shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼 日記―⑤

2018『星の巡礼潜伏キリシタンの里 自転車の旅630km』 日記⑤

                                                   


潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km    4日目>  20189月4日
 
     <休養日> ―  原城址にてテント連泊 ―         

 
<灯火によるモールス信号>
 
朝方、テントから顔を出すと、覚めやらない夜影に普賢岳雲仙岳のシルエットが浮かび上がり、漁港に帰り着いた漁船に囲まれた黒い海が目に飛び込んできた。
遠く、闇に光る島原の小さな灯火が揺れ、ここ原城址の大手門近くにある櫓(テント)に向かって信号を送っているではないか。どうもこちらの戦況を案じてのキリシタン仲間からの信号のようである。
こちらもボーイスカウト時代に習った灯火によるモールス信号で応答した。
 
『われら勇敢に戦えり。城内に至っては、婦女子みな一心に義を求めてデウスに祈りおる。戦い一日終え、明日は全滅すれど、われらの一揆の目的をわれらの命に代えて達成されたことを喜ぶなり。どうか、後々のことをお頼み申し上げ、皆様方の祈りにたいして感謝の気持ちを送り、われわれ籠城組の最後の灯火通信としたし。キリシタン諸子の神のご加護あらんことを、召されゆくわれら一同死してのちも生きて祈るものなり。復活してまた共に戦おう。さらば友よ!』
 
原城址の麓で、ひとりテントという空間にいるわたしもまた一揆に参加し、殲滅される側にたって当時のリアルな情景を演出しているのであろうか。推測するに、心象風景に大きな相違はないと思われる。
 
今日は、初めての休養日である。原城址散策と、原城温泉「真砂」で一日ゆっくりと体を休め、時間が許す限り原城址を自転車でのんびり走り、命を賭して義を求めて戦った一揆軍のひとり一人と出会いたいと思う。いまなお原城址の土の中に彼らのおおくの屍が眠っているとのことである。鎮魂の祈りを捧げたい。
 
 
原城温泉・真砂」                長崎県南島原市南有馬町133    入湯料500

真砂温泉は、最初「町営原城温泉センター」(公衆浴場)として開業し、2年後の昭和42年には「国民宿舎原城荘」をへて今日に至っている。原城址を訪れる旅人が必ず立ち寄る温泉であるようだ。原城址の海側にあるので立寄ってみたい。


ここ真砂温泉の大浴場の湯船からの普賢岳雲仙岳の大パノラマの見事なこと、それは素晴らしい。景色はもちろんだが、麓から熱湯拷問の待つ雲仙地獄へ向かって殉教道をもくもくと歩み登る殉教者の姿が見えるようである。時間を忘れて湯につかった。祈りの湯になった。

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            原城温泉真砂の湯船から雲仙普賢岳を眺める

 
まずは、原城址に立て籠もった一揆軍の「天草・島原の乱」の歴史的背景を見ておきたい。



天草・島原の乱」は、1637寛永14)年1025日勃発―1638寛永15)年228終結している。
原城址のある丘陵はのどかな草原であり、ここに幾千の屍がいまだ眠っているという凄まじい戦闘の跡は時の流れに消えてなくなっているようさえみえる。


夕暮れに染まった原城址は、三方を有明海に囲まれた絶景ポイントであるとともに、天然の要塞であることに気付かされる。幕府も島原に点在するいくつかの難攻の城を廃し、島原城に集約させたほどである。一揆軍は島原城本渡城富岡城を攻撃した後、ここ原城址に立て籠もって幕府軍と対峙して、理不尽な重課税や信仰弾圧に抗議し、決戦玉砕する。


島原・天草一揆については中学生の社会科の教科書で初めて習ったことを覚えている。天草四朗の名前だけが記憶に残り、その史実も一般常識的にかじったにすぎず、詳しく知ることはなかった。
今回の「星の巡礼潜伏キリシタンの集落探訪自転車の旅650km」にあたって、「天草・島原の乱」を詳しく見てみたい。


