これより奥の細道紀行3に入って行く。
⑧多賀城を自転車で巡る-1 <2017年5月8~9日>
芭蕉は、いよいよ仙台領に入る。
岩沼では、日本三大稲荷の一つ「竹駒稲荷神社」の側にある歌枕「武隈の松」を見に立寄っている。
この松は根元から二本の幹となっていたことから「二木の松」とも呼ばれている。
歌枕で、陸奥の国守・藤原元善が枯れた松を植え替えさせ、その後、植え継がれて、現在の松は7代目と
いわれる。
こちらも7代目の「武隈の松」を見に立寄った。
意味 : 江戸を旅立った桜の頃より、待ち焦がれていた武隈の松を三月越しに見ることが出来た
恐れながらわたしも一句
實久 「竹駒の 松も疾風や 股別れ」 (たけこまの まつもはやてや またわかれ)
意味 : 竹駒の二股の松も植え継がれて、はや7代目を迎えるという、時の流れは疾風のようだ
「武隈の松」(二木の松)
武隈稲荷神社社殿
途中、仙台には寄らず、国道4号線を離れ、国道45号線を東へ向かい、多賀城に直接入った。
5月8日夜の当方のスケジュールは、多賀城で泊まることになっている。
まずは宿泊地として、有名な多賀城碑のある丘の西側の駐車場(公衆便所あり)に決める。
残している。
わからなくもない。
奥細の細道をたどってみて思うのだが、古の歌人が詠った歌枕の地のその後の様変わりに、どうしても発句
する心情ではないということであろうか。
芭蕉としてみれば、ただ一度は訪れて見たかった歌枕の地という物見遊山的な地も多かったのではないかと推察する。
だが芭蕉は、「壺の碑」に関する句は残していない。
多賀城のサイクリング・ルートは約9km、約3時間のコースである。
◎多賀城サイクリング・ルートマップ
◎恐れながらわたしも一句
3.多賀城(仙台)⇒釜石・松島 ⇒ 登米⇒ 平泉 <奥の細道紀行 3> | ||
<芭蕉・曽良の句> | <恐れながらわたしも一句-實久> | |
⑧多賀城 <枕詞ー武隈の松> | ||
「桜より 松は二木を 三月越シ」 | 岩沼・ | 「竹駒の 松も疾風や 股別れ」 |
(さくらより まつはふたぎを みつきこし) | 竹駒稲荷神社 | たけこまの まつもはやてや またわかれ |
「あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒 」 | 多賀城跡壺の碑 | 「謎解きや 壺の碑 五月晴れ」 |
あやめぐさ あしにむすばん わらじのお | なぞときや つぼのいしぶみ さつきばれ |
「多賀城碑」(壺の碑―つぼのいしぶみ)は、小高い丘にある覆堂(鞘堂)のなかに鎮座している。 薄暗い覆堂のなかをのぞくと天平宝字6年(西暦762年)に建立されたという2mほどの石碑が建ち、文字が書かれているようだが不鮮明で読み取ることができない。たぶん、たくさんの拓本がとられたからであろう。 現在は、壺の碑を守るため覆堂に収められているようである。
多賀城南門跡より丘へ向かうと「壺の碑」を納める覆堂がある
歌枕「壺の碑」
わざわざこの碑を見るために訪れ、感動している。
「壺の碑」の覆堂の側には、碑と関係のない芭蕉句碑「あやめ草・・」が立っている。
「壺の碑」の覆堂の側に立つ芭蕉句碑 「あやめ草」
意味 : あやめ草を葺く日の今日民家ではそれを軒にさすが、旅に出ている私は加右衛門に貰った
紺の染め緒を草鞋の緒に結ぼう、加右衛門に対する感謝の吟
恐れながらわたしも一句
意味 : 五月晴れのもと、壺の石文(いしぶみ)に書かれた謎を解くのも楽しいものだ
多賀城跡をスタートし、中央公園を通り抜け、JR東北本線の踏切を渡って、国府多賀城駅に立寄り、東北歴史博物館の前を東へ駆ける。土塁や塔跡の礎石を残している多賀城廃寺跡、滋賀県犬上郡にある「お多賀さん」の分詞・多賀神社をへて坂を下ると、芭蕉も訪れた歌枕「野田の玉川」にでる。
玉川に架かる「おもはくの橋」は昔の面影はなく、土橋から現代の橋に架け替えられている。
また、塩釜を源流として流れてきている玉川は、立派な川幅の真中に溝がつくられ、わずかな水が流れている。昔の面影を残そうとする多賀城の心意気を感じることができる。
「おもわくの橋」
歌枕「野田の玉川」
古来、王朝貴族をはじめとする多くの歌人が、このちの情景「野田の玉川」に心を託し歌を詠んだ。
「おもはくの橋.」(思惑橋)は、野田の玉川にかかる橋で、安倍貞任が見染めた女性のところに通うため渡った橋なのでこの名があるという。
歌枕で有名な地であっても、当時の風情が無くなっているか、すっかり情景が変わっていることが多い。
歌を思い描くには自分なりに風情や情景を想像するしかなく、リアルに欠けるところがあることは否めない。
川沿いに自転車を走らせ、次なる歌枕「末の松山」と「沖の石」へ向かう。
末松山 宝国寺の裏に樹齢400年を超えた大きな松が2本立ち並んでいる。
二本の松「末の松山」(歌枕)は、宝国寺前の細い道を先へ進んだところにある池に大小の岩が重なっている
歌枕「沖の石」(沖の井)を右へ回り込んだ小高い丘の上にある。
「末の松山」は、陸奥を代表する恋愛を象徴する歌枕ゆかりの地として有名である。
意味 : 約束したのにね、お互いに泣いて涙に濡れた着物の袖を絞りながら、末の松山を波が
越すことなんてあり得ないように、決して心変わりはしないと
「沖の石」(沖の井)も、古来歌に詠まれた歌枕であり、今もって池のなかの奇石はるいるいとした
姿をとどめており、古の情景を伝えている。
二条院讃岐 「わが袖は潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の人こそ知らね 乾く間もなし」 (千載集)
意味 : わたしの袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ。他人は知らないだろうが、
(涙に濡れて)乾く間もない
小野小町 「いてのしまというたいをおきのいて身を焼くよりも悲しきは宮こ島べの別なりけり」 (古今和歌集)
末松山 宝国寺裏にそびえる歌枕「末の松山」
宝国寺裏の小高い丘の上にある歌枕「末乃松山」
「末の松山」へ向かう途中にある歌枕「沖の石」
なぜならいま「末の松原」に立ってみれば砂押川はもちろん、遠く塩釜あたりを望むことができるからである。
涼しい風が末の松原に吹き寄せ、昔を懐かしんでいるようである。
当時の面影はなく、庶民の家々が末の松山に迫ってきている。
これより、塩釜、松島に向かう。 塩釜は多賀城より約5km、車で約30分の隣町である。