芭蕉と曽良は、5月2日(陽暦6月17日)、福島を出立して歌枕で有名な信夫(しのぶ)の里の「文知摺石」
(もじずりいし)を訪ねている。 石に布をあて乱れ模様を摺りだす染色技法であるといわれる。
JR福島駅近くの国道4号線と国道115号線との分岐から右へ約3kmのところに文知摺観音がある。
こちらも歌枕の「文知摺石」に立寄った。 観音さまの前にある巨岩が文知摺石である。
◎恐れながらわたしも一句
⑦飯坂温泉 |
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「笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟」 |
医王寺 |
「弁慶の 笈朽ちたるも 都草」 |
(おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり) |
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(べんけいの おいくちたるも みやこくさ) |
「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺 」 |
文知摺石 |
「摺紙も 川釣り鮎や 足るを知り」 |
(さなえとる てもとやむかし しのぶずり) |
(もじずりいし) |
(ずりかみも かわずりあゆや たるをしり) |
芭蕉 「笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟」 (おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
意味 :佐藤庄司の館跡を訪ねて、義経の太刀や弁慶の笈などをみると、これから訪ねる平泉の悲劇が
想われる。いま、薫風香る五月。笈も太刀も五月の風に吹かれてみよ
芭蕉 「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺 」 (さなえとる てもとやむかし しのぶずり)
意味 : 早苗をとる乙女たちの手元を見るに、むかしのしのぶ摺りをするのと似ているようだ
恐れながらわたしも一句
實久 「摺紙も 川釣り鮎や 足るを知り」 (ずりかみも かわずりあゆや たるをしり)
意味 : 刷り紙も 釣り鮎も資源を大切に、足るを知りたいものだ
文知摺石が巨岩であったことに驚きをかくせないまま、飯坂温泉に向かう。
国道4号線を北上し、国道399号線を西へ車を走らすと飯坂町に出る。
広場近くの駐車場に車をとめ、飯坂温泉を巡り、郊外にある医王寺までサイクリングを楽しむことにした。
飯坂温泉は、摺上川沿いに温泉旅館が立ち並ぶ東北を代表する歴史ある温泉街であり、名泉・古湯の
一つである。
また、西行法師もこの湯を訪れ、ここで次のように詠み、そこから「鯖湖の湯」(さばこゆ)という名が定着した
という。
西行法師 「あかずして 別れし人のすむ里は 左波子(さばこ)の見ゆる山の彼方か」
飯坂温泉は、摺上川沿いに温泉旅館が立ち並ぶ東北を代表する歴史ある温泉街であり、名泉・古湯の
一つである。
また、西行法師もこの湯を訪れ、ここで次のように詠み、そこから「鯖湖の湯」(さばこゆ)という名が定着した
という。
西行法師 「あかずして 別れし人のすむ里は 左波子(さばこ)の見ゆる 山の彼方か」
この日は定休日で、残念ながら入湯がかなわなかった。
以前、旅行したときに立寄った時のことを思いだしていた。 ヒバやヒノキを使って明治建築そのままに立て直され、温泉情緒を漂わせている。
明治建築を再現した「鯖湖湯」 鯖湖湯をデザインした飯坂温泉のマンホールの蓋
川沿いの花水館裏の摺上川岸に「俳聖松尾芭蕉ゆかりの地」の俳文碑が立ち、「奥の細道」の一節が記されている。
<その夜、飯塚(飯坂)にとまる。温泉あれば湯に入りて宿を借るに、土坐に筵を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所を設けて臥す。
夜に入りて、雷鳴り雨しきりに降りて、臥せる上よりもり、蚤・蚊にせせられて眠らず。持病さへおこりて消入るばかりになん。
短夜の空もやうやう明くれば、又旅立ちぬ。なほ夜のなごり、心進まず。
馬借りて桑析(こおり)の沢に出る>