1637寛永14)年、年貢を納めきれなかった庄屋の妊婦が、代官によって殺害されたことが引き金となって、島原と天草の領民が蜂起した。幕府ははじめ、ただの農民一揆とみていたが、有馬氏や小西氏といったキリシタン大名の家臣であった帰農武士によって本格的に武装・組織化された軍団であることをしる。


その一揆軍団の総大将が、15歳であったキリシタン少年・天草四朗である。


婦女子を含めた約37000一揆軍は、ポルトガルの支援を待って70日間に及ぶ原城址での籠城であったが兵糧もつき、頼みのポルトガルからの支援もなく、内部からの崩壊もあり、幕府軍によって壊滅させられる。その凄惨な戦いの様子は絵図に残され、一揆軍の奮戦が描かれている。総攻撃にあたって、幕府軍はオランダの軍艦に要請して、原城址に立て籠もる一揆軍に対して艦砲射撃を行うなど万端の準備をしている。矢文での内部崩壊(裏切り)を狙った攪乱戦術や懐柔を行っている。そして一揆軍の約4倍の兵力である124800人で総攻撃をかけている。


そして、幕府は生き残りの一揆参加者、婦女子を含めひとり残らず見せしめとして処刑し、晒している。幕府を震撼させた120日の攻防、天草・島原の乱を幕府がいかに深刻に受け止めていたかがうかがい知れる。
幕府は一揆処刑者を一カ所に埋葬することによって、反乱蜂起の誘因になることを恐れて三ケ所に分割したほどである。すでに立寄った「首塚―富岡切支丹供養碑」はその一つである。


江戸初期に起こった日本最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦であったと言われている。


原城址の朝の風景」


休養日は、移動する必要がない気楽さがある。
朝早く、ゆっくりと「天草・島原の乱」が起こった1637年の原城址にタイムスリップしてみた。


遠くの雲仙岳や近くの有明海におおいかぶさる白雲の朝焼け、キリシタンをはじめ一揆軍の瞳は輝き、あらたな闘志を燃やし、幕府軍に対峙したであろう。
婦女子を含め37000名が全滅した原城址は、あまりにも美しく、静かな朝を迎えていた。

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              朝焼けの雲仙普賢岳を背景に原城二の丸跡
 

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             天地創造    有明海に昇る朝日に雲も喜びの声原城址にて


タイムスリップの原城址を散策した。

国道251号線である島原街道に面して「原城址」の大きな看板がでている。
入って、ゆるやかなカーブを上って行くと三の丸をへて、三叉路を右へ、二の丸跡の先に小高い所にある本丸が見えてくる。海に囲まれた原城址は難攻不落といわれているが、高台の上の豊かな平地の上にあることが分かる。見晴らしも素晴らしい、この地が虐殺の地であったとはどうしても想像できないほどである。

本丸の近くには空堀跡があり、一揆側に参加していた婦女子は、幕府側の攻撃に対してこの空堀に掩蓋をかけ、退避して戦い続けたと言われる。その先に、戦乱で散った敵味方の骨をひろい祀ったホネカミ地蔵がある。
原城址の本丸には、「天草・島原の乱」の一揆側のリーダーとされた天草四郎の墓と像が建っている。
また城壁の一部を見ることができる。これらは、幕府軍による徹底した破壊や隠ぺいにもかかわらず残った城壁である。

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       国道251に面して標識がある                                    婦女子を隠した空堀

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          ホネカミ地蔵

「ホネカミ地蔵」     本丸正門跡に建つ。


島原の乱後、128年経った明和3年(1766)、有馬村・願心寺の注誉上人 が、
戦乱で命を失った人々の骨を、敵・味方の区別なく拾い集め、
その霊を慰めたとされる地蔵尊塔。
ホネカミとは、『骨をかみしめる』 の意味で、『自分自身のものにする』

