すでに見てきたが、鬼岳温泉は「五島カンコナ王国」の施設であり、福江空港に近い。
自然に囲まれた静かな環境の中で、褐色の濁り湯が体の疲れをとってくれる露天風呂がいい。
鬼岳温泉の温もり冷めやらない体を寝袋の中に横たえるが、テントを張った港公園駐車場の軒をたたく雨音はさらに激しさを増している。「星の巡礼・潜伏キリシタンの里探訪自転車の旅」をしめくくる今宵は、夕焼けも星空もなく、雨降る寂しい灰色に包まれている。
まるで、潜伏キリシタンが苦難に耐えた日々であるかのような灰色の雨が容赦なくたたきつけている。
このような重苦しい夜を、他人の目にさらさないように灯を落とし、息を凝らして過ごしてきたであろう五島に逃れてきた潜伏キリシタンの家族は、救い主に祈りながら、これからの信仰の持ち方や生き方を真剣に考えたであろうと想像する。
すべてをお任せしたはずの神を呪ったかもしれない。いや神に殉じる気持ちをより強くしたかもしれない。
なんと明治元年(1868)に新政府ができ、外国からのキリシタン弾圧を非難する声に押されて、ようやく明治6年(1873)の「禁教高札撤廃」に至ったのである。
この年は、潜伏キリシタンにとって259年間待ちに待った「解放の年」でもある。
この間、潜伏宣教師や爺様の導きがあったにせよ、大多数の潜伏キリシタンは隠れて信仰を守ったことに変わりはない。信仰の自由の尊さを身に染みて知った人々である。
禁教解禁後、潜伏キリシタンは、信仰を告白してカトリックにもどり、信仰を回復した自信をもとに、合い助け合ってここ九州の一角である地に、立派な多くの教会堂を建てた。
現在、この五島の島々をはじめ、天草・島原・長崎・大村・黒島・外海・平戸・生月などの各集落にある教会堂では、日曜ミサにおいて高らかに讃美の歌がうたわれている。
潜伏キリシタンの歴史回顧からは、平和を守る、平和に生きることの尊さをより深く教えら、再確認させられた。
テント一畳の空間でまどろみながら、「潜伏キリシタンの里探訪」最後の朝を迎えた。
まだ雨が地面をたたきつけている。
しかし、こころは晴れやかである。
この旅に、感謝である。
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この旅最後のクルーズである。当初の計画ではフェリーで長崎に向かい、長崎駅より福岡経由新幹線での帰宅を予定していた。
(うくじま)に寄港するフェリーがあるという情報をえた。それが野母商船の博多行大型フェリー「太古」1598トンである。
この船の航路を調べてみると、うれしいことに時間の制約上立寄れなかった上五島の若松島の側をとおり、若松瀬戸大橋の下を通過する。また、この旅のハイライトであった生月島に架かる「生月大橋」の下を通過するというではないか。
このように自分の目で確かめられる、素晴らしい航路を見逃す手はないと、すでに前日、奈留島に渡る前に乗船券を予約しておいたのである。
もちろん、時間があれば各寄港地に上陸滞在し、各地を自転車で走ってみたかったが、今回は残念ながら資料のみにとどめ置きたい。
③青方港 11:50着/12:10発 <上五島・中通島> (福江港―青方港 48.2km/ 00.0km)
④小値賀港 13:00着/13:10発 <北五島・小値賀島> (青方港―小値賀港 26.3km/ 74.5km)
⑤宇久港 13:45着/13:55発 <北五島・宇久島> (小値賀港―宇久港 13.8km/ 88.3km)
⑦博多港 17:50着 (宇久港―博多港 132.8km/ 221.1km)
キリシタン洞窟
「里の浦集落」のキリシタンは迫害を逃れて、集落近くの切りたった断崖にある洞窟に隠れ住んでいた。
しかし、航行する船が洞窟からの煙をみつけ通報、発見され、拷問により多くの殉教者をだした。
先人たちの苦難を忘れないようにと、鎮魂の心を込めて洞窟の前に十字架を背にしたキリスト像が建立
されている。
<③ 青方港 11:50着/12:10発上五島・中通島> (福江港―青方港 48.2km/ 00.0km)
9月16日、青方にある「青方カトリック教会」を訪れている。今回は海からの青方寄港である。
青方港の船上から「カトリック大曽教会」を拝した。
キリシタン禁教令下、大村藩の移住政策に従って外海の各集落から信仰の自由を求めて上五島へ逃れたキリシタンが、1879(明治12)年青方湾を見下ろす大曽の地に初代天主堂を建立した。
大曽は地区住民のすべてがカトリック信徒で、一方、すでに訪問した町の中心地にある上五島各地から転入した青方巡回教区にある「青方カトリック教会」は、移住や、転入信徒によって構成されている。
青方港に建つカトリック大曽教会
<④ 小値賀港 13:00着/13:10発 おぢか> (青方港―小値賀港 26.3km/ 74.5km)
旧野首天主堂
小値賀島の東に浮かぶ野崎島には、小高い丘の上に残る煉瓦建築の教会・旧野首天主堂が建っている。
教会が建つ野首集落は、外海あたりから潜伏キリシタンが移住した集落で、信仰が深かった地域であると
言われる。
禁教の厳しい迫害を受けながらも信仰を守り抜き、長年の苦難の末、信仰の自由を獲得した潜伏キリシタンの、抑圧からの解放と喜びという崇高な精神性の象徴といわれている。
<⑤ 宇久港 13:45着/13:55発 宇久島> (小値賀港―宇久港 13.8km/ 88.3km)
宇久島は、五島列島のほかの島々に比べて九州本土に近く、中国との交易路が近かったことから、古くから寺社仏閣が栄え、開墾地としてもよく開けており、多くの民が島に根付いたようである。この事は他宗教の流入を妨げる要因だったようだ。
戦国時代に持ち込まれたキリスト教は、江戸幕府の禁教政策により、檀家制度を利用したキリスト教監視体制が敷かれ、徹底した取り締りが行われた。結果として、宇久島ではキリスト教信者がいなくなったと言われている。
しかし、宇久島からもカトリックの聖具が見つかっているところからして、潜伏キリシタンの存在があったとする説もある。
宇久港
<⑥ 生月大橋 14:56通過>
この9月13-14日、何度も渡った生月大橋を今度は橋の下から仰ぎ見ることになった。
生月大橋は、1991年(平成3年)に開通。つい最近まで生月島は離島であり、禁教時代に多くの潜伏キリシタンが迫害から逃れ、移住しやすい島であった。
離島だった生月島は、生月大橋の開通により、27年前にようやく平戸島と九州本土とつながったのである。
生月大橋通過 (大橋通過後 左・平戸島/右・生月島方向) フェリー太古・生月大橋通過ルート
<⑦ 博多港 17:50着 > (宇久港―博多港 132.8km/ 221.1km)
それは、信仰を持つ強さであり、誠実さであり、純真なこころにである。
潜伏キリシタンのおひとりおひとりの魂の息吹を感じとり、触れながらこの旅を終えたい。
この旅へと導かれた方々に感謝の気持ちをささげる。
「潜伏キリシタンの里探訪」を終え、次なる夢へと「星の巡礼」の航海はつづく
完
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