shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 21

2017『星の巡礼奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』

3‐2 多賀城塩釜・松島登米 ⇒平泉 <奥の細道紀行 3>
塩釜街道を東へ、松島の絶景に感激し、登米に立寄り平泉へと向かう。
⑨塩釜・松島を自転車で巡る201759日>

 
塩釜・松島サイクリング芭蕉コースは、約24km 5時間コースである。

◎塩釜・松島サイクリング・マップ
 
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◎恐れながらわたしも一句

⑨塩釜・松島・石巻    
「朝よさを 誰まつしまぞ 片心 」 雄島 「身を捨つる 笑ひ石仏 月朧」
あさよさを だれまつしまぞ かたごころ 句碑なし みをすつる わらひせきぶつ つきおぼろ
「松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす」  曽良の句 「松島や 白い貝殻 見つけたり」
まつしまや つるにみをかれ ほととぎす   まつしまや しろいかいがら みつけたり
    「松島や 坐して磯嗅ぐ 瑞巌寺
    まつしまや ざしていそかぐ ずいがんじ
    「喰らいつき 眺むる月や 松の島」
    くらいつき ながむるつきや まつのしま
 
多賀城跡を後にして県道35号線を車で東に向かい、東北本線を横切って塩釜駅を通過、なお北上すると鹽竈(しおがま)神社・志波彦(しわひこ)神社に着く。

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JR東北本線を走る客車と貨物列車(塩釜駅付近の踏切ですれちがう)

塩釜神社第1駐車場に車を停め、芭蕉の「奥の細道 塩釜・松島滞在跡」を自転車で追うことにした。
駐車場奥の階段を自転車を押してのぼると「鹽竈神社志波彦神社」にでる。

 
◎鹽竈(しおがま)神社 ・ 志波彦(しわひこ)神社


鹽竈神社式外社)のなかに志波彦神社式内社)が祀られている。
すなわち、二社が同一境内に鎮座している。


表参道である表坂(男坂)への界隈は昔ながらの風情をかもす味噌屋、醤油屋や造り酒屋がならび、門前町の面影を残すように景観整備がなされている。


表参道は、芭蕉も「石の階九仭に重なり」(いしのきざはしきゅうじんにかさなり)と描写しているように、大杉におおわれた急な石段が続く。行きついたところに伊達家の威光をうかがい知れる荘厳な社殿がある。


残念ながら一つの花にたくさんの花びらが開くと言われている有名な鹽竈桜(しおがまさくら)は、すでにその姿を消しつつあった。


ただ、サツキが咲き誇り、鮮やかな新緑に映え渡っていた。

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鹽竈神社式外社)の鳥居                              志波彦神社式内社)の朱の大鳥居

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この季節、楓のうす緑が太陽の光をあびてその美しさを見せつけている。
志波彦神社式内社)の朱の大鳥居をくぐってすぐ左手に「芭蕉奥の細道碑」がたっている。

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芭蕉奥の細道碑」
 
 
奥の細道・塩釜>

 「早朝塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽きらびやかに、石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳命今に至りてしたはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。日既午にちかし。船をかりて松嶋にわたる。其間二里餘、雄嶋の磯につく。」


 <現代語訳>
早朝、塩釜(塩竃)神社に参詣する。伊達政宗公が再建した寺で、堂々とした柱が立ち並び、垂木(屋根を支える木材)がきらびやかに光り、石段がはるか高いところまで続き。朝日が差して朱にそめた玉垣(かきね)を輝かしている。
このような奥州の、はるか辺境の地まで神の恵みが行き渡り、あがめられている。これこそ我国の風習だと、
たいへん尊く思った。神殿の前に古い宝燈があった。金属製の扉の表面に、「文治三年和泉三郎寄進」と刻ん
である。父秀衡の遺言に従い最後まで義経を守って戦った奥州の藤原忠衡(ふじわらただひら)である。
義経奥州藤原氏の時代からはもう五百年が経っているが、その文面を見ていると目の前にそういった過去の出来事がうかぶようで、たいへん有難く思った。俗に「和泉三郎」といわれる藤原忠衡は、勇義忠孝すべてに長けた、武士の鑑のような男だった。その名声は今に至るまで聞こえ、誰もが慕っている。
「人は何をおいても正しい道に励み、義を守るべきだ。そうすれば名声も後からついてくる」というが、本当に
その通りだ。もう正午に近づいたので、船を借りて松島に渡る。二里ほど船で進み、雄島の磯についた。」
奥の細道朗読より)


