shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 35

2017『星の巡礼奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 35
 
6-1  羽黒 鶴岡 ⇒象潟 ⇒ 新潟<奥の細道紀行 6>
         鶴 岡から北上し、酒田を経て、歌枕・象潟へ向かう


⑲鶴岡を自転車で走る<2017年5月12日>

雪に守られ、その神聖なる姿をみせる月山に登ることかなわず、残念だが拝礼し、鶴岡へと向かう。残雪いまだ深い「湯殿山有料道路」をあとに、国道112号線を北上、約18KM・45分のドライブである。
芭蕉曽良は、羽黒山の止宿地「南谷別院」を出発、呂丸も同行、西へ三里(約12km)の鶴岡へ馬で向かっている。
出羽三山巡礼を終えた芭蕉曽良は、元禄2年(1689)陰暦6月10日(陽暦7月26日)、鶴岡に着いた。
江戸時代には、庄内藩酒井14万石の城下町として盛えた。加茂港は、北前船の着く港町であり、明治以後も羽越本線開通まで新潟港へ向かう船が出ていた。 新潟県境にある「鼠ヶ関」は、勿来関白河関とともに「東北三関」の1つであった。
鶴岡で、芭蕉は長山五郎右衛門重行宅に泊まっている。重行は150石取りの庄内藩士として江戸在勤中、縁者であった呂丸を通じて芭蕉と出会っている。 長山重行の居宅は鶴岡・大昌寺の近くにあり、今でも「長山小路」と呼ばれ親しまれている。
羽黒より馬で着いた芭蕉は、重行宅に到着すると、出羽三山巡礼での疲れがでたのであろうか、お粥を所望している。その時に出された茄子が、この地の名産・ひとくち茄子・「民田の茄子」といい、到着の夜の歌仙の発句「めづらしや 山をいで羽の 初なすび」と詠っている。 この句碑は、重行宅跡と日枝神社弁天島、それに致道博物館の庭園に立っている。
鶴岡では、JR羽越本線鶴岡駅」前の駐車場に車を停め、城下町の匂いを嗅ぎ、芭蕉のこころに寄り添って自転車を走らせることにした。


◎鶴岡サイクリングルート <約15km/ 1.5Hコース>

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◎恐れながらもわたしも一句

6.鶴岡 ⇒ 象潟 ⇒ 新潟 <奥の細道 6>  
             芭蕉曽良の句>       <恐れながらわたしも一句-實久>
⑲鶴岡    
「めづらしや 山をいで羽の 初茄子」 日枝神社 「出羽を出で 喰らうてや初 だだちゃ豆
(めづらしや やまをいではの はつなすび 智道博物館前 (でわをいで くらうてやはつ だだちゃまめ)
 
芭蕉  「めづらしや 山をいで羽の 初茄子」   (めづらしや やまをいではのはつなすび)

意味 :  羽黒山7日間も参篭して下界に降りてきてみると、初なすびのもてなし、なんとも有り難いことだ
            山=羽黒山を出てきたことと、出羽の地名との掛詞


恐れながらわたしも一句
實久  「出羽を出で 喰らうてや初だだちゃ豆   (でわをいで くらうてやはつ だだちゃまめ)
意味 :  出羽三山を巡りおえ、鶴岡特産の枝豆「乾燥だだちゃ豆」にはじめて出会って、その(お惣菜の)美味し
           さに驚き喰ってしまった
           「だだちゃ」とは、庄内地方の方言で<おやじ・お父さん>のこと
まず向かったのは、現在は市民の憩いの場となっているサツキや菖蒲が咲き乱れ咲く「鶴ケ岡城跡」(鶴岡公園)。徳川家の大老であった酒井候の城は、維新戦争に破れて解体されたという。 歴史の一大転換期を見る
おもいである。
鶴岡の気風は、明治期に立てられたロマネスク天主堂をもつカトリック教会(明治36年フランス人神父の設計)や多くの西欧建築に見られるように、あたらしい試みに挑戦してきた姿に見ることができる。鶴岡カトリック教会にあるマリア像「黒い聖母」が有名である。

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壮麗な鶴岡カトリック教会

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 洒落た洋風建築の建物・致道博物館(旧郡役所)

