■<潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 13日目-③> 2018年9月13日
<平戸・生月の切支丹史>
1550(天文19)年、ポルトガル船が入港した平戸で聖フランシスコ・ザビエル神父が布教を行ったのが、長崎県のキリシタンの始まりである。その後、平戸島西海岸や生月島の籠手田氏や一部氏の領地などでキリシタンへの一斉改宗が行われる。
1599年(慶長4年)平戸藩は禁教に転じ、旧籠手田や一部領でも殉教が相次ぐが、多くの潜伏キリシタン信徒は仏教や神道を並存しつつ密かに信仰を続けた。禁教解禁後も継承された生月島の「かくれキリシタン信仰」は、禁教以前のキリシタンの信仰形態をよく保持していると言われている。
籠手田領や一部領の一斉改宗について、もうすこし詳しく見ておく。
1558(永禄元年)籠手田領の生月島南部、度島、平戸島西岸でヴィレラ神父による一斉改宗が行われる。改宗地には十字架や信徒の墓地が設けられ、寺院は教会に転用され、仏像は焼却されるが、僧侶の激しい反発で、松浦隆信はヴィレラ神父を平戸から追放する。しかしその後も一斉改宗が行われるが、1565(永禄8年)平戸松浦氏の艦隊がポルトガル船を襲撃したことで、同氏とキリシタンの関係は悪化し、その後の布教は生月島の籠手田や一部領にほぼ限られることになった。
<平戸における禁教と弾圧>
これ以降、生月はじめ平戸地方は禁教時代に入り、旧籠手田と一部領では、教会や十字架は破壊され、寺院再興とともに禁教が進む。このような状況の中、1609(慶長14)年籠手田氏の旧臣で信仰指導者である西玄可(ガスパル)が、黒瀬ノ辻で処刑される。
1622(元和8)年には、平戸、五島で布教していたカミロ神父が捕縛、田平の焼罪で火刑に処される。また、カミロ神父の活動を助けた生月島などのカトリック信徒とその家族も、見せしめとして中江ノ島で処刑された。
<ダンジク様巡拝>
島の館・生月町博物館を後にしたが、夕暮れには時間があるので、ダンジク様を拝するため自転車を西へ向けて走り出した。
海を見ながらアップダウンを繰り返し、1.5km、20分ほどでダンジク様への分岐に着く。
昼なお暗き急な小路(断崖)を下って行く。突然、猪が歓迎する様に前歩を横切る。
別の項でも述べたが、ダンジク様とはキリシタン信徒の家族、弥市兵衛と妻と息子を指す。三人は弾圧を逃れて西海岸のダンジク(暖竹)の茂みに隠れる。海岸に出て遊んでいた息子が舟で来た役人に発見され、処刑されたと伝えられ、隠れていた場所が聖地となっている。
ダンジク様への断崖入口
史跡 ダンジク様
ダンジク様を拝して、今夜の露営地・生月大橋公園に戻った頃には夕闇が迫っていた。
生月大橋公園を海岸沿いにいくと砂浜があり、東屋やシャワー棟がある。天気予報は深夜から朝方にかけて
雨である。雨除けのためシャワー棟の軒を借りることにした。
夕やみ迫る生月大橋公園が今夜の露営地である
<詩 ああわれいま 生月の地に臥して>
2018年9月14日 02:30AM
生月の海の風生暖かく、大粒の雨間断なく大地を打つ
暗闇に叫ぶ虫たち、海鳴りと重なりてオラショを唱えし
弾圧にあえぐキリシタンを憐れむが如き 重音に聴こゆ
ああわれいま生月の島におりて幾多の苦難を乗越えて
殉教を選びし御霊に語りかけてやその清き道をうらやむ
いまわれわれは 何にすがりて 魂の安寧を求めしかや
この重く垂れこめし雨雲に何を学び取り教わるべきか
ああわれいま生月におりて 人間の小さきを知りて祈るや
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― 生月橋公園 ⇒ 平戸島・春日集落 ― 走行距離: 14 km
<露営地・生月橋公園をスタート、佐世保に向かう>
