『星の巡礼 シルクロード踏破16000㎞日記』②前編
星の巡礼者 後藤實久
<シルクロード踏破 西安⇒ウルムチ/烏魯木齊>
《 8月6日 快晴 列車移動 K119 西安8/5 22:32発 ⇒ 蘭州8/6 07:06着 》
< 蘭州 Lan Zhou >
蘭州の街は、太陽が美しい。 緑すくなく、黄河の水は黄濁で野生の表情を見せている。
蘭州は、甘粛省の省都、人口約300万人、工業都市であり大気汚染による都市公害の問題を抱えている。西安より西へ約600㎞の地点にあり、海抜1510mの黄土高原にある都市でもある。
また、中国のヘソといわれるように、ちょうど中国の中心に位置する。
< ▲「蘭山賓館」 蘭州駅前 火車駅東路北側 二人部屋 26元 >
列車は、蘭州に朝7時過ぎに到着した。
硬臥(寝台車)での同室者のスイス人バックパッカー・ジェフ君と共に、駅前の「蘭山賓館」に泊まることにした。二人部屋で@26元に、キーデポジット20元が必要であるという。
ジェフ君は、7か月の中国滞在の後、わたしと同じくシルクロードをたどり帰国するとのこと。 旅先の情報を交換することが出来た。
部屋は清潔で、鍵をかけられるのがいい。駅前だから盗難に神経質にならざるを得ない。
部屋に荷物を置いて、各自それぞれのスケジュールに従うことになった。
<世界遺産 炳霊寺石窟 入場料30元>(へいれいじせっくつ)
「炳霊寺石窟」に行くことにしていたので、まず近くの「甘粛省中国国際旅行社」で40元の「甘粛省バス旅行保険」を購入し、蘭州西バースターミナルに向かい、路線バスで2時間かけ「刘家峡水庫」に向かい。30元を支払って、黄河の快速艇に乗り換えて、炳霊寺石窟に向かった。
その時の情景を日記に次のように書き留めている。
<いまわれ黄河を快速艇(定員9名)で遡上、水緑にして澄み、両岸の山並み低く、山肌むきだして丸み帯び、樹木の影すら見当たらない千仏、万仏の存する霊魂あらたなる聖地なり。 50㎞先に向かう快速艇、飛魚のごとくにて、これまた楽しけり。
なぜかかる人里離れし千古の崖に千仏を彫りしか。 古人の知恵なりしか。
この風いずこより来たりて、風われをいずこへ導きしや。>
どのような理由で、この地で仏教が迫害されたとはいえ、 このような辺境といえる奥地で仏像を岸壁に彫り、また洞窟を堀ってそこに仏を彫るということは、余程の篤い信仰心がなければできないことである。
信仰心、それは自分の命を捧げるほどの何物をも突き動かすエネルギーである。
トルコのカッパドキアの地下都市、インドのアジャンダーやエローラの洞窟でも見てきたように、信仰はその信念を貫き通さずにはおかないのであろう。
「炳霊寺石窟」の諸仏に圧倒されるとともに、畏敬の念に心がふるえた。
帰路は、バス待ちの2人と共に三輪オートタクシー(リークシャー@12元)を貸切り、歌を高らかに合唱しながら和気あいあいと蘭州に帰った。
ここでは東南アジアのようにホーンでブーブー鳴らさず、軽業的運転で優位を保とうとするものだから命が縮む思いである。
劉家峡ダムから黄河を船で柄霊寺石窟へ向かう
柄霊寺石窟の大仏前で
世界遺産・炳霊寺石窟は、蘭州(らんしゅう)黄河北岸、積石山にある約2kmの石窟群である。
険しい岩壁にあったためイスラムによる破壊や外国への持ち出しからまぬがれた貴重な仏像が190あまりの石窟に、大小700体近くの仏像が残されている。
柄霊寺石窟室前で
柄霊寺石窟のスケッチ Sketched by Sanehisa Goto
《 蘭州散策 8月7日 快晴 》
朝だというのにこの耐えられない暑さ、体感で42度か、目まいとともに汗が噴き出るのである。
宿泊先「蘭山賓館」をチェックアウトし、 列車の発車である20:40まで蘭州駅にバックパックを預け、駅の裏に連なる商店街を散策。 商店の軒先を借りてスケッチをする。
スケッチの間に、今回のシルクロードのスケッチに押印する印鑑を作ることにした。
軽業的な彫師にかかると印章も芸術的である
スケッチをしていると、珍しいのであろうか、街ゆく婦人が扇子で煽ってくれたり、軒先を借りた主人は椅子をすすめ、茶を出してくれた。このような時間には国境はなく、民族の違いもなく、社会体制の違いもない。 世界は一つなのである。
朝食の蘭州ラーメンはあっさり味だ。 しかしどこで食べても同じ味というのはいただけない。 日本のラーメンが懐かしい。
ラーメンを食べていると、地元の高校の歴史の先生が、紙と鉛筆をもって筆談にやってきた。 中国の共産党政権をどう思うかという内容である。 当地の政権を語ることはタブーであるので、日本の政権について語って鉾をおさめた。 写真を撮り、スケッチをするわたしを好ましく思っていないかもしれないのだ。 これも海外旅行する上での危機回避・打開の一つの知恵である。
特にスケッチやカメラによる撮影には注意を要する。駅や港、地下鉄、路線などは明確な軍事拠点と指定されているので避けるのであるが、風景を撮っているつもりでもその風景に軍事拠点が隠されたりしているからである。
私服警官や警務が寄ってきて、フイルムのチェックをするが、それは露光して消してしまうことを意味する。
撮影時は十分気を付けることである。スパイとして裁判にかけられたり強制送還されることもあるので心したい。
