯である。
これより田園風景がひらけ、国境にも近いのであろうか、かって、出会ったインドの風景が続く。それもそのはず、歴史的・地政学的にみて、今から75年程前まで現在のパキスタン・インド・バングラデシュ・セイロン・ビルマを含めた地は、<英国領インド帝国>という一大植民地であった。
ダッガより約3時間走り、ジョムナ川に架かるジョムナ橋を渡る
ジョムナ川流域に見られる耕作地
ジョムナ川は大河である
スケッチ < Rice Fields> Dhaka➡Dinajpur 10/13 03:20pm
意外と知られていないが、バングラデシュのコメの消費量は、世界でも有数である。日本米と異なり長粒米であるインディガ種である。バングラデシュ滞在中に、カレーとパラパラのライスを幾度も食べることとなった。手指でも食べてみたが、以外とパラパラ米だからこそ手指になじむのだということが分かった。
途中、モーターインに立寄り、バニラアイスクリーム(30TK)を買い食い。火照った体に心地よく溶け込んでいく。ランチには、ケーキとマンゴジュース、バナナとリンゴをかじって済ませた。
インディカ種の長粒米である耕作地も見られる 夕刻、ディナジプールのモーターインに立寄る
ディナジプールに近づくにしたがって、バナナの収穫期なのだろうか、村総出で取り入れに忙しい。トラックにも未熟のバナナが山と積まれ出荷を待っている。ユーカリで囲んだ田圃には稲穂が静かに揺れ、夕暮れを待っている。
隣の席のご主人が、葉っぱを半部に切り、4等分に折って口に入れた。多分、コカの葉であろうと推測する。
陽が落ちて、すこし涼しくなったディナジプールの街に、約350kmを、2時間ほど遅れて9時間の旅を終えて、長距離バスは午後7時45分ごろ無事滑り込んだ。
さすがにバングラデシュ縦断バスの旅は疲れたが、それにもまして必死に国土建設に汗を流すバングラデシュの人々の姿に見入ってしまうバスの旅でもあった。
飛行機だとダッカ・ディナジプール間は、わずか50分だという。
大抵の観光客は、ガイドに引率され飛行機でディナジプール入りするのであろう。
<▲ ディナジプールYMCA 宿泊 > ダブル@500TK X 2日(連泊)
Dinajpur Young Men’s Christian Association
Station Road, Tel: 65552 (Office)
ディナジプールYMCA入口 ディナジプールYMCA
ディナジプールYMCAのダブルルーム シャワールーム
ディナジプール駅・YMCA 付近略図メモ
■10月14日 3日目 ディナジプール➡カントノゴル寺院 (北方30㎞)
今日は、YMCA主事の牧師さんの友人が運転する三輪オート・リキシャを借切り(600TK+チップ400TK)、バングラデシュで最も美しいヒンドゥー寺院といわれる<カントノゴル寺院/KANTANAGAR>を観光することにした。
借切りの三輪電気オート・リキシャで出発 YMCAの近くにあるDINAJPUR列車駅
ディナジプール駅で1日数本の列車を待つご婦人
バスで行く場合は、ディナジプールのバスターミナルからタクルガオ方面ポンチョゴール行のバスに乗る。
降車バス停ドシュマリよりカントノゴル寺院入口まで徒歩で約15分であるという。
タクルガオ方面ポンチョゴール行のバス
<カントノゴル寺院への道中の田舎風景 電気オート・リキシャから>
YMCAの主事であるJibon牧師の紹介で、友人のDipu氏の運転する三輪電気オート・リキシャを借切ってYMCAを08:00amに出発した。
途中、キリスト教村やヒンズー村を案内され、貧しさの中にも生きる命のみちた日常の生活を垣間見ることが出来た。
収穫期のバナナの積み出しや、稲穂刈りに忙しい村民の表情、村の広場一杯に籾殻を干す子供達に出会った。
めずらしい手作りの計量計を使っている廃品金属回収業の現場や、薪を量り売りする風景にも出会った。
風通しのよい高床式住居の庭に飼われたニワトリが声高に泣き叫ぶ、典型的なバングラデシュの農家を見ることが出来た。
金属回収業の手作り秤(重量計) 薪売りの手作り秤(重量計)
高床式の住居 家庭の炊事場にあるカマド
いまも現役・井戸水汲み上げの手動ポンプ
井戸水が日常生活の主役として活躍している情景や、駄菓子屋のテレビに群がる子供たちを見ていると60年程前の少年時代の自分を見ているようなノスタルジーにひたった。
力道山の空手チョップに相手が失神するプロレスリングに拍手喝采した日が懐かしい。
バナナの収穫 インディー米の田圃
<世界遺産・カントノゴル寺院/KANTANAGAR 入場料10TK>
世界遺産・カントノゴル寺院は、ディナジプールの北約30㎞のところにある。
一片が15mの正方形で、三層からなるレンガ色のテラコッタで囲まれた寺院で、18世紀中ごろに建立されたとある。
その壁一面には、ヒンドゥー神話である古代インドの大長編叙事詩のラーマーヤナをモチーフにした精密なテラコッタの彫刻で埋め尽くされたベンガル風ヒンドゥー寺院であり、壮観である。
叙事詩で活躍する人物は全てクシャトリヤであるから、壁面の彫刻テラコッタはクシャトリヤの行列を描いていると言っていい。
