shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 44

2017『星の巡礼奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 44
 
7-3  親不知・市振倶利伽羅越え⇒金沢 <奥の細道紀行 7>
象潟を出た芭蕉は、日本海沿岸を南下し、名句「荒海や」を詠みつつ金沢に至る

倶利伽羅峠を歩く<2017年5月14日>

2017年5月14日11:00 親不知・市振をあとにして、倶利伽羅峠の東の入口と決めていたJR「石堂駅」へ向かって車を走らせた。
親不知より、石堂(富山県)までは約105km、3時間10分のドライブである。
倶利伽羅富山県と石川県の県境にある峠である。
 
12:20親不知観光ホテルに隣接する無料駐車場をスタート、天嶮トンネルをくぐり、洞門断崖道路である危険な国道8号線を南下、入善、黒部、魚津、滑川、高岡をへて、倶利伽羅峠東の入口にしているJR石堂駅に14:10に到着した。
 
JR石堂駅近くのコンビニ・ローソンで倶利伽羅峠往復歩きの軽食や飲み物を準備、情報を収集したあと、芭蕉が歩いた旧北陸道(北国街道)をたどり倶利伽羅峠に挑むことにした。倶利伽羅は金沢への一里塚でもある。


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(この観光地図は南北・上下が逆さまであるのでご注意)

 
まず、JR石堂駅より護国八幡宮に移動、車を駐車場にとめ、歩きの準備である。リュックに水、携帯食、地図、コンパス、デジカメ、ヘッドライト、雨具、筆記具などを入れ、ストックを手に14:30 出発となった。


倶利伽羅峠ハイキングコース  往復約7km/ 約2.5H


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◎恐れながらわたしも一句

倶利伽羅越え    
「あかあかと 月はつれなくも 秋の風 」 倶利伽羅峠 「鬨の声 火牛追いしや 山法師」
(あかあかと つきはつれなくも あきのかぜ)   (ときのこえ かぎゅうおいしや やまぼうし)
「義仲の 寝覚の山か 月かなし 」 猿ケ馬場 「義仲の 生きざま悲し 雲遮月」
(よしなかの ねざめのやまか つきかなし) 古戦場 (よしなかの いきざまかなし うんしゃげつ)
    倶利伽羅や 世の常悲し おぼろ月」
    (くりからや よのつねかなし おぼろつき)
「早稲の香や 分入右は 有磯海 」 倶利伽羅峠 「乾きたる 磯の香りや 平家の陣」
(わせのかや わけいるみぎは ありいそかい)   (かわきたる いそのかおりや へいけのじん)


芭蕉  「あかあかと 月はつれなくも 秋の風 」   (あかあかとつきはつれなくも あきのかぜ)
 
       解説 :一句は忍び寄る秋を「目にはさやかに見えねども」感じ取っている季節の変わり目を描く。背後に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」『古今集』(藤原敏行)がある。「つれなくも」は、さりげなくとかそ知らぬさまの意  芭蕉dbより)
 
芭蕉  「義仲の 寝覚の山か 月かなし 」   (よしなかの ねざめのやまか つきかなし)
       解説 : 燧が山は、福井県今庄町にある源平争乱期木曽義仲の城があったといわれている。
      燧が城を見ていると、あの木曽義仲もこの景色を見ていたかと思うと感慨一入であるというのである。

 
 
芭蕉  「早稲の香や 分入右は 有磯海 」   (わせのかや わけいるみぎは ありいそかい)
     解説 :有磯海は富山湾。旧暦7月中旬ともなれば既にここ早場米地帯の米は穂が出て豊作を報せていた
      はず。その野面の先に有磯海が広がる。有磯海は荒磯海で富山湾の海で歌枕。ただし、芭蕉一行は
      これを右に見る道を一路金沢目指して歩いていく。
 
 
恐れながらわたしも一句

實久  「義仲の 生きざま悲し 雲遮月」   (よしなかの いきざまかなし うんしゃげつ)
       解説 : 源平の合戦で功をたてた義仲の生きざまは歴史に翻弄され、身内である頼朝に疎まれ、
      義経に追われて尽き果てるという悲しい運命をたどる。まるで月も雲に遮られ哀しみをこらえている
      ようだ。
 
