㉓出雲崎を自転車で走る―Ⅱ
◎恐れながらわたしも一句
㉓寺泊・出雲崎・ | ||
寺泊-佐渡島 | 「霞立つ 佐渡や何処と 泊りかな」 | |
入口 | (かすみたつ さどやいづこと とまりかな) | |
「架け渡す 佐渡寺泊 天の川」 | ||
(かけわたす さどてらどまり あまのかわ) | ||
「荒海や 佐渡によこたふ 天の川」 | 出雲崎 | 「磯匂ふ 浜昼顔や 佐渡恋し」 |
(あらうみや さどによこたふ あまのがわ) | 芭蕉園・芭蕉像 | (いそにおふ はまひるがをや さどこいし) |
「去りゆきし 佐渡の島影 時雨かな」 | ||
(さりゆきし さどのしまかげ しぐれかな) | ||
「ひねもすや 佐渡に横たふ 夏の雲」 | ||
(ひねもすや さどによこたふ なつのくも) |
<解説> その人の心のままで感受した風景を楽しんだらいいと思う。
一つの解釈の仕方(読み方)を紹介しておく。
<これも最も人口に膾炙した芭蕉の代表的な句の一つ。元禄2年7月7日、新潟県直江津での 佐藤元仙宅での句会での発句として掲出されたもの。ただし、この夜、芭蕉が滞在していた直江津界隈は朝から雨で、夜になっても降り止まなかったらしいから、芭蕉は天の川を見ていない。とすればそれより以前に作ったものをこの夜発表したということであろう。そこでこの近日の天候を見ると連日雨で、七月四日の夜に少し星が見えた。だから、この夜出雲崎でこの句は構想されたものであろう。
夏の日本海は波も静かで「荒海」ではない。また、天の川は対岸から見て佐渡島には「横たわらない」。佐渡と本土に横たわる日本海は、芭蕉の心象風景の中では「荒海」であったらしい。それは、順徳上皇(1221年)、日蓮(1271年)、日野資朝(1332年)、世阿弥(1434年)など実に多くの流人が佐渡に幽閉されたことによるのかもしれない。そこに「横とう」天の川は、これら流人と芭蕉とのコミュニケーションパスでなくてはならなかったのであろう> (芭蕉db より)
恐れながらわたしも一句
<意味 : 佐渡は、天気によって霞たち、その正しい姿を見るのは至難のこともある。 数日の泊りも覚悟する
必要がありそうだ>
上杉氏に代わった堀秀治はここに代官前羽庄左衛門をおき,佐渡への渡海は必ず出雲崎からと定めた。徳川幕府もまたここに天領6万石の代官所をおき,江戸へ輸送する佐渡産金を2艘の官船をもって出雲崎へ陸揚げさせ北国街道から江戸へ輸送させている。
「五月晴れや 佐渡のお金が 通るとて」と一茶も詠っている。
佐渡金山より掘り出された金塊は一箱約49kg(13貫目)に荷造りされ船積みされた。
佐渡・小木港と出雲崎港間に横たわる佐渡海峡の最深部は300尋(ひろ・1尋=8尺=約2.40mX300尋)、水深約720mあったので、万一の難破に備えてそれぞれの金塊を入れた箱に浮き縄をつけたと伝えられている。
出雲崎港の朝日も絶景
◎妻入りの街並みが続く出雲崎
出雲崎は、当時この地方一帯の中心都市として越後一の人口密集地であった。多くの人が住むための工夫として、間口が狭く奥行の長い「妻入り」の町屋が数多く建築された。 当時の「妻入り」の景観がいまなお保存され、訪れるものに懐かしさと安らぎを与えてくれている。
朝一番、人影のない旧北国街道は静かである。間口が狭く、奥が細長い「妻入り」の家並みが続く。
北国街道沿いに建てられた妻入りの建物の見取り図
妻入りの細長い建物
出雲崎の旧北國街道に立ちならぶ妻入りの家並み
出雲崎の北国街道を自転車で駆けていると、街道を行く金銀を運ぶ重武装の一行が江戸へ向かって出立している光景が浮かんでくる。佐渡島からの金銀中継地の天領として、6万石の代官所があったことから出雲崎の重要性が伝わってくる。出雲崎は裕福な宿場町であった。
◎「おけさ」の起源
「おけさ」とは、お坊さんがまとう袈裟のことである。
「出雲崎おけさ」の発祥・起源について、すこし触れておきたい。
すでに平泉の項で述べたが、いまから約800年前、平安時代の終わりごろ、藤原氏の庇護のもとにあった源義経が源頼朝の挙兵に参加したおり、義経に道同し平家討伐に活躍した一家があった。奥州藤原氏の重臣で陸奥丸山領主であった佐藤庄司元治の子の継信、忠信兄弟であり、またわが子の武運を念じた両親も又、大の義経の理解者であった。
兄継信は屋島の合戦で義経の身代わりに、弟忠信は頼朝に追われた義経をかばい二人とも戦死してしまった。父親である佐藤元治は神社に寄進し、義経をはじめ息子たちの武運を祈る。また、母親の「音羽の御前」は、せめて息子たちの戦場の跡を訪ねるため奥州を旅立つ。出雲崎にたどり着いたが、先の長旅を思い、この地・出雲崎で尼僧となり息子たちの菩提を弔ったという。
「音羽の御前」は建久元年(1190)に、立派な最期を遂げた息子たちの詳報を聞き、嬉しさのあまり尼僧たちと袈裟(けさ)法衣のまま唄い踊ったのが「おけさ」(佐渡おけさ・出雲崎おけさ)の起源だと伝えられている。
出雲崎は「おけさ発祥之地」
さらに旧北国街道を北へ行くと右手に細い路地があり、その奥に石段がのびて妙福寺の山門が見える。
◎妙福寺境内にある「俳諧伝灯塚」
元禄2年(1689年)7月4日、出雲崎に一泊した芭蕉は「荒海や 佐渡によこたふ 天河」を残した。 その後、芭蕉門下二世の東華坊、三世の蘆元坊もこの地を訪れ、感慨にふけった。三代にわたる俳人が当地で詠んだ句を刻して当地の俳人近青庵北凕によって「俳諧伝灯塚」が建てられた。
写真左は文字も不明瞭な元の「俳諧伝灯塚」、右は大正年間に再建されたものである。
雪に波の花やさそうて出雲崎 蘆元坊
路地の突き当たりにある妙福寺 妙福寺境内にある「俳諧伝灯塚」旧新石碑
芭蕉翁像の後方に置かれている。