shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 37

2017『星の巡礼奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 37
 
6-3  酒田 ⇒ 象潟 ⇒ (新潟) <奥の細道紀行 6>
鶴岡から北上し、酒田を経て、歌枕・象潟へ向かう


㉑象潟を自転車で走る<2017年5月12日>

酒田より象潟へは国道7号線を北上、約36km/1時間のドライブである。


芭蕉は「奥の細道」で、象潟までの旅について次のように書き残している。
奥の細道 江山水陸の風光数を尽して、今象潟に方寸を責。酒田の湊より東北の方、山を越、礒を伝ひ、いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。闇中に莫 作して「雨も又奇也*」とせば、雨後の晴色又頼母敷と、蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。


<現代文> 海や山、河川など景色のいいところをこれまで見てきて、いよいよ旅の当初の目的の一つである象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れてしまった。暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して、雨が上がったらさぞ晴れ渡ってキレイだろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせてもらい、雨が晴れるのを待った。


元禄2年(1689)6月15日、芭蕉曽良は雨のなかを象潟に向けて酒田を出発している。途中、激しい雨に阻まれ吹浦の漁師の仮屋で夜を明かす。 翌日、「有耶無耶(うやむや)の関」を経て象潟に着く。関跡は、宮城県山形県の県境の標高906mの笹谷峠にある。 笹谷 街道は、平安の時代から太平洋側の奥州と日本海側の羽州とを結ぶ重要な街道で、 歌枕にも詠まれている。この辺りは、陸奥(みちのく)の難所として聞こえ、鳥海山から流れ出た溶岩流が海側に突き出た場所であり、さらに西からは日本海 からの激しい浸食をうけるという地形である。その道中は「是より難所。馬足不通」と曽良が書き残しているように、「馬も通れない」というほどの交通の難所であったという。


芭蕉曽良は、象潟では佐々木左右衛門宅に泊まった。象潟は、芭蕉が訪れた当時、「汐越」(しおこし・塩越)といい、入江になっていた。 九十九島、八十八潟があり、東の松島と並び名勝地、芭蕉がぜひ訪ねて見たかったところでもあった。


◎象潟を自転車で走るサイクリング・ルート  <約7km/1.5Hコース>

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◎恐れながらわたしも一句

㉑象潟(きさがた)-<歌枕ー象潟>    
「象潟や  雨に西施が 合歓の花」 芭蕉文学碑・ 「象潟の 鷺も白けり 忍び脚」
(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな) 蚶満寺 (きさがたの さぎもしろけり しのびあし)
「夕晴や  桜に涼む 波の華」    芭蕉文学碑 「ひねもすや 象潟の田に 鷺の舞」
(ゆうばれや さくらにすずむ なみのはな)   (ひねもすや きさがたのたに さぎのまい)
「腰長や 鶴脛ぬれて 海涼し 」 芭蕉文学碑 「象潟や 老松仰ぐ 鳥海山
(こしたけや つるはぎぬれて うみすずし)    (きさがたや ろうまつあおぐ ちょうかいざん)
 
芭蕉  「象潟や  雨に西施が 合歓の花」   (きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)

解説  西施(せいし)は、中国春秋時代後期(紀元前465年)の越の王越王勾踐(こうせん)の愛妾。越王勾踐は、絶世の美女西施のうつくしさにおぼれ、これが国の存亡の危機になるのではないかとかんがえた臣下の笵蠡(はんれい)は、一計を案じて彼女を敵国の呉王夫差(ふさ)に与えてしまった。案の定、呉王は彼女に耽溺し、たちまち国は乱れた。その機に乗じて越は呉をせめて陥落させ、西施は取り戻された。しかし、彼女がいると国難のもととなるであろうと考えた笵蠡は西施を暗殺し、水に沈めてしまう。美しいばかりに不幸であった西施の悲劇である。
また、松島は男性的、象潟は女性的と見るに、その女性の代表として西施が存在する。


芭蕉  「夕晴や  桜に涼む 波の華」       (ゆうばれやさくらにすずむ なみのはな)
意味  夕日に輝く象潟の海の波を、西行法師ゆかりの桜の木の下で見ていると、それも爛漫の花のように
           美しい
芭蕉  「腰長や 鶴脛ぬれて 海涼し」       (こしたけや つるはぎぬれて うみすずし)
意味  汐越に鶴が降り立って波しぶきをかぶっている。その鶴の脛が海の水に濡れていかにも涼しそうだ


恐れながらもわたしも一句
實久  「象潟の 鷺も白けり忍び脚       (きさがたの さぎもしろけり しのびあし)
意味  : 象潟(八十八潟・現在は水田)にもぐる泥鰌(どじょう)をねらってか、真っ白な鷺は的を絞って忍び足
     で近づいている
 