カントノゴル寺院への行き方(略図) カントノゴル寺院/KANTANAGAR見取り図
このような田舎の人里離れたデバ川沿いに、圧巻の緻密なテラコッタ芸術をほどこしたヒンズー寺院を建てたものだと驚きをもって観賞した。
観光客はわたし一人である。ほかには、地元の親子が参拝に来ていた。
静寂の中にあたかも砦のような建物が300年程前に建てられ、現在にその姿を残していることに驚くとともに、取り巻くテラコッタも鮮明で欠損せずに残っていることにも目を見張った。
また建物そのものが、東洋様式にネオ・ルネッサンスという西洋様式を取り入れていることを知って、またまた好奇心をかりたてられた。
ネオ・ルネッサンス建築様式がうかがえるカントノゴル寺院/KANTANAGARの正面
<精密なテラコッタの細部>
建物の外側基底部分にテラコッタによる彫刻が集中している。
そのテラコッタのメインなる部分を拡大しておきたい。
それは見事なテラコッタだ。インドで見られるリアルな性描写もなく、王様の成し遂げた業績や、敵との戦いの物語を彫っている。
それもレンガ大の大きさに、精密な人物の表情を刻み込んでいる。
カントノゴル寺院の基底部分のテラコッタ 四景
大長編叙事詩のラーマーヤナをモチーフにした精密なテラコッタの彫刻
カントノゴル寺院/KANTANAGARの二方面 カントノゴル寺院/KANTANAGAR解説板
スケッチ <Kantanagar Hindu Temple>
カントノゴル寺院で働いているという8歳の少年が、ガイド役を買って出てくれた。それも英語で寺を案内し、写真を撮ってくれ、トイレに連れて行ったりと世話をやいてくれたのである。トイレに行ったときは、ここは自分の仕事上のテリトリーで、使ったあとは4TKを金銭箱に入れてくれというではないか。あどけない少年の顔は、立派なビジネスマンに見えた。
少年にお礼のチップを手渡し、興奮冷めやらない体を待たせていた電気オート・リキシャに乗せて、一路投宿先のYMCAに戻った。
<ディナジプールの街を散策>
次なる目的地である世界遺産バハルプール/PAHARPURの仏教僧院に向かうバスの乗場を下見するためにディナジプールの街に出てみた。
街角の果物屋の主人にバス・ターミナルの場所を聞くが、なかなか通じない。困っていると客の一人である中年の紳士が流暢な英語で語りかけてくれた。何か困っていることはないかというので、バス・ターミナルの場所を尋ねてみた。答えたあと、自分は先週、筑波から帰国したばかりで、久しぶりの郷里を娘と散策しているという。
この国では、時々かかる教養を身に付け、英語を話し、世界を知る人に出会うことがある。観光客にとっては救いの出会いでもあり、感謝したものである。
この国の観光産業はいまだ未開拓であり、民需に待つのではなく、国策としての長期計画のもと政府主導で開拓・誘致を推進する必要があろう。まずはインフラの充実であり、交通網の整理であり、宿泊施設への投資を促す必要がある。まずは点である観光地開拓と、線であるインフラ、交通網の整備が急がれる。
街を散策中立寄ったヒンズー・テンプルで少女たちと
街角で出会った未来の紳士たち
この旅に出る前に、ブータンを旅したことがある。
同じく農業に生きる民であり、人々の素朴さに惹かれる所も同じである。水の国と山の国、それに宗教的にイスラムと仏教の違いがある。
ブータンは人口70万人の小さなヒマラヤに位置する小国である。しかし、この小国には明確なポリシーがあるような気がした。未開放の国であったにもかかわらず、伝統を生かし、その歴史と郷土の美しさを遺そうとする姿勢を感じた。幸せの国を目指し、人に愛と幸福を伝える国としての存在意義を見つけていたように思う。
山に住む人々も、国の示すポリシーをよく理解し、伝統衣裳を身に付け、家を開放して観光客を受け入れ、郷土料理を提供し、風呂につかって天空の星空を鑑賞させるなど官民が一体となって観光国家をめざしていたことをバングラデシュの旅をつづけながら想い出していた。
一方、ここバングラデシュという国はどうであろうか。
1憶6000万の人口をかかえ、イスラム教のもと貧困からの脱出を模索する発展途上の国といえる。その人口の多さからか、雑然としたなかに国民を一つにまとめるポリシーを見つけられずにいるようである。国の方針と夢を待つ国民のエネルギーが、諦めの中に消えつつありそうで残念でならない。
いつの日にか、多くの観光客が押し寄せる国となり、この国の魅力に陶酔させられる日が来ることを待ち望む一人である。
この多くの人口を生かせる目標の一つに、IT教育と技術立国としての国おこしと、海外の工場を呼び込むインフラ整備を目標に掲げるのも一つの方法であろう。また医療や福祉の国造りにより、多くの医療者や福祉支援者を世界中に派遣するプログラムも役に立ちそうである。
未開拓の観光産業については、先にも後にも私見を述べている。
バングラデシュはまず、国民の民度を上げ、一人当たりの経済力を高める方策から始めることになろう。