芭蕉が感動したという文治神燈は、左宮の前にある。


藤原秀衡の三男・忠衡は、源義経をかくまう父・秀衡の遺言どおり義経を守り、討死する。忠衡が自らの命に代えても父との約束を守るという願いを込めて、文治3年(1187年)に和泉三郎(藤原忠衡によって奉納された約800年前の神燈(燈籠)がある。

ここでも芭蕉は、義経のよき理解者であった藤原忠衡義経に殉じた息子を称えて奉納された神燈を訪れて
いる。 芭蕉もまた、義経の良き理解者であった。

鹽竈神社志波彦神社を参拝したあと、ゆるやかな東参道(裏参道)を下り、五重石灯籠横にある「芭蕉止宿の地」碑を経て、深みのある美しい黒色の稲井石(硯石)が敷き詰められた石畳みにでる。
芭蕉は、元禄2年5月8日塩釜に着き、この地にあった法蓮寺(明治4年廃寺)門前の旅籠「治平」に泊まっている。
 
次に向かったのは、塩釜の由来となった塩の神様を祀り、製塩の釜があるという塩竈神社の境外末社御釜神社」(おかまじんじゃ)に立寄る。東(裏)参道をまっすぐ南へ、塩竈海道(国道45号線)をわたった1つ目の角にある。
芭蕉も立寄ったのであろう、境内に「芭蕉神竈奉拝」の碑がある。

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芭蕉神竈奉拝」碑のある御釜神社

御釜神社前を西へ向かいT字路を左折、すぐ右に愛宕神社の鳥居がある。 石の階段を上る途中、右手の煙波亭跡に芭蕉晩鐘の碑」がある。草むらにおおわれ見つけづらいかったが、近所の人に助けられ見つけることができた。
芭蕉晩鐘の碑」には、奥の細道の塩釜紀行の項が書かれ、塩竈の浦に入相の鐘を聞」が刻まれ石碑のタイトルとなっているようである。

小高い丘にあるこのあたりから見る千賀ノ浦(塩釜湾)の風景は絶景であったと思われる。
当時、眼下に見える塩釜市役所のあたりまで海岸が迫っていたという。


そして、国道45号線の旧道とバイパスとの分岐角に四角いモダンな「芭蕉船立の地」石碑がおかれている。

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愛宕神社鳥居をくぐり石段を上る  ( 石段途中の右側に「芭蕉晩鐘の碑」が建つ)

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芭蕉船立の地」の石碑

芭蕉晩鐘の碑」を後にして、「七曲の坂」を自転車を押しあがり塩竈神社もどる。
坂の上り口に「ななまがり坂」を示す古い石の道標がたっている。直進すると杜の木々におおわれた塩竈神社で最も古い参道といわれている「七曲り坂」がつづく。

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「七曲り坂」の上り口に立つ古い道標

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塩竈神社で最も古い参道と言われている「七曲り坂」

松島へ急がねばならない。


塩竈博物館前を通って車の待つ第1駐車場に帰り着く。自転車のリアーバックに食糧を積替え、近くの水場でボトルを満水にして、一路松島への国道45号線を「芭蕉船立の地」、歌枕「籬島」(まがきじま)の見える塩釜港の魚市場先に立寄って自転車を走らせる。

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松島海岸を自転車で駆ける

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松島海岸を北上し松島に向かう



                              塩釜・松島 登米 ⇒平泉 <奥の細道紀行 3>
                                                       松島へつづく