■<潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 5日目②> 2018年9月5日
<島原・雲仙を巡る>
途中、あまりの暑さに耐暑防暑対策として「道の駅みずなし本陣ふかえ」(深江)に立寄り、Tシャツを水に濡らして被る。
大汗をかきながら「島原の子守歌像」に―オロロンバイ、オロロンバイ―と迎えられ、島原鉄道・島原駅に着いた。
ここ島原雲仙は切支丹転向の苦難の地であると思っての到着だけに、オロロンバイのメロディーはこころを癒してくれた。
おどみゃ島原の
おどみゃ島原の
梨の木育ちよ
何の梨やら何の梨やら
色気なしばよしょうかいな
はよねろ泣かんでおろろんばい
鬼の池の久助どんの連れんこらるばい
重い足取りで雲仙地獄へのこの道をあゆんだキリシタンの信者たち。その眼差しには、こころのなかに現れた神を賛美する清らかな光が漂っていたであろう。わたしもその想いを背負って「キリシタン殉教道」を歩いてみた。迫害は信仰を強めることを、幕府も認めざるをえなかったに違いない。
1627(寛永4)年から1632(寛永9)年にかけて雲仙地獄は殉教の地であった。
肥前日野江藩初代藩主であった松倉豊後守重政の命令によって、島原、深江、有家、有馬、口之津の信者たちが雲仙地獄で湯あぶり(地獄につけたり、熱湯を浴びせる)などの過酷な迫害、拷問を受け、尊い生命を信仰に捧げた30余人が殉教した。
そのとき殉教者が通った道<小浜道―南部道>に、1981(昭和56)年、教皇ヨハネ・パウロ2世の長崎訪問を記念して、殉教者を偲んで「雲仙カトリック教会」が献堂され、ここ雲仙札の原に建立された。
雲仙札の原に建つ教会堂の入口には、雲仙地獄で拷問を受けて殉教したキリシタンたちが通ったことを説明する「雲仙キリシタン殉教道」が建っている。
<雲仙地獄に建つ殉教の碑>
雲仙教会前の国道57を北へ進みすぐ、右手の森へつづく小道に入ると、「一切経の滝」をへて小地獄温泉館にでる。
ここから小地獄をへて小径が続き、消防署裏から国道57に出て、「雲仙お山の情報館」前を進むと、湯煙が右手に見えてくる。
湯煙や、その音を立てる焦熱の湯湧きは地獄そのものである。
当時の過酷な拷問や処刑を見守るように、小高い丘の上に「雲仙地獄殉教の碑と聖火燃ゆ之碑」が静かに建っている。
聖火燃ゆ之碑 (背後に雲仙地獄殉教の碑の十字架あり)
<島原の街を走る>
<島原城>
幕府は一国一城政策を布告していたが、九州に多い外様大名を牽制すること 並びに、対キリシタン政策のために築城を許可した。島原城は、島原半島の政治、経済、文化の拠点として築城されると共に、原城と日野江城を廃城している
始まった。1
<神よわたしを清めてください> と教会堂の右手にある「一滴の神の血」に書かれ、殉教の徒を一手に引き受け浄化している聖堂に見える。殉教者は <尊さ、一途さ、善良さを最高に証明した人たち>と讃えている。
義のために迫害される人々は幸いである
天の国はそのひとたちのものである
<聖書:マタイによる福音書 5章10-12節>
聖堂正面入口に掲げられている聖句
潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 6日目
2018年9月6日 ― 島原海岸 松尾浜(島原市) ⇒ 大村公園
につづく
<おすすめ> 「手延べそうめん 島原の糸」
南島原の温暖な気候のもと雲仙の伏流水を使い四百年余りの歳月を越えて受け継がれてきたという伝統の手延べ製法で作られたという。細身の麺でありながら腰があり、その喉越しのなめらかなこと絶品である。それ以来、すっかり虜にさせられた。
E-Mail : info@oishii-soumen.com