まだまだ大変な努力が必要であろうが、安価な労働力に魅力を感じる国々もあるという現実もまたこの国の成長にプラスになると言っていい。
<ダニや南京虫に対する一考察>
ここバングラデシュでダニや南京虫に噛まれたらとても痒い。その姿や噛み跡も確認できないのに痒みだけは激しい。ムヒを塗ると一時的に痒みがゆるむが、そのうち眠れないほどに痒みがぶり返すから困ったものである。
インドシナ半島の南京虫は、丸々と太るまで血を吸うので見つけやすい。潰して飛び散る血を見ることによって、痒みも引いていくような錯覚におちいったが、バングラデシュの虫どもはその姿を隠すのが上手で、噛まれてもその痕跡を残さないから知恵ものである。姿が見えないからさらに痒みが増すような気になるものである。
かれらも今夜の宿泊客を待ち構えていて、必死に血を吸い、子孫を残す努力をしているのだから、われわれ人間も我慢して噛まれてやるぐらいの度量を持ちたいものである。
がんばれ虫どもと声援を送りつつも、やはり痒みは辛い。
静寂の中、朝の散歩に出かけ、農家の庭をのぞいてみた。
農家の軒先で牛達たちがのんびりする姿にバングラデッシュの平和を感じる
庭先に干された麦穂 朝まだ冷めやらない静かな村道
■10月15日 路線バスで、ヒリ/Hilli経由 世界遺産バハルプール/PAHARPURに向かう
ディナジプール・路線バス・ヒリ行 08:09am発(60TK)➡ 10:45am着
ヒリ・バス乗継 (リクシャで移動 30TK)
ヒリ・路線バス ・ ジョイプルハット行 10:52am発(40TK)➡ 11:45am着
ジョイプルハット・路線バス バハルプール行 12:00am発(20TK)➡ 12:45am着
<バス乗継地 ヒリ/Hilli 10:45am着/10:52am発 >
ヒリの長屋風景 ヒリのリキシャ
バスチケット売り場 三輪運搬車が行き交う
ヒリの街角 駄菓子屋さん
<地方都市でのバス乗継の注意>
ここでは、ディナジプールより目的地バハルプールに向かうにあたって、途中ヒリの街でバスを乗り継ぐ際の注意点を見ておきたい。
地方都市のバスターミナルは、行先によってそれぞれ異なった場所にあることがあるので注意したい。良くある間違いは、到着したバスターミナルから乗継のバスも出発するものと思い込んでしまうことがあり、乗り遅れることがあるということである。
最初に乗ったバスの運転手に、自分の最終行き先をメモに書いて渡しておくと、乗継のバスターミナルで彼はリキシャの男に行き先のバス乗り場に連れて行くように指示してくれる。
もちろん、乗継のバスターミナルでは運転手の横に寄り添って、その指示に従うことはもちろんである。
リキシャの男は了解し、次なる行き先のバス乗り場に連れて行ってくれる。
乗継都市ヒリ/Hilliの場合、バハルプール/PAHARPUR行バス乗り場は約1㎞離れた<Joypulhat Bus Terminal>にあった。 これでは初めての旅人にとって、乗継バス停の所在確認は不可能に近い。
この場合も、親切なバス運転手と、リキシャ(14TK) 連携で、出発間際のバハルプール行のバスに間に合ったのである。
ジョイプルハット路線バス バハルプール行 (HINO中古バス)
ジョイプルハットで乗り継いだバハルプール行バスは、快調に田舎道路を飛ばしていたところ途中でパンク、乗客全員がおろされ、半額の払い戻しを受けたあと、幾台かの三輪オート・リキシャに分乗してバハルプールに向かうというハプニングが起きた。これまたバックパッカーにとってはアドベンチャーな出来事であり、歓迎される事態である。
農具修繕屋さんの作業場
この時期おいしい果物 デシュ売り
<世界遺産バハルプール/PAHARPUR 入場料 外国人100TK>
バハルプールは、1985年世界遺産に登録されたインド亜大陸最大の仏教僧院跡である。
8~9世紀にかけて在位したパーラ朝第2代の王ダルマパーラによって建立され、パーラ朝仏教美術を代表する僧院遺跡の一つである。
遺跡は、レンガ造りの基壇と土台の石、周壁が残っているだけだが、広々としたイングリッシュガーデン風の芝生に囲まれ、静寂の中で昔日を偲ぶことが出来る。
この地ではじめて、ネパールよりバングラデシュに入ったという日本人青年バックパッカー君に出会った。この旅では日本人には出会うことはないと思っていただけに驚いた。
なんと暑いことか。バングラデシュの人々が黒く日焼けしている原因は、直射日光によることであることが納得できるのである。
しかし静かだ。世界遺産といわれる観光地で、ほとんど人に出会うことのないのには驚きである。外国人は皆無である。
夕涼みを兼ねて、広大な芝生に点在する木陰で地元の人々が家族団欒を楽しんでいる情景は、観光地らしからない風景である。世界遺産が、市民の庭園として住民に親しまれていることになにか安堵の気持ちにもさせられたが。
わたしも記録ノートにスケッチをしながら、ゆったりと流れゆく時を楽しんだ。
遺跡の上部へは、ガイド無しで上ることはできない。
テラコッタのカービング(彫刻)の素晴らしさに惹かれて、ガイドに付き添ってもらい遺跡を巡った。
