『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』③前編
星の巡礼者 後藤實久
<シルクロード踏破 ウルムチ/烏魯木齊 ⇒ タシュクルカン/塔什庫爾干>
《 コルラ/庫尓勒 8月18日 タクラマカン砂漠の入口の街に到着 》
早朝4時45分、コルラ/庫尓勒のバスターミナル(郊外)に夜行バスは到着した。
砂嵐、地面を這いまわる砂、朝闇にはためく五星紅旗が出迎えてくれた。
まわりの荒涼たる砂漠の風景、ここはタクラマカン砂漠の北の入口である。
タクラマカン砂漠、そこはいつも人の浸入を拒んできた。
わたしは少年時代から神秘なベールをかぶった砂漠を自分の足で歩いてみたいと夢見てきた。
神秘な砂漠のなかに豊かなイマジネーションと、過酷な状況の中に生命の起源が隠されているというロマンと夢が潜んでいると思うからである。
タクラマカンの砂に出迎えられ、心躍り、より一層ロマンと夢が膨らんだ。
タクラマカン砂漠に立てたことを神に感謝した。
コルラの風は生暖かい。体の奥からじわっと汗腺を通って体液がにじみ出てきた。ここタクラマカンでの最初の汗一滴は、ダイヤモンドの光の一滴に見えた。
< 庫尓勒/コルラ賓館に投宿 シングルルーム118元>
庫尓勒/コルラ賓館のドミトリー(ドーム・格安相部屋)はすでに満員であったので、バックパッカーにとって贅沢な賓館のシングルルームに投宿した。近くの交通賓館も満室だったことを思えば、この時期は旅行者や滞在者が多いのであろう。
バックパッカーにとって贅沢であるが、テレビに冷蔵庫、それにシャワーもクーラーもあり、寝苦しい砂漠の夜を快適に過ごせそうでかえって喜んだものである。
ドミトリーでは、多い時には大部屋で15ほどの二段ベットがずらっと並べられ、男女相部屋のところも多い。熱気と体臭が風通しの悪い部屋を充満することもあるのだ。外出するときには盗難防止のためバックパックを鎖でベットに結び付けるなど対策が必要であるドミトリーに比べたら、ホテルのシングルルームはまさに天国である。
コルラはタクラマカンの砂漠の片田舎町と思っていただけに、この近代マンモス都市にすこし夢がかき消された。
シルクロード時代からここ庫尓勒/コルラは天山南路<コルラ/ホータン/カシュガル>と北路<コルラ/クチャ/カシュガル>の重要な分岐点であり、隊商のオアシスでもあった。
またここは、巡礼の聖地でもあり、またコルラ南西にあるタリム油田の開発基地としても重要拠点である。
さらに、漢民族のウイグル自治区への大量流入の前進基地でもある。
多くの人・物・文化がこの町を通って西へ、東へと向かうのである。
わたしもまた西へ向かうシルクロードを歩む旅人の一人であると思うと、マルコポーロになった気分にひたることが出来た。
先にも述べたが、コルラの街ここはニューヨークなのだろうか。 近代高層ビルディングが立ち並ぶ姿は、シルクロードの拠点としてのオアシスの風景も、懐かしきラクダの隊商のイメージをも微塵も残していない。
ホテルにビール・ピーナツ・ポテトチップス・焼き餃子を買い込んでコルラ到着を祝った。
< バヤンゴルモンゴル自治州博物館 >
1896年4月ロプノール湖(さまよえる湖・塩湖)の位置調査したステインが乗った木彫りのカヌーにそっと触れてみた。ステインの後、ヘディンが湖床の移動を調査し、楼蘭に面した窪地がロプノール湖であることを立証した。
ロプノール湖(さまよえる湖・塩湖)の位置調査したステインが乗った木彫りのカヌー
古代シルクロードではロプノール湖の西岸に楼蘭があり、シルクロードのオアシス路として栄えた。 しかし、唐時代にロプノールが消えて移動したことにより、敦煌経由のトルファン路が開拓された。
幻といわれたロプノール湖を追ったカヌー、それは自称探検家・冒険家にとって同じ夢を運んだ憧れの小舟である。
楼蘭美女との対面の時のように、約108年前のステイン調査隊の一員としてロプノール湖追跡に参加しているような気持ちになり興奮したものである。ステイン老の像が、懐かしそうに私を迎えてくれた。感動である。
<シルクロードでは、もてなしの笑顔が素敵だ>
シルクロードの住人は、旅人に対しての好奇心が強く、外の世界の情報を貪欲に吸収しょうとする。長距離のバスのなかや、市場の人びと、餃子屋のおやじ、ハミウリの屋台のおばちゃん、みな中国語ができないと思うと筆談で外の情報を引き出そうと積極的に押しまくってくる。
スケッチをしていると、それは大変である。二重三重と取り囲み、ほめてくれているのであろうか声高な歓喜が渦巻くのである。書き上げて立ち去ろうとすると、これまた握手攻めである。
熱烈なにわかファンはスケッチを取り上げ、各自のサインを書き込むのだから閉口もするが、記念にもなるものである。
シルクロードの人々は善良で、政治の世界とは無縁であるように見える。
笑顔が素敵である。
コルラの街のウイグル人対漢人は、4対6で顔が交じり合っている。文字も漢字に必ずアラビックが書き添えられており、シルクロードの趣きを感じる。
《 クチャ 8月19日 『 庫車・クチャ交通賓館』 2人部屋100元 》
拝城克孜尔(キジル)千仏洞の観光を終えて庫車・クチャで宿をとる。
クチャバスターミナルのむかいにある<庫車・クチャ交通賓館>のドミトリー2人部屋(@50元X2)をようやくのことで確保できた。トイレ・シャワーは共同だが、テレビ、扇風機があるのと、なにより2人部屋を独占できるので久しぶりにプライベート空間を広々と使えるのがありがたい。
コルラよりクチャへの途中、輪台あたりで事故があり、2時間遅れ。
庫車交通賓館に入ったのが4時過ぎ、あまりの暑さと、空腹を満たすためクーラーの効いた隣のレストランで<青葉炊冷麺 6元>を注文した。
ビールの種類によっては、ミネラルウオーターより安価であることが多い。
外は直射日光でくらくらする、43℃はあるだろうか、汗が噴き出てくる。
クチャは、タクラマカン砂漠の北に位置し、天山山脈の南にある町である。
いま世界で最も大陸の内部にある町に滞在している。
<予定変更 ホウタン経由カシュガル行のタクラマカン砂漠縦断を断念する>
