shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 21

2017『星の巡礼奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』

 3-2-2 塩釜松島 ⇒ 平泉 <奥の細道紀行 3>
⑨塩釜・松島を自転車で巡る-2      2017589日>

芭蕉曽良は松島で句を残している。

⑨塩釜・松島・石巻    
「朝よさを 誰まつしまぞ 片心 」 雄島 「身を捨つる 笑ひ石仏 月朧」
あさよさを だれまつしまぞ かたごころ 句碑なし みをすつる わらひせきぶつ つきおぼろ
「松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす」  曽良の句 「松島や 白い貝殻 見つけたり」
まつしまや つるにみをかれ ほととぎす   まつしまや しろいかいがら みつけたり
    「松島や 坐して磯嗅ぐ 瑞巌寺
    まつしまや ざしていそかぐ ずいがんじ
    「喰らいつき 眺むる月や 松の島」
    くらいつき ながむるつきや まつのしま



芭蕉  「朝よさを 誰まつしまぞ 片心 」   (あさよさを だれまつしまぞ かたごころ)
          朝な夕なに『奥の細道』の旅への想いで松島が心を占有している。そこに誰か恋する人が待って
         でもいるように
          「松島」と「待つ」の縁語をかけている
 
曽良  「松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす」   (まつしまや つるにみをかれ ほととぎす)
           松島よ、ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、鶴に身を変えてくれ、今鳴いているほととぎすよ
 
恐れながらわたしも一句
實久  「身を捨つる 笑ひ石仏 月朧」   (みをすつる わらひせきぶつ つきおぼろ)
        身を捨てる(修業をしている)生き仏を眺めて、月は「あれは石仏だね」と笑ってる  (松島・雄島にて)
 
 松島へ急がねばならない。
塩竈博物館前を通って車の待つ第1駐車場に帰り着く。 自転車のリアーバックに食糧を積替え、近くの水場でボトルを満水にして、一路松島への国道45号線を「芭蕉船立の地」、歌枕「籬島」(まがきじま)の見える塩釜港の魚市場先にあるに立寄って自転車を走らせる。
 
歌枕「籬島」(まがきじま)は次のように詠われている。

「わがせこを  宮こにやりて  しほがまの  まがきのしまの  松ぞこいしき」
(古今和歌集 東歌・松島「八百八島」の一番手として紹介されている)
 
芭蕉は「奥の細道」で次のように書き記している。

五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也」 とでている。
<現代語訳 : 塩がまの浦辺から漁師たちが小舟を漕ぎつらねて捕った魚を分け合う声々とともに、夕月が照らし出すように幽か望むことができた>

芭蕉は、ここ「芭蕉船立の地」より松島へ舟で向かった。
現在も、マリンゲート塩釜より「日本三景・松島」の風景を楽しみながらの約50分の船旅がある。

塩釜と松島を結ぶ芭蕉コースは、丸文松島汽船のみが運航している。千貫島や仁王島など主な島々を巡り、浅瀬を航行するため、より近くで島の表情を楽しむことができる。観光しながら移動手段としても活用できる船旅・芭蕉コースである。

こちらは東北大震災のとき、津波が押し寄せ洗われた国道45号線(松島海岸)を、遠くに海に浮かぶ松島の島々を観賞しながら自転車を走らせた。 海岸線にはいまなお津波の爪痕が残り痛ましい。 国道にも海抜が表示され、避難路の誘導表示が目立つ。

津波に襲われた日本三景・松島を訪れるのは6年前の大震災直後、同志社ローバースカウト50周年記念を兼ねて「東北がんばれ」のバナーを掲げ、寄付を募りながら中仙道を歩いたあと、鎮魂慰霊祭に訪れて以来である。被災地の復興ぶり、東北の人々の素晴らしいがんばりに称賛の声をあげた。
 

次々に現れる松島の島々を堪能しながら自転車を走らせていると、右手にある雄島に着く。 
松の緑に映える朱色の橋「渡月橋」を渡ると、修行の地であった雄島である。

修行僧がこもった洞窟や岸壁に刻まれた数多くの仏様の彫刻が、時間を越えて現代に蘇っている姿に
接することができる。

南端に立つ「頼賢の碑」や芭蕉の句碑を巡りながら、松島の多島美を楽しむ。
 
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  修業のための岸壁に掘られた洞窟 と  洞窟に彫られた仏像
 