8~9世紀の宗教は、ヒンズー教も、イスラム教も、仏教もまたテラコッタという表現方法で後世にその偉大さを遺していることを知ることが出来る。
世界遺産パハルプール遺跡には、ミュージアムが併設されている。
ここにはパキスタン・ガンダーラ仏像とは、対照的に東洋的な仏像が飾られている。同じく伝わったであろう仏教が、異なる仏像を創りあげていることに興味をいだいた。
展示室は撮影禁止なので比較写真をお見せできないのが残念である。
世界遺産バハルプール/PAHARPUR 仏教僧院 標識 バハルプール仏教僧院 外国人100TKチケット
世界遺産バハルプール仏教僧院跡 全景
バハルプールの広大な仏教僧院跡 世界遺産バハルプールの背後
スケッチ <世界遺産・バハルプール仏教僧院>
バハルプール博物館
<▲ ホームステイ お礼500TK >
今夜は、世界遺産バハルプールの正面入り口に近いお宅でホームステイすることになった。
この家の高校生の息子さんであるマスーズ君と遺跡で出会い、バハルプールの歴史的説明を受けたことによる。彼は日本に興味を持ち続けており、憧れの日本人であったようである。さっそく、自宅に案内され、両親に紹介され、今夜一夜のベットを用意するとの申し出を受けたのである。
寝室は、彼の勉強部屋で、急遽ベットが準備された。まず、井戸で汗を流し、食事、それも家庭料理を味わうことになった。家族そろって大歓迎である。将来は観光客を迎え入れるペンションを開業したいという夢のある計画を熱っぽく語ってくれた。
あれから随分年月がたったが、彼らはペンションをオープンさせているかもしれない。もし、世界遺産バハルプール観光に行かれた際には、遺跡前のお店兼ゲストハウス(ペンション)に声をかけてみていただきたい。
MR. MASUD RANA (マスーズ・ラナ)
Paharpur, Badalgahhi, Naogaon, Bangladesh
バングラデシュでのホームステイでは、停電に対処してヘッドランプは必携である。
また蚊取線香があると安眠できる。シャワーは無いので、スイムパンツで井戸水を汲みかぶることになった。
世界遺産をガイドしてくれたマスーズ君 マスーズ君の勉強部屋に造られた簡易ベット
ホームステイしたマスーズ君の家は、バハルプール遺跡の入口から100mほどに店を構えている。店ではミネラルウオーター・アイスクリームや軽食を提供している。彼の部屋は店の裏にあり、泊ることになって急遽、彼の部屋に寝床を作ってくれた。
マスーズ君は、地元の高校に通う15歳のサイエンスを学ぶ聡明な若者である。滞在中、付き添って世話をやいてくれた。
このホームステイで、バングラデシュの平均的な家庭の日常生活に触れることが出来る貴重な体験をすることが出来た。水道施設はなく、井戸(手動ポンプ)で料理・洗濯はもちろん洗顔・柄杓での体洗いをおこなう。トイレは、和式と同じだが、事後はムスレム方式でトイレットペーパーを使わず左手指で後始末を行う。トイレ横にある水桶の水で流して終わる。
家族構成は、50代の両親と長男家族4人と本人の7人で、バングラデシュの平均的家族構成という。
■10月16日 5日目 モアスタン仏教遺跡都市へ向かう
昨夜マスーズ君は、バハルプール博物館の館員を紹介してくれた。考古学の立場から仏像の発掘状況や、ユネスコの世界遺産に指定された背景などのレクチャーを受けた。
また、バングラデシュの世界における立ち位置や、将来展望について熱く語りってくれた。
マスーズ君の家の中庭 ホームステイ先の井戸で水浴び
粗末な紙で作られた教科書とノート 朝食の揚げパン と ゆで卵
出発にあたってマスーズ君(中央左)家族全員に見送られる
次の目的地モハンスタンに向かうバスに乗車 バハルプールのメインストリート
運搬用リキシャで通学する子供たち よく見かけるサトウキビ畑
バングラデシュの農家
MAHANSTHANへの途中で昼食をとる 揚げ餃子のような昼食
典型的なトイレ
<世界遺産 モハンスタン仏教都市遺跡/MAHANSTHAN>
世界遺産 モハンスタンは、4~6世紀のバーラ・セーナ朝の仏教都市遺跡である。
モハンスタンは、Pundoranagara(Old City)という昔の街であり、19世紀後半に発掘された。
このような地方の田舎に、都市計画にも似た整然とした仏教都市があったことに驚かされる。また遺跡と言えば、後者が前者の遺跡を破壊するか、その遺跡の上に新しい建物を建てるのが通常だが、ここモハンスタンではヒンズー教・イスラム教・仏教がそれぞれを尊重し、前者の遺跡を遺していることに興味を持った。
遺跡は、田園都市として散在しているのでリキシャでゆっくり回ることをお勧めする。
この日は猛烈な暑さであったので、村の畦道をチビガイドさんに案内されのんびりと散策した。遺跡と遺跡の間は、村の人々の日常生活が営まれている。珍しい観光客であるわたしの周りにはいつも多くの村民が取り囲み、一緒に写真を撮るなかで交流を図った。
<世界遺産 モハンスタン仏教都市遺跡 と 砦の城壁跡> 少年ガイド・ムハンマド君の案内で回る
約10㎞平方の広さに40程の遺跡が点在している 遺跡では多くの人々に写真をせがまれた
