shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 41

2017『星の巡礼奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 41
 


7-2 出雲崎親不知・市振 ⇒金沢 <奥の細道紀行 7>

象潟を出た芭蕉は、日本海沿岸を南下し、名句「荒海や」を詠みつつ金沢に至る


㉔親不知・市振を自転車で走る<2017年5月14日>


出雲崎より芭蕉曽良を追って親不知子不知(おやしらずこしらず)へ至る


514日 午前720  設営地「道の駅・出雲崎天領の里」を遅めの出発となった。

出雲崎港に設営したオレンジ色のテントは朝日を受け燦然と輝いている。


最後の釣り船が、釣り人を乗せ、慌ただしく漁場に向け出港していく。

佐渡の風が天空の雲を吹き払い、どこまでも青い空がつづいている。


昨晩いただいた一杯の赤ワインの余韻がけだるい目覚めを誘っている。

独り旅のいいところは、己の時間を邪魔されずに満喫できることだろう。


空、海という青い世界に引き込まれている己を断ち切って、いざ親不知に向かって出発だ。


<少し芭蕉曽良出雲崎より親不知・市振までの足跡をたどっておきたい>


芭蕉曽良は、元禄2年(1689)75日、柏崎までの12里(約48km)を歩き、鉢崎関所近くの「たわらや六郎兵衛」(現在の丸山町あたり)に泊まる。


76日には、直江津古川市左衛門宅(現在の「古川屋旅館」―IR直江津駅前)に泊まっている。ここ直江津の古川宅では句会をもっている。その時の発句は「文月や 六日も常の 夜に似ず」であった。


77日、直江津佐藤元仙宅に泊まる。


7810日の3日間は、細川春庵(俳号棟雪)に高田(直江津から南は7km)に招かれ歌仙をまいている。ここでは「薬欄に いづれの花をくさ枕」を発句とした。


711日、五智国分寺と居田(こた)神社に詣で、能生(のう)に着き、「玉屋五郎兵衛」宅に泊まっている。


712日に、芭蕉曽良は、お昼頃に糸魚川を通過、親不知子知から市振に到っている。


 

こちらは、出雲崎より市振まで日本海沿岸道路である国道352号線を南下し、柏崎から国道8号線にもどって、市振までの約130km、約3時間半のドライブである。

では、芭蕉曽良があるいた「奥の細道」越後路を車で走ることにする。


軍事・治安上の要衝地 「鉢崎関所」 (はちざきせきしょ・柏崎市円山町)


鉢崎関所は、慶長2年上杉家により設けられ、江戸時代には徳川幕府の全国53関所の1つとして領内出入りを取り締まった。

越後頸城地方(現在の新潟県南西部の上越地方)の三関(関川・鉢崎・市振)として重要な役割を持っていた拠点である。

同じ頃、この鉢崎は北国街道の宿場町としても栄え多くの人で賑わった。また、佐渡からの金銀輸送の継送に際し御金蔵が置かれた。


鉢崎関所は、山麓が海に迫っているという地の利を生かし、軍事・治安上の要衝地として重要な役割を果たしてきた。江戸時代になって、女子と鉄砲に対して、最も取り締まりが厳しくなった。「出女入鉄砲(でおんないりでっぽう)」という言葉が残っているほどである。


これは、幕府が各藩主の妻室を江戸に住ませて人質としていたため、この人たちが無断で帰郷するのを警戒したためであり、地方から江戸へ鉄砲を持って入ることが、治安上危険と考えられていたためとられた政策である。

芭蕉曽良は、鉢崎関所のすぐ近くの「たわら屋」に泊まっている。

その後、芭蕉曽良もこの鉢崎関所を通って親不知に向かっている。

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鉢崎関所跡                                                    鉢崎関所跡石碑

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 定・禁出女入鉄砲

◎鉢崎「宿・たわらや」
芭蕉曽良は、予定していた柏崎に泊まらず鉢崎まで足をのばし、鉢崎関所近くの「たわらや」に泊まっているが、その間の事情を、たわらや跡に建つ案内板は次のように述べている。


芭蕉は柏崎の天屋に泊まる予定で紹介状まで用意してきたのであるが、思わぬことから米山峠を一気に歩き通して鉢崎まで来てしまった。同行した弟子の曽良日記には「申の下尅、至鉢崎。宿たわらや六郎兵衛」とのみ記されている。>
大方の見方は、芭蕉を知らない天屋の粗末な扱いに腹を立て、意地になって歩き通して「たわらや」に午後6時頃に入ったようである。

たぶん、この辺りまでは芭蕉の名声も届いていなかったのではないだろうか。芭蕉が怒りを表すのは珍しいといえる。それだけ俳聖としてのプライドが高かったのかもしれないし、各地での行き過ぎた接待に慣れ過ぎていたのかもしれない。


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たわら屋跡(柏崎市)標柱

 

7月6日昼ごろ船で鉢崎を立ち、その日のうちに直江津に到着して、古川市左衛門宅に泊まっている。当初は紹介状をもち聴信寺を訪れたが、忌中のため断られている。


こちらは車で、鉢崎の「たわらや」跡をあとにして国道8号線を直江津へ向かった。


直江津で、芭蕉古川市左衛門宅で、聴信寺の僧民鷗らとともに句会をもっている。発句は「文月や 六日も常の 夜には似ず」。 発句の句碑は、琴平神社にある。


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直江津琴平神社                                 芭蕉句碑「文月や」・琴平神社

7月8~10日、医者の細川春庵に招かれて高田の春庵宅に泊まり、句会をもつ。発句は「薬欄にいづれの花を くさ枕」

7月11日に訪れた「五智国分寺」の山門を入って左手に芭蕉句碑「薬欄に」が建っている。

そのあと、名立を経て能生に夕方到着し、「玉屋五郎兵衛」宅に泊まっている。


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芭蕉も詣でた五智国分寺の山門(上越市直江津    山門左手にある芭蕉句碑「文月や」

 

翌7月12日、糸魚川を過ぎ、その日のうちに親不知・子不知(おやしらず・こしらず)という難所を経て市振に到り、桔梗屋に泊まっている。


こちらも、芭蕉が立寄ったと同じコースをたどりながら親不知まで車で移動し、「親不知観光ホテル」前の無料駐車場に車を停め、自転車で市振にむかう。


途中、2年前(2016)の12月に発生した「糸魚川大火」の跡地に立って、亡き人々の霊を慰めた。大火の跡地は更地になり、再開発を待っていた。 「がんばれ糸魚川!」


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糸魚川大火跡の更地(2017/5                       糸魚川大火(2016/12  上越新聞より)

 

親不知・子不知 ⇔ 市振を自転車で走る  (約7km /2H 自転車コース)



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親不知・子不知 ⇔ 市振を自転車で走る②につづく