shiganosato-gotoの日記

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潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼 日記―⑥

2018『星の巡礼潜伏キリシタンの里 自転車の旅630km』 日記⑥

                                                 

潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km    5日目>  20189月5日
 
          ―  原城址   ⇒   島原市須川  ―         走行距離 20 km

 
<島原に向かって国道251号線島原街道を北上する>

原城温泉真砂での休養に、すっかり体の疲労感も回復し、清々しい朝やけを迎えた。テントをたたみ早朝の出発となった。

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             有明海の朝焼け南島原・浦田漁港    
                          

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         出発準備に忙しい/南島原・浦田漁港

名残尽きない「天草・島原の乱」の地、原城址を後にして、籠城の一揆軍も拝んだであろう真っ赤な朝日に見送られながら有馬キリシタン遺産館、有馬セミナリヨ跡、有馬川殉教地、日野江城址を巡り、島原へと国道261号線を走る。


天草四郎朝顔が見送ってくれた。


あの日(1637年)の天草・島原の乱一揆軍ひとり一人の祈りであった真紅の朝日が、この日(2018年)はわたしを見守ってくれた。この間には381年の時が流れたに過ぎない。

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        天地創造天草・島原の乱一揆軍の祈りであった真紅の朝日

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    原城に散った天草四朗のシルエット                見送ってくれた原城朝顔

 
<有馬キリシタン遺産記念館>        長崎県南島原市南有馬町1395番地    入館料300円


 原城跡への入口の一つ、南にある田町御門を西へ自転車を走らせ、国道251を横切り、坂を上がって行くと左側に記念館がある。
有馬キリシタン遺産記念館では、250年間のキリスト教の潜伏を支えた背景とキリスト教弾圧に至った経過、島原・天草一揆の状況をわかりやすく展示してある。キリスト教の繁栄と弾圧の歴史を持つ南島原市の「原城跡」「日野江城跡」の2つの史跡は、日本のキリシタン史の光と影の証人であり、人類の記憶として後世まで語り継がれる価値を持っている

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               有馬キリシタン遺産記念館

 
<有馬・日野江城址・原城址 周辺マップ>

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               有馬・日野江城址・原城址 周辺マップ 
 


<有馬セミナリヨ跡>               長崎県南島原市北有馬町


 有馬キリシタン遺産記念館より坂を下り国道251を左(北東)へ自転車を走らせる。有馬川を渡って最初の信号を左(西)へ進むとなだらかな坂の右側に有馬セミナリヨ跡にでる。


韓国からのカトリック巡礼団がセミナリヨ跡の研修に耳を傾けていた。アジアにおけるカトリック宣教史にあっても、14世紀中ごろといえばマカオやマニラ辺りにしかなかったと思われるセミナリヨ島原半島の北有馬に設立され、日本と西欧との交流の接点として存在したという歴主的意義はおおきい。また、日本の教育の原点となったセミナリヨの理念や教育制度にも感動した。


セミナリヨは、宗教、語学、文学と美術の三つの柱によって他人に使える人間を育てることを目指していた。


有馬のセミナリヨキリシタン中等教育機関・信徒のリーダー養成学校)は、15804有馬晴信の援助により日野江城下に22名の入学生をもって開校した。セミナリヨの教育理念はキリスト教ヒューマニズムによる人間教育であった。


400年前、すでに100人以上のセミナリヨの生徒たちが北有馬のこの地で学んでいた。この有馬のセミナリヨの中から天正遣欧少使節を輩出している。そのなかに中浦ジュリアンもおり、後日、中浦ジュリアン記念館を訪れた際に触れてみたい。


神を賛美する少年たちの澄んだ歌声が、風に乗ってセミナリヨから聴こえてくるのだから不思議である。煉瓦造りのセミナリヨの尖塔から鐘の音も聞こえてきた。


こころに一陣の無の風がよぎった。

 
<有馬川殉教地>                 長崎県南島原市北有馬支所(南島原市北有馬町戊2747)付近


有馬セミナリヨよりメイン道路に出て、左(南西)へ曲がり、二つ目の有馬川支流(確か、ガソリンスタンドがある方の小川)を左折すると約250m先の橋の手前に建つ真っ白な十字架が見える。ここが有馬川殉教地である。