「公共厠所」(WC/トイレ)は、街の至る所にあり、ほとんどが自営有料である。 一片のトイレットペーパーをもらい厠に入るが水洗で意外と清潔である。都市部を離れた地方での囲いの中に穴を掘り、二本の板を渡した肥壺型とは違ってよく使ったものだ。
時として大便所に扉がなく、小便の方を見ることになり落ち着いて用を足せないこともある。青空の下であれば解放感もあるというものだが、人の目のあるところでの用足しになれていない者にとっては、苦痛である。
蘭州 五保山自由市場 Sketched by Sanehisa Goto
<蘭州8/7 -20:40発 ⇒ 嘉峪関 8/8 -23:08着 硬臥N-908 7号‐17C上段>
《 嘉峪関散策 8月8日 快晴 》
05:45 硬臥N-908 7号‐17C上段で目覚める。
陽がまさに東に昇らんとする頃、列車は祁連山脈を南に、北にゴビ砂漠を見ながら河西回路の横を西に向けて駆け抜けていく。
河西回路の田園風景 Sketched by Sanehisa Goto
< 緑の島オアシス 嘉峪関 >
詩 後藤實久
走る列車 東の陽を浴びゴビの大地を滑りゆき
霞み立つ遠景に 白き百姓の家 光りてまぶし
祁連の峰々 雪をいだきて 白雲と解け合いて
水無き乾燥の地に 緑の島 嘉峪関我を迎えし
万年雪を冠する祁連山脈の峰々 Sketched by Sanehisa Goto
河西回路は、チベット高原北西端に接する細長い形の地域・交通路で、黄河の西側にある。
東西の文物交流の道・シルクロードの一部としての河西回路は、内陸の天山山脈・ 崑崙山脈山麓のオアシスルートに連なる重要な回路(道路)であった。
祁連山脈に沿って走るシルクロード「河西回路・国道312号線と鉄路」 Sketched by Sanehisa Goto
明の初期14世紀にモンゴル族の侵入を防ぐため万里の長城が築かれた。
嘉峪関は、この万里の長城の西の端に位置する。18世紀半ば、清がモンゴルを支配して以来、万里の長城は捨て置かれていたが、嘉峪関は、西の防衛の要であったと同時に、東西のシルクロードの要衝であった。
嘉峪関は砂漠が極端に狭くなり、南、北ともに険しい山岳が迫ってきてかつ河は深く自然の要塞であった。
<オートリクシャーで嘉峪関を巡る>
街を流していたオートリクシャー(三輪タクシー)と青年寶館を起点に世界遺産嘉峪関、懸壁長城、万里長城第一の三ヶ所周遊チャーターで筆談交渉、45元で成立した。
風に吹かれながら、ゴビ砂漠の砂を浴びるという長年の夢がかなって、約30kmのリークシャーによるガタピシ冒険旅行に歓喜の声をあげた。
砂漠に開けた嘉峪関は新興の街であり、道幅が広く、まるでアフリカのケニアの村にいるような錯覚に陥った。
懸壁長城では歩きまわらず、スケッチに没頭。 あまりの暑さに木陰に入って、マッカウリを半分に切って、ドライバー君とシェアーし、露店で冷えた「西涼啤酒」と木綿豆腐をいただき、昼食とする。
少し酔いが回ると、ゴビの土の匂いが格別にうまい。
ゴビ砂漠の空気を奥深くに吸い込んでみた。
オートリクシャーで世界遺産嘉峪関・万里長城第一墩を巡る
世界遺産嘉峪関 万里長城第一墩 Sketched by Sanehisa Goto
世界遺産嘉峪関の遺跡群 Sketched by Sanehisa Goto
マッカウリの美味かったこと 生ぬるい西涼啤酒に驚き
美味しいマッカウリを食べながら思い出したが、蘭州で夕食をとった時、とてもサービスが良く、美味しかったのでチップ2元をテーブルにおいて店を出たら、店主が追いかけてきてチップを返すという。
こちらは感謝の気持であったが、店主としてはプライドからかどうしても受け取らないという。笑顔をかわし、握手して、お礼を言って別れたことを思い出していた。
ニューヨークに住んでいた時、友人の接待でマンハッタンのステーキハウスで食事をしたあと、清算して店を出て歩き出したとき、ウエイトレスが大声で飛び出してきてチップを置いていけという。お互いの行き違いからのトラブルであったが、米中のサービスの在り方や評価の仕方、感謝の表現方法の違いに驚かされるのである。
サービス一つにしても、国・人種・宗教・体制などによって異なることを知っておくべきである。
リークシャー(三輪タクシー)による熱砂の冒険旅行を終え、西部開拓の街を思わせる嘉峪関の街に戻り、▲「青年寶館」(ユースホステル)のドーム(三人部屋)に30元で泊まることにした。 この一夜、またどのような出会いが訪れるのかと胸が高鳴る。
祁連山脈の万年雪の溶けた水でのシャワー、真夏とはいえども声をあげるほど冷たかった。
しかし、お昼に飲んだ「西涼啤酒」のあのぬるさは何だったのだろうか。この日の中国のビールによって、ビールは生暖かいものであることに気づかされることになった。
このように素晴らしい天然の雪解け水があるのに、ビールを冷やさないなんて・・・
「青年寶館」では、結局待ち人(同室者)来たらず一人で3人部屋を独占することになり、新聞を取り上げサッカーアジアカップの日本VS中国の結果を調べてみたが、新聞は1か月前のもので役立たずである。
眠るにも北京との3時間の差があるのかなかなか日が暮れない。
