■<潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 1日目> 2018年9月1日
―三角(みすみ)JR駅前スタート ⇒ 九州産交バス停「須子」― 走行距離 27km
前回、日本一周の途上、ここJR「三角駅」で中断している。
再度、入念な自転車の各部位を点検調整し、本日の走行ルートを再確認した。
もらい、スタッフの声援に送られて「潜伏キリシタの里巡礼」をスタートさせた。(13:20)
977-1入館料 600円)が高台に建つ。
なお進み、天草松島の景観を楽しみながら上天草島への大矢野橋、中の橋、前島橋、松島橋を連続して
渡り、国道324号線と分岐する上天草市の合津港の街に出る。
合津で国道266号を離れて国道324号線のロラザリオライン(天草上島)を快走横断、瀬戸大橋を渡って
天草下島に入る。
しかし、ロザリオラインの中間あたりで大雨に遭遇、九州産交バス停「須子」(すじ)に飛び込み雨宿りする
こととなった。
(原城址本丸跡)
九州産交バス停「須子」(すじ)にて仮テント泊
避難する。そのまま本日の露営地となる。(17:50)
真っ黒な海面に、一条の灯台の灯がゆっくりと回転している。
その灯りにも沈黙の光りがあるように、「わたしを見なさい。わたしは救いである。」と呟いているかのようである。
バス停の屋根を打つ雨音に耳を傾け、豆電球に鋭く照らされたノートの白さに頭は冴えわたる。(02:00am)
「沈黙」に出てくる「絵踏み」、踏絵を踏むことなく、信仰を棄てずに死に殉ずるガペラ神父やキリシタン信徒たち。
踏絵を踏んで死を免れ、信仰を隠して生きながらおのれに泣くキチジロー的生き方。また、信徒の苦しみを和らげる代わりに踏絵を踏む、他人のために絵踏みするその勇気は、神父としての当然の務めであったとしても、自分の中の信仰を隠し続けながら体制側に協力しつつ霊的苦渋の中に生きる師フェレイラ神父やロドリゴ神父。
それぞれにとって、信仰に生きるということは、そのものが絵踏みである。
闇が追いやられ、東の空が次第に明るみを帯びてきた。
のとき、天草と島原のキリシタンが出合い、密談し計画を練ったという。
また湯島は、高山右近の隠棲の地とも言われている。
出発の日を祝って豪華な夕食 大雨のため第一日目の仮の宿となったバス停「須子」
天草日記Ⅰ-②
雨宿に感謝して大掃除。熊本に向かう快速バスであろうか、まだ明けやらない朝一番のバスに乗った学生たちが、多くの両親の見送りを受けて出発していった。
まだ夜が明けきらない「天草ありあけタコ街道」であり、祈りの「ロザリオライン」である国道324号線の静寂に包まれた海岸線を快走、天草下島に向かう。
朝焼けのもとその峻厳な姿を見せる普賢岳 サンタマリア館と財宝隠しの十字架(06:15)
サンタマリア館に立つ財宝隠しの十字架 サンタマリア館の前に広がる島原湾
「天草四朗財宝隠しの十字架」の説明文によると、
上津浦の山麓の洞窟から発見された黄金の十字架に謎の暗号文が書かれていた。
≪さんしある二 こんたろす五 くさぐさの でうすのたから しずめしずむる≫
十字架の表面の黄金を剥してみたら、上の暗文があらわれた。
「さんしある二 こんたろす五」この部分の意味が分からなかったばかりに、これが300年もの間噂され
続けてきた。
天草四朗の軍資金を隠した場所だと思い込まれて、半世紀にわたって世を騒がせた。
サンタマリア館長によると、実は、これは「聖遺物2個、ロザリオ5個」というポルトガル語であるという。
江戸末期、少女が家の近くの土手で遊んでいると、ぽっかりと穴が開いて小さな洞窟が現れ、眩いばかりの
黄金の十字架が出てきた。少女は密かにタンスの奥に隠し、栖本に嫁に行くときも隠し持っていった。
そして死ぬ直前までこのことは誰にも話さなかった。この十字架が世に出たのは昭和12年の事であったという。
「天草・島原の乱初戦の地」案内板 と 「天草四朗集結の地」の石碑(右)
<天草・島原の乱初戦の地> (06:55)
1637年(寛永14年)11月13日、天草四朗が率いる一揆勢2000余人は上津浦に上陸、翌14日早暁海上、浜辺、山手の三手に分かれ富岡目指して出発、この地にて寺沢側(当時天草は寺沢領)並河九兵衛を大将とする鎮圧勢八百余騎と遭遇する。それまで寺沢側に呼応していた地元住民の多くは突然一揆勢側に就く。情勢の急変と民家の屋敷まわりの竹林(防護柵)で人馬の動きが、自由にならなくなり、並河九兵衛は広い所に出て戦えと下知し、田原である沖の田に移動し、そこで激しく撃ち合う。
本渡港を見下ろしながら天草下島への天草瀬戸大橋をわたる
一方、国道266号線は、天草下島を縦断南下して、崎津天主堂方面に至る。
<本渡城址 と殉教戦千人塚>