碑文にもみられるように、当時の飯坂は小さな温泉地であったのだろう、とんでもない一夜を明かしたとある。「奥の細道」のなかで見られる最悪な一晩であったようだ。 各地で、門弟でもある地元の名士らからもてなしを受けてきた芭蕉としては、あやしい貧家で灯もなく、囲炉裏の火かげに寝むり、ノミや蚊に悩まされたとあっては、かかる率直な日記となったようだ。
時代的にみると、飯坂温泉が世間に知られ、整備されだしたのは江戸時代中期の享保年間(1717年頃)で、
芭蕉が飯坂温泉に立寄った元禄2年(1689年)ごろは湯治場として部屋を借り、外湯に出かけていた時代であった。
また、碑のあるこの地は、芭蕉が入浴したであろう「滝の湯」があった場所といわれている。しかしその後の研究調査により、実際は「鯖湖湯」であったという説が有力だという。
明治建築のままに建て替えられた「鯖湖湯」や、白壁土蔵造りの「なかむらや」辺りに残る温泉情緒を楽しみながら、郊外の「医王寺」に向かう。
風に押されて、県道3号線を福島交通飯坂線沿いに南西にくだり、二つ目の「医王寺前」駅前を右に進路を
とり、すこし複雑な生活道路を走ると「医王寺」に着く。
ちょうどここ医王寺から北西方向1kmほどのところに小高い山、大鳥城址のある館山が見える。 この大鳥城
の城主であった庄司佐藤基治が眼下に見える薬師堂を改築し、医王寺にあらためたといわれる。
静かに時を刻んでいる杉の巨木が並ぶ参道の奥に薬師堂があり、その後ろに佐藤一族の墓碑がある。
杉の巨木が出迎える医王寺参道
また、医王寺の宝物殿には義経の遺品や弁慶が使用したと伝わる笈や太刀などが陳列されている。
医王寺 本堂に向かって左側にある白壁の前に古色蒼然たる芭蕉句碑「笈も太刀も・・」が立っている。
芭蕉句碑 「笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟」 (おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
意味 : 佐藤庄司の館跡を訪ねて、義経の太刀や弁慶の笈などをみると、これから訪ねる平泉の
悲劇が想われる.。 いま、薫風香る五月、笈も太刀も五月の風に吹かれてみよ
恐れながらわたしも一句
實久 「弁慶の 笈朽ちたるも 都草」 (べんけいの おいくちたるも みやこくさ)
意味 : 弁慶の笈は朽ちても、芭蕉の作品集「笈の小文」はいつまでも都草のように咲き続けるであろう
館山の山頂にある大鳥城跡を訪れた芭蕉は、義経のもと、忠義を尽くし果てた佐藤継信・忠信兄弟のことを思い芭蕉は泪を落としている。義経と佐藤兄弟、継信・忠信との関係に触れておきたい。
平治の乱(1160年)後、源義経は平清盛に捕えられ鞍馬山に預けられるが、その後密かに平泉の藤原秀衡を頼り、保護されていた。 治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは佐藤基治の子、継信(つぐのぶ)、忠信兄弟が加わった。
基治は息子2人を白河の関の旗宿まで見送り、別れの時に桜の杖を地面に突き刺して「忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろう」と言って励まし福島に戻って行った。それ以来、白河の関の旗宿のこの場所は「庄司戻し」と呼ばれている。
このことはすでに「白河の関」の項で触れた。
継信と忠信は、父の願い通り平家討伐に偉功を挙げ、剛勇を称えられることとなる。兄の継信は、屋島の合戦で平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導き、後の歴史に大きな足跡を残した。
弟の忠信は、頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させている。後に六條堀川の判官館にいるところを攻められ自刃を遂げた。
その後、無事奥州に下った義経一行は、平泉に向かう途中ここ飯坂にある大鳥城の基治に会って継信、忠信兄弟の武勲を伝え、讃えるとともに、追悼の法要を営んだと言われている。
大鳥神社に参詣し、初蝉の鳴く大鳥城址をあとにして、眼下に広がる飯坂温泉を見ながら自転車を走らせ、飯坂温泉駅近くの駐車場にもどった。風の強い日であった。
ゴールして分かったのだが、芭蕉翁の立像の足もとに財布を置き忘れてスタートしていた。財布は、そのままの状態で待っていてくれた。 つい芭蕉翁を見上げて礼を言ったものだ。 芭蕉翁とのつれづれも師匠弟子の旅に変わりつつあることを喜んだ。
飯坂温泉を後にして、国道4号線を北上、白石、岩沼、仙台をへて多賀城に向かう。