ベッドにシルクロードの資料を広げ、次なる訪問地「敦煌」に夢を馳せた。
< クーニャン(姑娘)との淡い友情 >
嘉峪関「青年寶館」(ユースホステル)を出て左へすぐのところに定食屋さんがある。
そこに、歳は幾つぐらいだろうかボーイッシュスタイルで、丸顔、はにかみ屋さんで、しっかり者の看板娘がいる。
しっかり者であるが、わたしのところに注文を取りに来た時など口数少なく伏目がちである。
こちらも素敵な娘さんだなという第一印象を持ったと同時に、彼女のボーイフレンドを想い描いていた。
昼に続き、夕食のため立ち寄った時、「你来自哪里? “あなたはどこからこられたのですか”」という一片の紙を渡された。
「我来自日本、我要去罗马 “日本から来ました。これからローマへ行きます”」 と筆談である。
目を大きく見開き驚く様子で、夢おおき乙女のうらやましい眼差しを向けてきた。
いつの旅行にも、このように素敵な女の子との淡い友情の交歓を持つのである。至福の時間である。
幸せは自分で見つけ、自分で気づかなければ心の中に留まってはくれない、と思うだけで旅は楽しいものになるのである。
帰りのオートリ―クシャの吹き抜けの助手席ではしゃぐ顔の頬に、ゴビ砂漠の乾燥した砂交じりの風が打ち付けてきた。
<ゴビ砂漠での体調>
ゴビ砂漠は標高が高く、大陸性気候による快晴が続くので、埃っぽさで目や、鼻が乾燥し、喉の痛みを覚える。また、目に潤いが無くなるので、目薬・点鼻用スプレーやのど飴、リップスティックを準備しておくのもよい。
腹の具合は、便秘気味になるので、寝る前に軟便剤を服用することにしていた。緊急用として、浣腸を携行した。
虫刺されは、蚊にではなく小さな蚋(ブヨ)によく刺され、掻き後の傷口にステロイド入りオイントメントを塗ってしのいだ。
夜になると虫たちも姿を消し、敦煌のゴビ砂漠の地平線上には下弦の月が顔を出すとともに、夜空の星座が星たちを従えて賑やかである。星たちの何万年前の瞬きが、ここシルクロードにいるわたしの目に届く一瞬である。
敦煌の夜空から賑やかな星たちの歌声が聴こえてくる Sketched by Sanehisa Goto
<アジアカップサッカーにみる共産国の愛国心>
日本が中国に3:1で勝ち、優勝したとテレビのニュースで伝えていた。
中国の悔しさはが伝わるように、勝敗に関するニュースは朝の一回限りの放映であった。昨夕の試合会場は、「中国必勝」の赤ハチマキで埋まり、赤色軍団の凄まじい応援に興奮は最高潮に達していた。
共産国としては人心をまとめる最高の好機であったといえようが、今朝は打って変わって国中がそのような試合はなかったのごとく扱いである。中国の選手たちは肩身の狭い思いでいるのではないだろうか。
<8月9日 敦煌 ― 雨 嘉峪関 ⇒ 敦煌09:00着 列車#107 座席02 46元>
敦煌の近郊では、シルクロードの集大成である中国三大石窟の一つ砂漠の大画廊といわれる「莫高窟」(ばっこうくつ)や、鳴砂山、月牙泉があり、今回はこの三ヶ所を探索してみたい。
《 8月9・10日 敦煌2泊 》
▲敦煌 『飛天賓館』 ユースホステル Room215 @30元
飛天賓館の斜め左手に敦煌バスターミナルがあり、長距離バス予約に便利である。
鳴砂山行のミニバス(1元)は、その先の交差点(環城南路角)より出ている。
また、民族博物館も同じ鳴山路にあり、徒歩で行ける。
<ゴビ砂漠の雨>
今朝は、めずらしく雨である。
北からの異邦人の侵入を防ぐために2000年ほど前、ここ嘉峪関に万里の長城西端に<第一墩>が築かれた。
いま幾多の敵をふせいだ万里の長城が小雨に煙り、その歴史物語を思い出すだけでロマンを感じるとともに心震えるのである。小雨濡れるシルクロード旅情といえようか。
日本でもゴビからの偏西風は黄砂を運んでくることはよく知られているが、そのゴビの雨は黄色っぽい。
敦煌の街角には、黄砂による車体の汚れを洗車する多くのにわか業者が、信号待ちの車に殺到する姿は壮観である。
< バックパッカーの行動原則 >
バックパッカーにとって最も頼りになるのは、足であり、コンパスであり、スケジュール表と時計そして水であろう。
① 第一歩を踏み出す<勇気>
② どちらに向かって踏み出すか<目標の設定>
③ 最低限の栄養補給
④ 己を正しく導くための指針<コンパス>
⑤ 水の確保
「時の流れに身を任す」とは、以上のことが満たされて初めていえるといえる。
<バス予約 8月11日敦煌(とんこう) 20:10発⇒吐鲁番(トルファン) 夜間バス 上段 116元>
ゴビ砂漠を河西回廊沿いに横断したことになる。
ぺんぺん草と石ころが延々と続くなか、バスは砂煙をあげて、まるで別世界に突っ込んでいくようでる。
敦煌拉麺は甘く、敦煌餃子は絶品であり、麦酒「西安花雨」がよく合う。
< 敦煌 鳴砂山に上る 50元>
敦煌は、広大な砂漠に囲まれ、沙州とも呼ばれた。
また敦煌は甘粛省の西端に位置するオアシス都市であり、支配者が変わろうと東西交流の交流点であった。東西の行き交う人たちがもたらす文化が花開きシルクロードの中継点として栄えた。
敦煌 鳴沙山 Sketched by Sanehisa Goto
鳴沙山ラクダツアー
砂深く、登る足が半歩づつ滑り落ちて、遅々として上ることが出来ない。