<世界遺産に多い自称ガイド>
この日の世界遺産モハンスタンは土曜日とあって、平日の静かさに比べ家族連れや、団体さんが多いようである。相変わらず外国人観光客は見当たらないから、この東洋顔は目立つらしい。
歩き出した時から中年男が、何かと聞き取れない英語で、説明しながら離れずについてくる。横道にそれてみても埒があがらない。世界どこを歩いても、同じく自薦ガイドの売り込みに余念がない。こちらも慣れているのだが、その都度に行われる激しい売り込みに閉口するものである。
自称ガイドの中年男のうしろに、パンツ一枚の愛くるしい少年が同じように付いてきているのに気づいた。
この少年ムハンマド君が、中年男に代わって、ここ世界遺産モハンスタンでの専属ガイドになってもらった。
彼は寡黙であるが、写真を撮ってくれたり、家に立寄って家族に紹介したりとよく世話をしてくれた。
モハンスタン仏教都市遺跡の間に広がる畑を耕す農民
少年ガイド・ムハンマド君の家族と
母と息子たち 写真に納まるお二人さん
<ボグラ散策>
モハンスタンから、ここボグラ/BOGURAまでは約10㎞と近い。この間の交通と言えば三輪オート・タクシー<デンプー>が頻繁に行き交い、狭い車内にすし詰にして目的地に向かうから、乗客も必死に車体にしがみついていた。
恐怖の10㎞には凸凹あり、カーブありと老人にはいささか荒っぽいコースだが、楽しいアドベンチャー・ライディングである。
いささか度の過ぎた荒っぽい運転で、ボグラに着いた時には、深い息をついたほど緊張の連続であった。
下車するときに支払った運賃は、たったの10TK、あまりの安さに倍額のチップを手渡したほどである。
この後、ボグラで1泊し、バスを乗り換えて、プティアの<ゴビンダ・ヒンズー寺院>に向かうことにしている。
バングラデシュのほとんどの都市がそうであるように、ボグラの街はリキシャの群れ、三輪バイク、オートバイに混じって自転車がひしめき合っている。まるで毎日がお祭り、縁日の人出のようである。
インドのバラナシや、パキスタンのラーワルピンディーの街角やオールド・ダッカの混雑と同じく、街路が人の波で埋め尽くされるている情景である。
この辺りの豊かなガンジス川の草原が、放牧に適していることから、酸味がなく甘味十分な<ドイ>というヨーグルトが有名である。また米作りに代わって最近はバナナやグアバといった果物栽培も多くみられ、街道沿いに出荷される果物が山積された風景が見られる。
また、時代によってヒンズー教や、仏教、イスラム教が入り混じったり、破壊したりと各宗教の栄枯盛衰を偲ばせる遺跡が多く残っている歴史的な街でもある。
ボグラのメインストリートの混雑
<▲ ボグラ/BOGURA の AKBORIA GRAND HOTELに投宿>
エアコン付きのダブル・ルームの格安ホテル 750TK
アクボリア・グランド・ホテルは、ニューマーケット近くのポリス・ステーション(タナオフィス)横の細い道路を入った奥にある。シングルルームは満室であったので、体を休めるためにと、エアコン付きのダブルの部屋をとる。
AKBORIA GRAND HOTEL領収証
<生水に注意>
水あたりであろうか下痢症状で、渋り腹である。どうも細菌性で急を要するということで、早めにホテルに飛び込んで、持参した正露丸を4錠流し込んだ。この先、更なる場合は、急性下痢止めにとってある<錠剤ストッパー>を服用するつもりである。
海外を旅すると必ずと言っていいほど細菌性下痢に悩まされるので、十分な対処をしていたはずだが、気のゆるみからか手と口を介して細菌が侵入したようである。
殺菌性ウエット・ティッシュ、アルコール・スプレーで手の消毒を心がけていたがガードが甘かったようである。
食事前の生水での手洗いは、逆に細菌をもらうことになるので、手を乾燥させてからと心がけていたが残念である。生水には細心の注意が必要である。
AKBORIA GRAND HOTELの正面 と フロント
AKBORIA GRAND HOTELの部屋
<夕方7時 街にコーランが流れる>
この雑踏の街ボグラ全体に対して、スピーカから全開のボリュームでコーランの読み上げが鳴り響く。
コーランはアッラーが語った言葉であるといわれる。この神の言葉であるコーランには、神と人間の関係や人間社会における生き方の規範や奨励、崇拝行為の規定など様々なことが含まれていて、ムスリムの信仰の源泉となる神聖なものである。
ムスリム(女性・ムスリマ/イスラム教徒)は、唯一神<アッラー>の教えに従って生きている人々のことをいい、信仰の告白、礼拝、喜捨、断食、聖地メッカへの巡礼からなる5つの基本行為を守る人たちである。
「イスラムの人々は、コーランに生きているから心の平安があるのだ」と、バハルバール遺跡博物館長の語ってくれた言葉を思い出した。
<バングラデシュの夜店>
下痢も出してしまえば、症状は軽くなるからいい。さっそく、ボグラの街を散策した。土曜日の夕方であるからか、夕涼みを兼ねたそぞろ歩きの人と、リキシャで溢れ返り、昼間の街よりもさらに大混雑である。
