shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2015『星の巡礼 熊野古道を歩く』 Ⅱ-8

2015『星の巡礼 熊野古道を歩く』 Ⅱ-8  (中辺路・熊野本宮大社ゴール)

Bルート:8 熊野古道中辺路・世界遺産  94 祓戸王子▲100m熊野本宮大社▲43m>
        徒歩巡礼  8月24日  中辺路最終日


熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ) 熊野古道中辺路最終参詣地  


最も多くの参詣者が歩いたとされる熊野参詣道・中辺路、その難行苦行の道のりを終え、最初にたどり着くのが熊野本宮大社である。

熊野の神域の入口とされる「発心門王子(ほっしんもんおうじ)」から熊野本宮大社へ魂や心の準備をしながら古道を歩いたのであろう。

当時は、「前世と現世に心身に積もった穢れを祓い清め、日本第一の霊験をもって知られる熊野三所権現の神威にすがって、祈願し、生命力を蘇らせることを目的」 として熊野参詣が行われていた。

発心門王子で参詣の初心にかえり魂やこころを清め、水呑王子で手や口を清め、 伏拝王子で大斎原の森を拝しひれ伏し、祓戸王子で最後の禊ぎや祓いをおこなって熊野本宮大社に参詣したのである。

祓戸王子でたかぶった気持ちをおさえ、熊野の清浄な空気を吸いこみ、休息をとって熊野古道中辺路最終地、いや最初に詣でる熊野本宮大社にむかった。


熊野本宮大社の裏鳥居が大きな手をひろげて待ってくれている。
古(いにしえ)の参詣者も、現在の巡礼者もそれぞれの人生を背負ってこの裏鳥居をくぐることになる。
その一歩は、人生のたしかな一歩なのである。
熊野のたくさんの神霊たちが出迎えているではないか。
ツクツクボウシの大合唱が、ベートベンの運命を奏でている。
こころは天使の階段をかろやかなステップを踏みながら下っていく。
 
時代を越え、どの参詣者もおなじ精神的昂揚を抑えきれなかったであろう。

イメージ 1 イメージ 2
熊野本宮大社裏鳥居にゴールした                          本宮裏の古道の石階段を下る

 
ようやく八咫烏(やたがらす)の導きでここ熊野本宮大社に参詣できた。
さきにも口ずさんだ俳句をあらためて口ずさんだ。


 
     《 八咫烏  おいて熊野路  蝉時雨》  實久


      <やたがらす  老いて(追いて)くまのじ  せみしぐれ>


 
                             感謝合掌である

イメージ 3


 
この巡礼でも床に臥す多くの友人と祈りの交換をし、励ましあった。
「ひとはなんのために生き、なんのために生かされているのであろうか」
おたがい静かに、深く考えていきたい。
そして生き、生かされている愛に応えていきたい。


    Bルート : 熊野街道中辺路を歩く      
           


 
---------------------------------------------------------------------------
 
 
熊野古道中辺路の歴史的背景》
熊野への参詣者が最も多く歩いたとされるのが熊野参詣道・中辺路である。 当時、京都を起点としてその難行苦行の道のり約300kmの徒歩巡礼を終え、最初にたどり着いたのがここ熊野本宮大社である。 往復約600km、約1ヶ月の旅程を歩くのが熊野詣であった。
今回の熊野古道中辺路を地図でみると、西端の中辺路起点「出立王子」から世界遺産中辺路起点「滝尻王子」をへて最初にたどり着くのが熊野本宮大社である。

イメージ 4
     田辺市熊野ツーリズムビューロー発行<熊野古道ウォーク>地図

平安時代宇多法皇に始まる歴代法皇上皇女院の熊野御幸は百余度に及び、身分や老若男女を問わず「蟻の熊野詣」といわれるほど大勢の人々が熊野を訪れた。
熊野詣のために通った道が現在の「熊野古道」と呼ばれる参詣道である。

参詣者は、当時の京(京都)を起点に伏見三栖より淀川を船で大阪へ下り、天王寺--和歌山-御坊の海岸沿いを歩き、熊野の玄関口、すなわち口熊野と呼ばれた田辺までくだったあと、
現在「中辺路」と呼ばれている道を通って、熊野本宮大社に参詣したとある。

王子跡とは、熊野詣の修験者によって組織された一郡の神社があったとされる場所である。一方、熊野古道の近隣住民が在来の神を祀っていた社を「王子」とし、熊野詣の途中で儀礼を行う場所としたともいわれている。

今回の熊野古道中辺路巡礼も、忠実に王子跡をたどったことになる。

熊野三山の名前からもわかる通り仏教的要素が強い。熊野と浄土信仰の繋がりが強くなると、大勢の僧侶が押し寄せると共に、次第に民衆も熊野に頻繁に参詣するようになり、俗に「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛んになったとある。

古来、修験道の修行の地とされた熊野三山への参拝者は日本各地で修験者によって組織され熊野三山に導かれた。
盛んであった熊野信仰も江戸時代後期の紀州藩による神仏分離政策で布教をしてきた聖や山伏らの活動を規制したため衰退し、明治の神仏分離令により衰退が決定的となったと伝えられている。
明治より世界遺産に登録されるまでの約100年近いあいだ、おおくの日本人のこころより忘れ去られていたともいえる。
ここ熊野本宮大社は太陽の使いとされる八咫烏(やたがらす)を神使とする。 参詣者は八咫烏(やたがらす)に導かれてここ熊野本宮大社にたどり着く。
現在の熊野本宮大社は、明治22年(1889年)の大洪水で流されるまで社地は熊野川の中州・大斎原(おおゆのはら)にあった。 大斎原に立つ日本一といわれる大鳥居が参詣をおえた巡礼者を迎えてくれる。
 
イメージ 5 イメージ 6
 大斎原(熊野本宮大社旧社地)                                             大斎原の日本一の大鳥居

イメージ 7
 
イメージ 8
熊野本宮 山門

イメージ 9
熊野本宮大社表参道鳥居と八咫烏


熊野古道巡礼路・中辺路に足跡をのこし、八咫烏(やたがらす)に導かれて最終地・熊野本宮大社への参詣が成就した。

熊野古道中辺路の歴史的背景》    完




次回   ≪Cルート 熊野古道中辺路派生ルート 赤木越 と C-2大日越 を歩く≫