shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』Ⅰ

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』Ⅰ
 プロローグ
 


東海道を歩きたい
司馬遼太郎先生の『街道を往く』シリーズを愛読して以来、想いはつよくなった
5年前、機会に恵まれて仲間と「中仙道530キロ」を歩いた
木曽路を露営をしながらの「てくてく旅」であった
木洩れ日に光る石畳み、幽玄なる苔むす世界、神や仏との出会い
そこには歴史の悲哀が満ち、一本の道が江戸日本橋から京三条につづいていた


人生もまた一本の道である
道は人生の友であり、伴侶である
いつもより添い、道迷いをただし、教訓を学ばせてくれる
星の巡礼』の原点は道であり、人生である
この星を知り、人生を知るには、道をあるくことである
と教えられた


導かれるままに『星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』に
愛語でむすばれている仲間と共にでかけてみたい
「一里塚」という羅針盤に案内されて京三条大橋から江戸日本橋までの
125里約500kmを、松陰が、竜馬が、襄が歩いた街道を
自転車で、露営しながら、悠久なる星の輝きに導かれて
未知の、道の、人生の終点に一歩近づきたい


 
□今回もまた、写真参加として田中祥介氏(同志社ローバースカウトOB・79期生)と小山昌一氏(ピースボート船友)の二人の友人と「東海道53次自転車ぶらぶら旅」を共にした。


田中祥介氏とは2011年の「中仙道てくてくラリー」での弥次喜多コンビとして歩き、昨年の「熊野古道巡礼の旅」、そして今年の「星の巡礼ビルマ羅漢山脈白骨街道慰霊の旅」にも一緒に出かけた。いまだ脳梗塞の重い後遺症のため病床に伏している。


小山昌一氏(53ピースボート船友)はパーキンソン病におかされ不自由な生活を余儀なくされている。 富士登山熊野古道、白骨街道にと写真同行し、愛語の交感をおこなってきた。

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3
星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅」参加メンバー
左より後藤實久・田中祥介・小山昌一

イメージ 4
写真は2011年実施「同志社ローバースカウト創立50年記念・中仙道てくてくラリー」三条大橋
到着時のスナップ、後藤と田中(車椅子)が弥次喜多コンビを組んで中仙道を踏破した。


また、ここに55年前の「同志社大学ローバースカウト隊中仙道徒歩旅行」を踏破し、日本橋
到着したときの精悍な隊員たちの一枚の懐かしい写真がある。「道を歩く」仲間たちである。
 

イメージ 5
 今から半世紀前、同志社ローバースカウト隊は、京都三条大橋より東京日本橋まで、中山道
隊列を組んで踏破した。その時の仲間たちが日本橋の前で歩き終えた安堵顔を
見せている。


■ 持参した一冊の書籍; トルストイ著 「光りあるうち光の中を歩め」 (新著文庫)


旅に出かけ野に伏すとき、より神に近づけるように思う。
今回の「星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅」は、期間中の宿泊は露営(テント泊)ときめ、早朝4時に起床撤収、5時出発と決めていた。ただし活動は午後5時までに終了し、設営後ただちに就寝することにしていた。


ただすぐに就寝ともいかず、軽い散歩をしたり、夕焼けをみたり、静かに己を省みる時間のあることを考え、持参したのがトルストイ著の「光あるうち光の中を歩め」である。
本棚のなかで一番うすい文庫本をとりだして持参した1冊の本だ。


この本は、2004730日より1029日にバス・列車で走破した「星の巡礼シルクロードの旅」にも持参していた。


今回も内省する時間が与えられたことに感謝したい。
 

イメージ 6

「光りあるうちに光の中を歩め」でわたしに問いかけていることを箇条書きにしてみた。


1.「あなたは自分の生活に満足していますか」
2.「あなたは自分の幸福を誇れますか」
3.「なぜあなたは神より与えられた一切の幸福を台無しにするのですか」
4.「良心の平和と幸福を与えられないのはなぜですか」
5.「あなたはこの世に何をしに来ましたか」
6.「自己の愛を獲得するために、自己否定―自己を滅ぼしたわけです。
      何ものをも惜しまず、最後の一物まで全部求めるものに与えられますか」