風に舞う砂がわたしと戯れ楽しげに鳴き叫ぶ。
これすべて砂であり、この砂丘の風景は自然が創り出す美の極致ともいえよう。
自然美の究極の姿が、この原始の砂の中に総合美として存在し、感動を与えてくれるのである。
また、砂丘が創り出す風紋・文様美には、空の青さ、星の輝き、水の流れ、樹木の立ち姿などその表現のすべてを映し出しているのだから創造主に感謝せずにはおられない。
人間ですら、創造主の作品であると思えば、それぞれの人間もまた究極の自然美に輝いているのである。
ただ、人間はみずから汚し、汚れた存在に陥れているに過ぎない。
しかし、人間は内なる輝きを増すことによって、自然の中でも群を抜いてその美しさを表現できる存在であることを忘れてはならない。 そうだお互いこころを磨こう。 美しくあるために・・・さらなる美しさを求めて。
砂丘の美しさに見とれ、風と話しながら鳴砂山に上りきった。
鳴沙山の上から眺める月牙泉の風景は、まるで物語にある月の砂漠である。
砂漠に浮かぶオアシス「月牙泉」 鳴沙山にて月牙泉を背景に
<ツアーや単独観光に出かける前にー公衆便所事情>
敦煌で2泊している 『飛天賓館』 (ユースホステル Room215 @30元)の同室の西君(茨木)とミニバスで莫高窟に向かうことにし、まず朝食として<野菜焼マン 0.5元>を屋台で食べておく。
出発前に必ず実行しておく用足しも、二人して公厠(WC)に飛び込んで、人目にさらされながらアンモニア臭と羞恥心と戦いながらの爆弾投下、習慣の違いを克服するにはなかなか勇気がいるものである。
なぜ便所に人目を遮る戸をつけないのであろう。皆平気でしゃがんでいる姿は異様であり、慣れないものはその気になかなかモードを切り替えられないものである。
ただ、公厠(WC)のほかに3厘(約5円)で利用できる私厠(ビジネスWC)が街中至る所にあるので助かる。
ここでは門番の老婆からトイレットペーパー1回分を渡され、戸のついた便所と手洗いの水が備えられているから助かる。
ここ『飛天賓館』には日本人の宿泊客が多いのか、すぐ北隣にはオムライス・親子丼をだすレストランを兼ねた日本人バックパッカー向けのツアー会社がある。ここから今回参加した莫高窟ツアーが出ている。この日は私たち2人でタクシー(14元)に乗って現地へ、莫高窟で各旅行代理店からの参加者と合流して、ガイドに誘導され莫高窟をめぐる仕組みになっている。
莫高窟では、入場料とガイド料として@120元支払う。
<敦煌 - 莫高窟を観賞する 120元>
莫高窟の1日ツアーに参加するため、ミニバス(タクシー)に乗り莫高窟の集合場所に向かった。莫高窟の中で一番大きく目立ち、迎えてくれるのが96窟の有名な「北大仏殿」である。
莫高窟北大仏殿 96窟 Sketched by Sanehisa Goto
莫高窟では、入場前に手荷物(デジカメ・ビデオ・バッグやバックパック)は預けることになるので要注意。
莫高窟は、別名「敦煌千仏洞」ともいう。
莫高窟は、敦煌市内から南東約25kmにあり、鳴沙山の東端の断崖を開削した石窟である。 366年ごろ、ひとりの僧によって造営が始まり、その後も絶えることなく造営が引き継がれた。
現在確認されている莫高窟の石窟は492窟を数えるという。
ガイドさんの案内でその中でも解放された窟の40か所の内、いくつかの石窟を紹介されたが、その説明も中国語(英語可)のため、案内版を読み、写真撮影が禁止であるため、急ぎ簡単なスケッチを描きつけて、ヘッドライトを頼りに小走りで後追いするという超多忙な見学観賞となってしまった。
では、案内された幾つかの石窟について若干の説明をつけておく。
●16窟・17窟 (晩唐)
ガイドはまず北大門近くの修復なった一般公開の16窟から始まった。莫高窟は19世紀後半まで一部の西欧研究者以外には知られていなかったが、20世紀初頭英国のオーレル・スタインらの16窟通路の北側の17窟(蔵経洞)発掘によって調査・写真撮影・経巻類の発見が紹介されたことで全世界に知られるようになったという。
莫高窟北石窟 16窟(17窟は16窟通路北側にある) sketched by Sanehisa Goto
●莫高窟427窟 (隋代970年代・宋代重修)
ガイドによると427窟は、隋代970年ごろに造られ、主室には曹元忠と夫人の像が描かれている。
その前に過去・現在・未来の仏である隋代最高傑作といわれる「三世仏」を置かれ、宋代重修に施された素晴らしい採色を見ることが出来る。 スケッチ無し、絵葉書より写真参照。
莫高窟427窟 「三世仏」
●莫高窟428窟 (北周557年代 五大重修)
約1400年前に造られ、天井は切妻模様で飾られ、狸・鹿・蓮・孔雀・小鳥など動物絵が、また壁は釈迦の前世の絵物語で飾られ、すべてを布施してしまう<無限の慈悲・スダーナ太子>が説法をしているように配されている。このスダーナ太子が前世の釈迦であったという。
また、東壁門口左側には日本で知られているサッタ太子の本生譚が描かれている。
日本では、法隆寺の玉虫厨子の捨身飼虎図はよく知られているが、お釈迦様は前世で薩埵王子(サッタ太子)だったとき、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げ与えて虎の命を救ったという話がある。
