7-2 出雲崎 ⇒ 親不知・市振 ⇒金沢 <奥の細道紀行 7>
象潟を出た芭蕉は、日本海沿岸を南下し、名句「荒海や」を詠みつつ金沢に至る
出雲崎港に設営したオレンジ色のテントは朝日を受け燦然と輝いている。
佐渡の風が天空の雲を吹き払い、どこまでも青い空がつづいている。
独り旅のいいところは、己の時間を邪魔されずに満喫できることだろう。
7月6日には、直江津の古川市左衛門宅(現在の「古川屋旅館」―IR直江津駅前)に泊まっている。ここ直江津の古川宅では句会をもっている。その時の発句は「文月や 六日も常の 夜に似ず」であった。
7月8~10日の3日間は、細川春庵(俳号棟雪)に高田(直江津から南は7km)に招かれ歌仙をまいている。ここでは「薬欄に いづれの花をくさ枕」を発句とした。
こちらは、出雲崎より市振まで日本海沿岸道路である国道352号線を南下し、柏崎から国道8号線にもどって、市振までの約130km、約3時間半のドライブである。
では、芭蕉と曽良があるいた「奥の細道」越後路を車で走ることにする。
越後頸城地方(現在の新潟県南西部の上越地方)の三関(関川・鉢崎・市振)として重要な役割を持っていた拠点である。
同じ頃、この鉢崎は北国街道の宿場町としても栄え多くの人で賑わった。また、佐渡からの金銀輸送の継送に際し御金蔵が置かれた。
鉢崎関所は、山麓が海に迫っているという地の利を生かし、軍事・治安上の要衝地として重要な役割を果たしてきた。江戸時代になって、女子と鉄砲に対して、最も取り締まりが厳しくなった。「出女入鉄砲(でおんないりでっぽう)」という言葉が残っているほどである。
芭蕉と曽良は、鉢崎関所のすぐ近くの「たわら屋」に泊まっている。
たぶん、この辺りまでは芭蕉の名声も届いていなかったのではないだろうか。芭蕉が怒りを表すのは珍しいといえる。それだけ俳聖としてのプライドが高かったのかもしれないし、各地での行き過ぎた接待に慣れ過ぎていたのかもしれない。
7月6日昼ごろ船で鉢崎を立ち、その日のうちに直江津に到着して、古川市左衛門宅に泊まっている。当初は紹介状をもち聴信寺を訪れたが、忌中のため断られている。
直江津で、芭蕉は古川市左衛門宅で、聴信寺の僧民鷗らとともに句会をもっている。発句は「文月や 六日も常の 夜には似ず」。 発句の句碑は、琴平神社にある。
7月8~10日、医者の細川春庵に招かれて高田の春庵宅に泊まり、句会をもつ。発句は「薬欄にいづれの花を くさ枕」。
7月11日に訪れた「五智国分寺」の山門を入って左手に芭蕉句碑「薬欄に」が建っている。
そのあと、名立を経て能生に夕方到着し、「玉屋五郎兵衛」宅に泊まっている。
翌7月12日、糸魚川を過ぎ、その日のうちに親不知・子不知(おやしらず・こしらず)という難所を経て市振に到り、桔梗屋に泊まっている。
こちらも、芭蕉が立寄ったと同じコースをたどりながら親不知まで車で移動し、「親不知観光ホテル」前の無料駐車場に車を停め、自転車で市振にむかう。
途中、2年前(2016)の12月に発生した「糸魚川大火」の跡地に立って、亡き人々の霊を慰めた。大火の跡地は更地になり、再開発を待っていた。 「がんばれ糸魚川!」
■親不知・子不知 ⇔ 市振を自転車で走る (約7km /2H 自転車コース)