本渡城址に「殉教戦千人塚」の碑が建ち、由来が石碑に刻まれている。この天草でも各地においてキリシタン弾圧や抵抗戦により多くの殉教者をだしている。とくに、本渡城は1590(天正18)年城主天草伊豆守種元と小西行長・加藤清正らが激しい戦いを繰り広げたことで知られている。天草種元は洗礼名・ドン=アンドレアというキリシタンであり、この戦いでは城内に宣教師と付近の多くのキリシタンが立て籠もって戦闘を繰り広げた。
攻め手の小西行長もまた敬虔なキリシタンであり、信仰仲間への情から城攻めに消極的であったが、一方の加藤清正は激しく攻めたてたという。種元勢が籠城して頑強に抵抗したことや、特に婦人部隊が激烈な抵抗をしたと宣教師ルイス=フロイスによる『日本史』に記述されている。
婦人部隊全員が刀で殺され、戦場に身をさらされた惨劇の後、種元は切腹し、本渡城は落城した。フロイスによると、籠城側1300名、攻め手の加藤勢2000名という多くの侍やキリシタンが命を落としたと記している。
其の犠牲者を含めて、本渡城址に<殉教戦千人塚>が建っている。
「1637(寛永14)年殉教戦において彼我両軍の戦没者をここにお祀りしてあります。古くは市内船之緒・小松原・亀川灯角個所にありましたものをこの地に移して、史実と伝説を永く後世に遺すと共に、諸精霊を篤くお慰めする所以のものであります。殉教戦千人塚建設委員会」
<お墓の事情>
そこには、「井戸下家之墓」にキリスト教墓碑と仏式墓碑が並んで建つ。
この旅で出会った多くのキリシタン墓地で、一つの祖先をキリスト式と仏式の両方の墓碑で祀られているのは、天草以外ではごくまれである。
殉教戦千人塚 キリシタン墓碑と仏教墓碑が並んで建つ
<キリシタン墓地>
キリシタン墓地(左) 殉教者ルイス・デ・アルメイダ神父墓碑(中) 殉教者荒川アダムのレリーフ(右)
<殉教者ポルトガル人ルイス・デ・アルメイダ神父>
「神父は日本における西洋医学の創始者であって総合病院を開設し医療を行うかたわら、日本人医師の養成にあたり育児園も創設して広く社会福祉事業に献身した。さらに宣教者として九州各地にキリストの教えの種子を蒔き精神の医者として力を尽くした。
神父は、殉教者・荒川アダムやこのキリシタン墓地に記念されている人々の心に信仰の火をともしたが今もこのキリスト平和像を示しつつ私たちの丘に神の愛と恩恵を祈り求めているのである。」 (本渡カトリック教会)
<天草最初の殉教者 アダム荒川>
「アダム荒川は、1552年(天文21年)ごろ、長崎県島原半島の有馬に生まれ、1590年代にはルイス・デ・アルメイダ神父の導きにより志岐の教会に伝導士、看坊として勤めていた。
1614年(慶長19年)キリシタン禁教令により、志岐教会のガルシア・ガルセス神父が国外に追放されるとき、神父は、アダム荒川に志岐の教会の世話を頼み天草を去った。
やがて、迫害が厳しくなり、アダム荒川は役人に捕えられキリスト信仰の棄教をせまられる。しかし、さまざまの拷問を受けながらも信仰を守り続けた。このため遂に同年6月5日志岐の刑場で天草最初の殉教者として処刑された。」 (本渡カトリック教会)
本渡城址に建つ天草四朗時貞立像
<天草四朗時貞 プロフィール>
天草 四郎 ― 生誕1621年(元和7年)- 1638年4月12日(寛永15年2月28日)没>は、江戸時代初期のキリシタンである。島原の乱における一揆軍の最高指導者であり、天草四郎時貞という名で知られている。洗礼名は、フランシスコという。
キリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田好次の子で、天草諸島の大矢野島(現上天草市)で誕生したという説がある。天草四朗に関しては、出生地も生年も諸説あり不明である。生涯についても不明の点が多いが、生まれながらにしてカリスマ性があったとされる。
神格化された天草四朗は、1637年(寛永14年)に勃発した島原の乱で、カリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将に祭り上げられる。島原の乱を計画・指揮した浪人や庄屋たちは10代半ばの少年・四朗を押し立て、一揆軍の戦意高揚のために軍旗十字架を背負わせて戦った。
幕府の政策により島原半島の日之江・原城を廃城とし、島原城(森岳城)を築城していた。藩主の重税や幕府のキリシタン弾圧に立ちあがった一揆勢はこの圧政のシンボルである島原城はじめ、本渡城や富岡城を攻撃し、廃城であった原城で集結、天草四朗時貞を旗印に籠城する。
3ヵ月に及ぶ籠城戦を続けたが、食料も弾薬も尽きて原城は陥落し、一揆軍は幕府軍の総攻撃によって全滅させられた。天草四郎も原城の本丸にて討ち取られ、四郎の首は、原城三の丸の大手門前、そして長崎出島の正面入り口前に晒された。没年1638年4月12日 満17歳(誕生年1621年)であった。
<潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅 2日目―②>
につづく