当初より計画していた<砂漠公路>を往くタクラマカン砂漠縦断のバスは運休しているということが、予約に行ったクチャ・バスターミナルで分かった。
クチャよりタクラマカン砂漠をバスで縦断し、ホウタン(和田)経由カシュガル行は危険であり、また乗客が少なく採算が合わず、故障事故等の場合の人命の保証ができないということで、2004年8月現在、砂漠縦断のバス路線が運休しているという話であった。残念であるがまたの機会に残しておきたい。
世界旅行をしていると、現地に立って初めて知る情報が沢山ある。慌てず旅行を続ける次なるスケジュールに修正し、実行する臨機応変の切り替えが必要になることがしばしばである。
先に示したタクラマカン縦断ルート地図に修正ルート(←----)を加えた地図を再掲しておく。
路線バスが運休しているという。ミニバスやタクシーに変えればいいが、これまた砂漠を縦断するとなると危険極まりないとのことだ。 ましてや往復であればまだしも片道ともなればむつかしいという。四駆のランドクルーザーを貸切、ガイド兼交代の運転手を含め2名、大量の飲料水と食料の確保など、大金を払いキャラバン隊を編成する必要がありそうである。いつか自転車で砂漠を縦断したいという夢を実現させるため、ぜひタクラマカンさ砂漠縦断路をバスで走り、その状況を見ておきたかったが残念だが断念することとした。
夢は、少しは残しておくのがいい。
いまだ見ないロマンと夢がある、という心地よさが残るのもいい。
冒険は、いつもその夢とロマンの中にあるのである。
タクラマカン砂漠縦断修正ルート地図<新疆ウイグル自治区ルートマップ>
<貸切オートリクシャーでクチャ市街一周>
タクラマカン砂漠縦断を断念したあと、オートリクシャーを運転するウイグル族ヤン君の笑顔に魅了されて、クチャ市街を案内してもらうことにした。タクラマカン砂漠縦断バス旅行中断により携行品(栄養剤・マスク・水・食料品など)の買い出しをする時間が空いたのである。
ヤン君によると、オートリクシャの仕事の90%はイスラム系ウイグル人で占めているという。利用しているのは漢人であり、貧富や民族、階級差を感じる瞬間である。
とうとうサザン朝ペルシャ・イラン系、イスラムの世界に入った感がする。りっぱなモスクがクチャの街にイスラムの花を咲かせている。街角ではお祭りなのかウイグル系の住民が太鼓を鳴らし、モハメットを讃えている。
クチャ大寺(モスク)正面入り口で子供達と
神のもと、様々な人種が、その慣習によるそれぞれの歴史を作りあげ、民族愛を主体としたコミュニティーを形成してきた。ここウイグル系もまた、シルクロードの真ん中に生活し、多くの民族との融和、闘争を繰り返しながら平和なイスラム国造りを目指していたといえる。
現状は、漢民族に支配され、民族浄化の過程にあるといっていい。自主自立を目指すウイグルの人々の哀愁に満ちた素顔に接し、語りかける言葉さえ失ってしまうことさえある。
いつの日にか自信に満ち、胸を張り自分たちの国を自分たちの手で運営管理する日を待ち望むものである。
少し郊外に行くと、そこにも赤い砂地がつづき、天山山脈の雪解けの水路<カレーズ>を利用してポプラの木が植えられ、その陰道をロバに曳かした荷車が、砂塵をあげながらのんびりと荷物を運んでいる。
ここだけは平和な牧歌的な時が流れ、ウイグルの平穏な風景が残っていることに安堵した。
のどかなクチャの郊外をロバが台車を曳いている 市街でみられる街路樹用水
《 シルクロード・クチャ雑感 》
<見る見るうちに乾いていく洗濯物>
旅を続けているうえで欠かすことのできないのが定期的な下着などの洗濯である。相部屋格安宿のドミトリ(ドーム)に泊まるときやホテルのシングルルームに泊まるときは、部屋に張ったロープに下着の花が咲く。
ここクチャでは、ハンカチ・Tシャツ・靴下・パンツ・タオルなどを吊るすと、驚いたことに見ている前で洗濯物が乾いていくのが分かる。
砂漠地帯の乾燥と高い気温のためである。体もまた水分がどんどん奪われていくのがよくわかる。ミネラルウオーター・お茶・コカ・コーラ―など水気のものを一日最低1.5L を摂ることになる。
宿に網戸があっても、日本のように蚊のためではなく、どうも蝿の浸入防止のようである。夏なのに蚊を見ることはない。あまりの暑さと乾燥に蚊もここウイグルの地にはすまないのであろうか。
<初めて日本人団体客にクチャの博物館で声をかけられた>
「蘭州でスケッチをしていた日本人はあなたですか」と日本語で、ご婦人に声をかけられた。どうも人違いであると思うけれど、否とも言えずついにっこりすると、
「お一人で旅をされ、ここまで来られたのですか・・・イタリアのローマまでシルクロードを歩かれる・・・素敵だわ!」
出会ってすぐわかれる、すれ違いでかわされる会話は、心地いい。人生もまた、心奥まで入り込まず、相手を讃えてすれ違う会話で過ごせると、心地いいだろうと思う一方、
わずかな一瞬の出会いでも、心にとめた出会いには、心深く愛のぬくもりがほのかに感じられるものである。
そう、人生を豊かにしてくれる一瞬の出会いは、心に残るものである。
<烏龍茶・紅茶・緑茶とシルクロード>
シルクロードは、別名<ティーロード>と呼ばれている。
シルクロードは絹の前後して、茶が西方に運ばれ、砂漠や草原に棲む人々の飲み物としてすでに広がっていた。
この旅で、シルクロードが茶をたしなむ旅でもあることを知りいささかの歓びを感じた。
茶が体に染みわたるとき、心に潤いが生まれ、オアシスのような清涼感が広がり豊かさが生まれる。
このシルクロードで茶に出会うとき、人生のオアシス・清涼感にひたれるのである。
中国では24時間たえず湯を沸かして、茶を点てる歴史と文化がある。
茶は豊かな文化をも生み出すのである。
多分、シルクロードを西から来た商人たちは、ここクチャで本式な茶の習慣に出会い、その後の東への旅で烏龍茶や緑茶のもつ東洋的味覚の素晴らしさに気づいていったと思われる。
茶、それは人の心を和ませ、商いの潤滑油になっていることにも気づいたであろう。
シルクロードを行き来していた商人は、心惹かれた緑茶を西洋に持ち帰って、嗜好に合わせてその醗酵度合いを変えて作りあげた紅茶をたしなむことになった。
