㉗ 小松から那谷寺をめぐる 2017年5月15日
芭蕉は、多くの金沢俳壇の関係者や、弟子たちに歓待され、9日間という長逗留を楽しんで、蕉風の広がりを感じつつ、小松へ向かう。
<元禄2年陰暦>
7月24日 小松に到着し、近江屋に泊まる。 小松から北枝が同行する事に決まる。
7月25日 小松の俳人たちのたっての願いで数日、小松に留まることにして、寺町にある北枝彫刻の
芭蕉像が奉納されている建聖寺を訪問。
かって幼い頃、義仲を助けたことがある。 義仲は実盛の菩提を弔うために願状にそえて兜と
直垂を建聖寺に納めたといわれている。
「むざんやな 甲の下の きりぎりす」の句を詠んでいる。
をもっている。
この時の発句は、「しほらしき 名や小松吹 萩薄」である。 25日は藤井伊豆宅で泊まった。
7月26日 泥町の観生宅に招かれ、発句「ぬれて行くや人もをかしき 雨の萩」をもとに五十韻を残している。
はっきりしないが、近江屋か藤井伊豆宅のいづれかに泊まっている。
8月04日 山中温泉に8日間逗留、名湯でゆっくり休養、疲れをとったとことであろう。
小松への帰路、芭蕉は北枝とともに那谷寺(なたでら)を訪ねている。
この奇岩を見て「石山の 石より白し 秋の風」を詠んでいる。
白く曝された石と秋の風の白々とした寂しさを重ねて詠っている。
この日、金沢の万子に会うため小松に戻っている。
ついでに日本一の連歌師といわれる能順にも触れておく。
芭蕉が発句を奉納するときに出会っている。
産業の発展にも力を入れていたのか今でもその活気が受け継がれているようである。
先述した芭蕉の行程表で分かるように、7月24日(陰暦)に小松に着き、予定のなかった小松での句会に誘われ、7月27日に山中へ出立。山中温泉につかり、疲れをとったあと、曽良と別れ、8月5日に小松に引き返している。 途中、同伴の北枝とともに那谷寺(なたでら)を訪れている。
<奥の細道 小松>
小松と云所にて、しをらしき 名や小松吹 萩薄
此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より 給はらせ給とかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、 樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
むざんやな 甲の下の きりぎりす
<現代語訳>
小松というところで、しほらしき名や小松吹萩すゝき
当地、多太八幡神社に参詣した。神社には、斎藤別当実盛の兜と錦のひたたれの切れ端があった。これらは、その昔、実盛が源氏に仕えていた時分、源義朝公から拝領したものだという。このうち兜は、どう見ても下級武士の使うものではない。目庇から吹返しまで菊唐草模様に金をちりばめ、竜頭には鍬形が打ってある。実盛が討ち死にした後、木曾義仲はこの神社へ願状を添えてこれらを奉納したという。その折、樋口次郎兼光が使者となったことなども神社の縁起には書いてある。
むざんやな甲の下のきりぎりす
こちらは、金沢の金石港近くにある本龍寺の芭蕉句碑「小鯛さす 柳すずしや 海士が軒」を車で訪れ、
恐れながらわたしも一句「夕日落つ 蕉碑や影も 松の中」を吟じ、小松に向かった。
2017年5月15日
11:40本龍寺出発、金沢から小松までは国道8号線を走り約30km、1時間のドライブである。
① 小松天満宮(小松神社)
参道中ほど右手に建つ芭蕉句碑「あかあかと 月はつれなくも秋の風 」を愛で、
句碑の前で恐れながらわたしも一句「溶けなじむ 海面の夕日 夏の風」を吟ずる。
② 兎橋神社(うばしじんじゃ・諏訪神社)
参道入口にある鳥居の手前右手に建つ
芭蕉句碑「しをらしき 名や小松吹 萩薄」がある。
兎橋神社 兎橋神社にある芭蕉句碑「しをらしき」
「しをらしき 名や小松吹 萩薄」、恐れながらわたしも一句「寺町の 路地裏抜ける 夏の風」
見つけにくいお寺であったが、地元の人のあたたかい案内があり助けていただく。
お世話いただいた方によると、本堂には芭蕉翁の木像が安置されているとのことだが、
住職ご不在により残念ながら対面かなわず。
建聖寺本堂 建聖寺にある芭蕉句碑「寺町の」と「翁塚」
他面に芭蕉句「しをらしき 名や小松吹 萩薄 」が彫られている。
本折日吉神社
右 : 芭蕉句「小松吹 萩薄」が刻まれた石柱
⑤ 多太神社(ただじんじゃ)、石鳥居手前の台座に兜が置かれている。 参道に芭蕉翁像が建ち、
「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
恐れながらわたしも一句詠じる「蚯蚓ども あけてびっくり 石の下」
小松の芭蕉句碑を自転車で巡ったあと
「那谷寺に立ち寄って山中温泉向かう」
につづく