■<潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 8日目 休養日―②> 2018年9月8日
― 梁川公園(長崎市) ― 走行距離 4km
長崎市橋口町にある。(地図参照)
如己堂の角を平和公園のほうへ下って行くと、その中間、約3分のところに石碑と案内板が建つ。
1614年(慶長19)、徳川家康の禁教令発布から250年後の1865年3月17日、大浦天主教における
劇的な信徒発見当時も幕府の厳しいキリシタン禁令は続いていた。
神父を迎え、洗礼を受け、教理の勉強をしていた。この地がその一つ、聖フランシスコ・ザベリオ堂跡
である。(案内板より一部抜粋)
聖フランシスコ・ザベリオ堂跡石碑
<サンタ・クララ教会堂跡/ 秘密教会・サンタ・クララ記念碑> 地図⑭
長崎電鉄電停「大橋」下車徒歩3分、国道206号線浦上川に架かる大橋のたもとにある。
この地に1603(慶応8年)に建てられたサンタ・クララ教会はイスパニア人の宣教師アル ウァレス神父
が司牧する浦上では、当時ただ1つの教会だった。
徳川幕府のキリシタン禁制によって、この教会が破壊されたあと、教会で働いていた孫右衛門は、
神父を失った村人の間に、帳方・水方・聞役という「潜伏キリシタンの地下組織」をつくって
信仰を固めた。
その後の250年、村人たちはこの教会の跡を祈りの場としていた。毎年夏になるとここに集まり、
盆踊りをよそおって祈りをとなえていたという。
存在であり、心のよりどころとなっていたがよく分かる。
サンタ・クララ記念碑
<長崎ちゃんぽん> リンガーハット・長崎・稲佐橋店
今日は休養日、本場・長崎ちゃんぽんをリンガーハットのお店で生姜と柚子ドレッシングを交互に
かけて美味しくいただいた。
その店は、浦上川に架かる稲佐橋を渡ったところに位置する。ちょうど露営連泊中の梁川公園へ
向かう途中にある。
リンガーハット・長崎・稲佐橋店 食べて見たかった本場・長崎ちゃんぽん
▲8日目露営地 長崎市・梁川公園にて露営 テント連泊
ここ梁川公園のテントには、多くの方の訪問を受け、よもやま話に華をさかせ、互いの人生を語り、交歓した。
この世に生を受けた者は、同じ人生を歩むことはない。それぞれを主人公として物語は展開され、
喜怒哀楽のなかに生という一瞬を終えることになる。
長崎の人々は明るく、非常に好奇心に満ち、進取性に富んだ県民性をもっておられるようである。
潜伏キリシタンとして、1614年の禁令から1873年禁令撤廃までの259年間、辛苦に耐え信仰を守り続けることが
できた要因がこの県民性にあるのではないかと、訪問者お一人お一人と真摯に対峙し、その人間性に触れた。
その中心地がここ長崎であり、なかでも次に訪れる外海(そとめ)である。
どうしても潜伏キリシタンの子孫であるみなさんのお話を伺い、苦難の祖先に触れて見たかった。
みなさん楽天的な一面をおもちであることだけは確かである。
今日は、「沈黙」の舞台・長崎でのロドリゴ神父たちの受難に想いを馳せ、祈りの一日でもあった。
興奮のなかに一杯の赤ワインを口に含み、蝋燭の火を消して、深い眠りに沈んだ。
<沈黙の主人公・ロドリゴ神父のモデルは、実在の人物>
遠藤周作による歴史小説「沈黙」を読み、マーチン・スコセッシ監督による「沈黙サイレンス」を
観賞した者として、主人公ロドリゴの事をより多く知り、深いシンパシーでつながりたいと思ったひとり
である。
神父の墓碑を訪れてみたいと思っている。
(1602/慶長7年―1685/貞享2年)のことで、江戸で84年の生涯をおえている。
江戸に送られている。
「イエズス会日本管区長代理で棄教したクリストヴァン・フェレイラ神父を救出することを目的に、
禁教政策下の日本に潜入を試みた。しかし上陸直後に筑前国大島で捕えられ、江戸小日向の
キリシタン屋敷に収容された後、拷問に耐え切れず棄教し、43年間幽閉された末、84歳で病死した」
ジュゼッペ・キアラ神父の墓碑
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<山王神社 と サン・ラザロ病院跡 と 浦上街道> 地図⑨
早朝、小雨のなか目を覚ます。やはり今日も長崎は雨である。
昨夜の天気予報に助けられて、東屋の軒の下にテントを張ったおかげで、テントを濡らすことなく収納することができた。
今もバランスよく立ち、出迎えてくれた。
「救貧,救縦をはじめ,施療,孤児や寡婦の保護,養老院.貧死者の埋葬,防犯.免囚保護,
人身売貿禁止運動,矯風活動,剖古や間引きの禁止運動.慈善質屋等多岐にわたっている。
また、児童を対象とする学校も開設するが、神学校の前段階としての学校の位置づけというよりも貧困から
の自立を助けるための教育の必要性を認識していた。
ド・ロ神父の活動は、印刷・出版事業、教会建築、開墾、道路工事、防波堤建築などの土木工事、
社会福祉施設事業、医療・救護活動、本来の布教・司牧活動など多岐にわたった。
ド・ロ神父自らが西欧から農機具を購入し、その使い方、つくり方を教え、さらに西欧から種苗を購入し
栽培し、住民と共に汗を流しながらそれらを伝えたことは、宣教を超えたものとしてあった。」
山王神社は、天草・島原の乱の後、幕府老中松平伊豆守信綱がこの地を通過したとき、近江の国(滋賀県)琵琶湖岸の坂本に風景・地名が似ていることから、比叡山の日吉大社から派生した山王日枝の山王権現を招祭してはとの提言により建立された神社である。
山王神社境内の歴史のウオッチャーである被爆クスノキ周辺には、当時、サン・ラザロ病院があり、処刑のため西坂(現西坂公園)へと向かう宣教師や信徒26人が休憩をとった場所といわれている。山王神社への石段の上り口に「浦上街道」の石碑(標識)が建っている。浦上街道は、京阪地区からの26聖人や多くのキリシタン宣教師や信徒が歩いた生き証人であり、沈黙の街道である。
殉教者が歩いた浦上街道