shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼 日記―⑦

2018『星の巡礼潜伏キリシタンの里 自転車の旅630km』 日記⑦

                                                     

潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km    5日目②>  20189月5日
 
          ―  島原市須川  ⇒  島原海岸 松尾浜  ―         走行距離 19 km
 

<島原・雲仙を巡る>

須川キリシタン墓碑をあとに、雲仙普賢岳(標高1359m)を正面に見ながら国道251の快適なサイクル・ランが島鉄・島原駅までつづく。
途中、あまりの暑さに耐暑防暑対策として「道の駅みずなし本陣ふかえ」(深江)に立寄り、Tシャツを水に濡らして被る。
大汗をかきながら「島原の子守歌像」に―オロロンバイ、オロロンバイ―と迎えられ、島原鉄道・島原駅に着いた。
ここ島原雲仙は切支丹転向の苦難の地であると思っての到着だけに、オロロンバイのメロディーはこころを癒してくれた。


おどみゃ島原の
おどみゃ島原の
梨の木育ちよ
何の梨やら何の梨やら
色気なしばよしょうかいな
はよねろ泣かんでおろろんばい
鬼の池の久助どんの連れんこらるばい


駅右手にある駐輪場に愛車をとどめ置き、島鉄バスの雲仙経由小浜行のバスに飛乗る。 駅前の島原の子守歌像が迎えてくれる                                  島原鉄道 島原駅 

 
<雲仙キリシタン殉教道 と 雲仙カトリック教会>


重い足取りで雲仙地獄へのこの道をあゆんだキリシタンの信者たち。その眼差しには、こころのなかに現れた神を賛美する清らかな光が漂っていたであろう。わたしもその想いを背負って「キリシタン殉教道」を歩いてみた。迫害は信仰を強めることを、幕府も認めざるをえなかったに違いない。


1627寛永4)年から1632寛永9)年にかけて雲仙地獄は殉教の地であった。
肥前日野江藩初代藩主であった松倉豊後守重政の命令によって、島原、深江、有家、有馬、口之津の信者たちが雲仙地獄で湯あぶり(地獄につけたり、熱湯を浴びせる)などの過酷な迫害、拷問を受け、尊い生命を信仰に捧げた30余人が殉教した。


そのとき殉教者が通った道<小浜道―南部道>に、1981(昭和56)年、教皇ヨハネ・パウロ2世の長崎訪問を記念して、殉教者を偲んで「雲仙カトリック教会」が献堂され、ここ雲仙札の原に建立された。
雲仙札の原に建つ教会堂の入口には、雲仙地獄で拷問を受けて殉教したキリシタンたちが通ったことを説明する「雲仙キリシタン殉教道」が建っている。


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   島鉄バス「小浜」行のバスに乗る                雲仙キリシタン殉教道 <小浜道―南部道>を歩く
 

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      カトリック雲仙教会               教会への入口付近に建つ「雲仙キリシタン殉教道」解説板


雲仙地獄に建つ殉教の碑>


雲仙札の原(カトリック雲仙教会)より雲仙地獄への道を殉教者たちが歩かされたように、わたしも歩いてみた。
雲仙教会前の国道57を北へ進みすぐ、右手の森へつづく小道に入ると、「一切経の滝」をへて小地獄温泉館にでる。
ここから小地獄をへて小径が続き、消防署裏から国道57に出て、「雲仙お山の情報館」前を進むと、湯煙が右手に見えてくる。
この湯煙が雲仙地獄であり、キリシタン達にとっては悪夢の地であり、試練の地である。
湯煙や、その音を立てる焦熱の湯湧きは地獄そのものである。

お糸地蔵を左回りに登って行くと雲仙地獄を見下ろす岩場に「キリシタン殉教碑」の十字架が建つ。
1627寛永4)年から翌年にかけ雲仙の焦熱地獄で、キリシタンに信仰を棄てさせるための拷問と処刑が行われた。
2007(平成19)年に雲仙地獄で殉教した29名(キリシタン大名有馬晴信の家臣・パウロ内堀を含め)がローマ教皇庁より福者認定され、188福者に列せられた。