スダーナ太子やサッタ太子の絵と法隆寺の「捨身飼虎図」の絵の黒を基調とした色彩が似ているのもシルクロードの延長線上の類似性を示唆しており興味が尽きない。
(絵葉書より写真参考)
捨身飼虎図(法隆寺)
●莫高窟257窟(北魏 1500年前 宋代重修)
257窟は、九色の鹿の物語が描かれている。
戒めを守って自らの命を絶った沙弥の悲しい物語などが説法図として描かれている。
この窟の壁画は、緑を基調とした珍しい構成もあり興味をひいた。
写真がとれないので、耳はガイドに、手は30秒スケッチと駆け足である。
その他、ガイドによって紹介された窟は次のとおりである。
弥勒菩薩と天井の狩場の249窟、1300年前の初唐に君臨した則天武后と弥勒菩薩のある96窟、
破天荒な莫高窟の規模の大きさに、ガイドも次々と各窟を足早に駆け抜けていくので、ただでさえスケッチで遅れ追いつくのに大変である。
独りゆっくりと一日かけて各窟を回りたいのだが、必ずツアーに参加し、ガイドの案内に従わなければ莫高窟そのものにも入場できないのだから、世界遺産観光というのは窮屈というものである。
致し方ないので、ガイドの聞きかじりを書き残したノート・メモを数枚添えておく。
また、日替わりやガイドによって訪問窟が異なるようである。
この日、走り書きしたスケッチも載せてみたい。
莫高窟での走り書きしたスケッチメモ
428窟 スダーナ太子 249窟 弥勒菩薩 275窟 交脚弥勒 96窟 弥勒菩薩
272窟 飛天図 148窟 巨大涅槃像 57窟 美菩薩
16-17窟 月下美人
< タクラマカン砂漠の砂嵐 >
敦煌は、タクラマカン砂漠の東端にあり、風が吹くと息ができないほどの砂漠特有の強風が吹き抜け、
風と共に砂漠の砂が地上をなめていく。足跡は瞬間にして消え失せ、この世から消し去ってしまう。細かな砂が顔に吹き付けて痛さを感じる。
そして砂で辺りは徐々に暗さを増していき、風紋はその風の強さごとにその形を変えていく。足は砂にとられ一歩がなかなか前へ進められないのである。
サハラ砂漠で彷徨したおりに経験した砂嵐対策を思い出していた。。
シーツを巻き付けるのは砂嵐だけではない、特に太陽の直射日光から体を守るためにも砂漠では大きな役目を果たすものである。
2001年サハラ砂漠横断に向かった時の熱砂・砂嵐対策スタイル
<莫高窟の不思議な出会い>
このシルクロード踏破の旅初めてのガイドツアーに参加した。
莫高窟に集まった20人が、現地ガイドの徐君の案内で石窟15窟を回るのである。特別料金(750元)を支払うことにより、あと3窟の特別石窟を回れる仕組みになっている。
わたしは750元も出して自分から特別石窟を見学するようなことはしない。なぜなら、今までの旅行で何回も現地案内人に騙されたことがあるからである。
今回、私の気づかないうちにこの特別石窟組に入れられてしまっていた。どうもガイド君の配慮からであったようである。
前半の石窟見学でのわたしの熱心な質問やメモ、スケッチにガイド君は私に寄り添い、詳細な解説を付け加えてくれたことを想い出した。それもスケッチをしていると対象物にライト(懐中電灯)を当ててくれたり、質問する(メモる)順番である時代名、何年前、AC/BC、何年続いたかなどを丁寧に答えてくれていたのである。
このようなわたしの熱心な観賞の仕方が、ガイド君のプロ根性やプライドに火をつけたのであろうかは分らないが、特別石窟コース参加の意志を示していないわたしを特別コースに誘ったのである。
わたしは750元もだして特別石窟を見るような観光をしていないので、彼の誘ってくれた熱意にこたえて特別1窟目には付合い、特別2窟目から離脱する旨、ガイドに伝えた。
すると彼はわたしの袖を引っ張って、どうしても次の特別石窟を見せようとする。その真剣なまなざしについわたしは魅かれてしまい750元支払いの腹をくくって最後まで付き合うことにした。
彼は特別石窟のガイドをし終えたあと、別れるとき特別代金を支払おうとしたわたしの手を押し返し、ににっこりと笑い、ただ目礼して去っていくではないか。
その時、わたしは自分の彼に対する誤った認識に恥じ入ってしまったのである。人はおのれのプロ意識を認めてくれた相手に対して感情では言い表せない誇りにひたれたのであろう。このとき彼は人生最大のプレゼントをしてくれたひとに出会っていたのである。
彼は今日一日言いしれない幸せを、喜びをかみしめたであろうことを想像して、遅まきながらおのれもまたその幸せを分かち合えた。
ひとは人に何気ない行為や言葉で、知らないうちに悲しめたり、喜ばせたり、失望させたり、幸せにしたり、自信をあたえたり、勇気を与えるものであることに気づかされたのである。
莫高窟での不思議な出会い、人に与えるエネルギー、人からもらうエネルギー、そして気づきに感謝したものである。
<フロア嬢に天使の笑顔ありーナマステの交感>
わたしの質素な旅にはいつも心温まる愛が満ちている。
ひとつの笑みが、これほど人の心を温め、結び付けるものであろうか。ここ私たちの「飛天賓館」215号室を担当する17歳くらいのフロア嬢は、すこし英会話ができ、お互いすれ違うときナマステ(手をあわせてーコンニチハという日常の挨拶とともに、あなたを愛しているという挨拶)を交わす。
