■<潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 12日目-①> 2018年9月12日
― 黒島・潜伏キリシタンの島 一周サイクリング ― 走行距離 11 km
<黒島の集落を巡る>
朝一番、昨夜暗がりを自転車で通った蕨(ワラべ)集落に歩いて戻り、集落の様子を見せてもらった。
1800年代後半の禁教の布告がなされた前後、離島である黒島の集落に住みついた人々は、すでにみてきた外海(そとめ)より迫害をのがれ、より安住の地を求めて移住してきた人たちであった。潜伏キリシタンが共同体を維持するための試みとしての集団移住であったという。
<蕨集落>(わらべしゅうらく)
蕨集落は、黒島の西南側の断崖の上に位置し、集落自体急な勾配をなしている。
黒島南部に広がる蕨集落と田代集落一帯は、平戸藩の牧場があったというが、1802年開拓移住地として解放され、そこに外海の各集落などの潜伏キリシタンが移住し、海岸近くの斜面地に共同体としての集落を形成し、ひそかに信仰を続けたという。
畑は勾配地にあり、獣害・鳥害用フェンスを必要とし、水源がないので雨水をため、谷水をパイプで引かなくては栽培もままならない状態である。厳しい自然環境の条件下での畑作業を強いられていたことが分かる。
納屋に吊るされた自給自足の玉葱 勾配地の畑
集落の急勾配な本通り 断崖を下りて漁業も
谷からの排水管 水溜めポリタンクに貯水し家庭へ配水
<黒島地区オリーブ実証農園>
蕨集落より、蕨展望台に向かう途中の左手にひろがる放棄耕作地にオリーブの実証農園がある。
耕作放棄地といえば、黒島の米作に対する生産人口の高齢化をはじめ離農者の割合が高まり、危機的状況にあると、田圃を預かり管理生産に従事している方は嘆いておられた。このままでは黒島の耕作地のほとんどが原生林に戻ってしまうと警告されていたのが印象的であった。
黒島のオリーブ実証農園で実るオリーブ
<蕨展望台>
ここから見る黒島南部の断崖は厳しい。外海から開拓移住地であった蕨や田代地域への上陸地として断崖下に横たわる浜に上陸したと考えられる。
天地創造 蕨展望台左翼の断崖
<潜伏キリシタンの墓地―仕切牧墓地>
蕨展望台より東へ300mほど進んだ左手に「仕切牧墓地」入口がある。ただ墓地内は立入禁止である。
仕切牧墓地は、1880年代まで蕨集落の潜伏キリシタンの墓地として使われていたという。1880年代に、
これから訪問するカトリック共同墓地が出来てからは使われなくなった。
敷地内は立入禁止のため、写真は参考資料として「⑦黒島の集落」ガイドよりお借りした。
その先、300mのところに投宿先の「民宿 つるさき」がある。
仕切牧墓地入口 仕切牧墓地風景(⑦黒島の集落より)
<黒島・カトリック共同墓地>
仕切牧墓地より、「民宿つるさき」の前を通って、先(東)へ約800m自転車を走らせると、左へ向かうと黒島港ターミナル、右へは黒島天主堂へ向かう十字路、黒島の中心に出る。その十字路手前の小径を上がって行くと現在の「カトリック共同墓地」に出る。
禁教期には、先ほど立寄った蕨集落の「潜伏キリシタンの墓地―仕切牧墓地」のように、集落ごとに墓地を設け、埋葬していた。
1879年、解禁後の黒島で最初の教会堂が島の中心に建てられると、教会堂に近いこの地にカトリック教徒のための共同墓地が造られた。
ここ共同墓地には、現在の黒島天主堂(二代目教会堂)を建設したマルマン神父の墓も建つ。
「私は生命であり、復活である 私イエズスを信じる者は、死んでも生きる ヨハネ11-25」と刻まれた聖句がひときわこころを打つ。
多くの人々の信仰が、このように後世に引き継がれ、その魂と形を残していることは、宗教にとって大切なことである。
<黒島天主堂>
黒島の中心である十字路を右、海の方に下って行くと初代黒島教会堂跡に二代目である現在の黒島天主堂が建っている。
曇り空のもと威厳さえ感じられる煉瓦造りの落ち着いた聖堂である。その後の全国に建てられた教会堂のお手本になったという。
「この地の教会堂は、明治11年(1878)に来島したペルー神父が(ここ)名切(集落)に木造教会堂を建設したのが始まりである。
その後、明治30年(1897)にフランス人マルマン神父が来島し、本格的な煉瓦造教会堂の建設がはじめられた。建設には黒島の信徒全員が献金や労働奉仕などで参加し、明治35年(1902)に黒島のシンボルとなる黒島天主堂は完成した。」
黒島天主堂 と マルマン神父と修道会の会員たち(明治35年頃)
<信仰復活の地 ・出口家屋敷跡> 黒島で最初にミサが行われた場所
名切集落にある黒島天主堂をあとにして、根谷集落を通って日数集落へ向かった。黒島の南東の道(黒島一周道)を走る。
1864年に長崎に大浦天主堂が建てられ、ローマから遣わされた神父達がいることを聞きつけた出口吉太夫・大吉親子は、命がけで長崎に渡り宣教師達に会い、黒島に600人の隠れキリシタンが潜伏している状況を報告した。その後、黒島のキリシタンは、続々とカトリックに復活。外国人神父も来島し、1872年、出口家宅で島でのミサが初めて行われた。その後、出口家は黒島のキリシタン史上重要な聖地である。
「信仰復活之碑」の台座の銘板には次のように刻まれている。
「本島(黒島)の信徒は、外海地方からこの地に移ってきたものである。当時、出口大吉という人が水方をつとめていたが、1872年頃より1878年に至る間、長崎よりポアリエ師が最初に、次にシャトロン師が時折り本島を訪問されていたのである。
出口大吉氏宅において初めて執行されたミサ聖祭を記念するため、家屋跡にこの碑を建てる。」
出口家屋敷跡に建つ石碑「信仰復活之地」
<黒島港に向かう>
今なお残る黒島の原始林と断崖の境界線にのびる一本の細い小道が、黒島の東側から北へとのびて黒島港ターミナルへと続く。
原始の森のように昼なお暗き小路には、沢蟹だろうか真赤な小ガニが沢山出迎えてくれる。
30数年前までは用水路が整備されていたが、現在は消滅してしまっているという。路肩には、田圃に引く沢水を確保するためパイプを延々と敷設してある。この島の米作は沢水をパイプで引いて育てているのである。
現在、稲作は5名が従事しているとのことを聞き、驚きをかくせなかった。
黒島の戸数も320戸から215戸に減少、若者の離島により高齢化が進み、老人の島になりつつあるという。NPOの助けや公的補助で島の活性化に取り組んでいるそうだが、将来を危惧する声を多く聞いた。
人間の営みは大変なようだが、黒島の花々はどの花も個性的で、その美しさを競っていた。
また、黒島・根谷集落での蝶・モンキアゲハとの再会には、驚きを禁じ得なかった。
根谷集落のアコウの巨木 根谷集落の大サザンカ
たくさんの赤い沢ガニが歓迎してくれる
潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 12日目-①
2018年9月12日 ― 黒島 ⇒ 平戸・田平漁港
につづく