實久  倶利伽羅や 世の常悲し おぼろ月」   (くりからやよのつねかなし おぼろつき)
   解説 : 木曽義仲は、源平合戦のひとつである倶利伽羅の戦いをはじめいろいろと武勲を建てるが

      頼朝に疎んじられ、源義経に追い詰められてびわ湖畔の粟津で敗死するという悲運の将であった。

      その悲しい生きざまを月も雲に覆われ憐れんでいるようだ。
            芭蕉もまた悲しき将に同情と理解を寄せ、びわ湖畔の大津市馬場の「義仲寺」にある木曽義仲
      墓の側に自分の墓をたてさせている。
 
 


 
奥の細道金沢715日~23日>

卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
塚も動け 我泣声は 秋の風
ある草庵にいざなはれて
秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子
途中
あかあかと 日は難面も あきの風
 
 
<現代語訳>
 
卯の花山、倶利伽羅峠を越えて、金沢に着いたのは陰暦七月十五日。ここに大坂から商いに来ていた何処という薬売りがいたので、旅宿を共にした。一笑は俳諧に優れた才能を持っているという評判がうすうす江戸まで聞こえていて、世間でも期待の人だったのだが、昨年の冬に早逝したという。その兄が追善供養をするというので、
 
塚も動け我泣声は秋の風
ある草庵に招かれて
秋涼し手毎にむけや瓜茄子
小松へ向かう途中での吟
あかあかと日は難面もあきの風
 
 
奥の細道芭蕉とともに越えたかった最後の峠越えである。芭蕉とともにゆっくりと倶利伽羅峠の歴史をたどりたい。そして源平の鬨の声に耳を澄ませ、能登からの磯の香りを嗅いでみたい。いざ芭蕉とともに倶利伽羅へ、歴史の峠へ出発である。
 
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                     倶利伽羅峠への旧北国街道


 
倶利伽羅峠(くりからとうげ)の歴史的背景


いまから834年前、平安時代末期の寿永25月1111836月2)に、越中加賀国(富山・石川)の国境(県境)にある軍事の要所であった標高約200mの砺波山の倶利伽羅峠源義仲木曽義仲)軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦を「倶利伽羅の戦い」という。 源平の間で覇権を争った大規模な内乱、治承・寿永の乱源平合戦)における戦いの中の一つである。


木曽義仲軍 約40,000倶利伽羅峠に陣を張り、平維盛軍 約70,000を待ち受けていた。義仲は大軍の平家軍に対して松明をつけた数百頭の牛の群れを放ち、奇襲をかけ、平家軍を倶利伽羅谷に追いおとして大勝利を
収めた。


これは「木曽義仲の火牛の計」として、倶利伽羅峠を有名にしているという。

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倶利伽羅合戦源平両軍配置図


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  源平倶利伽羅合戦図屏風(木曽義仲火牛の計)


芭蕉曽良は、ここ北国街道の倶利伽羅峠奥の細道にあるように「卯の花山・くりからが谷を越えて」金沢へ向かっている。
蕉の江戸時代には加賀前田藩主の参勤交代の道として整備され、北国街道として賑わっていたという。
いにしえに思いを馳せる歴史ハイキング・コースとして紹介され、トイレや休憩所もあり、道も丸太などで整備されている。
車を停め、立派な石段を上りきると「護国八幡宮」があり、木曽義仲が戦勝を記念したと言われている。本殿に義仲馬上の像がある。さらに北国街道を偲びながらすすむと、倶利伽羅峠33観音の一部が残されている医王院に出る。
その先の石坂村から山道がはじまる。登って行くと「たるみの茶屋跡」があり、矢立山205m)の麓を過ぎると「源平ライン」(自動車道)と並行、交差しながら峠に向かう。 源平ラインをすこし戻れば「源平合戦火牛の計像」があり、芭蕉句碑「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」が建つ。


大伴家持の歌碑が立つ砺波山で再合流、あとは「源平ライン」を歩くことになる。


16:10 倶利伽羅峠に到着した。


                                                 倶利伽羅峠を歩く  ②
                                              につづく