ナマステを交わすだけで精神的、同志的結びつきを感じるのだから不思議である。わたしはこのナマステの精神と挨拶で旅を豊かにし、多くの現地の友に出会い、言葉を交わし、生活を共にしてきた。
ナマステの相手とこころの結び付きを越えて、心の豊かさを高めあうことが出来るのである。ナマステの精神は人に愛を伝え、人の愛を受け取ることが出来る奇跡のコミュニケーションと思っている。
「ナマステ」、これは人の世が続く限り価値ある挨拶のひとつとであると断言したい。
<生きるとは、夢を求めることなり>
連泊の『飛天賓館』の215室には、もう一人の同室者である31歳の西君がおり、声をかけてくれた。彼はここ敦煌よりタクラマカン砂漠をバスで南下して、チベットの首都ラサに向かっている自称・放浪青年と紹介してくれた。このあと働き、貯金をためて南北米大陸を縦断したいとの壮大な計画を熱く語る。
世界を旅する多くの青年たちには、夢に溢れ、心豊かな人々が多い。
《 敦煌2日目 8月11日(水曜日) 快晴 》 (シルクロード踏破12日目)
<予約 8月11日敦煌(とんこう)20:10発⇒8/12吐鲁番(トルファン) 夜間バス上段 116元>
いよいよ今晩、未知の世界である新疆ウイグル自治区吐鲁番(トルファン)に入る。今夜、夜間バスでここ敦煌よりトルファン(吐鲁番)へ向かうが、時間があるので敦煌の街を散策したり、体を休めておくことにした。
屋台で朝食の<稗ひえ・粟あわのお粥>とニラのマントウを食べる。塩ではなく砂糖を振りかけて食べるのには驚きである。
屋台の風景
<自治区という中国の領土―ウイグル自治区>
いよいよ、これより未知の世界である新疆(ウイグル自治区)に入る。ここは、1949年中国人民解放軍が侵攻し掌握、その後、中国共産党政権の中国がイスラムの国を自治区として領有し、施政下に置いている。 それは主権を侵されているチベットと同じ政治状況に置かれ、自主独立を願っているエリアである。
ウイグルやチベットの人々にとっては大変迷惑な話であるが、現中国共産党政権は両地域(国)を中国(漢族)化によって近代化していると強弁して民族浄化を図っていることである。日本帝国主義が満州を支配し、日本の生命線の最前線として開拓を推し進めた方式にどこか似ている。しかし中国(漢族)化は、それ以上に過酷な統治方法で、漢族の大量移住を進め住民を圧迫し、強制的な洗脳抹殺が続いている過酷な様子が発信されている。多くの識者の間で共通認識である民族浄化という言葉がそのまま当てはまるエリアなのである。
先に訪れたチベットの中国(漢族)化は徹底していた。中国共産軍の軍服姿でラサの街を満たし、住民を威圧し委縮させていた様子は異様な雰囲気であり、不穏な環境を醸成していたことが記憶に残っている。
その不幸な両地域の平和の火は、1945年日本の敗戦後、中共軍が両地域になだれ込んで1948-1949年に消えた。この平和な世界に、今なお他国の圧力のもと自由を奪われ、不幸な施政下にある人々が存在していることに心すべきである。
<敦煌バスターミナル、夜行バスでトルファンへ向かう>
『飛天賓館』近くにある敦煌バスターミナルは、すでにウイグルのイスラムの風情が漂っている。帰省するのであろうか多くのウイグル人の姿が駅に見受けられる。服装の色、形、靴のすべてにおいて黒や灰色系が多く、顔も漢人と違い彫のあるタタール人系(トルコ系民族)に近く、彫が深く、日焼けしている顔が多い。
これより、いよいよ砂漠のシルクロードに入って行く。
シルクロード、それはただの夢の道ではなく、過酷な砂漠の道なのである。
水なき道であり、死と対峙する道である。
そこは荒涼たる風景と、輝き襲い掛かる灼熱の太陽と、こころふさぐ同じ光景の尽きない連続である。
何を想い、何を求め、何を得るために人々は過酷なシルクロードを旅したのであろうか。
マルコポーロは、玄奘は、そして多くの商人は何を求めてシルクロードを歩いたのであろうか。
そして、わたしは何を求めてシルクロードを東から西へ向かっているのだろうか。
冒険の果てに、宝物や、夢や、ロマン、満足が待ち受けていると信じたい。
トルファン(吐鲁番)に向かっている夜行バスの後ろの席のウイグルの少年が「いま、柳樹泉を通過してるよ」
と小声で教えてくれた。暗闇のなか就寝用車内灯を頼りに地図で確認すると、<柳樹泉>はハミにつづく大きな町で、敦煌から150㎞ほどのところに位置し、トルファン盆地の入口あたりである。
彼はわたしが日本人であることに安心、安堵したのか小声でしゃべりかけ、漢字による筆談に応じてくれた。それによると14歳中学生で、ウイグル名は<BaktinNr=Bafutino>といい、中国名を<巴合提>と書いてくれた。
夜行バスは、二段ベットになっており、座席はない。狭い通路があり蟹のように横ばいになりながら乗降車する。日本では見られないが、広大な中国を移動するのに適した長距離夜行バスといえる。
砂漠を行く寝台バス、トルファンだへ向かう
途中のオアシス・朝市に並ぶマッカウリ
寝台バスの昼間走行時の車内の様子
《 トルファン/吐鲁番 8月12日 ー快晴 》