シルクロードは、茶をも東西の橋渡ししたのである。
<憧れのタクラマカン砂漠に足跡を残して>
ヤン君に無理を言ってリークシャで砂漠へ連れて行ってもらった。
クチャの南方にタリムという小さい町があり、タクラマカン砂漠を流れるタリム河畔にある。
面白いことに、このタリム河はタクラマカン砂漠を縦断してくるヒマラヤの山々を源流とするホータン河とつながっているのであるから興味がわく。ホータンには後日訪問することにしている。
リークシャでクチャの町を周回した後、タクラマカン砂漠に向かう
クチャ近くのタクラマカン砂漠は、イメージしているサラサラの砂でおおわれた砂漠を想い描くことはできない。砂漠というより瓦礫・小石を敷き詰めた不毛の地であり、わずかに草が生えている。この不毛地帯をさらに砂漠の奥地に入らないと写真のような風紋を楽しめる砂漠には出会えないのである
この瓦礫のような不毛な砂漠地帯に、コルラやクチヤ、アクス、ホーンといった街がつくられている。
ゴビ砂漠やサハラ砂漠、ナムビア砂漠もまた同じ分布になっている。
人が住み、道路が走る近くの砂漠 待望のタクラマカン砂漠に立つ
いまタクラマカン砂漠の神の光の中におり、神の光の中を歩んでいる。
わたしの人生の一里塚であり、幸せな時の流れのなかにいる。
一陣の砂漠の風がそっとわたしの背中をおして静かに過ぎ去っていった。
<中国共産党のプロパガンダ>
ホテルに戻ると、テレビを久しぶりにつけてみた。
中国のテレビには、共産党チャンネルがあり、昼夜を問わず愛国心高揚の映像と歌を流している。
この日は「1940年 日本軍による昆明無差別爆撃」を流し続けていた。何度も何度も繰り返し
放映され、生き証人がその恐ろしさを証言し、映像がその無残な破壊、殺戮光景を人民の目
に焼き付けている。
共産党は、絶えず人民に敵をつくり、人民の目が共産党に向かないように仕組むのであろうか。
その敵は、時には帝国主義であり、政敵でり、富裕層であり、地主であり、宗教であり、文化であり、
知識人であり、日本やアメリカである。
共産党を脅かすものは、すべて敵として抹殺するのが防御原理として正当化されるのであろう。
日頃のプロパガンダは、人民統一の手段であり、いざというときの準備であり、人民に敵の的を
絞らせるガイダンスなのである。
文化大革命、天安門事件もまた仕組まれた人民の敵の掃討であった。
いつの日か中国に共産主義があったといわれる時代がやってくるのであろうか。
人民主体の時代の到来は、今後中国では困難なのだろうか。
人民はすべての主体であり、人民が歴史を作ってきた中国は復権するのだろうか。
人為の原則から、不変の原則への転換期は近いのであろうか。
《 8月19日 曇のち晴れ クチャ 庫車交通賓館 》
朝一番、近くの野菜市場にやってきた。万頭屋台のオープンテーブルに座ってクチャの市場風景に溶け込んでみる。屋台のおやじは、窯に火を入れ、蒸し器を洗い、掃除に忙しい。
黄砂を含んだ小雨がパラパラとテントの隙間から落ちてきた。砂漠の熱さが一瞬緩んだ気がする。
屋台の近くには、セリを売っている少女や、桃・リンゴ・葡萄を箱売りするウイグル人がいる。
ここクチャは、新疆・ウイグル自治区の真ん中にある。当然だが、ほとんどの住民はウイグルの人々である。
モンゴル系のわたしの顔がひときわ目立ってしまう。
オートバイの騒音、人の掛け合う声、ロバの曳く台車の音がにぎやかだ。
世界どこにでもある平和な街角の市場の風景である。
遠くの雲に朝日があたり、色づき始めた。
街角に立つ重武装の漢人ポリスの存在が気にかかる。
<タクラマカン砂漠とキジル千仏洞ツアー>
昨日、リークシャでタクラマカン砂漠の入口まで行ってみた。
しかし、タクラマカンの砂漠公路南下縦断が不可能となってしまったので、<タクラマカン砂漠ツアー>に参加してみることにした。
結局ツアー参加者が集まらず、わたし一人だという。旅行社手配のタクシーと交渉し、200元で決着する。
タクラマカン砂漠に乗り入れたのはいいが、悲しいかな四輪駆動車でないので、たちまち車輪が砂に埋もれ、人の手を借りて砂を掘ったり、みなで車を押したり、古カーペットを敷いたりと大奮闘である。
もし無人の砂漠の真ん中であったらと、肝を冷やしたものである。
3時間もかかったのだから、どうもタクラマカン砂漠はわたしを歓迎してくれていないような悲しい気持ちにさせられた。
しかし、この脱出時間を使い、ゆっくりとスケッチ<絲綢之路・シルクロード>を書き上げることが出来、せめての慰めである。
砂漠にトラップしたタクシー タクラマカン砂漠
<シルクロード/絲綢之路>クチャ近郊・ タクラマカン砂漠よりシルクロードとMt.Chuatakesanをスケッチ
タクシーの砂漠へのトラップ(はまる)から脱出して、<キジル千仏洞>に午後2時ごろ到着し、ようやく昼食をとることが出来た。
<拝城克孜尓(キジル)千仏洞ツアー参加 9H 180元>
拝城克孜尓(キジル)千仏洞は、中国四大石窟の一つで、ムザルト河北岸の懸崖にある。
キジル千仏洞は、仏教石窟寺院の遺跡群で、キジル石窟寺院とも呼ばれ、新疆では最大の石窟である。
クチャ駅より西へ70㎞の拝城にある。
途中、輪台付近で事故に遭い、トラブル解決に3時間ほどかかった。この時を利用して天山山脈を遠景とする輪台郊外をペン画におさめた。
懸崖にある拝城克孜尓(キジル)千仏洞
輪台近郊の天山山脈を望む風景
スケッチをしたあと、帰路についたが約2時間走っても、一台の車にも出会うことはなかった。この時間帯は、砂漠の一番熱い頃で、影一つない。
ただただ蜃気楼を追いかけた。
夕方7時、クチャのホテルに帰ってきたが、まだ陽が高い。
ホテルの部屋は蒸し暑く、生暖かい扇風機の風が肌をなめる。人々は夕涼みのため一斉に街路に出てくる。屋台のシシカカブーや水餃子に群がり、談笑に花を咲かせ、夜遅くまで続くのである。
輪台(クチャ付近)のタクラマカン砂漠の隊商(イメージ) Sketched by Sanehisa Goto
《 クチャ より アクス にミニバスで移動 8月20日》
