shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼 日記―④

2018『星の巡礼潜伏キリシタンの里 自転車の旅630km』 日記④

                                           

潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km    3日目>  20189月3日
 
      ― 西平椿公園(二日目テント泊地) ⇒  原城 ―         走行距離 47 km

 
<天草・サンセットラインを走る>


潜伏キリシタンの里探訪自転車の旅」2日目の露営地・西平椿公園を後にして、サンセットラインである
国道389号線の途中にある下田温泉に向かう。
今日はサイクリング日和、ハイビッカスも思いっきりお化粧して太陽と戯れている。影も朝日を浴びて自転車の前を勢いよく走る。遠くに真っ白い入道雲が浮かび、天草灘は凪いで空よりも碧い。

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              天草下島西海岸サンセットライン・国道389号線


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渚100選の妙見浦                                潜伏キリシタンの島・天草に咲くハイビッカス


下田温泉―白鷺館>      500


サンセットラインの景勝地、白砂青松百選の白鶴浜、渚100選の妙見浦を過ぎると下田の集落である。下津深江川沿いに入って行くと温泉街が並び、白鷺館は奥まったところにある。
下田温泉は開湯八百年、その起こりは二羽の傷ついた白鷺が川の畔で傷を癒しているところから湯が湧きだしたという。
このことから別名「白鷺温泉」とも言われている。白鷺館は湯の醍醐味を味わえる源泉100%のかけ流しであり、
露天風呂から眺める下津深江川のせせらぎの音が聴こえてくる。
旅の疲れを癒し、汗を流すために温泉に飛び込んだ。

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        下田温泉・白鷺館                                     露天風呂の横を下津深江川が流れる


<富岡切支丹供養碑―首塚
 
さらに、国道389を北上すると富岡への入口で国道324と接続する。
米粒に似た天草下島の頭の左にちょっと突き出た鼻先「四季咲岬」へ入って行く。
たぶん四季の花が咲き乱れる、年間を通して美しい景観を見せる岬なのであろう。その鼻先(半島)の一番
高い所に旧富岡城址がある。ここは、東シナ海早崎瀬戸島原湾に囲まれ、その先に島原半島を望見できる絶景ポイントでもある。

この二つの国道の分岐点(苓北町志岐の街の中ほど)を入った付近に「富岡切支丹供養碑」が建つ。
1637寛永14)年に起こった天草・島原の乱で討ち死にしたキリシタン一揆軍の首級10000余りを三分して埋めた一つがこの首塚である。

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                 富岡切支丹供養碑


富岡城址をとりまく天草灘島原湾     天草下島苓北町


富岡切支丹供養碑(首塚)より北西2km先に袋池を見下ろしている富岡城がある。自転車を城へ続く鳥居の側に駐輪し、徒歩で階段を上って行く。城址からの島原湾に切りたつ雲仙普賢岳天草・島原の乱の勃発拠点である原城址あたりを眺望することができる。
ここ富岡城址は、本渡城址と原城址の三角点にあり、「天草・島原の乱」における地政学的に重要な拠点であったことが分かる。


また、天草灘の夕陽の美しさに感動した頼山陽は名吟「泊天草洋」を残している。この雄大な景色を共に味わってみたい。
また、いつも愛唱している頼山陽漢詩「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』を高吟した。


                                     「泊天草洋」   頼山陽


 
               雲か山か呉か越か


               水天髣髴青一髪


               万里船を泊す天草の洋


               煙は篷窓に横たわって日ようやく没す


               暼見す大魚の波間に跳るを


               太白船に当たって明月に似たり



あれに見えるは雲であろうか。山であろうか。それともシナ大陸の呉の地か越の地か。

水と空とがあたかも青い髪の毛を張ったように一線を画して連なっている。
はるばる京洛より来て、この天草洋に舟泊まりする。
夕靄は静かに船の小窓をこめて太陽は次第に西の海に沈んでいく。
おりしも大きな魚が突然波間に跳ねるのをみた。
空には宵の明星(金星)が出て船を照らしておりまるで月のように明るい。


一揆軍の攻撃を受けた富岡城天草・島原の乱

かって苓北町は、数百年にわたって天草の中心として栄えてきた。1205年からおよそ400年者間、志岐氏が統治する時代が続き、戦国時代末期には志岐麟泉が領主となって全盛期を迎える。その後、徳川時代には肥前唐津藩寺沢広高によって1602(慶長7)年頃に富岡城が築かれた。


1637寛永14)年「天草・島原の乱」で、富岡城幕府軍の拠点として一揆軍から攻撃を受けた。必死の守りで落城を免れたことが、乱の早期終結と後の徳川幕府の安定をもたらしたと言われている。その後、幕府の天領となり、天草の行政の中心となった。

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           袋池から見た富岡城の復元櫓
 
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        復元なった天守閣から島原半島の美しいシルエットをみる

 
「天草四朗(撤退)乗船之地」


富岡城を出て、ロザリオンラインといわれる国道324をさらに東へ向かうと、途中の川向集落に十字架の立つ記念碑「天草四朗乗船之地」がある。


1637寛永14)年11月、天草四郎を総大将とする14千余人の吉利支丹一揆軍は、本戸(本渡)で富岡城番代三宅藤兵衛を討ち取り、その勢いで富岡城を猛攻、陥落寸前まで追いつめながら果たせず断念し島原へ渡るためにここから乗船したと言われている