JR羽越本線象潟駅」前の駐車場に車を停め、自転車に乗り換えて芭蕉曽良が歩いたルートをたどることにする。
象潟駅から見るに、晴天のなか残雪輝く鳥海山が象潟の街を包み込んでいる。
象潟駅向かって左側に満開のサツキを背景に芭蕉文学碑が置かれている。
 
芭蕉文学碑」  
<潟   きさかたの 雨や西施か ねぶの花 
 夕方雨やみて処の 何がし舟にて江の中を 案内せらるゝ
   ゆふ晴や桜に涼む 波の華   腰長の汐といふ処は いと浅くて
    鶴おり立て あさるを  腰長や鶴脛ぬれて海涼し            
    武陵芭蕉翁桃青 >  にかほ市教育委員会

碑文は、蚶満寺所蔵の芭蕉真筆「象潟自詠懐紙」を刻んだものである。

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芭蕉真筆「象潟自詠懐紙」を刻んだ石碑

象潟駅を自転車でスタートし、JR羽越本線沿いに北へ向かうと本堰川に突き当たる。 道なりに左に入って、象潟小学校先で右へ、川を渡る。 その先の三叉路を左にすすみ、川の手前を左に入ると約100m先の左側に能因島がある。

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かっての島々が水田に映る様は西の松島と呼ばれる       

 
◎能因島(のういんじま)


松尾芭蕉は、元禄2年(1689)6月16日(現・8月1日)に象潟を訪れ、三日間の滞在の間、舟で潟巡りを楽しみ、「能因島」に立寄っている。 「奥の細道」の象潟のくだりに、「まず能因島に舟を寄せて三年幽居のあとをぶらひ・・・」と記されている。
どのようないきさつで、いつのころから「能因島」と呼ばれるようになったかは歴史的に定かではないとされている。


在は、文化元年(1804)の地震で陸続きとなり、水田に見る沢山の松の生える小山にその面影を残している。芭蕉が訪れた元禄元年(1689)には、これらの小山は海面にでた小島、すなわち松島であった。


芭蕉は、その情景を「俤(おもかげ)松島にかよひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」と書き記している。

 
古(いにしえ)より、歌枕「象潟(きさがた)」を詠った和歌や句はたくさん残されている。なかでも好きな歌や句をいくつか拾ってみたい。


世の中はかくても経けりきさ潟の海士の苫やを我宿にして (拾遺集1087/能因法師)


きさがたのさくらは浪にうづもれて花のうへこぐ海士のつり舟  西行法師)
松島や雄島の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の (山家集/西行法師1118-1190)


松島や雄島しほかま見つつきてここに哀れをきさかたの浦  (菅薦抄/親鸞1173-1262)


きさかたのいはさの浪は早けれどこころの月はかげもすみつつ (1629/沢庵禅師)


象潟もけふは恨まず花の春 (1789/菊名小林一茶)


象潟の海にかわりて秋の風 (奥州行脚1894/正岡子規)



◎天然記念物「象潟」 ・ 九十九島


九十九島は、鳥海山のふもとに点在する60あまりの島々が田園地帯に浮かんでいるように見える象潟独特の風景である。
その由来は、海に面した鳥海山にある。 紀元前466年におきた鳥海山の巨大崩壊は、「象潟岩屑なだれ」と呼ばれ、一気に流れ落ちて象潟平野に達し、先端は日本海に突入した。その時、山頂から滑り落ちてきた巨大岩塊の集積で「流れ山」と呼ばれる小山の集まりが、東西1km南北2kmにわたり海の中に浮かぶ入り江を形成した。 これが、象潟の原形「九十九島」といわれる。
その後、1804年に象潟大地震がおこり、2.4mも隆起し、水が枯れてしまった。 干潟(陸地)になり現在の姿となった。


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文化元年(1804)前の象潟と鳥海山          現在の象潟(能因島)と鳥海山
   にかほ市強度資料館提供)

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西の松島といわれる現在の象潟と 鳥海山からなる絶景  にかほ市観光協会提供)


芭蕉曽良の象潟での宿泊について、跡地にある解説板に触れておく。

象潟に着いた芭蕉達は最初に旅籠能登屋(佐々木孫左衛門宅)を訪れ、雨に濡れた衣服を干し、その間うどんの食事を所望する。しかし当日は近所の熊野神社の祭りで、能登屋は女客で一杯であったため、紹介されて向屋(佐々木左右衛門次郎宅)に宿を移転する。 向屋に移った芭蕉は早速象潟橋(欄干橋)に出向き、待望の九十九島の夕暮れを楽しんでいる。

