shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 39

2017『星の巡礼奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 39
 
出雲崎を自転車で走る―Ⅱ

◎恐れながらわたしも一句

㉓寺泊・出雲崎    
  寺泊-佐渡島 「霞立つ 佐渡や何処と 泊りかな」     
  入口 (かすみたつ さどやいづこと とまりかな) 
    「架け渡す 佐渡寺泊 天の川」          
    (かけわたす さどてらどまり あまのかわ)  
「荒海や  佐渡によこたふ 天の川」 出雲崎 「磯匂ふ 浜昼顔や 佐渡恋し」                    
(あらうみや さどによこたふ あまのがわ) 芭蕉園・芭蕉 (いそにおふ はまひるがをや さどこいし)  
    「去りゆきし 佐渡の島影 時雨かな」
    (さりゆきし さどのしまかげ しぐれかな)
    「ひねもすや 佐渡に横たふ 夏の雲」
    (ひねもすや さどによこたふ なつのくも)
 
 
芭蕉  「荒海や 佐渡によこたふ 天の川」   (あらうみや さどによこたふ あまのがわ)


<解説> その人の心のままで感受した風景を楽しんだらいいと思う。
               一つの解釈の仕方(読み方)を紹介しておく。
 

<これも最も人口に膾炙した芭蕉の代表的な句の一つ。元禄277日、新潟県直江津での 佐藤元仙宅での句会での発句として掲出されたもの。ただし、この夜、芭蕉が滞在していた直江津界隈は朝から雨で、夜になっても降り止まなかったらしいから、芭蕉は天の川を見ていない。とすればそれより以前に作ったものをこの夜発表したということであろう。そこでこの近日の天候を見ると連日雨で、七月四日の夜に少し星が見えた。だから、この夜出雲崎でこの句は構想されたものであろう。
 夏の日本海は波も静かで「荒海」ではない。また、天の川は対岸から見て佐渡島には「横たわらない」。佐渡と本土に横たわる日本海は、芭蕉の心象風景の中では「荒海」であったらしい。それは、順徳上皇1221年)、日蓮1271年)、日野資朝1332年)、世阿弥1434年)など実に多くの流人が佐渡に幽閉されたことによるのかもしれない。そこに「横とう」天の川は、これら流人と芭蕉とのコミュニケーションパスでなくてはならなかったのであろう>  芭蕉db より)


恐れながらわたしも一句
實久  「霞立つ 佐渡や何処と泊りかな」   (かすみたつさどやいづこと とまりかな)
<意味 : 佐渡は、天気によって霞たち、その正しい姿を見るのは至難のこともある。 数日の泊りも覚悟する
      必要がありそうだ>


出雲崎は、慶長3年(1598)に堀秀治によって佐渡渡海の港と定められた。
上杉氏に代わった堀秀治はここに代官前羽庄左衛門をおき,佐渡への渡海は必ず出雲崎からと定めた。徳川幕府もまたここに天領6万石の代官所をおき,江戸へ輸送する佐渡産金を2艘の官船をもって出雲崎へ陸揚げさせ北国街道から江戸へ輸送させている。


「五月晴れや 佐渡のお金が 通るとて」と一茶も詠っている。
 
佐渡金山より掘り出された金塊は一箱約49kg(13貫目)に荷造りされ船積みされた。
佐渡小木港出雲崎港間に横たわる佐渡海峡の最深部は300尋(ひろ・1尋=8尺=約2.40mX300尋)、水深約720mあったので、万一の難破に備えてそれぞれの金塊を入れた箱に浮き縄をつけたと伝えられている。

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出雲崎港の朝日も絶景


 
「道の駅出雲崎 天領の里」からの日の出が素晴らしい。 曇り空だが風もなく、釣り船に乗込む釣り人も幸せそうだ。
出雲崎では、旧北国街道を自転車で走り、良寛を慕う芭蕉を追いたい。


 
◎妻入りの街並みが続く出雲崎


江戸時代に出雲崎徳川幕府の直轄地(天領)となり、佐渡の金銀の陸揚げ港として、また北前船の発着港として栄えていた。 出雲崎はまた、北国街道の宿場町として多くの人が行き交った。


