◎ 市振を自転車でまわる ②
市振の集落は古い家並みが続き、時間が止まっているように見える。まるで三度笠を手に芭蕉のお供をしているような、浮いた気持ちになった。 一本の道に人っ子一人もいない。この道と並行している国道8号線のガード下をくぐったところに芭蕉句碑「一家に遊女もねたり萩と月」が山門を入った左手にある「長圓寺」にでる。
静かな集落・市振の街並み
長圓寺境内にある芭蕉句碑「一家に遊女もねたり萩と月」
市振の西端にある小学校のグランドに「市振関所」があった。ここは東の「鉢崎関所」に対し西の「市振関所」として、江戸幕府の代官と高田藩の共同管理で監視し、西国の陸海からの「入鉄砲・出女」を厳しく取り締まった。
名句「遊女もねたり」を詠んだ「桔梗屋跡」
学校校庭にある「市振関所跡」碑
丁度、昼ごろである。いまから328年前芭蕉が市振関所を通過するとき、この地で厳しく取り締まりがなされていたのだろうか。 静かである。
<奥の細道 親不知>
「今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。
伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。
不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。
一家に遊女もねたり萩と月 曾良にかたれば、書とヾめ侍る。」
<現代語訳>
「今日は、親不知・子不知・犬戻・駒返など北陸街道の難所を越え、疲れ果てたので早々床に就いた。ふすまを隔てた南側の部屋で、若い女二人ほどの話す声が聞こえる。年老いた男の声も混じって、彼らが話すのを聞けば、女たちは越後の国新潟の遊女らしい。
伊勢神宮に参詣するために、この関所まで男が送ってきて、それが明日新潟へ戻るので、持たせてやる手紙を認めたり、とりとめもない言伝などをしているところらしい。「白なみのよする汀に世をすぐすあまの子なれば宿もさだめず」と詠まれた定めなき契り、前世の業因、そのなんと拙いものかと嘆き悲しんでいるのを、聞くともなく聞きながらいつしか眠りについた。
翌朝出立する段になって、「行方の分からぬ旅路の辛さ。あまりに心もとなく寂しいので、見え隠れにでもよろしゅうございます、お供させていただけないものでしょうか。大慈大悲のお坊様と見込んで、その袈裟衣にかけても慈悲の恵みと仏の結縁を垂れ給え」と涙ながらに哀願する。
不憫とは思ったが、「私たちは諸所方々に滞在することが多いのです。だから、あなた方は誰彼となく先を行く人々の後をついて行きなされ。神仏の加護は必ずありますから」とつれなく言って別れた。哀しみがいつまでも何時までも去らなかった。
一家に遊女もねたり萩と月 曾良に話したら、これを記録した。」
JR市振駅
㉕ 倶利伽羅越えを歩く
につづく