shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

潜伏キリシタンの里探訪 自転車巡礼 日記―⑩

2018『星の巡礼潜伏キリシタンの里 自転車の旅630km』 日記⑩

                                           

潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km    8日目 休養日>  20189月8日
    ― 梁川公園(崎市)  ―         走行距離 8 km
 

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               長崎市内巡礼コースマップ
 
 
しとしと降る雨はまるで梅雨、
いつ果てるとなく今日も長崎は雨である。
 
伊王島・馬込カトリック教> (聖ミカエル教会・中之島教会)  

長崎港より長崎汽船フェリー鷹巣号(670円)で1時間15分、伊王島船津港に入港する。
伊王島は、炭鉱の島で、最盛期には住民7000人が住んでいた。現在は700人ほどで、リゾートホテルが立ち並んでいる。
小雨に煙る伊王島を歩いてみたかったので、自転車は長崎港フェリーターミナルに駐輪してきた。
船上からみるゴシック様式の尖塔が天を衝く馬込カトリック教会は、白亜の聖堂前のキリスト像が両手を広げて歓迎している。
現在の伊王島は県道250号線で直接つながり、「伊王島大橋」を渡って、車で訪れる人が多いようだ。
しかし、船から見る馬込カトリック教会(初代1871年マルマン神父設計・現在は教会は二代目)は潜伏キリシタンの希望の丘だった場所に建っている。 ぜひ、船での伊王島訪問をお薦めしたい。
港を出て、橋を渡って沖之島への緩やかなカーブを南東に向かって約800m、15分ほど進むと右側の高台に、伊王島のシンボル、馬込カトリック教会が見える。
今も伊王島町の住民の半数以上がカトリック信徒で、特に伊王島と橋続きの沖之島の馬込集落に集中している。禁教時代、伊王島と沖之島は潜伏するに適した島であり、島原の乱以降、おもに天草方面から隠れキリシタンが避難してきたといわれる。
念のためつけ加えておくが、伊王島町というのは伊王島沖ノ島が橋一本でつながっている町である。

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          長崎―伊王島航路を結ぶ長崎汽船フェリー鷹巣号(長崎港)

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                  伊王島船津港ターミナル 

イメージ 4 イメージ 5        馬込カトリック     白亜のゴシック様式聖堂の前で手を広げ祝福するキリスト像

<出島・和蘭(オランダ)商館跡>    地図③

 
長崎港ターミナルよりすこし南寄りにある出島。中島川畔の一町四方ほどの狭い敷地に商館や蔵、学校や病院、教会などが建っているのだから驚きである。

出島は、幕府の対外政策・鎖国を推し進めるにあたって日本での唯一の外国との窓口として設けられた。
当初、出島はポルトガル人を居住させるために海を埋め立て、1636寛永13)年に完成した。翌年天草・島原の乱が起こり3年後の1639年、幕府はポルトガル人を渡航禁止にした。これにより出島は空島となった。その2年後の1641年、平戸のオランダ商館をここに移して以来、1854(安政元年)安政の開国までの213年間、約2世紀にわたって、出島は阿蘭陀屋敷(おらんだやしき)と呼ばれた。

布教活動に消極的なオランダ一国に貿易権を与えることにより、ポルトガル・スペインのカトリックの布教を禁止し、宣教師を追放した。出島は貿易のほかに、日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化の交流をとおして日本の近代化に果たした功績は大きい。

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     出島・和蘭(オランダ)商館跡                     海を埋め立てて造られた一町四方ほどの狭い出島

 
長崎市推奨の「潜伏キリシタンゆかりの地」  
 
今日は休養日、長崎市推奨の「潜伏キリシタンゆかりの地」に自転車をゆっくりと走らせてみた。
伊王島の馬込カトリック教会からフェリーで長崎港ターミナルに戻り、大浦天主堂、聖コルベ神父記念館、出島と廻ったあと、出来る限りの長崎市内にある「潜伏キリシタンゆかりの地」を訪ねた。
 
<岬の教会(被昇天の聖母教会堂)跡>   地図④
       長崎市江戸町213 (出島の川向い、長崎県庁第一別館正面右手の階段脇に碑がある)
       石碑には「イエズス会本部・奉行所に市役所・海軍伝習所」とあり、その跡地に現在の県庁別館が
       建っている。
          1571(元亀2)年、長崎開港のとき、この地に小聖堂がたてられたが豊臣秀吉の命令で解体。
          その30年後、被昇天の聖母教会堂が完成し、日本司教が着座する司教座聖堂となったとある。
          420年程前、戦国時代の日本は東西に分かれて合戦いしていた頃、すでにカトリック
          日本布教の拠点をここ長崎に作っていたということに驚かされる。

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 被昇天の聖母教会堂跡

  <中町カトリック教会>    地図⑤
         長崎市中町113
     岬の教会跡の石碑が建つ県庁別館より大波止通りをJR長崎駅に向かい、駅前
         三叉路を桜町通りに右折、最初の信号を左折したら右側に中町カトリック教会がある。
         島内要助神父は、殉教の歴史をもつこの地に、日本人のための教会を建てようと志し、1889年の暮、
         キリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である現在地を求めて教会を設立した。
         194589日の原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失したが、その外壁と尖塔をそのまま
         生かして再建された。長崎市指定の被爆遺構である。
浦上天主堂をはじめ長崎の多くのカトリックの教会堂やカトリック信者が、人類史上初めて原子爆弾
という非人道的な兵器により被爆、破壊されたということは、信仰と戦争という観点から特筆されるべき
出来事である。
 
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                       中町カトリック教会

 
サント・ドミンゴ教会跡資料館>   地図⑥
       長崎市勝山町301(桜町小学校内)
          中町カトリック教会より、電車道の「桜町通り」を東へ400mほど行くと信号交差点・市役所前にでる。
          この北角に「桜町小学校」がある。
 1609年、ドミニコ会のモラレス神父は、鹿児島を逃れるとき教会堂を解体して、長崎代官・村山等安が
 寄進したこの土地に移築した。この時代の石畳や地下室、その後建てられた代官屋敷時代の井戸
 などが、小学校の建て直しの際の発掘でで発見された。

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サント・ドミンゴ教会跡資料館入口/ 発掘された石畳み・地下室


今日は、早くも二回目の休養日、ゆっくりと潜伏キリシタンの街・長崎市内の巡礼を終えることができた。晴れ間のあるあいだに連泊する露営地・梁川公園に向かうことにする。

          
 
 
潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km    8日目休養日―②
         2018年9月8日 ― 梁川公園(長崎市)③                                                 
              につづく