⑬出羽街道 中山越えを歩く―2
芭蕉 「蚤虱 馬の尿する 枕元」 (のみしらみ うまのしとする まくらもと)
解説 : この地域では厩(うまや・馬屋)住居の中にあった。してみれば蚊も虱も蚤も一緒に住んでいたに
違いない。 馬が放尿するのはごく当然のことだから、その猛烈な音に目が覚めることは至極もっとも
なことである
恐れながらわたしも一句
實久 「蚤虱 列をなしてや 越えし関」 (のみしらみ れつをなしてや こえしせき)
解説 : のみしらみは、人の血の温もりに向かって移動する、当時の関にも奥羽から隆盛きわめる伊達藩領に
むかって、ここ尿前の関に門前をなしたであろうと想像する
出羽街道中山越えは、道標に助けられながら「尿前の関跡」前からスタートする。
もちろん奇岩絶壁を楽しめる鳴子峡の遊歩道(片道約1.3km)を歩いてから、中山越えするのもよい。
駐車した国道47号線から、最初に下りてきた「尿前坂」の急な階段を上り返して国道47号線にもどる。国道を横切り、急な「薬師坂」の階段を上りきって、鳴子公園(岩手の森)に通じる車道を少しばかり歩くと、鳴子村鎮守の薬師堂跡と、奥の細道研究者としての斉藤茂吉の歌碑に出会う。
歌碑には『元禄の芭蕉おきなもここ越えて旅のおもひをとことはにせり』の歌が刻まれている。
薬師坂
薬師堂跡
斉藤茂吉歌碑
更に進むと、国道47号線のトンネルの上にある「鍋越峠」を越え、ふたたび国道47号線と合流後折り返して、右に延びている遊歩道に入る。
内山伊右衛門の墓を過ぎ、国道と合流したあたりの右手に道標9、中山越えルートのちょうど真ん中を示す道標がある。
その先の国道に架かる「小深沢橋」を渡らず、右に進路をとる。 角に「出羽街道中山越」の石柱が立ち、休憩所「あづま屋」がある。 国道を挟んで向かいにある「食事処 笑楽」で腹を満たすのもいい。
ここからが出羽街道中山越えの最難関である「小深沢・大深沢渡り」となる。 芭蕉が歩いた当時は軍事上、橋も架けられず九十九折の坂を上り下りした悪路であったと言われている。
小深沢
大深沢
現在は、マルタの階段や橋が架かり立派に整備され、自然美を楽しむことができる。
小深沢を越えた先の前田夕暮歌碑のある「ふるさとの森」で給水し、トイレを済ませておく。
大深沢を過ぎると平らな小径となる
1時間半ほどのハイキングであったが、奥の細道探訪の計画立案の時からぜひ歩きかった三峠の一つであったので、完歩したときは喜びにひたった。 わたしにとって、芭蕉の「奥の細道」の旅を追体験するための三峠とは、ここ「出羽街道中山越え」であり、次に続く「山刀伐峠」、そして日本海を望見できる「倶利伽羅越え」(富山石川県境)である。
国道47号線の中山平温泉近くにデポ(残置)しておいた自転車にまたがり、現在の中山越え(国道47号線)を、汗をかきながら上り終え(いやほとんど中山越え坂を押して上がって)車のところに帰り着いた。
その後、芭蕉と曽良は現在の国道45号線を西に向かってすすみ、中山宿跡にある「遊佐大神碑」で国道を離れ斜め右に入り、庚申碑、甘酒地蔵尊、三界萬霊碑をへて国道に再合流、500mほど先の右手にある「封人の家」に泊まって、わたしの少年・青年時代の鮮明な思い出として残る「蚤虱」(のみしらみ)の句を作っている。
この区間は、またの機会に時間をかけてゆっくりと歩いてみたいと思う。
今回は残念ながら車で駆けた。
余談だが、わたしは蚤虱(のみしらみ)とは縁が深く、少年期は仲間というか朋友のよう存在であった。
まずはわたしの血で養っていた蚤虱との共生時代。 この世に生を受けた直後に、両親の赴任先である現在の北朝鮮に渡って終戦、南朝鮮(現韓国)ソウルに避難、そこで迎えた朝鮮戦争。 少年時代は戦争を観戦しながら蚤虱との共同生活がつづいた。
風呂浴びもままならず、着たっきり雀、蚤虱の天国である。 蚤虱は人体の温もりと不潔を一番好むのである。
それも衣服の折り返しに行儀よく一列になって眠り、お腹がすくと動き出して好きなところで血を吸って、丸々と太るのである。
最初は見つけては潰して、血の飛び散る様に驚いていたものだ。
