shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

『インパール作戦退却路・アラカン山脈白骨街道における露営・慰霊紀行』⑫

インパール作戦退却路・アラカン山脈・白骨街道・慰霊地の巡礼記 10


7)『タム-パレル道・白骨街道慰霊』
 
トンザンの『 Zoland Guest House』より北へ6軒ほど先の右側に、カレーミョウ行のミニバス切符売り場(商店)がある。前日予約しておいたチケット(帰路のチケット代は10000K=1000円)を受け取る。 座席指定であるためミニバスの12席はすぐに満席になるらしい。


ラカン山脈での慰霊をすませ、はれやかにここトンザンを7:20amあとにした。 アラカン山脈南部に連なるチン高地の酷悪路をふたたび縦貫し、カレーミョウに無事帰り着いた。
 

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羅漢山脈・チン高地への入口の丘よりカレーミョウを見下ろす
 
 
帰路、ミニバスで隣り合わせた青年・Mr.Johnson・ジョンソン氏はインド東北部にあった旧ディマプール土侯国を独立に導くために働いている運動家であり、国境を越えてミヤンマー側で活動しているということである。


いまなおアラカン山脈を走る国境沿いに独立を求めて戦後70年も独立闘争が続いている現実がある。


わが祖国・日本は敗戦後復興に邁進し、奇跡の平和国家を築き上げたことを誇っている一方で、かっては日本が侵略し植民地化していた少数民族の地にはいまだ支配者のもと、独立を勝ち取るべく闘争を続けていることをわたしたち日本人は知っておいてよいと思う。


かかる山岳少数民族は、日本のインド征服を目指したインパール作戦に自分たちの独立を重ねあわせてその日を待ち望んだという。しかしインパール作戦は失敗に終わり、旧主国(英国)がふたたび植民地化に動いたとき、彼らは日本の手を借りずに自らの手だけで立ち向かっていくことを決心したという。


しかし力及ばず鎮圧され、旧主国より独立したインドは少数民族の土候国の独立を許さず併合して今日に至っているという。


 独立運動Mr.Johnsonより少数民族の悲劇的な闘争の歴史のレクチャーをうけながら、東亜解放を目指した戦争中の日本の為政者(戦争指導者)に思いめぐらせていた。


日本は日本の論理で戦争を正当化していたにすぎず、弱小な少数民族の夢実現や期待には応えるものではなかったのである。


ブログ掲載の許可を得ているので、インパール作戦に期待した少数民族の闘争の現実を載せておきたい。
 
インド東北部の少数民族による独立運動を抑圧・弾圧するためなのか、次なる『カレーミョウ=タム=パレル道』に横たわる外国人が越境できる国境のインド側の検閲・警戒は厳しいものである。もう一つのインド/ミヤンマー国境第2検問所のタム郊外ナプロン・NAPLON / インド側モーレ・MOREHにある現住民用検問所は自由に往来できるが、インド軍による重火器をもっての警戒は異常に映る。しかしビジネス越境には寛容にさえみえた。


 この国境を挟んでのインパール作戦時のタム=パレル道もまた激戦地であり、補給なく白骨街道と化した道路のひとつである。


では、『カレーミョウ=タム=パレル道』に出かけてみよう。


カレーミョウにあるタム行ミニバス乗場は、バスターミナルの北東方向約2.5kmのところにある。(詳細はカレーミョウ市街概略図参照) バスターミナルからバイクタクシー(1500K=150円)で移動。8:00発ミニバス(5000k500円)に乗車し、タムにむかった
 
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タム行ミニバス乗り場(バイクタクシーを利用して到着)
 
座席指定では最後部右側席であったが、助手席に座れという。後で分かったことだが、わたしが外国人であると分かったらしく、検問時にすばやく対応できるように配慮し座席替えをしたようである。


検問所には二種類あるようで、一つは車両に対する通行料を支払う検問所(料金所)なのであろうか、もう一つはパスポートチェックのための外国人検問所である。


途中、最大の検問所はカンパット/Kanpatにある。ただ一人の外国人であるわたしは検問所に連れて行かれ、パスポートを見ながらの尋問が始まる。氏名・生年月日・行先・目的・宿泊先・滞在期間など空港での入出国チェックとほぼ同じ内容であるが、特になぜタム地域に入域するのかを質問された。 その間、乗客は車内で待つこととなる。


Thank you. I’m free now.』迷惑をかけたことを詫び、バスの旅を続けることになる。ほか2カ所の検問所にも立ち寄ったが、意外と簡単に通してくれた。タムの街に入ってのイミグレーションのある検問所ではミニバスそのものの長時間駐車に緊張したが、問題なく出発し安堵した。このルートでの検問所付近での写真撮影もできるだけ控えた。


カレーミョウ=タム道はカバウ渓谷平原を走り、国境に通じる幹線道路である。 AH-1(アジアハイウエー1号線)であり、インド・ミヤンマー友好道路でもある。起伏のない快適な舗装道路である。

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カバウ渓谷を南北に縦走している舗装道(アジアハイウエー1号線・インド/ミヤンマー友好道路

 
このカレーミョウ=タム=パレル道は、インパール作戦時、弓第33師団 第33歩兵団司令部が右突進隊としてインパールにむかった進軍路である。当時すでに舗装道であり、第15軍直轄部隊であった山本支隊(機甲部隊をもつ歩兵団)のインパールへの進撃路であった。そしてインパール一番乗りを期待された部隊でもあった。 英第4軍第23インド師団の防御は固く、山本支隊はパレルで撃退されてしまった。 これまた兵糧が尽き補給がなかったことによる退却となった。パレル=タム道もまたおびただしい餓鬼者や雨季に蔓延する赤痢マラリアによって白骨街道化したのである。
 