さらに 『人々を救う』と、理解すべきだといわれている。   <文部省・南有馬町教育委員会


 


天草四郎時貞の墓碑」


原城址十字架広場に有明海を背に天草四朗時貞の墓碑があり、南有馬町教育委員会は次のように説明している。
キリシタン大名小西行長の家臣、増田甚兵衛好次の子で、本名増田志郎時貞といい、洗礼名はフランシスコといわれていた。比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったと言われ、また長崎に行って勉強したとあるが、詳細は不明である。

島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立した。


一揆軍は88日間この原城(跡)に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結した。天草四朗はこの本丸で首を切られ、長崎でさらし首にされた。


墓碑は、(四郎の母の手によるもので)西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものである。墓碑には「O保O年  天草四O時OO O二月廿O母」と刻印されている。

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                原城址本丸跡に建つ天草四朗の墓
 

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                原城址本丸跡に立つ天草四郎

 
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                 尻門口跡(本丸入口三ケ所の一つ)         


暮れゆく夕陽を背に静寂のなか一揆37000人が籠城し、全員虐殺にあった原城址に立つ.

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             有明海を彩る夕焼けと原城址 
 
 
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             一揆軍の全滅を悼む十字架建つ原城址本丸跡
 

夕暮れも又美しい原城址の本丸に建つ、一揆軍の全滅を悼む十字架に別れを告げ、露営地として昨夜も世話になった原城址の麓にある浦田漁港に戻った。


▲5日目露営地        原城址ふもと・浦田漁港テント連泊

今日は休養日であったおかげで、原城温泉につかり、心行くまで原城址をめぐり歩くことができた。ここが、心の底に留め置かれていた「天草・島原の乱」の戦場の跡である。

一か月に及ぶ攻防があったにせよ、その間、幕府軍は苦戦し総大将を変えるほどの抵抗にあっている。前任者は不名誉なこととして、先陣を切って討ち死にし、後に兄弟が幕府を非難する事態に発展すほどであった。

また。一揆軍に手を焼いた幕府は、洋上より艦砲射撃をしたという。それを避けるため一揆軍は婦女子を空堀に避難させたりもした。また、一揆軍の高みにある城跡の陣形を観察するため、築山のうえに高見櫓を建て、鐘を鳴らして本陣に報告をしたりしたという。一揆軍の合図の法螺貝と鐘の音が行き交ったに違いない。

日本史に残る最大の一揆は、一揆側の全滅という悲劇に終わったのである。

ここ浦田漁港の闇夜にお互い舫い、つながれた漁船同士のこすれ合う音が、原城に籠城する一揆軍の負傷者の呻き声に聞こえてくる。ああなんと悲しい人間同士の殺し合いなのだろうか。

当時の晩も、今宵と同じく赤くもの悲しい上弦の三日月であったろうか。
雲の間に、その姿はどこまでも清く美しい。今宵と同じ月が原城址に明かりを送り、戦いを、殺戮を見守っていたに違いない。
三日月は、わたしに何を伝えようとしているのであろう。

ひょっとして、一揆側の総大将として祭り上げられた15歳の絵師が、その聖なる使命を果たし、対岸の母のいる生家に脱出していたという伝説物語を伝えに来てくれたのであろうか。
いや、天草四郎は、源義経のご落胤であるという伝説を伝えに来たのだろうか。
天草四郎の「天草・島原の乱終結後の消息は分かっていないといわれる。
もちろん幕府軍に捕えられ、打ち首のうえ、長崎でさらし首にされたというのが通説である。

遠くで、救急車のサイレンが聴こえる。近くで、犬が次々に吠えだした。
物悲しく、長く引きずるような遠吠えは、三日月に向かって合唱(合掌)しているように聞こえた。

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          原城址の麓、浦田漁港も暮れゆき、乱戦の鬨の声が聴こえるようである


                潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km  ④
                 2018年9月5日 ― 原城址 ⇒ 島原市須川 ― 走行距離 20 km             
                                                                         につづく