青年時代には、ブラジルの山奥、カンポス・ド・ジョルドンにあるバウー山の麓で生活したことがある。 ボーイスカウトのキャンプサイト造成に従事した際、原住民(カバクロ-インディオとスペイン人の混血)の家族とも親しくなった。 ある日、彼らが引っ越した後、蚤の大軍が人間の温もりが消えた廃屋から一列になって次なる人の温もりを求めて飛び跳ね進軍している姿に接し、その力強い生き様に驚愕したものである。
すこし寄り道した。
◎封人の家(ほうじんのいえ)
「封人の家」とは、国境を守る役人の家のことで、仙台領と境を接する新庄領堺田村の庄屋家、つまりこの旧有路家の住宅であったといわれている。 国境を守る人は、代々庄屋だった有路家が務めていた。
現在の建物は復元されたものであるが、300年はたっていると言われているので当時の様子がよくわかってうれしい。
つい昭和の初めまで、田舎では家の中に厩(うまや)を設け、家族の一員のように馬や牛を家の中で飼っていることがあった。
ここ「封人の家」も、土間の右側に厩があり、左側に板間と座敷が三間ある。
芭蕉「蚤虱 馬の尿する 枕元」の句がリアルに迫ってきた。
しかし、現在立っている庄屋兼「封人の家」である重厚な建物を見ていると立派すぎて、蚤虱がわくようには見えないのはわたしだけであろうか。 芭蕉と曽良が、雨のため辺境を守る粗末な家に蚤虱とともに二晩泊まったと想像していただけに、「奥の細道」の情景の一部を修正する必要があったほどであった。
400年前の姿を再現した立派な庄屋「封人の家」
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⑭山刀伐峠を歩き・尾花沢を走る<2017年5月10日>
「封人の家」を後にして、国道47号線をJR陸羽東線「赤倉温泉駅」まで行き、すこし戻って明神川に架かる明神橋(バス停)を右折、県道28号線を南進、赤倉温泉を過ぎて山刀伐峠入口にある駐車場(トンネル手前左手)に車を停め、山刀伐峠往復のハイキングに出かける。
B) 尾花沢サイクリング・マップ <約3km / 1.5H サイクリング・コース>
A) 山刀伐峠(標高499m)を歩く
山刀伐トンネル手前左奥に峠入口
遊歩道として整備された「歴史の道」を芭蕉とともに上っていると思うだけで満足である。山刀伐トンネル入り口手前左にある駐車場から、通称「山刀伐二十七曲がり」の旧県道を横切りながら急な坂を上り、40分程で山頂に着く。
反対側の尾花沢側登山口までは約1時間で下ることができると道標に書かれている。今回は山刀伐峠を縦走できなかったが、峠までの往復だけでも、当時の険しさと静寂、山賊出没の恐怖心をいささかでも味わうことができたことに満足している。 芭蕉が「山刀伐二十七曲がり」越えに案内人を雇ったことも理解できる。
通称「山刀伐二十七曲がり」古道・山刀伐峠
<奥の細道> 「さらばと云て人を頼侍れば、究竟(くっきょう)の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我々が先に立て行。(略)あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。(略)岩に躓(つまづい)て、肌につめたき汗を流して、最上を庄に出づ」
芭蕉と曽良が山刀伐峠を越えて尾花沢に向かうと聞いた封人の家の主は、山賊に出会ったり、道迷いを避けるため案内人を紹介してくれた。 屈強な彼は山刀で武装しており、見ているだけで不安がわいてきたとある。意を決して歩き出すが、鳥の鳴声さえも聴こえないような深い森であり、谷川の岩につまづき、冷や汗をかきながら峠を越したとある。
しかし人影はない、森閑とした古道に芭蕉が味わった森の香りが谷川の冷たい風に乗って優しく流れているだけである。
山刀伐峠トンネル横の駐車場をあとにして、県道28号線を尾花沢に向かう。
この日、山刀伐峠への旧県道は残雪深く通行止めのため県道28号線を利用することになった。
尾花沢に向かう。
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<B 尾沢花を自転車で走る―2 につづく>