クチャより以西のバス旅行には<傷害人身保険>が強制的にかけられる。砂漠地帯という道路事情からの事故が多くなるからだろうか<傷害人身保険証書>が切符に付けられてくる。
小雨降るなか、25人乗りのミニバスは、クチャ(庫車)を出発し、アクス(阿克蘇)に向かう。
恵みの雨も大地である砂漠が一滴残らず吸い取ってしまい、すぐに乾きの大地にもどっていく。
砂塵が舞い上がりだしたら、散水車が活躍し、砂塵による肺炎防止に努めている。
ミニバスは、タクラマカン砂漠の天山南道である直線道路を快適に走り出した。
タクラマカン砂漠をクチャよりアクスに向かう砂漠道路
<雑記>
<定員以上は乗せません>
長距離列車やバスが、オンラインのチケット発売でコントロールされ、定員以上は乗せないのに比べ、近郊バスや市中バスは鈴なりにぶら下がっている様子にも驚きである。
<ご婦人の財布は、ナイロンストッキング>
スカートをたぐし上げ、脚の太ももあたりのストッキングからIDカードや切符、お金を取りだす女性独特の
仕草はユーモアを感じる。
<砂漠でのピーピータイム>
ミニバスは、定期的に休憩時間をとるため砂漠の真ん中で停車する。
トイレタイムでもある。
もちろん青空WC、物陰もつい立てもない。みな思いおもいの方向に散って行って用を足す。
ときどき強風に煽られシャワーを浴びることもある。恥じらいがあったら実行するのに躊躇することになる。
しかし、慣れるのもまたはやい。なんだかんだ言っても生理は待ってくれない。
生理に敵なし、天下御免である。放尿するしかない。
その後の爽やか快適なこと、砂漠がぐっとみじかに感じるのだから不思議である。
天山山脈も笑っている。
< タクラマカン砂漠の風景 >
詩 後藤實久
行けどもゆけども無言の風景
どっしり腰をおとした禅の世界
無言の命に似たり
砂漠も命も広大無辺なりて
深い眠りにあって霊感に生きる
語らんとする人の浅はかさを笑い
沈潜し、寡黙に生きるなり
己を捨て去れ、一粒の砂になりきれと
ただただ二本の足で大地に立てと
タクラマカン砂漠は独白するなり
<アクアはホータンへの中継点>
アクア(阿克蘇)のバスターミナルより約3㎞のところからホータン(和田)行の長距離寝台バスが出るという。タクシーを飛ばし、ホータン行き15:00発に間に合った。
バス#1080・4列下段・バス代117元・所要約15時間である。バナナ・ミネラルウオーター・パンを買い込んで乗り込む。
地方の夜行バスで困るのは、休憩地でのWCに時々水がなく、洗えず手が汚れて黒光りしてくることである。
ほとんどの人が、アンモニアで目もあけられないWCに入らず、外で用を足してしまうから始末が悪い。
大切な飲み水をタオルにしみ込ませ手を拭くことになる。このような時、消毒ナプキンが重宝である。
また、アンモニアの匂いの凄いこと、目を開けるのが痛いぐらいである。
しかし、これらの悩みもしばらくすると慣れてくるのだから不思議である。
旅の楽しみは、日常経験できない状況に置かれて、困難を克服したときに、その国の人々を少しは理解できたと思えるときである。
タクラマカン砂漠縦断をこれまで試みたが、諸条件により実行できないでいただけに、アクアからタクラマカン砂漠をホータンまでバスで行けると聞いた時の歓びようは言い尽くしがたいものである。
いま長年の夢だったタクラマカン砂漠を夜行バスに乗って縦断しているのである。
夜行バスに寝ころび、砂漠を駈走していると思うだけで高揚する気持ちを抑えるのが大変である。
究極の目標は自転車での縦走である。いつ実現できるであろうか、楽しみである。
タクラマカン砂漠をホータンに向かう夜行バスから
ホータン行きタクラマカン砂漠縦断夜行バスの中で
<イスラムの墓地>
タクラマカン砂漠の至る所で目にする土と石でできた円錐形の盛り上がった墓に出会う。
ムスリムにとって安住の地である墓地(埋葬地)は大切な場所である。イスラム教はユダヤ教と同じ
神の教え守り、復活を信じる教えである。死者の復活を信じ、土に葬るのである。
墓の前にウイグル語で書かれた亡き人の名前と、死亡日が刻まれた石碑が建っている。
死後も生前と同じく生き続けてほしいという気持ちと、復活を信じての土葬にウイグルの人々の愛を
感じるのである。
イスラムの墓地は復活を信じる土葬である
<顧客至上と共産主義の矛盾>
鄧小平の主導で押し進められた<改革開放>は、市場経済への移行にある。
共産主義体制にある中国で、資本主義のモットーでもある<顧客至上>の標語がガソリンスタンドに
掲げられていた。
共産党独裁と資本主義経済の融合に、なにか不気味な将来が待っているような気がしてならない。
《 ホータン・和田訪問 8月21日 》
8月20日アクア(阿克蘇)を15:00に出発した長距離夜行バスは、翌早朝04:30にホータン(和田)
に滑り込んだ。 13時間半のタクラマカン砂漠縦断バス旅行であり、一番星が見える早朝の到着に疲労を覚えた。
さっそくタクシーに乗り込み、どこか近くのホテルにといったら<和田賓館>に連れて行ってくれた。
500元(8000円)の1部屋が残っているという。
バックパッカーにしては高すぎる休息なので、バルコニーで朝を待って行動を起こすことにした。
ホータン訪問の目的は、ホータン河でトンボ玉作家の友人が制作した玉を河の水につけて入魂の
セレモニーをすることである。その後、午後遅くの便でカジュガルに向かう予定である。
ホータン河の支流ウドンカーチ川にかかる橋に、通りがかりのオートバイに乗せてもらいやってきた。
待ち構えていたように橋を警護していた保安員がやってきて職務質問である。訪問目的を告げると、
急に態度が変わり、和田玉(ホータンギョク)を発掘し、研磨販売していると自己紹介、警護保安員は
サイドビジネスだという。
和田玉(ホータン玉)は、ホータン川流域で採集される翡翠(ヒスイ)であり、前漢の武帝の使者である
張騫が発見し献上したことで世に知られるようになった。現在、和田玉はパワーストーン、ヒーリング
ストーンとして人気がある。わたしもいくつか分けてもらって持ち帰ることにした。
友人の作品であるトンボ玉への念願の入魂式をホータン橋近くのウドンカーチ川(ホータン河支流)