翌朝になってこの夜行バスに、イングランド青年のクリス君(建築技師)とジョン君(中国中学英語教師)・日本青年の後藤君(東京三菱銀行就職)・韓国女性の金さん(中国留学中28歳)・フランス人アロン氏(中国高校教師を終え帰国中53歳)それにわたしの6人の外国人が乗っていたのには驚いた。
この6人が意気投合し、トルファンにあるユースホステル『吐鲁番賓館』30元に投宿することになった。
この多彩な顔触れがトルファン滞在中、行動を共にすることになった。
中国の賓館(ホテル)には、地下に旅する青年に提供する格安のドーム(木賃宿風)のユースホステルが併設されている場合が多い。
格安だけに、吐鲁番賓館に付属するユースホステルのトイレにはドアーがついていたが、男女共同便所であり、シャワーが1つしかなく閉口したものである。
さて、トルファンはシルクロードの天山南路と天山北路の交差する土地で、古代から栄えたところである。トルファン近郊には多くの古代遺跡群があり、ゆっくりと見て回りたい。
<トルファン一日古代遺跡観光ツアー>20元 09:50発
① アスターナ古墳群(高昌国と唐代の住民の墓地・壁画やミイラが残っている)
② 高昌古城跡(インドに向かう三蔵法師が立寄っている。乾燥した土塁に囲まれ城跡を馬車で移動)
③ 千仏洞(ベゼクリク:イスラム時代の破壊から残った仏教壁画を観賞)
④ 火焔山(西遊記の舞台で有名・スケッチする)
⑤ 葡萄園(昼食)
⑥ 交河古城(遺跡に土壁の住居跡が残り、釜戸や井戸を見学)
② <高昌古城跡>入口標識 ②高昌古城跡は馬車で回る
⓷破壊をまぬかれた千仏洞請願図 ③千仏洞(ベゼクリク)全景
⓸火焔山
火焔山 Sketched by Sanehisa Goto
⑤トルファンの葡萄園で ⑤葡萄園での昼食
<世界遺産 古塔広場で子供たちに水彩スケッチとダンスを教える>
テーマはスイカ、画用紙に鉛筆でスケッチし、彩色する。
子供たちは初めての挑戦という。目を輝かせ、あるがままのスイカを書き上げていく。それぞれに個性あるスイカは生き生きと蘇っていく。沢山の集まってきた大人たちが子供たちの力作にやんやの喝さいである。
子供達との心の交流には、言葉はいらない。国際交流、それは愛の出会いであり、実践こそ学びである。
スケッチをしていると、沢山の子供たちも集まってきた。スケッチするためには材料が足らないので、急遽臨時幼稚園を開き、園長になってインディアン・ダンスとスカウトソング<ヤヤヨーヨーユピユピヤー>を一緒に歌い、世界遺産の高昌古城跡のお土産広場に響かせた。
この麗しき7歳くらいの少女たちは、みな天使のように溌剌と踊り、その美声を天に捧げている。その姿は平和の使いのようである。
みなウイグルの衣装を着て、頭に花を飾り、まるで少女舞踊団のようである。
もちろん顔は漢人ではない、そこにある顔はイスラムのウイグルの曇のない天真爛漫な少女たちである。
ここが中国であることを忘れさせ、ウイグル自治区いやテュルク系遊牧民族を祖とする独立国家であった<東トルキスタン共和国>ではないかと錯覚させられた。
ここが、中共による民族浄化がひそかにささやかれているウイグル民族の地であるとは到底信じられないのである。民族自決、その道の厳しさを見る思いである。
ひとはなぜ人を従属させたいのであろうか。人はなぜ認め合うことが出来ないのだろうか・・・
インディアンダンス<One Little Two Little Three little India・・・>を踊りながら、アメリカ大陸における原住民インディアンの悲しい歴史を、ここウイグル族の悲しみに重ねていた。
ウイグル族の少女の天使の舞い
< ウイグル青年たちとディスコで青春を踊る >
トルファンでのYH(ユースホステル)仲間は、年齢を越えてみな愉快な奴である。意気投合して、夜YH近くのディスコに繰り出すことになった。ウイグルや中国の青年男女に混じって汗して踊りに踊った。
当初、共産国の体制側には退廃的と思われるディスコなどないと思っていた私には意外な出会いであり、政治制度に関係なく若者共通の世界があることを知って世界平和にも希望を見出す思いであった。
この時代に自由がおさえられ、監視された全体主義の国の中で、それも少数民族が制圧され従属させられている地域で、平和と自由のシンボルであるロックが流され、若者が汗を流し、抑圧をはねのけて踊り狂う姿は、あの鉄のカーテンを多くの熱狂した人々が自由を求めて崩していくエネルギーにつながっているように感じた。
平和のもと自由であることの大切さを、この国の若者も感じていることに歴史の転換点も近いように思えた。
しかしよく考えてみると、シルクロードは解放された自由街道であったからこそ、東西に人的交流、文明の往来、物流交易が成り立っていたのである。シルクロードこそ人類平和のシンボルとして繁栄してきた道であるのだ。
<トルファン仲間とのお別れ>
お別れの日、トルファンの中央広場にある青空食堂街で食事をしながらこれからの各自の旅の幸運を祈って別れた。
吐鲁番賓館ユースホステルの同室の仲間たちとお別れ会 (上・アロン氏)
<青空屋台での乱闘寸前―トラブルのおさめ方>
お別れ会をして、ディスコに繰り出すまでの待ち時間に青空屋台でビールを飲むこととなった。最初の注文ビールを飲み終え、勘定を清算した後、まだディスコ開店まで時間があるということでビールを追加した。