年齢を重ねると共に、いや自分の星へ還るときが近づくにしたがってトルストイから求められている
人生への設問も、現在の心境からしてほぼ答えられる自分がいるような気がする。
ただ、6番目の「自己の愛を獲得するために、自己否定―自己を滅ぼしたわけです。何ものをも惜しまず、最後の一物まで全部求めるものに与えられますか」という設問にたいし、いまだ神との距離を感じているのが率直な自分の姿である。


「すべてを捨てて神の懐に飛び込めますか」、今回の旅で少しでもふかく掘り下げてみたい。
まだまだ自分の力が残っていることに感謝するとともに、リボーン(再生)への道遠きおのれの生を
悲しむものである。



The Wild Rover(ワイルド・ローバーⅢ世号)」をパートナーに選んで・・・


今回もまた、露営のための重いキャンプ用具一式を運び、苦労を共にしたパートナーである自転車「ワイルド・ローバーⅢ世号」を紹介しておきたい。


5年前、2011311日(平成23年)東日本大震災が太平洋三陸沖を震源として発生した。
ちょうど、この年はわたしが属していた同志社ローバースカウト隊創立50年記念の年であり、その記念事業として「中仙道てくてくラリー」が計画され、 50年前の発隊記念に歩いた京都三条大橋発、
東京日本橋着の中仙道徒歩旅行を折り返(復路)しての京都着530kmを踏破することになっていた。


震災発生直後であり、創立50年記念実行委員会では緊急会議がもたれ徒歩旅行中断延期も話し合われたが、かかる時にこそ支援のための募金やメッセージを送ろうということにきまり、規模を最小限にしぼり決行することになった。


地震発生の1週間後に日本橋を相棒であり、写真参加の弥次喜多こと田中祥介君(79期生・病気療養中)とともに出発し、「がんばれ東北・がんばろう日本」というバナーをかかげ中仙道を歩いた。


途中、同志社創立者新島襄の出身地、群馬安中教会に多くの同志社やローバー関係者が集まり、桑原專慶流第15世家元桑原仙渓氏(79期生)による安中教会での「新島襄先生記念感謝献花式」が持たれた。


この時、テントや野営道具を運んでくれたのが今回の東海道53次にも同伴する「The WildRover(ワイルド・ローバーⅢ世号)」であった。


この「自転車ぶらぶら旅」において、校祖・同志社創立者新島襄の終焉の地訪問をパートナーである「The Wild Rover(ワイルド・ローバーⅢ世号)」とともに果たすことができた
 
なお、ブログ「中仙道てくてくラリー」で「新島先生感謝記念献花式」や弥次喜多コンビの旅行記を紹介している。


 

校祖・新島襄の終焉の地・大磯に立つ


東海道53次 の日本橋より8番目の大磯宿の旧街道と現国道1号線の交わる信号「照ケ崎海岸
入口」の角地の緑地園内に「新島襄終焉の地碑」がひっそりと佇んでいる。


新島襄漢詩「寒梅」はわたしの愛唱詩のひとつである。
新島先生終焉の地に立つという希望がかない、われわれ弥次喜多はこの漢詩「寒梅」を熱唱して先生への感謝の念を伝えた。

                                                    寒梅

                 新島襄

             

              庭上一寒梅
                                                笑侵風雪開
                                                不争又不力

                                                自占百花魁

 

 

イメージ 7 イメージ 8

               『新嶋襄先生終焉の地』公園と石碑 (大磯)

 


■ 想い出 :国道1号線(東海道)とヒッチハイク


今回の『星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』を準備していて、思い出としてよみが
えってきたのが青春時代の東海道ヒッチハイクであった。


いまから約60年前 19608月大学1年生のとき、ボーイスカウト京都第11団年長隊(当時シニア
スカウト)ではアドベンチャーハイキングとして国道1号線(東海道)を東京に向かうことになった。
京都より東京まで約500キロをヒッチハイクで踏破するのだ。