まず、スーパーに出かけ品数と種類や値段を見て回り、そのあと夜市に出かけお土産の民族衣裳一式(サロワ・カミューズという伝統服)を購入した。 伝統婦人服サロワ・カミューズは、上(カミューズ)、下(サロワ)とストール(オロナ)の3点で構成されている。
どこの国でも夜市での買い物は楽しいものである。買い手は、出来るだけ安くと値切り、売り手は高く吹っ掛けて、だんだんと値を下げて買い手を満足させるという阿吽の呼吸で売買が成立する。
しかし、大半の交渉は、買い手であるこちらの負けの場合が多い。でも、心地よくだまされた品々が楽しい思い出として我家の一等席を飾っているから実に愉快である。
また夜市は、野次馬が買い手側と、売り手側に分かれ、値段が下がるにつけて両者の応援団が声を張り上げて真剣さがヒートアップしていく。興奮は、売買が成立した時に一気に盛り上がり一芝居が終わるのである。
興奮冷めやらない観客である応援団に向かって手に入れたサロワ・カミューズ(民族衣装)を高くかざすと、大きな拍手に包まれた。バングラデシュの人々のぬくもりを感じる一瞬でもある。いまから60年前まで日本の各地の神社の境内の夜店にも同じ光景があったことを懐かしく想い出した。
結局、1000TKの売値に、こちらは半値の500TKでオファー、売り手は900TKと100TK単位で値を下げ、こちらも100TK単位で上げていく、あまり面白みのない最終値750TKで落ち着いたが、応援団はそれぞれの掛値を大声で振り上げ、楽しんだようである。
ちなみに、品質・縫製は分からないが、先に立寄って見ておいたスーパーでの値段は、3850TK程であったことを付け加えておきたい。
いま、日本では見ることのできない光景になってしまい、寂しい限りである。人のふれあいにこそ、平和な生活があるというものである。
バングラデシュの民族衣装<サロワ・カミューズ> (シャプラニールの会提供)
■10月17日 6日目 プティア/PUTHIA ➡ ラジャヒ/RAJSHAHI
<ゴビンダ/GOVINDA・ヒンズー寺院>
曇一時にわか雨 気温35℃
<ボグラ/BOGURA> 路線バス 06:30am発 ➡ 08:50am着<プティア/PHUTIA>乗継 10:05発 ➡
➡ 10:48着 <ラジャヒ/RAJSHAHI> (バス運賃 80TK)
喧騒の街 ボグラを後にしてプティアへ向かって路線バスで出立した。
途中、子供たちに「ハーイ、ジャッキーチェン」とエールを送られる。どうも東洋人はみなジャキー・チエーンに見えるらしい。こちらもジャッキーチェンのポーズをとって応えるのだから変な老人である。
<バングラデシュの10月の気候>
バングラデシュは、雨季( 4月~9月) と 乾季(10月~3月)に分かれる。 今回の旅は10月からの乾季に入ったようで、1~2回の短いとおり雨に見舞われたに過ぎない。1日の平均気温は26℃~32℃なのだが、湿度が60%ほどあり、蒸し暑さと不快を感じる。
日本の夏の暑さと違って、頭がガンガン、キリキリと干しあがるような感じである。汗は、吹き出すという表現が当てはまる。帽子と水が無ければ日射病にかかりそうである。暑いので、半ズボンになりたいが、イスラムの国では勇気がいる。汗で湿ったジーンズをはいたままの行動は気持ち悪いものである。
もちろん観光産業の未開拓といった理由もあるが、各遺跡では、暑さのため観光客が絶えるほどである。
昼、乾季に入った街は土埃に咽ぶが、早朝は清々しい (ボグラ)
ボグラから路線バスに乗り、2時間少しでプティア/PUTHIA に着いた。
バングラデシュの旅では、人間の垢でまみれ、人間に汚された大地を歩くことになる。それほど人間が溢れているのである。ここプティアにあるゴビンダ・ヒンズー寺院でも、観光客とみれば多くの自称ガイドが客を獲得するために集まってくる。いや、言葉は悪いが群がると言った方が正確である。彼らにとっては家族を養うための正当な競争であるが、どこか貴重な労働エネルギーが空回りしているようでむなしさを感じる。
しかし彼らには他に就労の道はないのである。
この余剰労働力を、国の発展のために役立てる基幹産業を生み出す指導者が現れることを期待したい。
素晴らしい世界遺産を数多く持ちながら、外国からの観光客を迎え入れる方策を持ち合わせていないことは、貧困からの脱却という問題を難しくしているように思われる。まずは何度も繰り返すが、観光客を呼べるだけのインフラ整備に投資することであろう。道路・交通・電気水道・病院・ホテル等宿泊施設・乗り物・標識・レストランはもちろん、観光客を受け入れるためのソフト面の教育である衛生・通訳・ガイド・サービス・エンタテイメント・マナーなど計画し、実施すべきことは多岐に渡ると思われる。
観光だけでもこれだけの準備と投資が必要なのであるから、外国の投資を呼び入れる外交的努力も必要であろう。
もうそろそろ国の形を明確にする時期にバングラデッシュという若い国はあるような気がする。
観光客であるわたしでさえ、世界遺産の遺跡において外国からの観光客にほとんど出会っていない、いや一人もいなかったことに驚いているのである。