当時の過酷な拷問や処刑を見守るように、小高い丘の上に「雲仙地獄殉教の碑と聖火燃ゆ之碑」が静かに建っている。

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  キリシタンに棄教のための拷問と処刑が行われた雲仙地獄           雲仙地獄殉教の碑と188福者名列

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           聖火燃ゆ之碑  (背後に雲仙地獄殉教の碑の十字架あり)


<島原の街を走る>


雲仙地獄谷での拷問や処刑の情景を思い描くなか、普賢岳に見送られ、バスに揺れながら駐輪場のある島原駅に戻った。
自転車にまたがって、島原城武家屋敷跡、島原半島殉教者記念聖堂「島原カトリック教会」をまわる。

 
島原城


1616(元和2)年、大和五条から島原4万石に加増、転付された松倉重政島原城を築城した。
幕府は一国一城政策を布告していたが、九州に多い外様大名を牽制すること 並びに、対キリシタン政策のために築城を許可した。島原城は、島原半島の政治、経済、文化の拠点として築城されると共に、原城日野江城を廃城している
しかし、石高に不相応な立派な島原城は、天草・島原の乱勃発の一因となったと言われる。
資金調達のための増税と、過酷な無報酬労働を求められた領民は、大飢饉とキリシタン弾圧が重なり、その不満と憤懣が天草四郎を担いでの乱へと向かっていったことをすでにみてきた。
 

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                     島原城


島原半島殉教者記念聖堂―島原カトリック教会>


 天草・島原の乱後、キリシタンが根絶したとされる島原半島では、1920(大正9)年からようやく再宣教が
始まった。1
この聖堂は、1612年~1658年の間に、島原半島一帯で殉教した数万人にもおよぶキリスト教信者のため、1997(平成10)年に祈りの家として建てられた。

敷地内には天正遣欧使節の一員であり、禁教下、口之津を拠点に九州の信徒を訪問した中浦ジュリアン神父の像がある。
<神よわたしを清めてください>  と教会堂の右手にある「一滴の神の血」に書かれ、殉教の徒を一手に引き受け浄化している聖堂に見える。殉教者は <尊さ、一途さ、善良さを最高に証明した人たち>と讃えている。

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     島原半島殉教者記念聖堂「島原カトリック教会」                         中浦ジュリアン神父の像

 


                                            義のために迫害される人々は幸いである


                                           天の国はそのひとたちのものである


                                                 <聖書:マタイによる福音書 510-12節>
 
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                                           聖堂正面入口に掲げられている聖句


▲5日目露営地        有明海 島原海岸 松尾浜にて設営、 テント泊
 
有明海に暮れゆく夜の闇がせまるなか、5日目の野営の準備にとりかかった。
有明の海と空が一つの色に溶けあうとき、対岸の阿蘇の山並みが夕暮れの霞みの中に消えつつある。
この美しき天地の営みは、迫害に耐えたキリシタンの営みをものみこみ、静寂のなか沈黙の夜を迎える。
祈りにつつまれ、201895日午後635分という時をここ島原の砂浜で迎えていることに感謝する。

夕暮れを迎えた有明海 島原海岸 松尾浜で一夜を明かす


            
        潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km    6日目
             2018年9月6日 ― 島原海岸 松尾浜(島原市) ⇒ 大村公園            
                                                                       につづく
 

 
<おすすめ>    「手延べそうめん 島原の糸
 
友人の奥さんの実家が南島原にある。あるメモリアルデーに実家に帰省したおり、「手延べそうめん島原の糸」を送ってくれた。
南島原の温暖な気候のもと雲仙の伏流水を使い四百年余りの歳月を越えて受け継がれてきたという伝統の手延べ製法で作られたという。細身の麺でありながら腰があり、その喉越しのなめらかなこと絶品である。それ以来、すっかり虜にさせられた。
長崎県手延素麺製粉協同組合  859-2212長崎県南島原市西有家町須川395-3
                    E-Mail : info@oishii-soumen.com

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