しとしと降る雨はまるで梅雨、
いつ果てるとなく今日も長崎は雨である。
伊王島は、炭鉱の島で、最盛期には住民7000人が住んでいた。現在は700人ほどで、リゾートホテルが立ち並んでいる。
小雨に煙る伊王島を歩いてみたかったので、自転車は長崎港フェリーターミナルに駐輪してきた。
今も伊王島町の住民の半数以上がカトリック信徒で、特に伊王島と橋続きの沖之島の馬込集落に集中している。禁教時代、伊王島と沖之島は潜伏するに適した島であり、島原の乱以降、おもに天草方面から隠れキリシタンが避難してきたといわれる。
伊王島船津港ターミナル
<出島・和蘭(オランダ)商館跡> 地図③
長崎港ターミナルよりすこし南寄りにある出島。中島川畔の一町四方ほどの狭い敷地に商館や蔵、学校や病院、教会などが建っているのだから驚きである。
出島は、幕府の対外政策・鎖国を推し進めるにあたって日本での唯一の外国との窓口として設けられた。
当初、出島はポルトガル人を居住させるために海を埋め立て、1636(寛永13)年に完成した。翌年天草・島原の乱が起こり3年後の1639年、幕府はポルトガル人を渡航禁止にした。これにより出島は空島となった。その2年後の1641年、平戸のオランダ商館をここに移して以来、1854年(安政元年)の安政の開国までの213年間、約2世紀にわたって、出島は阿蘭陀屋敷(おらんだやしき)と呼ばれた。
布教活動に消極的なオランダ一国に貿易権を与えることにより、ポルトガル・スペインのカトリックの布教を禁止し、宣教師を追放した。出島は貿易のほかに、日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化の交流をとおして日本の近代化に果たした功績は大きい。
出島・和蘭(オランダ)商館跡 海を埋め立てて造られた一町四方ほどの狭い出島
<岬の教会(被昇天の聖母教会堂)跡> 地図④
建っている。
1571(元亀2)年、長崎開港のとき、この地に小聖堂がたてられたが豊臣秀吉の命令で解体。
その30年後、被昇天の聖母教会堂が完成し、日本司教が着座する司教座聖堂となったとある。
日本布教の拠点をここ長崎に作っていたということに驚かされる。
被昇天の聖母教会堂跡
<中町カトリック教会> 地図⑤
長崎市中町1‐13
三叉路を桜町通りに右折、最初の信号を左折したら右側に中町カトリック教会がある。
島内要助神父は、殉教の歴史をもつこの地に、日本人のための教会を建てようと志し、1889年の暮、
1945年8月9日の原爆投下により、外壁と尖塔を残して焼失したが、その外壁と尖塔をそのまま
という非人道的な兵器により被爆、破壊されたということは、信仰と戦争という観点から特筆されるべき
出来事である。
中町カトリック教会
<サント・ドミンゴ教会跡資料館> 地図⑥
長崎市勝山町30‐1(桜町小学校内)
この北角に「桜町小学校」がある。
1609年、ドミニコ会のモラレス神父は、鹿児島を逃れるとき教会堂を解体して、長崎代官・村山等安が
寄進したこの土地に移築した。この時代の石畳や地下室、その後建てられた代官屋敷時代の井戸
などが、小学校の建て直しの際の発掘でで発見された。
サント・ドミンゴ教会跡資料館入口/ 発掘された石畳み・地下室
潜伏キリシタンの里探訪 自転車の旅630km 8日目休養日―②
2018年9月8日 ― 梁川公園(長崎市)③
につづく