歌枕「雄島」
「立ちかへり又もきてみん 松島や をじまのとまや 浪にあらすな」新古今集・皇太后宮大夫俊成)
と、歌枕としておおく詠われている。


芭蕉立寄り地「雄島」
元禄2年5月9日(1689・陽暦6月26日)、芭蕉は塩釜から舟で松島海岸に着き、雄島を訪れ、瑞巌寺に詣で、
のち福島に向かう。


奥の細道には「雄島」について、次のような印象が綴られている。


 雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。将、松の木陰に世をいとふ人も稀々見え侍りて、落穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作て、風雲の中に旅寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ


 現代語訳
雄島の磯は陸から地続きで、海に突き出している島である。瑞巌寺中興の祖、雲居禅師の別室の跡や、座禅石などがある。また、世の喧騒をわずらわしく思い庵を建てて隠遁生活をしている人の姿も松の木陰に何人か見える。落穂や松笠を集めて、炊いて食料にしているようなみすぼらしい草の庵の静かな暮らしぶりで、どういう来歴の人かはわからないが、やはり心惹かれるものがあり立ち寄りなりなどしているうちに、月が海に映って、昼とはまたぜんぜん違う景色となった>


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  雄島にある芭蕉()曽良句碑(左)

雄島を後にして「瑞巌寺・五大堂」へ自転車を走らせる。
観光船発着場に着いた遊覧船から松島巡りの観光客が押し出されてくる。


五大堂がある小さい島全部が聖域であり、その中に瑞巌寺守護のため五大明王が堂宇に祀られている。 この聖域に入るために、身も心もみだれのないよう脚下照顧して、気を引き締めさせるための配慮として「すかし橋」(透かし構造)が架かっている。

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  瑞巌寺五大堂に架かる「すかし橋」

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五大堂から見る松島の景観

いよいよ松島の最終地である瑞巌寺に向かう。
東北随一の禅刹として歴史を刻む国宝・瑞巌寺は伊達家の菩提寺である。
1689年(元禄2年)5月9日、芭蕉も「瑞巌寺」を訪れている。
石窟の前に「芭蕉奥の細道松島の文」の碑が立つ。

イメージ 5                                           瑞巌寺総門
 
 

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                    「芭蕉奥の細道松島の文」の碑(左より3つ目)
 

芭蕉奥の細道松島の文」


「抑ことふりにたれと松島は扶桑第一の好風にして凡洞庭西湖を恥す東南より海を入れ江の中三里浙江の潮をたたふ島々の數を盡して欹つものは天をゆひさし伏すものは波にはらはふあるは二重にかさなり三重にたたみて左にわかれ右につらなる負へるあり抱けるあり兒孫愛するか如松のみとりこまやかに枝葉汐風に吹たわめて屈曲をのつからためたるかことし其氣色ヨウ(穴冠の下に「目」)然として美人の顏をよそほふちはやふる神のむかし大山すみのなせるわさにや造化の天工いつれの人か筆をふるひ詞を盡さむ」


現代語訳さて、すでに言い古されていることだが、松島は日本一風景のよいところであり、中国の名勝地の洞庭湖や西湖と比べても恥ずかしくないほどだ。東南の方角から湾内に水を入れたようになっており、湾の中は三里もあって中国の浙江のように海水を満々と湛えている。島の数は限りなく多く、それらの中で、そびえ立っているものは天を指しているようであり、低く横たわるものは波の上に腹ばいになっているかのようである。あるいは二重に重なっているもの、三重に畳まれたようなものもある。はたまた、左のほうに分断されているかと思えば、右の島と続いていたりする。小さな島をおんぶしているようなものもあれば、抱いているようなものもあり、まるで子供や孫を愛しんでいるかのようである。松の緑は冴え冴えとし、枝葉は潮風に吹かれてたわめられている・・・>(おくのほそ道文学館)                                        
 
 
 
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