カトリック長崎大司教区の説明によると、この辺りまで入江(有明海)だった時代、棄教をせまる領主に対して無抵抗の抵抗を行うキリシタンへの見せしめに、中洲で八人のキリシタンが柱にしばりつけられ火刑となった。殉教者はアドリアノ高橋主水と妻ヨハンナ、レオ林田助右衛門と妻マルタと娘マグダレナと息子ディエゴと、レオ武富勘右衛門と息子パウロ1613(慶長18)年107日の事である。


見せしめのはずの処刑は、2万人の人が見守り、かえって人々の信仰を強くしたとして、翌年の禁教令を発令させる誘因の一つとなったという。
後にも出て来るが、同じような見せしめの処刑は、平戸の聖地「中江ノ島」が最もよく知られている。

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           当時中洲であった有馬川殉教地 (左手が有間川)


日野江城址>         長崎県南島原市北有馬町島鉄バス 南道バス停より徒歩10分>


有馬川キリシタン殉教地跡から振り返ると日野江城があった小高い丘が目に入る。
日本の一地方である有馬が、キリスト教の布教の拠点となり、セミナリヨという最先端教育施設を開設したり、南蛮貿易により当時のヨーロッパの最新の生活用品が持ち込まれて潤ったのは有馬氏の政策によるものであった。
日野江城址は戦国大名有馬氏の400年にわたっての居城であった。1550年代には島原半島から肥前東部一帯21万石を領有していた。
13代当主であった有馬晴信1579天正7)年、洗礼を受けキリシタン大名となった。晴信は有馬の城下町にあった邸宅を提供し有馬セミナリヨを創立している。また、セミナリヨ卒業生による日本初のヨーロッパ派遣団「天正遣欧少年使節」をローマに派遣している。帰国報告会の行われた日野江城について、イエズス会年報で次のように紹介されている。
「大小の部屋すべて黄金の品や典雅で華麗な絵画で飾られていた」と。
有馬氏が行ってきた南蛮貿易や、キリスト教の保護政策は有馬にヨーロッパなどからの様々な文物や文化をもたらし、国際交流の最先端地を形成させることになった。

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      日野江城大手門跡の石碑が建つ                                     日野江城址に残る石垣

 
<史跡・西田平キリシタン墓碑 ―谷川婦人キリシタン墓>     長崎県南島原市北有馬町西田平


北有馬教育委員会は次のように紹介している。
「史跡キリシタン墓碑(ルシヤ)
  1, 谷川名西田平(中屋敷)  2, 扁平蓋石型  3, 薬研彫(慶長15年・1609 1117日生年20才)
  4, 花十字の浮彫
伝承によれば日野江城主有馬家ゆかりの夫人の墓といわれ、隣接する観音堂地は天主堂跡といわれる。
天正15年はキリシタン大名有馬晴信の代で11月はその子、直純が先婦人を離別、徳川家康の曾孫女・
国姫を妻に向かえた月であることに想いをはせたい」

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            史跡・西田平キリシタン墓碑  

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須川キリシタン墓碑>        長崎県南島原市西有家町須川(すかわ)  

文化庁文化財保護部による解説要約抜粋>


史跡・西田平キリシタン墓碑をでて、国道251を約2km走ると、須川の街に入る。この街の一角に標識「須川キリシタン墓碑」があり、仏式墓地の中ほどにキリシタン作右衛門の墓がある。
ローマ字文が刻まれた墓碑として日本最古とされる蒲鉾型の墓碑であり、共同墓地にある現在地の地下から
1929(昭和4)に発見された。
キリシタン墓碑の中でも最も価値を有する花十字の線彫りがなされている。
 
   1.  ヒリ作右衛門ディオゴ       生年 御出生 以来 16101016日 慶長15
           2.  ローマ字金石文としては日本最古<ポルトガル式綴字法によるローマ字日本文表記>
           3.  クレゴリオ年(暦年)と元号年とを併記したものの最古

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   十字架の建つ須川キリシタン墓碑                        文化庁文化財保護部による解説石碑


                       潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km⑤    5日目―②
                                   2018年9月5日 ― 島原市須川 ⇒ 島原海岸 松尾浜                                    
                                                                            につづく
 

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