ペアを組んだのは、ボーイスカウト隊の隊長・大西孝雄氏と副長のわたしである。大西BS隊長は
当時、京大ローバースカウト(青年隊)を立上げ、京都連盟青年指導者層の中核として活躍されて
いた。尊敬する立派な実践派若手リーダーであった。


わたしたちは国道1号線京都伏見、城南宮の国道でヒッチハイクの旅を開始した。ふたりとも初めてのヒッチハイク、恥ずかしさよりも未知への挑戦に興奮していた。当時、東名神高速道路は東京
オリンピックに向けて工事中であったと記憶する。国道1号線が日本の骨格であり、大動脈であった。現在よりも通行量が多かった。


何台目かは記憶がないが、名古屋へ回送される大型トラックの荷台に乗せてもらい西の天下の剣・鈴鹿山脈を越え、高度経済成長にむかって走りかけていた四日市の巨大石油コンビナートの姿に
目を見張りながら第一日目の宿泊地・名古屋の熱田神宮近くの国道1号線で降ろしてもらって、
お世話になったトラックの運転手に感謝の言葉を述べたことをいまなお鮮明に覚えている。


今回の「東海道53次自転車ぶらぶら旅」でも、旧東海道近くにある思い出の地・熱田神宮(名古屋)
に立ち寄って約60年前にツエルト(簡易テント)を張った参道横の樹林に立った。


青年のこころをかきたてたヒッチハイクという冒険旅行の第一夜、パワースポットである境内を懐中
電灯を照らしながら歩きまわったことが懐かしい。一夜のツエルトには訪問者である蚊の大群が押し寄せたが、荷台に揺れて疲れ切っていたわれわれには苦にもならず爆睡、二日目の朝をむかえた。


熱田神宮の樹林から漏れる木洩れ日は、勇み立つ青年たちのこころに静寂と希望の旋律を奏でていた。1日目の体験に自信を持ったわれわれは、「東京方面ヒッチハイク中」という行先を書いたプラカードを胸にかかげ熱田神宮近くの国道1号線に立った。それもボーイスカウト・ユニフォーム姿だからひときわ目立つ。


2日目、東京へ回送される荷台の長いトラックがわれわれを拾ってくれた。次々と現れる太平洋の風景の大パノラマのなか、潮風をあびながら浜名湖を通過し、登呂遺跡のある日本平で降ろしてもらった。そのとき静岡の海岸でとった一枚の懐かしい写真がある。ベレー帽の良く似合う、青春を謳歌する青年たちの若き姿である。

イメージ 9
左・大西孝雄氏(当時BS京都第11団BS隊長)と私 
   19608月静岡海岸(登呂遺跡附近)にて


3日目、いよいよ最終日、大型トラックの荷台に陣取って、天下の剣・箱根越えの日を迎えた。われわれは疾風するトラックより風の音に負けじと「箱根八里


箱根の山は、天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)もものならず
萬丈の山、千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)へ、後方(しりへ)にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか
一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
天下に旅する剛氣の武士(もののふ
大刀腰に足駄がけ
八里の碞根(いはね)踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士


当時流行っていた石原裕次郎フランク永井が唄っていた「夜霧の第二国道」の替え歌を絶叫しての箱根越えとなった。未知数の青春には夢と希望がいっぱい詰まっていたのである。そして今がある。なんとすばらしい人生でなないか。「星の巡礼者」としての18ページが、現在の75ページに続い
ている。その栄光に万感の歓びとイヤサカ(弥栄)を贈りたい。


このようにして、青春を爆発させた「年長隊アドベンチャ・ヒッチハイク」は東京到着をもって青年たちの夢を叶えてくれた。


今回も、あの心地よい約60年前の思い出に浸りながら「星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅」の最終地・日本橋に立ったのである。
 

イメージ 10
2016年6月3日「星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km」の最終地である日本橋
着いた。


