■<潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 9日目―②> 2018年9月9日
― 山王神社(長崎市) ⇒ 外海(そとみ) ― 走行距離 31 km
<浦上天主堂> 地図⑪
浦上天主堂は、1873年キリシタン弾圧の禁制が解かれたあと、浦上の信徒たちによって建設にとりかかったが、資金難から20年後の1895年フレノ神父設計による教会建設が始まり、1914年にロマネスク様式の大聖堂が
完成した。
1945年、原子爆弾で大聖堂は破壊され、1959年に再建されたものである。
周囲には被爆遺構の石像が配され、アンジェラスの鐘の音が鐘楼から時を告げている。
浦上天主堂は、世界遺産の「潜伏キリシタン遺産群」の構成リストには入っていない。ちなみに、浦上天主堂より10年ほど前に完成した大浦天主堂が「潜伏キリシタン」信徒発見の場となったことから世界遺産に入っている。
その辺りの事情を、浦上小教区編『神の家族四〇〇年』に次のように書き記されている。
「1864年(元治元年)、大浦海岸近くの丘に、フランス居留民のための聖堂である大浦天主堂ができ、その珍しい教会建築を一目見ようと多くの人々が訪れた。その混雑に紛れて浦上地区の潜伏キリシタンの信徒たちが祭壇の前で祈りを捧げていたプチジャン神父に近づき、こう囁(ささや)いたという。
『ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ』、『サンタマリアノゴゾウはドコ?』 」
宣教師が日本から追放されて約250年。7代に渡り潜伏していたキリシタンが自ら信仰を明かし、宣教師の指導の下に入った瞬間だったと言われている。 <WEBRONZA高瀨毅 ノンフィクション作家・ジャーナリスト「浦上天主堂はなぜ、世界遺産から抜け落ちたのか」より要約抜粋>
拷問石
1871(明治4)年6月中旬、ここ浦上切支丹教徒260名は、萩の堀内岩国屋敷に収容され、信者は改宗を
すすめられたが、
なかなか転向しないので、鉄砲責、寒晒などと呼ばれる拷問方法が用いられた。その時、信者が座ら
された石が「拷問石」と呼ばれ、石の底面に十字架が刻まれているという。
この2年後、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた。
<浦上天主堂での出会い>
浦上天主堂で祈りを捧げ退出するとき、教会堂入口でご高齢のご夫妻に声をかけられた。
日曜ミサに出席されるのであろう。後からおいでになった奥様ともども、まるで愛する人に接するように
「坂下に留置かれた自転車の方ですね。旅のご無事を祈っております」との声掛け。
この一言のもつ響き、これこそ神のいたわりの声であろう。
神のメッセージを聴くのは、わたしの心であり、空耳ではないことに気付かされる。
ひとの言葉、自然がかもしだす音、花たちのなにげない存在、虫たちの無心な合唱、星たちの
永遠なるまばたき、なんと神の恩寵に満ち溢れていることか。
出会いのすべてに神の息吹を感じながらの自転車の旅である。
微笑みながらわたしを見送ってくれた。
如己堂は、潜伏キリシタン時代の指導者である張方屋敷跡に建っている。
永井隆博士は、敬虔なカトリック信徒であり、放射線医学を専攻した原爆被爆者でもある。病床で十数冊の著書を執筆することによって、世界中の人々に戦争の愚かさと、平和の尊さを発信し続けた不屈の研究者であり、求道者である。如己堂は博士の病室兼書斎である。
如己堂をでてすぐの十字路を左へ曲がり、坂を下って行くと左手に「平和記念像」が迎えてくれる。
平和記念像・平和の泉(像の前) 原爆投下時間碑(母子像)<1955.8.9.11:02>
原子爆弾落下の中心地碑 (原爆殉難者名奉安碑) 「爆心Centre」林重男氏撮映
都会を離れ、磯の香りのする海岸線を走る快適さ、いいものだ。
しかし、辺地に身を隠していたキリシタンを探索して捕縛し、長崎に送って、処刑、首を晒すという時代には、この道もまた殉教の道であったと思うだけで、こころに痛みを感じる。
左手に角力灘(東シナ海)を見ながら断崖を走る国道202号線沿に「ようこそ外海へ」の歓迎標識が迎えてくれる。 外海(そとめ)は、わたしにとって「潜伏キリシタンの原点」である。ようやくわが故郷にたどり着いたような安堵感に満たされた。
断崖の上の国道202号線より見下ろす海岸線、「沈黙」の主人公・ロドリゴ神父らがキチジローに案内されて上陸した海岸であると思うだけで、まるで彼らを見守る沈黙の神の側に立っているような気がしてきたものである。
東シナ海に面した三重漁港 ようこそ外海へ
外海の海岸 (断崖の上、国道202より)
外海地区潜伏キリシタン関連案内図 (拡大ー地図右下角をクリック)
潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km⑪ 9日目―③
2018年9月9日 ― 外海(そとみ)・黒崎教会 ⇒ 外海 ・出津教会
につづく