 
因島を後にして、水田に映る小山、いや小島である松島の景観を楽しみながら象潟川を渡り、自転車を走らせること約2km、蚶満寺の山門に着いた。


蚶満寺は、仁寿3年(853)に天台座主円仁(慈覚大師)開創と伝えられる。蚶方(きさかた)の美景と神功皇后の伝説によりこの地を占い、皇后山干満珠寺と号したという。


蚶満寺山門前の、池を配した広大な庭園の中央辺りに芭蕉翁像と芭蕉句碑「象潟や 雨に西施が 合歓の花」がある。


元禄2年陰暦6月、芭蕉が訪れて、「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛している。 ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、さきの句を詠んでいる。
また、この地を訪れた司馬遼太郎は、「蚶満寺」の名について、「象潟(きさかた)」は古くは「蚶方」とも表記したことから、「方」が「万」の字に変わって「かんまん」と音読みしたのではないかと考察している。

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 蚶満寺山門                                                   山門前の池を配した庭園

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庭園の中央にある芭蕉翁像と芭蕉句碑「西施が合歓の花」            美女「西施像」


芭蕉九十九島遊覧のため舟に乗った「欄干橋」に向かう途中で、「道の駅ねむの丘」に立寄り、久しぶりの温泉を楽しんだ。 4階の温泉から見る日本海は絶景である。 ここは2014年夏「日本縦断自転車旅行」でもお世話になっている懐かしい温泉、それも疲れをとってくれる(強食)塩泉である。今回も鳥海山が出迎えてくれた。

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「道の駅ねむの丘」でも鳥海山に出迎えられる

 
「道の駅 ねむの丘(温泉)」から蚶満寺にもどり、山門まえの庭園にある芭蕉翁像に別れを告げ、JR羽越本線の踏切を越えたところで左に進路をとり、国道7号線を斜めにわたって本堰川に突き当たる。 右へ行くと日本海、左へ100mほどで芭蕉も乗った象潟めぐりの舟が出発した朱色の「欄干橋」にでる。そのたもとに「船つなぎ石」がある。 またこの辺りからの九十九島を前景とした鳥海山は絶景といわれているが、現在は住宅に山裾が隠れてしまっている。

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 欄干橋(旧象潟橋) と 船つなぎ石                     欄干橋から見る景色は、象潟八景のひとつ(であった)
 

ここ欄干橋から芭蕉は舟で象潟・九十九島めぐりに出かけたと思うだけで追憶にひたることができるではないか。文化元年(1804)以降、芭蕉が見た象潟と鳥海山は見られなくなっているのが残念である。 芭蕉はこの欄干橋に元禄2年(1689617日に立寄っている。
 
先を進むと、左に「塩越城址」、むかいの細い道を入って行くと「熊野神社」がある。この神社の祭礼が曽良日記に出てくる「所ノ祭」であると解説板にでている。 名主今野又左衛門の家跡もすぐ近くにある。 さらに西へ、突き当りを左にまがると象潟での芭蕉の世話をした、又左衛門の実弟嘉兵衛の家跡がある。
 
嘉兵衛の家跡の向かいにあるひまわり保育園横の狭い道を入って行くと日本海を一望できる物見山に着く。
 
元に戻り、嘉兵衛の家跡から先(南)へ約200m先の突当りを左へ自転車のハンドルを切ると、街並みの間から残雪をまとった鳥海山が飛び込んでくる。この街 象潟のサイクリングは、鳥海山との共走り、道連れである。


しばらく進むと右角に「紅蓮尼生誕跡」の標柱が立っている。ここからの残雪いただく鳥海山は鮮やかである。
 
にかほ市広報によると、松島町と象潟町は、芭蕉の紀行文『奥の細道』で「俤 松嶋にかよひて又異なり松嶋は笑うが如く 象潟はうらむがごとし」とつづっているように、往時から広く世に知られた対照的な絶景の地であった。 また、約700年前、象潟町横町出身の谷(タニ)女が松島町のすでに他界した小太郎に嫁ぎ、その父母に孝養を尽くし、一生を小太郎に捧げた『軒端の梅心月庵紅蓮尼物語』は日本女性の鑑として語り伝えられている。かかる経緯から松島と象潟の両町は「夫婦町」の盟約を結んでいるという。
これもまた芭蕉が結んだ縁(えにし)であると言っていいだろう。

その先に、芭蕉曽良が象潟で最初の夜(616日)に泊まる予定であった「能登屋」が熊野権現の祭りで忙しく、代わりに泊まった「向屋」が斜めに向かい合って建っていた。 2日目は「能登屋」に泊まっている。 現在、両屋とも建物は残っていない。
国道7号線をわたり、JR象潟駅前の駐車場にもどってきた。 鳥海山の優しい抱擁に象潟の合歓(ねむ)がこたえているように見える。
芭蕉も感じたであろう、鳥海山の残雪の冷たい風と日本海の潮の風が混ざり合った出羽の風に、「奥の細道」最北の地を感じた。


いよいよ「奥の細道」は日本海側を南下しはじめ、岐阜の大垣まで続くのである。

                                       

                                        ㉒ 温海に立ち寄る
                                        ㉓出雲崎を自転車で走る
                                             につづく