それはなぜかと問われたら、旅行会社がバングラデッシュでの一人旅を勧めないうえ、旅行会社が完璧なプランを立て観光客と現地人の接触を遮断し、バングラデッシュの日常生活を観光客に触れささないような観光方法をとっているところにあるのではないだろうか。
旅行会社が、事故や事件に巻き込まれることに神経質であるからだともいえる。
その一端を紹介したいが、バングラデッシュの未開を指摘しているようで心苦しい。わたしにとっては興味ある国であり、一日も早く世界中の人たちがこの国に関心を持ち、訪問してくれることを望んでいるからあえて指摘しておきたいのである。
われわれバックパッカーにとっては最高の冒険旅行を提供してくれているが、一般の観光客にとっては汚い・貧しい・危険というマイナスの印象を与えてしまっているといえる。
まずは、観光地本体の未整備はともかく、観光地へのアクセスをまず改善する必要があろう。
生活路線を走る中古バスでの乗り継ぎ移動をさせるのもそれはそれでいいのだが、大都市や空港・鉄道駅からの遺跡や観光地への直行バスの運行を一日も早く整備することだろう。
輝きと自信に満ちた、この国、バングラデシュを再訪する日が近年中に来ることを願っている。
<プティア/PUTHIA>
プティには、林や池に囲まれた<ゴビンダ寺院>はじめ大小のヒンズー寺院や古い王の館などが点在している。特に寺院を飾るテラコッタは見事なものである。
池に映る寺院の姿が美しく、落ちつきの中にありゆっくりと過ごせる遺跡であり村民の生活の場でもある。
昼食は屋台で、チャパティ2枚・肉まん・コーク(85TK)をいただく。
遺跡巡りの携帯食としてバナナ4・リンゴ3・オレンジ2・ミネラルウオーター2(計132TK)を購入した。
このあと、プティアにあるゴビンダ・ヒンズー寺院を見学した後、隣の街ラジシャイ/Rajshahiに移動し、 「HOTEL SKY」に投宿する予定である。
<シバ寺院>
プティアのバスターミナルより、リキシャで約10分のところにシバ寺院(1823年建立)がある。
ほかのヒンズー寺院遺跡のようなテラコッタによる装飾はなく、白を基調とした塗り壁になっている。ベランダから見る周りの池の風景がいい。
シバ寺院 (プティア)
アニク寺院方面から中央池に映るシバ寺院を望む
シバ寺院の西隣に建つ<ロッド寺院> 中央池西側に建つ<ラズバリの館>
ラズバリから広場をはさんで正面にドルモンチョと左にシバ寺院を望む
スケッチ <優美なドルモンチョ>
<大ゴビンダ・ヒンズー寺院>
約150年前にプティア王(1823~1895)によって建てられたヒンズー寺院である。ゴビンダとは、ヒンズー教のクリシュナ神の別名である。
壁面を精密なレリーフで施された5つの尖塔<パンチャ・ラトナ型屋根>を持ったヒンズー寺院として有名である。
テラコッタのレリーフにはヒンズー神話や村民の生活が細密に描かれている。
テーマパークのシンボルのような<大ゴビンダ・ヒンズー寺院>
テラコッタで飾られた大ゴビンダ寺院の入口 大ゴビンダ寺院を側面から見る
細密彫刻でヒンズー神話が描かれた見事なテラコッタ(レリーフ)
スケッチ<大ゴビンダ寺院/Gobinda Temple> イメージ配色スケッチ<テラコッタ-大ゴビンダ寺院>
<アニク寺院と小ゴビンダ寺院>
大ゴビンダ寺院の奥(西側)にも小さな同じ名前の小さな寺院がある。
ゴビンダ寺院(大)から、中央池に出て左に池を回り込んでいくと、右にとんがり屋根の小ゴビンダ寺院、左に3個の丸屋根を持ったアニク寺院が見えてくる。
どちらもお伽話に出てくるような小さな建物だが、素敵なテラコッタで飾られ、愛らしいプロポーションに目を見張る。
独特な寺院の屋根には型名があるらしく、アニク寺院の中央の屋根を<エク・バングラ型>、両側の屋根を<チャール・チャラ型>といい、また小ゴビンダ寺院の屋根も<チャール・チャラ型>であると地元の老人が教えてくれた。
3個の丸屋根を持つアニク寺院(左) と とんがり帽屋根の小ゴビンダ寺院(右)
プティアの遺跡配置図
<プティアの他のヒンズー遺跡 と 村民の生活>
プティアの遺跡は、1キロ平方ほどの小さなエリアにある。
この小さなエリアに、池や林に囲まれた大小のヒンズー寺院が立ち、多くの遺跡とともに村民が生活を営んでいる。
プティアの遺跡と混在する村民の生活
村民の生活に混在する遺跡
プティアの遺跡は6個の池が、中央池を囲み、 中央池の周りに各寺院遺跡が立ち並んでいる
プティアは、無数の小さい池が中央池を取り囲みその間に各ヒンズー寺院と遺跡、村民の家が点在する
心ゆくまで、ゆったりとした緑あふれるプティアを散策しながらヒンズーの世界に埋没したあと、路線バスで今夜の宿<HOTEL SKY>のあるラジシャイに向かった。
バスセンターがあるプティアの中心街をあとにしてラジシャイに向かう
プティアからの路線バスはラジシャイのバス・ターミナルに到着 / 定番夕食の揚げパン2枚と付けカレー
<▲ 「HOTEL SKY」 ラジシャイ/Rajshahi 投宿>
250TK (TV・トイレ。シャワー蚊帳付)
Malopara, Raishahi, Side of Bhubon Mohan Park(プモンモホン公園側)