芭蕉「荒海や佐渡によこたふ 天河」の名句を残している。


出雲崎は、当時この地方一帯の中心都市として越後一の人口密集地であった。多くの人が住むための工夫として、間口が狭く奥行の長い「妻入り」の町屋が数多く建築された。 当時の「妻入り」の景観がいまなお保存され、訪れるものに懐かしさと安らぎを与えてくれている。


朝一番、人影のない旧北国街道は静かである。間口が狭く、奥が細長い「妻入り」の家並みが続く。

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北国街道沿いに建てられた妻入りの建物の見取り図



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妻入りの細長い建物

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出雲崎の旧北國街道に立ちならぶ妻入りの家並み


出雲崎の北国街道を自転車で駆けていると、街道を行く金銀を運ぶ重武装の一行が江戸へ向かって出立している光景が浮かんでくる。佐渡島からの金銀中継地の天領として、6万石の代官所があったことから出雲崎の重要性が伝わってくる。出雲崎は裕福な宿場町であった。

代官所跡、和菓子の大黒屋とつづく旧街道や横路のいたるところに出雲崎の郷土の歴史や生活を説明する案内板がかかっているのでありがたい。

その先に光照寺があり、境内に「出雲崎おけさの起源」について、次のように書かれている。


◎「おけさ」の起源


「おけさ」とは、お坊さんがまとう袈裟のことである。
出雲崎おけさ」の発祥・起源について、すこし触れておきたい。


すでに平泉の項で述べたが、いまから約800年前、平安時代の終わりごろ、藤原氏の庇護のもとにあった源義経源頼朝の挙兵に参加したおり、義経に道同し平家討伐に活躍した一家があった。奥州藤原氏重臣陸奥丸山領主であった佐藤庄司元治の子の継信、忠信兄弟であり、またわが子の武運を念じた両親も又、大の義経の理解者であった。


兄継信は屋島の合戦義経の身代わりに、弟忠信は頼朝に追われた義経をかばい二人とも戦死してしまった。父親である佐藤元治は神社に寄進し、義経をはじめ息子たちの武運を祈る。また、母親の「音羽の御前」は、せめて息子たちの戦場の跡を訪ねるため奥州を旅立つ。出雲崎にたどり着いたが、先の長旅を思い、この地・出雲崎で尼僧となり息子たちの菩提を弔ったという。


音羽の御前」は建久元年(1190)に、立派な最期を遂げた息子たちの詳報を聞き、嬉しさのあまり尼僧たちと袈裟(けさ)法衣のまま唄い踊ったのが「おけさ」(佐渡おけさ出雲崎おけさ)の起源だと伝えられている。

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 出雲崎は「おけさ発祥之地」
 
さらに旧北国街道を北へ行くと右手に細い路地があり、その奥に石段がのびて妙福寺の山門が見える。
その境内に、芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天河」を含めた「俳諧伝灯塚」に出会う。
 
◎妙福寺境内にある「俳諧伝灯塚」
 
元禄2年(1689年)74日、出雲崎に一泊した芭蕉は「荒海や 佐渡によこたふ 天河」を残した。 その後、芭蕉門下二世の東華坊、三世の蘆元坊もこの地を訪れ、感慨にふけった。三代にわたる俳人が当地で詠んだ句を刻して当地の俳人近青庵北凕によって「俳諧伝灯塚」が建てられた。
 
写真左は文字も不明瞭な元の「俳諧伝灯塚」、右は大正年間に再建されたものである。
 
   碑文  荒海や佐渡によこたふ天河    芭蕉
 
          雪に波の花やさそうて出雲崎   蘆元坊
 
          五月雨の夕日や見せて出雲崎  支考(東華坊)  


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 路地の突き当たりにある妙福寺                   妙福寺境内にある「俳諧伝灯塚」旧新石碑


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  妙福寺から出雲崎港を見下ろす、その先に佐渡島が霞む

 
   さらに自転車を北へ進めると右側に小公園「芭蕉園」があり、芭蕉翁立像が出迎えてくれる。
   芭蕉が一泊した大崎屋跡の向かいに「芭蕉園」があり、芭蕉が書いた俳文「銀河の序」を刻んだ石碑が
   芭蕉翁像の後方に置かれている。

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芭蕉園に立つ芭蕉翁像                                           奥の細道「銀河の序」俳文の碑・