本渡にある天草キリシタン館を後にして国道324を南下、瀬戸大橋より国道266を走り天草下島を縦断。信号「白木河内」で国道389を西へ向かい、「天草コレジョ館」の前を通って、サンセットラインを走ると「道の駅 キリシタンの里崎津」に着く。
国道266に建つ崎津集落標識 国道266より国道389への分岐
「 天草コレジョ館」
国道389号線へ入って間もなく左手に「天草コレジョ館」がある。
河浦町の、このあたりに宣教師養成学校「コレジョ」があった。ここでは南蛮文化の資料が多数展示されている。400年以上も前に命がけで海を渡った4人の少年使節(天正遣欧少年使節団)がヨーロッパから持ち帰ったグーテンベルク印刷機の複製や、竹製のパイプオルガン、南蛮船の模型など珍しいものが展示されている。
当時の日本にあって、天草を含めた九州西北部が片田舎の島々に過ぎないと思っていたら大間違いで、宣教師や南蛮貿易によってヨーロッパの文化がいち早く移入され、文明度の高いエリアであったのである。
天草コレジョ館
「崎津集落」
崎津の漁村には、海の天主堂とも呼ばれる崎津天主堂が建ち、一帯は、国の重要文化的景観に選定され、漁村景観としては全国初の選定となる。
わたしは、海上マリア像より先の海岸道路より大江天主堂に向かうので、自転車を押して集落へ入ることにした。
16世紀に日本へ伝えられたキリスト教は、繁栄、激しい弾圧と約250年間にわたる潜伏、そして奇跡の復活という世界でも類を見ない歴史をたどる。
今回、世界遺産に登録なった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、1637~1638年の島原・天草一揆の後、江戸幕府によりキリスト教が禁じられている中で、日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続けた、潜伏キリシタンの信仰継続に関わる伝統の証となる遺産群である。一揆終焉の地や信仰が続けられた集落など12の遺産で構成されている。
アワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てて祈る風習や、身近なものを信心具として代用し信仰を継続したことが特徴である。
天草の崎津集落散策マップ
「天草の崎津集落散策マップ」に従って歩いてみよう
右端下Pに「崎津集落ガイダンスセンター」があり、自動車・自転車はここに駐車・駐輪して徒歩で集落に向かう。
では、散策した主だったところを紹介すると、
2. カケ(護岸に接する家屋から海に張りだして設置されている構造物で、竹やシュロを使った漁師の作業場)
8. 海上マリア像(海に向かってたたずむマリア像、像のある岬は天草夕陽八景の一つ)
9. ハルブ神父の墓(1927年崎津教会司祭として着任、禁教期に絵踏みが行われた庄屋宅跡を買い取り、
教会の建築に献身)
「崎津資料館みなと屋」
﨑津の潜伏キリシタンで漁業を生業としていた人たちは、デウスを豊漁の神として崇拝していたという。すでに触れたが、アワビなどの貝殻内側の模様を、聖母マリアに見立てて崇敬するなど漁村特有の信仰形態が生まれ、独特の漁村信仰が育ったという。
柱に隠したメダイ 貝 殻内側の模様をマリアにみたてた
「崎津キリシタンの歴史」 (天草市「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」より)
―キリスト教布教期―
﨑津は1569 年、イエズス会修道士アルメイダによって布教が開始され、ほとんどの村人がキリスト教徒となった。集落内には教会堂や宣教師のレジデンシア(住居)が作られ、教会を支援する信仰組織として3つの小組からなるコンフラリア(信仰組織)が形成されている。
その後、天草はキリシタン大名である小西行長が支配し、1591年から1597年の間、宣教師を養成するコレジヨが﨑津の隣村に設置された。すでに触れたが、ここには天正遣欧少年使節団の4人も入校している。彼らが持ち帰ったグーテンベルグ印刷機(複製/天草コレジョ館展示)により、日本発のローマ字活版印刷が行われた。
ルイス・フロイスの「日本史」によれば、﨑津集落は「さしのつ」と呼ばれ、信仰拠点として重要視されていたことが記されており、それを裏付けるように布教期のメダイやロザリオが多く伝来している。
―キリシタン弾圧期―
イエズス会の作成した「コウロス徴収文書」のなかには、﨑津の信仰組織の代表者3名の名前と霊名が記載されている。また宣教師がひそかに来訪し、「こんひさん(告解)」や「貴(とおと)きさからめんと(聖体の秘蹟)」を授けていたことがわかっている。
禁教令により宣教師は追放され、1637年、厳しい弾圧、幕府の苛政や飢饉を契機として島原・天草一揆が勃発した。一揆後、幕府の宗教政策により、村人は表向きは寺院や神社に帰属した。村人は毎年、庄屋役宅で行われる「絵踏」においてキリストや聖母マリアの像を踏まされた。
また宣教師不在のなかでも、集落にはコンフラリアの端末組織である「小組」が存続しており、「水方」と呼ばれる信仰指導者が洗礼を授け、葬送儀礼や日繰りをもとに祭礼を行っていた。集落には水方を勤めた家屋が現存し、潜伏時代の信心具が保管されている。
「崎津諏訪神社と天草崩れ」
大漁、海上安全祈願のため、1647年に創建されたとされ、境内には1685年銘の鳥居が現存するなど、当初の境内の配置が現在ものこっている。創建以来、﨑津集落の守り神として受け継がれており、日本の伝統宗教と潜伏キリシタンの共存という独特の文化的伝統をあらわしている。1805年の潜伏キリシタン発覚事件「天草崩れ」(迫害)の際、信徒たちが所有していた信心具を差し出すよう指定された場所でもある。
取り調べを受けた﨑津集落の信仰組織の指導者は、「どちらへ参拝するときも『あんめんりゆす』と唱えます」と述べたことが記録されている。「あんめんりゆす」とは、潜伏キリシタンが使っていた祈りの言葉で、「アーメンイエス」という意味で使われていたようだ。
「天草崩れ」(迫害)とは、1805(文化2)年,肥後国天草のキリシタン発覚事件のことをいう。天草の村々で 5000人の隠れキリシタンが発見されたが,キリシタンは信者でないことを主張し,奉行も島原の乱の再発を懸念して強硬策をとらず,翌年落着した。崩れとは検挙事件のことをいう。
崎津諏訪神社