夜半の大雨も止み、お世話になった生月大橋公園の露営地の清掃を終え、ストレッチをとり入れた柔軟体操に励み、感謝の祈りを捧げて、昨日行けなかった生月島の「ガスパル殉教碑」、生月カトリック教会、鯨組主益田家居宅跡、壱部集落をまわる。
その後、雨雲被る安満岳に向かって生月大橋を渡る。
県道9号線を南下、安満岳(530m)の西側の麓に広がる春日集落の棚田により、獅子集落で県道60号線に乗り換えて紐差(ひもさし)向かう。
途中、小雨に降られながら「潜伏キリシタン」の幾多の迫害、弾圧、処刑、苦難を思いつつ自転車のペダルを踏んだ。
まさに巡礼の道である。
ガスパル様は戦国時代、生月島南部を支配した籠手田氏の代官・西玄可のことで、ガスパルはその洗礼名である。15998(慶長14)年キリシタン領主の籠手田氏、一部氏が平戸藩主からの弾圧によって長崎に脱出した後も島に残り、キリシタンの指導に当たる。
ガスパル殉教碑
生月島は、1558(永禄1)年のガスパル・ヴィレラ神父による宣教以来、隠れキリシタンの多い島で、1865(元治2)年の「信徒発見」の後に黒島から信徒である出口吉太夫・大吉親子らが島を訪れてカトリックに戻るよう働きかけた。当初はなかなか応じなかったが、1878年(明治11年)に平戸に来たアルベール・ペルー神父によってカトリックの洗礼を受けた人々が山田教会の信徒の祖となり、今年2018年、信徒発見138年目を迎えた。
県道42号線に出て北上、生月郵便局先を左に入ると「鯨組主益富家居宅跡」がある。
その生月の捕鯨全盛期に「鯨組主」として統率していた益富家の居宅跡である。
鯨組主益田家居宅跡
鯨組主益田家居宅跡の北に接する地域が壱部集落である。
450年の長きにわたって、「かくれキリシタン」の信仰を継承し、歌い継がれてきたオラショが、ここ壱部集落では「ゴショウ」と呼び、後生・御書・御誦詞とも書くという。いまなお生月島には外海からの移住キリシタンの子孫で、人口の1割を超える「かくれキリシタン」信徒がいると言われている。
<春日集落 と 棚田>
生月大橋から県道19号線を南へ一気に坂を登りきると屋根の付いた「小春日」のバス停があり、一服する。
丁度、雨が降りだし、先に見え隠れする春日の棚田が墨絵の中に浮かんでいるようで、幻想的である。雨宿り
をしながら、昼食をとる。
春日集落は、布教初期の「かくれキリシタン」の伝統文化を継承する里で、安満岳の麓を継続的に行った開墾により作り出された棚田の曲線がいまなお現存し、小雨煙るとひときわ美しいところである。
春日集落は、世界文化遺産に登録された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産「平戸の聖地と集落」の禁教時代の潜伏キリシタン集落の様相をとどめているとして安満岳とともに選ばれている。
禁教時代には、家屋内の「納戸神」を祀ったほか、春日集落の中央にある丸尾山からは切支丹時代の墓地遺構も見つかっている。ここ丸尾山からは遠く海の彼方にかすむ五島を見渡せ、移住キリシタンであった先代は懐かしみながら開墾に励んだことであろう。
信仰とは、苦難を忍耐に替え、忍耐は練達を磨き、希望を生み、そして強固な団結へとつながる。
禁教時代に仏事の檀家になりながら、キリシタン時代から継続される信仰組織により信仰を継承していた人々すべてを「潜伏キリシタン」といい、解禁後カトリックに復帰した人々と、一方、禁教が撤廃された後もカトリックに復帰せず、潜伏時代の信仰形態を継承している人々を「かくれキリシタン」とよぶ。
潜伏キリシタンの開墾で造られた棚田、その畦(あぜ)の曲線に当時の人々の汗する姿が見えてくるような気がする。その曲線が複雑であればあるほど開墾の困難さをうかがえ、また複雑な曲線であるがゆえに美しい。その姿は、潜伏キリシタンの苦難、怯え、いや、信仰のもつ希望に見えて来るから不思議である。
重要文化的景観・春日集落の棚田景観Ⅰ
重要文化的景観・春日集落の棚田景観Ⅱ
潜伏キリシタンの遺した棚田を見ながらのランチタイムも楽しい。
につづく