元禄2年5月14日(陽暦6月30日)、「南部道遙かに見やりて、岩出の里に泊まる」とある。
芭蕉と曽良が3日ほどかかった旅程約65kmを、わずか2時間15分ほどのドライブで到着する。草鞋姿で旅情を味わう時間さえない慌ただしい「わたしの奥の細道」を歩んでいることに、なにか侘しいおもいがこころに残る。
なによりも飛び去る風景から句作もままならないのには閉口する。 やはり吟行に限る。
いつかはゆっくり歴史や風物を味わいたい奥羽路である。
往復約34km、サイクリング(1-1/2 H)と歩き(徒歩2H)の所要3時間半のルートである
復興なった。
町営バス路線に従ってすすみ、江合川を渡ると国道47号線にでるので信号(要害)をそのまま横切って県道17号線に入る。
バス停「十文字」よりバス停「上馬館」までの間が「上街道」として整備され、昔の街道の面影が残されている。
わたしも自転車を降り、押しながら芭蕉とともに上街道の草道を歩くことにした。
源頼朝の軍勢は奥州平泉の藤原氏を討伐するため、多賀城の国府を出て、奥州藤原氏の拠点であった多賀波場城を攻めた。藤原泰衡はすでに平泉に引いており、頼朝軍はここ松山道(上街道)を芭蕉とは逆方向に平泉に向かっている。
国道47号線を渡り、「上街道」に続く県道17号線を進むとバス停「天王寺」先の分岐がある。この分岐に上街道の里程塚である「天王寺一里塚」がその形を残している。また分岐より左に入って行くと「天王寺追分」の道標が立っている。
道標「天王寺追分」には歴史的な説明が書かれている。
「陸奥上街道 上街道(松山街道)と出羽街道(水戸街道)の分岐点―芭蕉と曽良は、元禄2年(1689)5月14日(陽暦6月30日に、上街道と別れ小黒崎、みずの小島を訪れようとして出羽街道を西に向かったが、途中引き換えし岩出山に泊まった。奥の細道には<南部道遙かに見やりて岩手(出)の里に泊まる>とある。」
「天王寺一里塚」より約1km先のバス停「十文字」を左に入り、すぐ右にまがると、ここから古の「上街道」がつづく。
バス停「上馬館」までの約5kmの間に古街道が残り、整備されている。
途中、バス停「葛岡」のある県道17号線に出るが、すぐななめ左の古街道(陸奥上街道)に入って行く。
岩出山町が設置した石柱道標「上街道」にしたがえば、迷うこともない。
その先の磯良神社を過ぎると古街道の面影残る「千本松長根」が1500mほどつづき、義経を追う頼朝軍の駆ける足音や、芭蕉と曽良が暮せまる街道を早足でこちらへ向かってくる姿を思い描きながら、自転車を押しすすめる。
急な石畳みの下り坂をすすむと民家があり、「千本松長根」の入口を示す道標より、約300mのところにサイクリング折り返し点としているバス停「上馬館」がある。
磯良神社 古街道の面影を残す千本松長根
往復約34km、サイクリング(1.5 H)と歩き(徒歩2H)の所要3時間半の奥の細道・上街道ルートを楽しんだ。
ここから、歌枕である「小黒崎」と「美豆の小島」に立寄り、「出羽街道・仲山越え」に向かう。
「小黒崎・みづの小嶋を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす」
平安朝より歌枕として有名な「美豆の小島」は、小黒崎より西へ約500m先にある江合川中州にある、弁財天を祀る小島である。
順徳院 「をぐろ崎みつのこじまにあさりする田鶴ぞなくなり波たつらしも」 続古今和歌集
小黒崎山を背景に芭蕉像が立つ 解説板 美豆の小島
⑬出羽街道 中山越えを歩く
につづく