ホテル・スカイ入口 低電圧なのか暗い、ホテル・スカイの蚊帳付部屋
日が暮れたあと、停電に見舞われたのでサウナ風呂化する部屋から逃げ出し、散策がてら街の様子を見に出かけた。停電になると、1~2時間は復旧しないことを知っている各店は、道路側に設置しているディーゼル・エンジン式発電機を一斉に動かし始めたから大変な騒音である。排気ガスで充満し、ついバンダナで口をふさいでしまったほどである。
そこへリキシャの流れが行き交い、散策どころではない。どの街角も同じに見え、目印としたものも見失い出したので、迷子になる前に散策を早々と切り上げた。
■ 10月18日 ラジシャイ/Rajshahi
クルナからの船旅前に、プティアから1時間強のところにマンゴ生産地として有名なノバブコンジの街に<チョト・ショナ・モスジット>があり、17世紀にシャハ・シュジャによって建てられた<トハカナ・パレス>を訪れておくことにした。
ラジシャイ/RAJSHAHI (路線バス) 07:28am ➡ チョト・ショナ・モシジット/Chot-Shona-Mosjit
80TK 約1時間45分
ラジャヒのバスターミナルより路線バスで<チョト・ショナ・モシジット>に向かう
路線バス <ラジャヒ➡チョト・ショナ・モシジット行> (バスチケット 80TK)
<路線バスで出会ったDr.Kshuna/クシュナ―医師>
今日の行動食としてバナナとリンゴを買って、チョト・ショナ・モシジット行の路線バスに乗ると、隣の席のバングラデッシュの男性に声をかけられた。彼は、東京の医科大学に留学したあと、帰国して医者になったと自己紹介をした。
これから手術のためチョト・ショナ・モシジットに出張するところだという。
この国では定期的に外科医としての技能維持試験があるとのことで、揺れるバスの中でも勉強に余念がない。
まだ若い医者である。30半ばだろうか、これからのバングラデッシュを背負って立つ青年医師の眼差しと情熱を感じながら世界情勢を話しつつも、勉強に余念のない青年に見入ってしまった。
大志を抱き、一生を民衆に奉仕する青年の姿に出会い、この国の将来に明るい希望を見る思いであった。
バナナ・リンゴは、バックパッカーの空腹を満たし、栄養補給源である
<チョト・ショナ・モスジット / Chot-Shona-Mosjit>
このモスクは、ムガール時代の平面な屋根に幾つものドームを持っている典型的なモスクである。現在は風雪に汚れ切っているが、美しいシンメトリーな白亜のモスクであったことが想像できる。インドのタージマハールのようなシンプルなシルエットではなく、装飾豊かな威厳を示すムガール建築独特な重厚さを残したモスクである。
小さな黄金のモスクというネーミングにふさわしく、可愛いこじんまりしたモスクに親しみを感じた。
緑に包まれた広大な遺跡に、観光客は見当たらず、地元の人が犬とのんびり散策を楽しんでいた。悠久の時が滔々と流れ、約500年前のベンガルの田舎に埋没したような時間を過ごした。
チョト・ショナ・モスジットの正面と側景
チョト・ショナ・モスジット付近の遺跡群
チョト・ショナ・モスジットの歴史解説版 モスジットをスケッチ中
スケッチ <チョト・ショナ・モスジット> 2010/10/18 10:29am
チョト・ショナ・モスジットでも、ただ一人の観光客やバックパッカーに出会うことがなかったことはすでに述べた。チョト・ショナ・モスジットという観光地を訪問するために丸一日かかるというこの国の交通網の脆弱さの改善が望まれる。
それだけ観光化されていない自然のままの遺跡が、この国にはまだ残されているとも言える。
バックパッカーとしては未開の遺跡や、温和な国民性、未発達の交通網、宗教性の残っている生活などに触れられるエル・ド・ラド(桃源郷)と言っていいだろう。
遺跡で出会った村の少年たちと交流
民族衣装を着飾った婦人たち (村の市場で)
ベンガル数字のナンバープレート この日も慣れ親しんだ定番焼き飯
今日は、汚れていないこの国のそのままの自然に飛び込み、現地の子供たちと遊び、市場で人々の日常の買い物に接したり、地元の人たちが日常食べている焼き飯を食べ、イスラム式のトイレから庭を自由に飛び跳ねているニワトリを眺め、廃棄寸前のオートバイに載せてもらったりと楽しい時間を過ごせた。何よりの休暇であり、現地生活の体験であった。
<▲ 「HOTEL SKY」 ラジャヒ/Rajshahi 連泊>
ホテルに帰ってからは、川船旅の出航地であるルクナに向かう準備をした。
出発前のドアー防犯用鍵・各種充電器・ライト・痒み止めのリュックへの収納チェック
ここラジャヒを出たあと、このバングラデシュの旅のハイライトである
<ロケット・スチーマによる船旅>の乗船地・ルクナに向かう。
《 悠久に 流るガンジス バングラに 匂いし土の 咲きし笑顔や 》
―ゆうきゅうに ながるガンジス ばんぐらに においしつちの さきしえがおやー
2021星の巡礼『バグラデシュの旅 2010』Ⅱ
<ラジャヒ ➡ ルクナ ➡ <ロケト・スチーマによる船旅> ➡ ダッガ>