shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 22

2017『星の巡礼奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』

3-3 塩釜・松島登米⇒平泉 <奥の細道紀行 3>

登米を自転車で巡る      201759日>
 
 
塩釜街道を東へ、松島の絶景に感激し、登米に立寄り平泉へと向かう.

芭蕉に「その気色えう然として美人の顔を粧ふ」と言わしめた双観山の展望台に立寄って松島の景観を一望し、次なる目的地・登米に向かうため、車の待つ塩竈神社の駐車場にもどる。
 
サイクリングルートである塩竈海道(国道45号線)は、陸前浜田駅から本塩釜駅までJR仙石線と並行して走る。
左手に松島湾に浮かぶ多島美を観賞しながらのルートであり、往路とまた違った景色が素晴らしい。


12時30分塩釜神社、第1駐車場にゴールする。
一服のあと、給水をおえ次なる目的地「登米」に向かう。

登米へは、自転車で往復した国道45号線(塩竈海道)を北上し、JR東北本線松島駅」付近で、国道342号線(左)へ入り、北上川左岸をドライブする。


 
芭蕉と走る登米サイクリング・コースは、約7km、1時間半のコースである。

登米奥の細道サイクリング・ルートマップ

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◎恐れながらわたしも一句

登米    
降らずとも 竹植えうる日は みのとかさ 登米神社 「北上の 川や舟旅 東風まかせ」
ふらずとも たけうえる日は みのとかさ   きたがみの かわやふなたび こちまかせ
    「北上や 残心忘る 川柳」
    きたがみや ざんしんわする かわやなぎ
 
芭蕉 「降らずとも 竹植えうる日は みのとかさ」 (ふらずともたけうえる日は みのとかさ)
意味 :   たとえ雨が降っていない日であろうとも、竹を植える日には蓑笠を着てやってほしい
         大垣の谷木因(たくぼくいん)で作った句)
 
恐れながらわたしも一句:
 
實久  「北上の 川や舟旅 東風まかせ」  (きたがみのかわやふなたび こちまかせ)
意味 :    北上川の舟旅(人生)はいそぐこともなし、いつも風まかせといきたいものだ
 
實久  「北上や 残心忘る 川柳」   (きたがみや ざんしんわする かわやなぎ)
意味 :    北上川に映る川柳の淡い緑葉は、その流れに身をまかせ己を消し去っているではないか、
      己もそうありたい
 
途中、国道45号線沿いにある「道の駅 上品の郷」で温泉「ふたごの湯」に立寄る。
三日ぶりの温泉でたまった疲れと、汚れや汗を洗い流せる喜びにひたる。
御婆さんが地元で獲れた鯖を炭火焼してくれた。 なによりのご馳走に感謝である。
旅人をいたわるこころを東北の人々は伝えきているようだ。

国道45号線より、国道342号線に乗り換え、北上川沿いを進むと登米大橋を渡って
登米の街に入る。

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北上川に架かる登米大橋 ( 国道342号線がとおる)
 
 
登米町の駐車場は、橋を渡り最初の信号を左に曲がると、右手100m先に町営駐車場がある。
自転車を組立て、地図・磁石・行動食・水・ガイドブック・記録ノート、筆記用具・ヘッドランプ・カメラ・予備バッテリ・スマホ・万歩計・雨具をフロントバックに移す。
まずは、車で来た道を引き返し、登米大橋の左岸から北上川を見下ろすように立っている「芭蕉翁一宿之跡」碑に立寄る。

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上川に架かる登米大橋の川上に向かって左岸に「芭蕉翁一宿之跡」碑

 
元禄2年5月11日(1689・陽暦6月27日)、芭蕉石巻を立ち、平泉へ赴こうとして、北上沿いに登米へ至り、

その夜は登米(戸今)で宿泊した。 そして翌12日、一ノ関へ向かったのである。芭蕉に同行した
曽良の「旅日記」には登米の状況を戸いま(伊達大蔵)、儀左衛門宿不借、仍検断告テ宿ス。
検断庄左衛門」としるしている。

奥の細道」では、その前後を含めて・・・

<・・・(石巻で)宿からんとすれど、更に宿かす人なし、漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る>
と述べている。 (案内板より一部抜粋)

石巻で宿を探したか、宿を貸してくれる人もなく、仕方なく小家で一夜をあかし、迷いながら北上川の堤を進んで「戸伊摩」(戸今)という村で一泊し、平泉に至ったとある。 ただ、登米のどこで一泊したかは定かではない。