ミニバス・ドライバーにリーズナブルで、交通の便のよいゲストハウスを紹介してもらった。 タム市街の中心に近いゲストハウス『SHEE OAKAR MOTEL』に投宿した。 シングルルームはダブルベット・扇風機だけでトイレ・シャワーは室外共有という7000K=700円の部屋である。


煎餅マットに薄汚れた毛布、持参のエアーマットを敷き、ユースホステル用封筒型シーツに潜り込んだ。現地の商人が一夜の仮の宿にするモテルのようである。


観光客は付属の三ツ星クラスの部屋(25$・TVAC・水洗・温水シャワー)に滞在することができる。


このほかタムには『POWER GUEST HOUSE』が中心街のマーケットの北西200mのところにある。

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宿泊した『SHEE OAKAR MOTEL』
 
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さっそくタムの街を歩いてみよう。


宿泊した『SHEE OAKAR MOTEL』の前の道がカレワより北進してきた弓第33師団第33歩兵団(右突進隊)山本支隊がインパールへ向かって突進した道である。


このゲストハウスの前には樹齢100年以上の菩提樹があり、道行く人々に涼風の木陰を提供している。この菩提樹もまた日本軍のインパールへの作戦を見守った貴重な証言者ともいえる。また将兵たちもまたビルマの暑さを避けこの菩提樹の樹影でひと時の休息をとったであろうと追懐した。


わたしと写真同行者はタム道での鎮魂と慰霊の祈りを、この老菩提樹の樹下でささげた。


線香をたむけていると、ふたりの裸足の少年修行僧が喜捨鉢を抱え、手礼をもって英霊に応えてくれた。そのふたりの若き坊さんの陰が朝日にながくのび、その先に笑顔で集まっている亡き将兵の姿をみた。


この老菩提樹が見守る街道(アジアハイウエー1号線・印度緬甸友好道路)を北へ約2km・徒歩約35分のところにインド/ビルマ国境の橋がある。もちろん八木支隊もこの国境を越えインドの地を踏み、アラカン山脈にある部落・パレルまで前進したのである。
 

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タム=パレル道の菩提樹で慰霊を行う
 
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托鉢をする少年修行僧も慰霊に参加


タムの街から北進すると、ナパロン村への分岐の三叉路にでる。この三叉路を直進し、国境にかかる橋にむかってゆるやかな坂道を約400m下って行くとビルマ側のイミグレーションと国境検問所がある。


この約400mには人影なく、ときどきバイクとトラックが通るぐらいで不気味な国境の風景がつづく。
 

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インド側からミヤンマーの検問を通過するトラック


この国境検問所を300m先のポリス・ステーション(国境警備隊)横からインド側にビザ(査証)なく越境できないか観察していた。できれば英霊の鎮魂慰霊をインド側でもぜひとりおこないたいという気持ちにさせられたのである。


今回はインド側に行く計画はなかったのでインドのビザをとってはきていなかった。


隠れるように国境をのぞいていたわたしが英霊に背中を押されたように、いつの間にか国境にむかって歩き出していた。


近づく国境検問所の遮断機が降り、進入を遮っている。国境警備隊員が鋭い目を光らせている。


いつも味わう国境の厳しい空気がせまってくる。一歩近づくと警備隊員もこちらへ一歩近づく。緊張の瞬間だ。


 


警備隊員に率直にお願いしてみた。


『今年はインパール作戦70周年で、慰霊のためミヤンマーにきている。できればインド国境であるこの地でも行いたい』と。警備司令塔にもどって相談してくれた警備員は、以外にも『あなたの夢はかなえられた。国境の橋をわたってあなたの慰霊を許可する』と。


 


なんとパスポートもチェックせずに即許可が下りたのである。


国境遮断機があがり、国境警備員たちの見送りをうけ、国境を流れるカンギワー川にかかる橋をわたる。国境橋の中央で橋の色が変わる。


ビルマ側が黄色、インド側が白である。約200mの橋、トラック一台が通れる狭い橋幅である。
 

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印度/ビルマ国境の橋(黄色がミヤンマー・白色がインド側)
 
インパール作戦時、弓第33師団第33歩兵団(右突進隊)山本支隊もこの橋を渡ってインパールにむかったであろうし、退却時は橋を爆破したであろう。インパール作戦を見続けてきた橋でもある。
 
橋を渡りきり、突き当りの未舗装の赤土の道を右へ川沿いに約400m坂を上りきると左側にインドのイミグレーションがあり、その先200mのところにインドの国境検問所がある。

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 奥に見える国境の橋より坂を上ってくると
 
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印度側チェックポイントがある
 


わたしはパスポートをゲストハウスに人質としてとられていたので、持ってきていなかった。


もしインド側国境警備隊員に尋問されたら、パスポート不法所持でインド側から強制送還されることを恐れた。これ以上は進めないと判断、国境の橋にもどって、慰霊をすませ帰路に着いた。


Welcome back to Myanmar』とミヤンマー国境警備隊員たちに迎えられ、インパール作戦ビルマ独立の歴史、ミヤンマーの世界経済への貢献の在り方を語りあって国境をあとにした。


日緬友好のひと時をもちえたことに感謝である。