東岸でおえた。
ホータン川畔で入魂式をしている間にも、沢山の人がホータン玉(翡翠)の原石探しにやってきた。
原石を研磨し、光を宿らして命を与える。その神秘性は翡翠という姿に変え、人々にヒーリングと
パワーをあたえるのである。
人も又、それぞれに光る石を心に秘め、苦難・歓びという体験をとおして輝きを増し、明るい
人生を歩むのである。
ホータン玉(翡翠)は、ここホータン(和田)よりシルクロードを通って東へは西安経由、日本へもたら
され、西へはペルシャ・イラク・バグダットを経由してヨーロッパにもたらされた。
ホータン玉(翡翠)はこうして、今なお神秘的な美しい輝きを世に送り出し続けているのである。
ウドンカーチ川(ホータン河支流)で友人のトンボ玉入魂式を行う
ホータン大橋で
ホータン河での入魂式に持参した友人のトンボ玉 手に入れたホータン玉(ぎょく・ひすい)
ホータン(和田)発 カジュガル(喀什)行 長距離バス
<ホータン・和田市⇒カシュガル・喀什市 路線バスで移動>
わたしの夢だったタクラマカン砂漠の旅は、トルファンから始まって、カシュガルで終わる。
ホータン発のバスは、あと3時間でカシュガルに到着し、タクラマカン砂漠の旅を終えようとしている。
バスは、ヤルカンドで最後の給油(1L@3元)のため休憩停車、乗客も外の空気に触れるため降車、
ポプラ並木が一列に並んで迎えてくれている。タクラマカン砂漠の砂風が熱風を運び、毛穴から汗を
引き出していく。
ホータンからの路線バス、外人はわたし一人だけだと思っていたがウイグル人に隠れてスペイン人
セニョール・ホセがカメラとビデオをかけ、沢山の荷物をもって乗り込んでいた。英語を話せるただ
一人のパートナーがいるだけで、旅の安全は高まるのだからうれしい。
砂漠のほとんどの地域で携帯(モバイル)が使えるのには驚いた。それも乗客全員が携帯を持って
いるのだからもっとびっくりさせられた。通信料金は無料で、政府負担というのだから携帯を持たせて
人民の行動や通信内容の傍受や通達命令を伝えるために使用しているのであろうか。
村では、新婚さんが派手に飾った車に乗り祝福されているのが印象的であった。先導車は太鼓や
シンバルを叩いての鳴り物入りである。そのあとを沢山の車がクラクションを高らかに鳴らして続くので
ある。この光景はモンゴル・ウランバードルでも見かけた。
カシュガルには、夜8時に到着、ホータンから10時間の所要である。
<▲色満賓館 ドミトリー @15元 に投宿>
《 カシュガル・喀什 8月22~23日 快晴 》
シルクロード中国の西の果てウイグルの街 カシュガルにある色満賓館のドミトリーで遅い目覚めである。
大きな紅色の太陽がビルディングの間から顔を見せ始めている。
リークシャがのんびり走る街は、まだ長い影の中にある。
カシュガルの早朝の風景
カシュガルの青空市場の屋台、麦酒とチキン丸焼きで、タクラマカン砂漠の旅を無事終えたことを
祝って乾杯した。
カシュガルの青空市場の屋台風景
色満賓館#415号室の同室者ハン君(韓国・学生)は、シルクロードを西から東にたどっているとの
ことであり、情報交換をする。
彼はパキスタンのカラクリ湖で一泊したこと、イスラマバードでは沢山の日本人バックパッカーに
出会ったこと、パキスタン人は貧しい人が多いが、とても親切な国民であることなどを話してくれた。
ここカシュガルは中国での最終都市、両替などパキスタンに向かう準備をすることにした。
<国境越えの準備> (中国 ⇒ パキスタン)
1) スケッチブックの購入(シルクロード後半分)
2) T/C(トラベルチェック)および手持ちの元を中国銀行でパキスタン・ルピーに交換
3) 日記・スケッチブック・お土産・文献書籍などを日本へ郵送
4) 中國シルクロードスケッチの彩色・仕上げ
5) パミール高原(標高4000m)越え耐寒用品<軍手・襟巻・耳覆い>購入
6) 中国最終地よりの消息ポストカードを投函
7) インターネットカフェ―よりメール送信およびパキスタンの情報収集
8) 国際バスターミナルでのパキスタン・スストへのバス切符(予約)の事前購入
9) カシュガルよりスストへの長距離バス用の食料と水を購入
<硬水とミネラルウオーター>
朝一番の作業は、お湯でお茶をつくり冷ました後、ボトルに入れることから始まる。海外旅行の場合、ほとんど硬水でお腹に合わず、腹痛や下痢に悩まされるからである。
日本の水は軟水で、世界一美味い、体にも優しい水である。
外国では、ミネラルウオーターか煮沸した水を飲むことにしている。
ただ、中身がミネラルウオーターと思っていても、ペットボトルのキャップのロックが開いていて、ミネラルでない場合があるので要注意である。
ペットボトルの場合は必ずキャップの緩みがないかチェックすることをおすすめする。
カシュガルの朝、大きな黄身のような太陽がゆっくりとおごそかに顔をもたげてくる。実に爽やかだ。
マルコポーロも、玄奘さんも同じ太陽を見ながら目を覚ましたことであろう。
太陽は、「わたしは変わらぬ、わたしを見る人の心によってわたしは変わる。君に光と愛を。」といっているようでもある。
朝9時、ここカシュガルはようやくにぎやかさが始まった。北京とカシュガルでは2時間の時差がある。
国境に近いここカシュガルは北京時間を採用せず、新疆時間に従っていることに注意すべきである。
時計を北京時間から新疆時間にさっそく修正・切り替えた。(2時間遅らせること)
そろそろ国際バスターミナルに出かけて、パキスタン・ススト行のバスチケットを購入することにする。
カシュガルのダウンタウンに立つイスラムのモスクと土の家 Sketched by Sanehisa Goto
予約 <国境越えバス カシュガル⇒ススト 1日1便 8月24日11:00出発 20H 270元>
<中国カシュガル発⇒国境の町タシュクルガンで入管手続き(1泊)⇒国境クンジェラブ峠標高4934m⇒
予約 <△タシュクルガン1泊 『交通賓館』 ドーム10元 国境の街で入管手続きのため>
今日は、カシュガルの日曜バザール開催日である。バスとホテルの予約を終えて、さっそくバザールに
