■<潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 4日目> 2018年9月4日
<休養日> ― 原城址にてテント連泊 ―
<灯火によるモールス信号>
こちらもボーイスカウト時代に習った灯火によるモールス信号で応答した。
『われら勇敢に戦えり。城内に至っては、婦女子みな一心に義を求めてデウスに祈りおる。戦い一日終え、明日は全滅すれど、われらの一揆の目的をわれらの命に代えて達成されたことを喜ぶなり。どうか、後々のことをお頼み申し上げ、皆様方の祈りにたいして感謝の気持ちを送り、われわれ籠城組の最後の灯火通信としたし。キリシタン諸子の神のご加護あらんことを、召されゆくわれら一同死してのちも生きて祈るものなり。復活してまた共に戦おう。さらば友よ!』
今日は、初めての休養日である。原城址散策と、原城温泉「真砂」で一日ゆっくりと体を休め、時間が許す限り原城址を自転車でのんびり走り、命を賭して義を求めて戦った一揆軍のひとり一人と出会いたいと思う。いまなお原城址の土の中に彼らのおおくの屍が眠っているとのことである。鎮魂の祈りを捧げたい。
真砂温泉は、最初「町営原城温泉センター」(公衆浴場)として開業し、2年後の昭和42年には「国民宿舎原城荘」をへて今日に至っている。原城址を訪れる旅人が必ず立ち寄る温泉であるようだ。原城址の海側にあるので立寄ってみたい。
ここ真砂温泉の大浴場の湯船からの普賢岳・雲仙岳の大パノラマの見事なこと、それは素晴らしい。景色はもちろんだが、麓から熱湯拷問の待つ雲仙地獄へ向かって殉教道をもくもくと歩み登る殉教者の姿が見えるようである。時間を忘れて湯につかった。祈りの湯になった。
原城址のある丘陵はのどかな草原であり、ここに幾千の屍がいまだ眠っているという凄まじい戦闘の跡は時の流れに消えてなくなっているようさえみえる。
夕暮れに染まった原城址は、三方を有明海に囲まれた絶景ポイントであるとともに、天然の要塞であることに気付かされる。幕府も島原に点在するいくつかの難攻の城を廃し、島原城に集約させたほどである。一揆軍は島原城や本渡城、富岡城を攻撃した後、ここ原城址に立て籠もって幕府軍と対峙して、理不尽な重課税や信仰弾圧に抗議し、決戦玉砕する。
島原・天草一揆については中学生の社会科の教科書で初めて習ったことを覚えている。天草四朗の名前だけが記憶に残り、その史実も一般常識的にかじったにすぎず、詳しく知ることはなかった。
1637(寛永14)年、年貢を納めきれなかった庄屋の妊婦が、代官によって殺害されたことが引き金となって、島原と天草の領民が蜂起した。幕府ははじめ、ただの農民一揆とみていたが、有馬氏や小西氏といったキリシタン大名の家臣であった帰農武士によって本格的に武装・組織化された軍団であることをしる。
婦女子を含めた約37000の一揆軍は、ポルトガルの支援を待って70日間に及ぶ原城址での籠城であったが兵糧もつき、頼みのポルトガルからの支援もなく、内部からの崩壊もあり、幕府軍によって壊滅させられる。その凄惨な戦いの様子は絵図に残され、一揆軍の奮戦が描かれている。総攻撃にあたって、幕府軍はオランダの軍艦に要請して、原城址に立て籠もる一揆軍に対して艦砲射撃を行うなど万端の準備をしている。矢文での内部崩壊(裏切り)を狙った攪乱戦術や懐柔を行っている。そして一揆軍の約4倍の兵力である124800人で総攻撃をかけている。
江戸初期に起こった日本最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦であったと言われている。
「原城址の朝の風景」
休養日は、移動する必要がない気楽さがある。
婦女子を含め37000名が全滅した原城址は、あまりにも美しく、静かな朝を迎えていた。
タイムスリップの原城址を散策した。
入って、ゆるやかなカーブを上って行くと三の丸をへて、三叉路を右へ、二の丸跡の先に小高い所にある本丸が見えてくる。海に囲まれた原城址は難攻不落といわれているが、高台の上の豊かな平地の上にあることが分かる。見晴らしも素晴らしい、この地が虐殺の地であったとはどうしても想像できないほどである。
また城壁の一部を見ることができる。これらは、幕府軍による徹底した破壊や隠ぺいにもかかわらず残った城壁である。
国道251に面して標識がある 婦女子を隠した空堀跡
ホネカミ地蔵
「ホネカミ地蔵」 本丸正門跡に建つ。
島原の乱後、128年経った明和3年(1766)、有馬村・願心寺の注誉上人 が、
戦乱で命を失った人々の骨を、敵・味方の区別なく拾い集め、
その霊を慰めたとされる地蔵尊塔。
ホネカミとは、『骨をかみしめる』 の意味で、『自分自身のものにする』
「天草四郎時貞の墓碑」
キリシタン大名・小西行長の家臣、増田甚兵衛好次の子で、本名増田志郎時貞といい、洗礼名はフランシスコといわれていた。比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったと言われ、また長崎に行って勉強したとあるが、詳細は不明である。
墓碑は、(四郎の母の手によるもので)西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものである。墓碑には「O保O年 天草四O時OO O二月廿O母」と刻印されている。
原城址本丸跡に建つ天草四朗の墓
尻門口跡(本丸入口三ケ所の一つ)
▲5日目露営地 原城址ふもと・浦田漁港テント連泊
また。一揆軍に手を焼いた幕府は、洋上より艦砲射撃をしたという。それを避けるため一揆軍は婦女子を空堀に避難させたりもした。また、一揆軍の高みにある城跡の陣形を観察するため、築山のうえに高見櫓を建て、鐘を鳴らして本陣に報告をしたりしたという。一揆軍の合図の法螺貝と鐘の音が行き交ったに違いない。
当時の晩も、今宵と同じく赤くもの悲しい上弦の三日月であったろうか。
雲の間に、その姿はどこまでも清く美しい。今宵と同じ月が原城址に明かりを送り、戦いを、殺戮を見守っていたに違いない。
三日月は、わたしに何を伝えようとしているのであろう。
ひょっとして、一揆側の総大将として祭り上げられた15歳の絵師が、その聖なる使命を果たし、対岸の母のいる生家に脱出していたという伝説物語を伝えに来てくれたのであろうか。
もちろん幕府軍に捕えられ、打ち首のうえ、長崎でさらし首にされたというのが通説である。
遠くで、救急車のサイレンが聴こえる。近くで、犬が次々に吠えだした。
物悲しく、長く引きずるような遠吠えは、三日月に向かって合唱(合掌)しているように聞こえた。
原城址の麓、浦田漁港も暮れゆき、乱戦の鬨の声が聴こえるようである
潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km ④
につづく