わたしとサイクリングとの出会い
 
老齢の域に達し、今後は自転車による旅も少なくなるであろう。この機にサイクリング人生と、共に走った自転車を紹介しておきたい。
 
太平洋戦争後、1950年代頃からサイクリングが野外での健康的なスポーツとして認識され始め、
全国各地に同好クラブが設立されるようになっていた。
この時代サイクリングはツーリングと呼ばれはじめ、若者にとっての憧れの的であった。 戦後の
物不足からようやく生活を豊かにする文明の利器が出回り始めた頃でもあった。
わたしたちの母・初子は、このような子供たちの夢を叶えるために機を見るに賢明な女性であった。
いまだ日本全体が豊かとはいえない時代に、母は知り合いであった知人の警察署長で、すでに
定年退職され「山崎自転車店」を開業されていた社長さんに頼んで最新式のサイクリング車を手に
入れてくれたのである。

目の前に現れたピカピカのロードレース用のサイクリング車のまぶしかったこと、いまだ忘れること
ができない感動の一瞬であった。フレームはアルミ製に、赤の塗装がほどこされたいかにも軽快
な印象がぴったりなサイクリング車であった。
わたしにとってのサイクリング車第1号となった。 まよわず「母なる初子Ⅰ世号」と命名した。
当時、第一サイクリング・ブームであり、わたしも京都サイクリング協会立ち上げに協力したり、
同志社大学サイクリング同好会発足期にかかわっていた。
しかし、長距離サイクリングで必要な宿泊施設を持つユースホステル運動に興味をもつとともに、
本格的アウトドア―のボーイスカウト運動に力をいれていった。
これ以降、わたしのサイクリングはボーイスカウトワンダーフォーゲルユースホステル活動の
ツールのひとつとしてのパートナーとなる。
長距離サイクリングや海外サイクリングだけでなく、ボーイスカウトの野外活動時における登山、
ハイキングや山歩きにサイクリングを取り入れたりもした。日本におけるマウンテンバイクの走り
を演出していたことになる。
 
次に、サイクリング・パートナー達を紹介しておこう
 
もちろん最初のパートナーは<The Moms Hatsuko(母なる初子Ⅰ世号)>である。
星の巡礼 カミーノ・デ・サンチャーゴ巡礼路850km」(スペイン・ピレネー山脈縦走)や 「星の巡礼 ニュージランド縦断サイクリング」などに同走した<The Pettit Prince星の王子さまⅡ世号)>、
それに続く「星の巡礼 南朝鮮半島縦走サイクリング530km」 や 今回の「星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km」ほかに同伴した<The Wild Rover(ワイルド・ローバーⅢ世号)>による長距離ツーリングを高齢になった現在も健康維持のツールとしてパートナーと共に楽しんでいる。

イメージ 11
The Moms Hatsuko(母なる初子Ⅰ世号)>
写真が残っていないので当時のカタログより掲載
 

イメージ 12
      The Pettit Prince星の王子さまⅡ世号)  マウンテンバイク
 
星の巡礼・カミーノ デ サンチャゴの旅」(フランス南部よりスペイン北部を縦断するピレネー山脈
840km)、炎天下(体感温度40℃)の向日葵畑にての雄姿


 このマウンテンバイクは、滋賀県に移り住んでからJR大津駅の裏にあった中古品回収業者から分けてもらった再生自転車である。重量級でありタフ、スペイン巡礼の道ピレネー山脈縦走や台湾一周、ニュージランド縦断に付き合ってくれた仲間である。
 
イメージ 13 イメージ 14
         The Wild Rover(ワイルド・ローバーⅢ世号)>
 
左・「星の巡礼・中仙道てくてくラリー」馬篭宿の石畳みの旧道にて     
右・ 星の巡礼・韓国縦断の旅」ソウル市内にて

わが青春のいろいろな懐かしい思い出を愛車「ワイルド・ローバー三世号」にパッキングし、東海道53次の一里塚に導かれて江戸・日本橋にむかって走り出すことにする。



東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう>Ⅱ 
 ■< 立寄り東海道53次の一里塚跡 1 (京より1里~54里)>につづく