㉒温海(あつみ)に立寄る
㉓出雲崎を自転車で走る<2017年5月13日>
その後、酒田を発ち、6月25日鶴岡・丸や義左衛門宅、26日温海・鈴木所左衛門宅、27日北中(山北町)を経て、28~29日村上・久左衛門宅、7月1日築地(中条町)次市良宅、2日新潟・大工源七宅、3日弥彦、7月4日出雲崎に到着し、商人宿大崎屋に泊まっている。
江戸時代には佐渡島へ渡海したり、佐渡の金銀を荷揚げする港として賑わっていた。狭い街道筋に「妻入り」の家並みが並び、2万人近い人々が天領としての出雲崎にひしめいていたと町史は伝えている。 現在は4000人ほどの静かな漁港である。
「妻入り」の家は、道に面して間口が狭く、奥へうなぎの寝床のように延びた建て方である。うなぎの寝床式家屋は、京町屋の間取りと似ているようでもある。
街並みの整然とした立ち姿は、街を愛する住民の優しさと、誇りがにじみ出ており、旧北国街道が背骨のように街を貫いて南北に通じている。
<奥の細道> 「越後路」 酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道(ほくろくどう)の雲に望む、遙々(ようよう)のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国市振(いちぶり)の関にいたる。この間九日、暑湿(しょしつ)の労に神(しん)をなやまし、病(やまい)おこりてことをしるさず。
芭蕉 「文月や 六日も常の 夜には似ず」 (ふみづきや むいかもつねの よにはにず)
(意味)七夕というものは、その前日の六日の夜でさえなんとなくワクワクして特別な夜に
感じるよ
景色だ
<現代語訳> 酒田では、名残を惜しんでつい長居をしてしまったが、ようやく北陸道の旅路についた。加賀の府金沢まで五百二十キロと聞けば、その旅路のはるけきこと、万感胸に迫る。鼠の関を越えて、越後に入り、そこを過ぎれば越中の国市振の関へと至る。この間九日。暑さと雨の難に精神は疲労し、加えて体調を崩す。ために、記すべき記録を持たない。
芭蕉 「文月や六日も常の夜には似ず」 (ふみづきや むいかもつねの よにはにず)
㉒温海に立寄る
2017年5月13日、こちらは象潟より国道7号線を南下、酒田、鶴岡を経て、JR羽越本線「あつみ温泉駅」手前、塩俵岩にある芭蕉句碑に立寄ったあと、新潟で国道8号線から日本海に沿って走る国道402号線に入り、出雲崎に到着した。自動車による285km、約6時間の長距離ドライブであり、すこし疲れた。
芭蕉 「 あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み」 (あつみやま ふくうらかけてゆうすずみ)
吹浦は酒田海岸の地名、あつみ山は山形県西田川郡温海町にある温海岳(標高736m)をさしている。雄大な景色の中で温海山が夕涼みをしているという擬人化した句である。この句は象潟からの帰路に詠んだものといわれる。
温海・塩俵岩に建つ芭蕉句碑「あつみ山や」
12時30分、「道の駅・温海」(鶴岡市)に到着
◎恐れながらわたしも一句
㉒温海(あつみ) | ||
「あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ」 | バス停塩俵岩付近 | 「わが顔や 温海涼みし 烏賊釣火」 |
(あつみやま ふくうらかけて ゆうすずみ) | (わがかおや あつみすずみし いかつりび) | |
「湯煙に 温海沸かすや 夏霞」 | ||
(ゆけむりに あつみわかすや なつかすみ) |
<解説 :全体は、「暑さを吹いて涼む」構成になっている。吹浦は酒田海岸の地名、あつみ山は山形県西田川郡温海町にある温海岳(標高736m)のこと。雄大な景色の中で温海山が夕涼みをしているという擬人化。酒田の門人たちへの挨拶吟でもある。この句は象潟からの帰路に詠んだものであるので、紀行文としては順序が変更されている。> (芭蕉dbより参照)
恐れながらわたしも一句
實久 「わが顔や 温海涼みし 烏賊釣火」 (わがかおや あつみすずみし いかつりび)
<意味: アツミの浜に立つわが顔も暗闇に光るいかつり火の風情に涼風を感じているではないか>
實久 「湯煙に 温海沸かすや 夏霞」 (ゆけむりに あつみわかすや なつかすみ)
◎鼠ケ関 (ねずがせき)
古くから、越後国と出羽国の国境の関であり、「なこその関」、「白河関」と共に「奥州三大関」に数えられてきた。鼠ケ関は能因の歌枕に「ねずみの関」とあって、10世紀頃(平安後期から鎌倉前期)にはすでに旅人にしられていたとおもわれる。室町時代の軍記物「義経記」によると源義経は鼠ケ関で山伏の格好に扮し、身分の低い人物を演じ、家臣である武蔵坊弁慶が杖で義経を叩きながら関所の疑念を払しょくし、無事関所を抜けた物語は、歌舞伎の「勧進帳」のクライマックスになっていることはよく知られている。
義経ひいきである芭蕉は、「義経記」に出てくる義経弁慶主従一行の関越えの舞台であり、歌枕である「鼠ケ関」をどうしても見ておきたかったのであろう、温海より馬でこの地を訪れている。不思議なことに芭蕉は曽良を伴わずにただ一人、この地に立っている。この間、曽良は温海の温泉につかっていたとか、親戚の家をまわっていたとか、後世色々な噂がささやかれている。
古代鼡関跡の石柱
その後、6月28~29日、曽良の旧主筋である榊原候が治めていた村上の「宿久左衛門」に二泊している。
途中、胎内にある桜の名所として有名な乙宝寺(おっぽうじ)に参拝、次の句を詠んでいる。
芭蕉 「うらやまし 浮世の北の 山桜」 (うらやまし うきよのきたの やまざくら)
解説 :あなたの住んでいる金沢は静かな場所でうらやましい。私は今江戸にあってよろず浮世の問題に悩まされています。「浮世の北」は北国金沢の意。句空は、金沢卯辰山のふもとに住んでいることを芭蕉は知っていたので、句空のことを「山桜」にたとえた。
芭蕉はこの頃、江戸蕉門の派閥抗争、家族の病弱、住いの狭隘と喧騒など、身辺近くに多くの問題を抱えていた。(芭蕉bdより)
芭蕉が乙宝寺参拝時に詠んだ句の石碑
14時10分、「道の駅・豊栄」に到着、ここは思い出の地である。 2010年7月に自転車による日本縦断をしたおり、ここでテントを張って一泊、友人の地酒をもっての歓待を受け、談笑したものである。寺泊を散策したあと、出雲崎に向かう。
17時45分、「道の駅 越後出雲崎・天領の里」に到着、日本海の夕日を楽しみながら一泊した。翌朝、さわやかな日本海の潮風に吹かれながら、自転車に乗って、芭蕉も訪ね歩いた良寛さんの誕生地を走りまわったあと、寺泊までの日本海に沿った旧北国街道(国道402号線)往復約30kmのサイクリングを楽しんだ。
㉓出雲崎を自転車で走る
出雲崎をまわったあと、日本海沿岸にそって走る国道352/402号線の出雲崎と寺泊間、片道約15km、運動不足を解消するために往復して、サイクリングで汗をかいた。もちろん寺泊温泉で、佐渡海洋深層水を使用している「きんぱちの湯」(500円)にもつかって疲れをいやした。
㉓出雲崎を自転車で走る
出雲崎Ⅱにつづく