出かけた。
<羊たちの悲しい別れ>
羊たちが互いの頭を交差させて紐で結ばれ、優しい目を大きく開き、声高に鳴き声を上げている。
子持ちの母羊は、子羊に最後まで乳を飲ませている。「人間を恨んでなんかいないよ。この世に生まれ
て良かった。わたしの役目もこれで果たし終えられると思っているんだ。」
メーメーと鳴きながら母羊が、子羊に頬を寄せて、子羊をなめている。何度もなんどもわが子の名を呼ん
でいる。「さよなら、立派に生きなさい」とわが子に別れを告げているのであろう。
<カシュガルの青空市場の風景>
1元(16円)のウイグル風ピザを朝食としていただく。直径40㎝はあるだろうか、ザックに入らないので
2つ折り、1枚で一日過ごせるボリュームである。
ホコリとゴミの山をかき分けて、ナイロン袋を敷いて座り込み、ピザを食べながら雑踏の騒音を楽しむのも
旅先での楽しい思いである。
何と豊かな活きいきした売買の掛け声であろうか、日本ではもう聞かれなくなって久しい。みな生きること
に真剣であり、商売に没頭している姿は美しく、健康である。
カシュガルの青空市場は市民の憩いの場である
ウイグルの名産であるハミ苽(ウリ)には、いたるところで人々が輪になって無心に食べている光景に
出くわす。1切れ1元だという、これでお腹を満たしている人も多いようだ。
ミネラルウオーター3元、ワイン3元。 ビールは0.5~1元とミネラルウオーターやコークよりも安いが、
甘すぎるのと冷えたビールでないので日本のビールと比べて飲みにくい。
しかし、ミネラルウオーター代わりによく飲んだものである、腹が出てきた。
一方、ワインはそれぞれに強烈な個性があり、癖がある。今日の1本はまるでチンザーノを煮詰めたような
濃さである。これまた土地の味である。そう、これこそシルクロードの赤ワインである。
携帯の普及にも驚いたが、この市場には一般電話が数台が並び、1分0.3元で貸し出し、そこに
は長蛇の列ができているからこれまた驚きである。どうも長距離電話であり、海外との通話に利用して
いるようである。
この市場では、スケッチブックを補充しなければならない。上海より描き続けてきたスケッチブックは絵で
いっぱいになってしまった。
日本で手に入れた和紙に近いスケッチブックを見つけるのはむつかしいようである。
やはり西安あたりで手に入れておくべきであった。カシュガルでは毛筆文化がないのか和紙を目にする
ことはない。
何とか模造紙のようなものを買い求め、スケッチブックとして使用することにした。
星の巡礼用小型旅ノートも、サイズに合うものがなく現地の小学生用のノートを購入し、カッターナイフで
サイズを合わせることにした。
日曜青空バザールから宿泊先の<交通賓館>に戻るためカシュガル公営バスに乗った時、込みあっ
た車内で、漢人の青年が席を譲ってくれた。彼が次のバス停で降車するものとばかり思い、席を譲って
もらったのである。
しばらくして隣の若い女性と話し始めたので連れであることが分かった。
彼女の方を見たら、日本語で「日本の方ですか?」と、そうだと答えたら、彼は彼女の夫だという。
中国では目上の人に席を譲ることになっていると。
孔子の教えである儒教、目上の人を敬えという教えをウイグルの地で目にしたことに新鮮さを感じた。
他人を想う心がこの共産中国にも、小さな花に見えるが残っていることに一筋の光明を見出したもの
である。
彼女は北京大学で1年間日本語を学んだとのこと、現在はカシュガルにあるシルクロード博物館に勤務
しているという。
いよいよシルクロード西進は、パキスタンに入る。
パキスタンはアフガニスタンの隣国であり、多くの戦闘員の逃げ込んでくる危険地帯が広がる。
いつどこでトラブルに巻き込まれるかもしれない。
トラブル防止と、日本人であることを知られないようにするため、日曜バザールでイスラム教徒の着用する
白い民族衣装とキャップ帽を購入した。
カシュガルの夜は、スモッグと砂ホコリが入り混じって顔に吹き付けてくる。夜になると空気の汚れがよく
わかるのである。自動車のライトに浮かび上がるスモッグに、ロンドンの朝の霧のように気持ちをふさがれる。
それも霧ならまだロマンチックだが、こちらはスモッグと砂ホコリだからウイグルの人たちの健康を知らずの
うちに害していることになる。
日本人としては、海に囲まれた自然の風を何の疑いもなく深く吸い込むことが出来るのであるから、
豊かな自然の恵みに感謝し、大切な大自然を守って行かねばならない。
ユダヤ民族を砂漠の民にされたのも、苦難を克服することによって己を高めさせ、民族の純粋性を
守らせるためであったことを思えば、ウイグルの過酷な自然環境も政治的試練もまた必ずや彼らを鍛え、
ウイグル族の末永い繁栄がもたらされることを確信したい。
いよいよカシュガル最後の晩を迎えた。
明日、パミール高原のタジクスタン・アフガニスタン・パキスタンの国境近くに位置する
<シルクロード中国>の最西端にあるタシュルクルカンでパキスタンへの国境越えのための出入国手続
を行うため一泊することになっている。
《 8月24日 塔什庫爾干・タシュクルカン 1泊する 》
シルクロードの中国・パキスタン国境の村
6時27分、今まさにカシュガルの太陽が誕生する瞬間である。
新疆ウイグル自治区の西の大都会 カシュガルの高層ビルがオレンジ色に染まり、幻想の一瞬を演出する。
小鳥たちの鳴き声も、命をささえるわたしの鼓動の高鳴りも、タクラマカン砂漠の砂埃もすべて
この時の流れの中にある。
日の出を見ながら、ゆっくりと人民西路を南に歩いていたら、包子屋台の御主人の柔和な目と出会った。
出した椅子に座れという。
シルクロードで初めて飲むミルクが渡された。
砂糖を入れ、割りばしでかき回しながら飲んでみた。
なんと美味しくコクのある山羊のミルクであろうか。
万頭を口に入れながらスケッチを仕上げることにした。
すべてに時があるように、シルクロード中国との別れの時がやって来たのである。
<すべてに時がある>
詩 後藤實久
時はすべての尺度であり、すべてのベースである
その時の流れに物語が生まれ、歴史が刻まれる