鶴ケ岡城跡の道を隔てた西隣にある致道博物館は藩主酒井家の御用達屋敷であったというからハイカラである。酒井氏庭園の向かって右側に古びた芭蕉句碑「初なすび」が立つ。

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 鶴岡の下水マンホール蓋にもデザインされている西洋建築

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 致道博物館酒井氏庭園に立つ芭蕉句碑「初なすび」

鶴岡公園は鶴ケ岡城跡にあり、藩主を祀っている庄内神社や郷土資料館がある。春の桜の時期には間に合わなかったが、公園に咲くサツキや菖蒲が出迎えてくれた。

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 内川に架かる「三雪橋」

内川に架かる三雪橋に出て流れに沿って北東に進むと芭蕉曽良が酒田に向かう時に利用した「大泉橋・内川乗船地跡」に着く。
途中、鶴岡城下一の豪商・風間家旧宅・丙申堂にも立ち寄った。


◎「奥の細道 内川乗船地跡」
「元禄2年(1689)の春に江戸を出て、陸奥から出羽を巡っていた俳聖松尾芭蕉は、6月10日(陽暦7月26日)に羽黒山を下り、鶴岡城下の庄内藩士・長山重行宅で地元の俳人たちと俳諧を楽しむ3日間を過ごした。13日にはこの内川の船着き場から船で酒田に赴いた。 当時の酒田が酔いの船は、内川より赤川を経て最上川河口の酒田迄7里(約27km)、ほぼ半日を要したという。」(庄内文化財保存会)
内川の大泉橋辺りの景色がいい。川沿いに建つ商店の佇まい、流れに姿を映す柳、どれをとっても風情がある。 まるで元禄の時代に迷い込んだような錯覚におちいった。 それはセピア色のふるい写真を見ていたからだろうか。しばらくの間、この内川畔を歩いて当時を味わった。

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内川乗船地跡に架かる大泉橋                           明治期の内川乗船地跡と大泉橋

大泉橋近くにある芭蕉「内川乗船地跡」より、その先の長山小路に入り、中ほどの右へ伸びる小路に大昌寺があり、その向かいに小公園になっている「長山重行宅跡」がある。正面に「芭蕉滞留の地」の石碑が、奥に「初なすび」の芭蕉句碑が立つ。
重行は、江戸勤番中に、芭蕉に師事し入門を許されている。芭蕉はここ重行宅に三泊し、今立寄ってきた、すぐ近くの内川に架かる大泉橋の「内川乗船地跡」より次の目的地・酒田へ舟で下っている。 舟運が盛んだった昔の写真を見ると、川幅も水量もありその面影を推し量ることができる。
ここ大泉橋からみる雪をかぶった月山の姿が神々しい。

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 長山小路

長山小路をすすみ、中ほどの小道を右折すると大昌寺前に重行宅跡がある。

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石柱「奥の細道滞留の地」が立つ重行宅跡、中央に芭蕉句碑「初なすび」

長山小路にもどり、なお先のカーブをまがると正面に日枝神社がある。日枝神社に入って右、弁天さんに寄り添って芭蕉句碑「初なすび」がある。
芭蕉との出会いはうれしい。芭蕉句碑をたどっての出会い、時を超えて芭蕉を追う。 ここ長山重行宅跡から日枝神社への長山小路を芭蕉が歩いたとのだ。 自転車を降りて歩いてみる、芭蕉は色々な景色に出会い、おおくの人々と挨拶を交わしながら歩いている姿が見えてくる。行き交う人に、軽く会釈をしながら「こんにちは、いいお天気で」という言葉が行き交う長山小路である。
出羽の無の風が長山小路を吹きぬけていった。

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芭蕉句碑「初なすび」のある日枝神社                 弁天さんの側にある芭蕉句碑「初なすび」

◎「秋茄子は嫁に喰わすな」 (あきなすはよめにくわすな)
この時期は初茄子だが、茄子といえば、日本のことわざ、戒めを思いだした。広辞苑には次のように出ている。
秋茄子は、美味であるので他家からの憎い嫁に食わせてはもったいないという姑の嫁いびりのありさまであり。 秋茄子は、種子がないので子宝に恵まれなくなるとか。 秋茄子は、美味であるため過食してしまいがちであるが、毒性のアルカロイドを含有し、健康を害する恐れもあるので、大切な嫁に食べさせてはならないと、東洋医学の見方では茄子は体を冷やすと教えている。
ふと、もし紫式部なら初茄子をどのように口に運んだのだろうかと・・・、一句もらった。
實久 「初なすび  むらさき落ちし 恋の味」
などと歴史に遊びながら、日枝神社より北へ自転車を走らせ、鶴岡駅前の駐車場にもどり、次なる目的地「酒田」に向かった。


さあ、酒田に出かけよう。芭蕉曽良はここ鶴岡にある「内川乗船地跡」から、内川を下り、赤川に出て、現在の三川町辺りで下船し、酒田に向かった。                      
 
 
<⑳酒田につづく>