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            天草四朗乗船之地碑 (川向集落)

 
鬼池港(天草下島)より島原半島 口之津港に渡る>


さらに、ロザリオラインを快適な自転車旅を続けると島原半島へ渡る鬼池港に着く。
天草の鬼池港より、島原の口之津港へは、島鉄フェリー「くちのつ」で30分の船旅である。
 (乗船代360円、自転車250円)
島鉄フェリーの時刻表によると、始発06:30から終発1830まで、1日往復各15便、1時間に1本以上という
便数がある。

船上から見る島原の山並みが美しい。 なかでも雲仙普賢岳が気品ある姿を島原湾に映している。


口之津は日本キリシタン史においても布教のための重要な拠点であった。16世紀の中ごろ、島原半島肥前の領主であった有馬義貞南蛮貿易の拡大のため貿易と密接にかかわっていたカトリックの宣教師を招く。1563イエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダ口之津に招かれ、島原半島キリスト教カトリック)の布教活動が始まる。
1579アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父は1579年南蛮船で口之津港に来航。1580年有馬のセミナリヨ設置や
1582年~1590年の天正遣欧少年使節の派遣などを行なう。口之津開港450年を記念してヴァリニャーノ神父の像が港に建っている。
一方、領内外でのキリスト教排斥の機運が高まる中、義貞はさらにイエズス会とのつながりを深め、宣教師アルメイダが有馬に入って4年後の1567年にようやくポルトガル船を口之津港に招き入れることができた。

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島鉄フェリー「くちのつ号」 は鬼池港より出航、口之津に入港し、島原半島に上陸する。


天草・島原の乱の地  原城址に向かう>


島原半島の南玄関口である口之津港より国道251島原街道)を東回りに、自転車のペダルを軽快に踏み
原城址に向かう。
その横を夕陽に浮かぶ影が島原街道を伴走する。前方に雲仙普賢岳、右手に2日前に走った天草上島
ロザリオラインが霞む。

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               前方に雲仙普賢岳が霞む国道251 
                     

<鐘懸け松 と 大江築山 ― 原城見張り山>  島原の乱ゆかりの地)


原城址手前、国道251の信号・大江あたりを左に入ったところに「大江築山」という幕府軍により原城跡の一揆軍を見張った人工の山がある。
163712月より翌年228日まで約3ヶ月間幕府軍12万の大軍で原城一揆勢を包囲し、山を築き櫓を立て、この地より城内を見張った。合図として幕府軍は松に懸けた鐘を使い、一方、一揆勢は法螺貝を使った。
初代松の木に懸けられた鐘は、現在も近くの常光寺長崎県南島原市南有馬町己211)に大切に保管され
ている。


写真の後ろの小高い山が八天宮にある幕府軍原城見張り山である。長期戦を見据えた幕府軍による一揆軍殲滅をうかがわせる築山である。

とうとう「天草・島原の乱」の終焉の地である原城址に立った。
夕やみ迫る原城址の情景は、次のページにまわすことにし、今夜の露営地に急ぐことにする。


イメージ 12 イメージ 13      築山(小高い丘)が八天宮にある幕府軍原城見張り山           常光寺にある合図の鐘


▲3日目露営地        原城址ふもと・浦田漁港テント泊
              近くに原城温泉「真砂」あり  500


原城址の麓、有明海に面して休養地である原城温泉、露営地とした浦田漁港がある。

明日は休養日であり、連泊となるので、早朝の原城跡で一揆軍の鬨の声を聴き、有馬の街を散策し、原城温泉で汗を流すことにしている。原城温泉真砂は素泊まり(16350円~)ができ、雨天時避難先として利用も可能である。
 

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             原城址のふもとにある浦田漁港を今宵の露営地とした
 
 
深夜1:04am、テントから這い出して星空を眺める。海風が生暖かく頬をうつ。
近くの防波堤では夜釣りの影がふたつ夜灯に揺れている。


今から381年前、この地原城址で農民たちが圧政に抗議し、籠城して鬨の声をあげた。
その必死の声が、雲仙の普賢岳に木霊してここ露営地に聴こえてくるようだ。


夜空に、地球誕生以前から輝く星の一つ一つが死を賭して戦った民の顔に見えてくる。
一揆軍に参加した婦女子もまたオラショ(祈り)を唱えながら、この星の輝きに来世への夢と希望を託して散ったに違いない。


西南の空にあかく輝く火星を眺めた一揆参加の民、その火星をわたしもまたいま観ている。
時の流れは不思議なものである。そこには愛語という美しい信号(祈り)が流れているような気がしてならない。


星たちがわたしに笑いかけてくる。
一緒になってアメージング・グレイスを歌う。
I once was lost, but now I am found.  Wasblind, but now I see・・・・・・・・なんと素敵な賛美歌だろう。


すべての星座が一瞬、十字星に変わった。
大自然は偉大であり、美しい。


                        潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km  ⑤>
                           2018年9月4日 <休養日> ― 原城址にてテント連泊                                                    
                                                           につづく