時は、すべての命を慈しみ、すべてに浸透する
なんと広大無辺なる時の歩みであろうか。
人は、時の流れに乗る一葉の孤にすぎず
おのれの意志で時に乗っているとうぬぼれるが
時の中に飲み込まれ、あがらうことのできない存在
時の流れに身を任せ、パミール高原を越えんとする
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここに、シルクロード前半、中国を終えるにあたって、道中でつくった俳句をまとめておきたい。
《 俳句 シルクロード<絹の道>中国 》
後藤實久作
《 便コロの 線路転がる 夏夜汽車 》
(夜汽車の便座にまたがって線路を見下ろすと、線路脇の安全灯の光に便コロが浮かんでは消え去るという風流な趣を味わうことであるー西安近郊にて)
《 柳垂る 長安更けて 酔いのなか 》
(濠の水面に映る柳が揺れているのをみていると、更けゆく西安も酔いの中では長安にいるかのように錯覚させられることよー西安にて)
《 絹の道 悠久の天地 石榴かな 》
(見果てない夢の道、東西をつなぎ天地を結ぶシルクロード。石榴に見守られ続けた絹の道であることかー兵馬俑近くの石榴園にて)
《 シルク道 一片の月 夏の影 》
(今、月明かりがシルクロードにさし、薄いわたしの影を焼き付けているではないかー敦煌にて)
《 吹き寄せし 万里の熱砂 嘉陽関 》
(いつか出会いたかったゴビ砂漠、万里の長城の西の果て嘉陽関、ゴビの砂嵐が顔にあたり心地よいことよー嘉陽関にて)
《 茫漠に 沈みし砂漠 蜥蜴棲み 》
(砂漠には砂漠を棲み処とする小さき命―トカゲーおり、その動きは昼・砂漠に沈み、夜行するではないかーゴビ砂漠にて)
《 一粒の 砂にも神の 夏日あり 》
(一粒の砂、われも一粒の人、ともに命ありて、平等に夏日を浴びているではないか―ゴビ砂漠・鳴沙山にて)
《 沈黙の 風紋語る 砂嵐 》
(砂漠は黙して語らず、ただ風紋にその命を見るのみである。わたしはその沈黙と風紋に砂漠のぬくもりを感じるのであるーゴビ砂漠酒泉にて)
《 崖彫りし 千仏窟や 夕涼み 》
(この光景は人の力ではなしえない、崖に穴をあけ石を切り仏を彫る様はもう神の技である。しかし窟の中の仏のみなさんは涼しい顔をされているではないかー莫高窟)
《 蜃気楼 ゴビの風乗り 砂に消え 》
(砂漠に現れる蜃気楼は不思議な現象である。揺れる海に浮かぶ島々が瞬間に消え去るさまよーゴビ砂漠・嘉陽関にて)
《 ゴビ砂漠 白骨積みし 夏しるべ 》
(砂漠に光る小さい白い骨、ラクダの骨だろうか、荒漠たる砂原では道しるべに見えてほっとするーゴビ砂漠にて)
《 神おわす 祁連山脈 雪化粧 》
(千仏洞からみる雪化粧した祁連山脈の峰々の神々しさよー敦煌・千仏洞にて)
《 月下にて 独り酌む酒 李白とや 》
(トルファンの葡萄園で独り飲んだ赤ワイン、李白の詩・月下独酌を吟じ、ひとりシルクロードにある己を誉めるなりー吐魯番/トルファンにて)
《 トルファンの 浮雲垂れし ブドウ狩り 》
(トルファンはゴビ砂漠の西にあり、乾燥した気候に適した葡萄の産地である。めずらしく雲が垂れ込めた葡萄園に訪れたートルファン)
《 星見つめ 祈りし子羊 夏祭り 》
(生贄/いきにえに捧げられる子羊の、星に祈る澄みきった目に夏祭りの火が迫りつつある悲しさよートルファンにて)
《 天山や 君我を飲み 干し黙す 》
(ウルムチは天山山脈の北東に位置する。シルクロードはトルファンで山脈を挟んでウルムチに向かう天山北路とクチャに向かう天山南路に別れる。天山山脈は、瞑目する禅僧侶のごとく坐し、すべてをのみこんで黙し旅人を見守っているーウルムチにて)
《 笑うなよ 酔って砂漠に 臥す我を 》
(酒によってではなく、憧れの砂漠に酔って、母に抱かれる赤子のように、柔肌に抱かれて臥している己に照れたものだークチャ・タクラマカン砂漠にて)
《 絹の道 熱砂たどりし 幾千里 》
(歴史行き交う夢のシルクロード、それは気の遠くなる幾千里もの砂の道であるのだークチャ⇒ホータンへのタクラマカン砂漠の縦断夜行バスの中で)
《 熱風に 白骨踊る 蜃気楼 》
(タクラマカン砂漠には土石墓がまるで白いミイラのように熱砂の中、蜃気楼に踊らされているように横たわっているのであるータクラマカン砂漠にて)
《 熱砂に 四方茫々 覚ゆ死と 》
(約500年前、玄奘も「大唐西遊記」でタクラマカン砂漠をこのように述べ伝えているではないかータクラマカン砂漠にて)
《 ホータンの 砂塵の幕に 夕涼み 》
(ホータン/和田は、タクラマカン砂漠の南に位置する街である。夕方になると風向きにより砂塵の幕に覆われるのである。風はカラコルム山脈からの涼風であるーホータンにて)
《 夏の夕 タクラマカンに 落つ天地 》
(タクラマカン砂漠の夕暮れは、まるで天地が闇に消えゆくような情景を醸しだすのであるータクラマカン砂漠にて)
《 地平線 揺れる砂漠に 夏の海 》
(タクラマカン砂漠に浮かぶ夏の海と思いしや、地平線に揺れる蜃気楼かなータクラマカン砂漠にて)
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<▲タシュクルガン1泊 『交通賓館』 ドーム10元>
ここシルクロード中国の西端の街タシュルカンは国境の街であり、ここで長距離国際バスの乗客は一泊し、
翌日の国境での入出国管理手続きに備えるのである
タシュクルカンはパミール高原の風が吹くうららかな街であり、街中をタジク婦人がスカートにカラフルな帽子をかぶり、スカーフをなびかせて闊歩する姿には目を見張った。
国境の村らしくパキスタン系イスラムの商人の滞在が目につく。
ただウイグル人かパキスタン人かの違いか分からないまま出国しそうである。
< タシュクルガンにある石頭城に遊ぶ >
街の北側にある小高い丘に、紀元後初めごろに起こった羯盤陀国の<石頭城>がある。
城壁からは崑崙(クンルン)山脈、カラコルム山脈やパミール高原からなる大パノラマを観賞できるスポットである。
幻想的な不毛の景観を身近に楽しむことが出来る。
遠くの草地に煙をくゆらす真っ白なパオが童謡的風景の中に輝いている。