案内板によると、芭蕉曽良は一関街道を北上し、渡し舟で「戸伊摩」(登米・戸今)に夕刻に入ったが、予定していた儀左衛門宅では宿泊できず、検断(村役人)の庄左衛門に事情を話して宿を借りたとある。

「戸伊摩」とは、ここ登米のことである。

芭蕉曽良石巻より平泉への途中、「戸伊摩(といま)といふ所に一宿」している。 現在の登米町は「とよま」町と読む。
この東北の田園風景の中に、武家屋敷や明治建築がたくさん残っており、目を見張るものがある。

日暮れのなか、タイムトンネルをくぐり抜けたような「みやぎの明治村」といわれる、旅情豊かな登米の街を自転車で散策する。
どのような武家屋敷や明治の建物に出会うか興味が尽きない。

伊達藩の文明開化の姿勢は明治維新後にも引き継がれ、その歴史的建造物を多く残しているのには、驚きである。

芭蕉翁一宿之跡」碑を後に、駐車場のある「蔵通り商店街」を南に向かったT字路の右角にバルコニーのある旧登米警察署庁舎(現在、警察資料館)がある。 明治に旧登米警察署庁舎として建てられた洋館で、全体にギリシャ建築の様式をみせる建物である。

ほか、旧登米警察署庁舎から500m以内に教育資料館として利用されている「旧登米高等尋常小学校校舎」(明治29・洋風建築)や、水沢県庁舎として使われた和洋折衷の建造物「旧水沢県庁庁舎」(現水沢県庁記念館)があり、ノスタルジーを感じさせる建物である。

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登米警察署庁舎                                                登米高等尋常小学校校舎

登米警察署庁舎より西へ300m先を左折し、道なりに進むと小高い山の上に登米神社がある。
石の立派な大鳥居をくぐり、急こう配の石の階段をのぼると社殿に出る。 振り返ると整然とたたずむ登米の街が一望できる。
 
登米伊達家の守護・登米神社には、大垣の谷木因(たくぼくいん)で作った句である
「降らずとも  竹植える日は  みのとかさ」芭蕉句碑が立っている。
社務所の方向にまっすぐに行くと、突き当りに古くて判読できない明和7年(1770)建立の
石碑がある。
 
前九年の役」の時、源頼義は、戦勝祈願のため、奥州の旧登米八幡宮に詣でている。
時代が下って、義経が平泉にいたとき、度々参拝し源氏再興の祈誓を立てた神社なのだ。
また、平家を「壇ノ浦」で滅ぼし宿願を果たした祝に、藤原秀衡に頼んで神額を奉納しているほど
である。
芭蕉がなぜ登米に立寄ったのか疑問に思っていたが、その謎がここ登米神社に立寄って解明できた気がする。
ここでも義経芭蕉の面影が重なり合った。

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登米神社                                                    境内にある芭蕉句碑「降らずとも」

登米神社を後にして、整然と白壁が残る武家屋敷通りを自転車で駆け抜けた。
武家屋敷や武者隠しにも伊達藩の支藩21000石の城下町として繁栄した当時の町の防備や面影を偲ばせ
てくれる。
いまなお街の歴史的美観保護に力をいれている登米町の姿勢にエールを贈りたい。 大切に保護し後世に
遺してもらいたいものである。

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武者隠し                       前小路にある武家屋敷景観

芭蕉がここ登米に立寄った時代は、 戸伊摩」(戸今)と呼ばれ、北上川で守られた要害の地でもあった。 北上川渡し船で渡らなければならず人物や物産、兵卒の移動にも困難をきわめたことであろう。

一方、仙台藩は奥州からの防御としてここ登米の開拓に努め、支藩に一定の自主判断を与えていたような気風がうかがい知れる。
街を自転車で走っていて、京都の二条城前や府庁前を走っているような都の匂いを嗅いだ。
ここは東北である、不思議な都の風に心やわらいだ。

約17km、1時間半の登米の街の都の匂いに誘われて、自転車で走る楽しい時間をもつことができた。

多賀城を早朝に出て、塩釜松島と走り、ようやく長い一日を伏見の酒造蔵のような雰囲気の登米町営駐車場で終えることができた。 感謝である。


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登米町駐車場にもどる


  <次の目的地・奥の細道紀行4・「⑪平泉
   につづく>