タシュクルガンにある石頭城を背景に
背後のピラミット型山は、崑崙(クンルン)山脈の最西端。連なる山並みは、カラコルム山脈
<信じられないスケッチブックの紛失>
村を散策後、宿の<交通賓館>にもどり、日本向け小荷物の荷造りをしていて、スケッチブックがない
ことに気づいたのである。
カシュガルを出る時、バックパックにシルクロード中国を描いたスケッチブックを大切に入れたことを
確認し、ここタシュクルカンで2枚のスケッチをしているだけに、ここタシュクルカンの村を散策中に紛失したか、置き忘れてきたことになる。
散策したルートを探してみたがどうしても見つからない。
郵便局が閉まるので、スケッチブックはあきらめ、日本向け小荷物を出すことにした。
一抹の望みは、街の誰かが拾って家に持ち帰っていて、後日警察にでも届けてもらえることである。
しかしその望みも絶望的であろう。なぜならここは、カラコルム山脈に囲まれたパミール高地である。
帰国したら個展をすることにしていただけに残念である。
しかし、紛失した60数枚のスケッチを神様に買い上げていただき、天国の画廊で個展をさせてもらっていると思うと、さっぱりと悔いを忘れることが出来た。
これからのローマまでのスケッチ一枚一枚にさらなる情熱を傾けることにした。
スケッチブック紛失前に書き上げたスケッチ(1/2)
ー銀嶺のカラコルム山系ー (タシュカルカン村より)
後日談だが、帰国後さっそく地元の<中国塔什庫爾干塔吉克自治県支部長>宛に、
中国のシルクロードの風景を描いたスケッチブックを日中友好の展覧会に出品するはずであったが、
わたしの不注意から、<塔什庫爾干>で紛失したので、届け出があれば日本に送っていただけないか
との手紙を、漢文・英語・日本語で出しておいたのである。
もちろんスケッチブックが見つかって、日本へ郵送されてくることは夢であり、希望であった。
奇跡が起こることを念じて手紙を投函したことをよく覚えている。
<日中両人民の信頼と尊敬にこそ、平和への希望が見えてくる>
それが帰国後、1年して奇跡が起こったのである。
まぎれもなく紛失したスケッチブックが塔什庫爾干塔吉克自治県当局(タシュクルカン・タジク自治県)から
届いたのである。
夢でもなく奇跡でもなく、本当に中国の僻地から消えたスケッチブックがわたしのもとに届いたのである。
小包には一片の手紙もなく、ただスケッチブックだけが同封されていた。
そこには当局やお世話いただいた担当者の無言のこころの温かさと、無言の日中友好の証がしたため
られていると受け取った。
こちらも西方に向かって無言のうちに感謝の言葉と手を合わせた。
中国浙江省天竜寺に修行参禅された道元禅師の御言葉である<向かわずして愛語を聴くは、
肝に銘じ魂に銘ず。愛語よく回転の力あるを学すべきなり>の精神こそ、日中両国の理解と平和の
礎だと確信した。
相互に認め合い、争い無き平和にこそ、日中が目指すべき世界平和への共通の道があるといえる。
なにか浦島太郎が玉手箱を開けた時の驚きに似ていた。はじめ夢かと思ったが、まぎれもなく姿を消したスケッチブックである。
うれしかったのは当然であるが、中国の僻地に隠されていた人民の温かさに、感謝と感激に心震えたものである。あまりの歓びに、関係者にたいしお礼の手紙と日本人形を贈り、感謝の意を伝えた。
たしかに奇跡が起こったのである。
それは中国の人々もまたひとのこころを理解し、大切にする人々がおられるということである。
ここにあらためて塔什庫爾干塔吉克自治県の当局関係者そして「消えたスケッチブック」を探して
いただいたタシュクルカンの村民の皆さんにこころから謝意を申し上げる次第である。
2020年春今日このころ、中国武漢で発生した新型コロナウイルスによる全世界の中国人民への風当たりの強い中、もう一つの中国人民の温かい人情に触れていただければ、わたしの最大の喜びとするところである。
《 8月25日 塔什庫爾干・タシュクルカン 入出国手続き 》
-中国出国 / パキスタン入国― (入管手続き)
タシュクルカン中国側出入国管理局・税関 (K氏撮影)
シルクロード中国最西端国境の村・クシュクルカンで姿を消した「消えたスケッチブック」が現地当局と村民の熱意と好意によって1年後に発見され、志賀の里に里帰りしたエピソードをお伝えし、<シルクロード踏破16000㎞日記 前編> を書き終えることにする。
当時のシルクロード中国を、現在の中国の経済や政治状況を鑑みながらお読みいただければ幸いである。
日中両国の平和を愛する人民による相互理解と互恵精神の上に立って、息の長い友好関係が続くことを切に祈ってやまない。
パミール高原クンジェラブ峠(標高4733m)を越える
(これよりカラコルムハイウエーをパキスタン・フンザ村に向かう)
クンジェラブ峠よりカラコルム山脈を望む
スケッチブック紛失前に書き上げたスケッチ(2/2)
ーカラコルム山脈ー
<シルクロード後編 予告>
後編 『シルクロード踏破16000㎞日記』では、マルコポーロも馬で12日かけて万年雪をいただく標高平均4000mのパミール高原を越えたとある現在のカラコルム・ハイウエーをパキスタン・フンザ村目指して南下する。
パキスタンでは仏陀の跡をたどりながら世界遺産や、アフガニスタン国境に立寄り、カラチを経てイランに入り、イスラム革命後のイランを斜めに縦断して、旧約聖書に出てくるノアの箱舟で有名なアララタ山にトルコの国境で出迎えられトルコを横断、イスタンブールからヨーロッパに入り、ギリシャを北上、バルカン半島のブルガリア・ルーマニア・ハンガリーを経て、オーストリアからアルプスを越え、イタリアのフィレンツエで無事<シルクロード踏破>をなしえたことを祝って赤ワインで乾杯し、ローマに到着する。バスと列車による珍道中になりそうである。
2004『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』』前編
<シルクロード中国>を終える
後編 『シルクロード踏破16000㎞日記』
<タシュカルカン/塔什庫爾干 ⇒ ペシャワール/パキスタン>
につづく