その追加6本分を精算勘定するときに起こった。
旅ではよくあるトラブルなので取り上げておく。
勘定書には、先に払い終えたと思っていたビール6本分を含めた12本分の請求金額が書かれていた。
すでに支払ったと思っている6本分を除いて追加6本分を払おうとしたときに、店側は12本と主張、こちらは正当性を訴え、両者後に引かず、自己主張の応酬となり険悪な状況が生まれたのである。
もちろん領収証などない。店側は折れそうもない。群衆が集まって取り囲み始めた。旅を続けるにはトラブルは避けることが鉄則である。
今までわたしも何度もトラブルに巻き込まれている。スパイに間違われ拘留されたり、置き引きやスリにあい警察の厄介になったり、空港での入国に際してのトラブルなど、数え切らないほどのトラブルに巻き込まれている。
今回のような場合は、店側がPOLICEを呼ぶ前に決着させるのが正解である。一度警官にわたると袖の下の要求、数日間の取り調べなき拘留と旅のスケジュールに支障をきたすからである。もちろん正義はある、素晴らしい警官であればその場で解決してくれることも多々あることも申し添えておく。
埒のあかない状況を見た一番若い卒業旅行中で、銀行内定の後藤君が請求分のお金30元を机の上に置いて、みなに退去を促したのである。
そう、トラブルよりもその場をおさめる方が先決であることを彼は知っていたのである。
しかし、このトラブルには支払システム上の行き違いがあったことに起因していたことが後で判明した。これは国やその地方ごとに支払システムが異なっていることがあるということである。今回、トルファンの青空屋台では料理を出す屋台とビールを提供する業者が同一のオーナーでなかったことである。われわれは屋台のおやじの示した請求合計は、ビールを含んでいるものと思い、疑わずに請求額を支払い、ビール代を含んでいるものと思っていたのである。
ビール代は支払っていなかったのである。われわれの勘違いであり、非はこちらにあったのである。
会話の通じない海外ではよくある両者の誤解をともなうトラブルである。心したいものである。
《 トルファン 『吐鲁番賓館』連泊 8月13日 バスのチケットとれずもう一泊 》
<カレーズ見学>
今朝一番のバスでウルムチに向かうつもりでバスターミナルに向かったが、バスの故障のため明日朝08:30発になるという。
日本のように代車など都合をつけて時間通りに出発するということはないのが世界の通例である。
僻地を一人で動く旅行者は、いかなるシチュエーション(状況)でも対応する身軽さ(能力)とスケジュール変更の柔軟性が必要である。
せっかく与えられた1日を大切に過ごしたい。トルファンに長期滞在しているアロンとトルファンのダウンタウンを訪れることにした。
トルファンは当時、大規模な再開発中で、わずかに残っているダウンタウンに向かった。住人の笑顔に迎えられ、実生活で現在なお使われているカレーズを案内してもらった。トルファンを囲む山脈に残る雪が溶けて砂漠の街の地下を流れる集水溝をカレーズといい、夏でも冷たい。またこの水を使って葡萄を栽培し、有名な<トルファン・ワイン>を世に送り出している。
地表に出たカレーズ (集水溝) 地下のカレーズ
<葡萄の街 トルファン>
トルファンは葡萄の街である。
乾燥した地に、豊かな雪解け水がカレーズとなって街の地下を流れている。美味しい葡萄を栽培するのに適した自然条件を備えているのである。
トルファンのダウンタウンから帰り、午後からカシュガルに向かうクリス、ジョン、キムとアロンも加わり最後の昼食をとる。その後、吐鲁番賓館(ホテル)のプールで、葡萄園のスケッチに採色し、仕上げる。ブドウ一粒一粒の色塗りは、親しくなったオーナーの孫たちが手伝ってくれた。幼さの中にもほほえましい日中共同の合作の絵が出来上がった。
トルファンの葡萄園スケッチ (子供達との日中共同合作スケッチ) Sketched by Sanehisa Goto
雪解け水のシャワーなのであろうか、冷たさに火照った体が心地よい。洗濯も終わった。
ひと眠りしてアロンと屋台に夕食に出かけるつもりである。
なんと日常的な時間を過ごしていることだろうか・・・
旅に出ていると絶えずスケジュールに押され、緊張からか神経を休めることが出来ず疲れが溜まるものである。
<ウイグル民族舞踊>
夕食のあと、夜9時からはプールで知り合った舞踊団の一人からウイグル族の民族舞踊観賞に招待され、アロンと一緒に出掛けてきた。
ウイグル舞踊<アトシュ>は、男性の弾く楽器(三味線に似ている)に合わせて女性が踊るが、ペルシャ舞踊やベリーダンスの要素が入っているような気がする。顔だけを横に動かす踊りは、ハーレムなどでみられる舞踊によくみられる振り付けのようである。
ウイグル民族舞踊の特徴は、顎、胸、腰を上げる姿勢、ひざを震わせ、頭から目,首、肩、手、脚、指先までそれぞれ動きがあり、特に目元をよく使って感情を表す舞踊である。
しかし、情熱の民族舞踊の中に、どこか哀愁を感じるのはわたしだけであろうか。
ここが中国の一部、自治区であることに違和感を感じる。そこにはウイグルの歴史があり、生活があり文化があるからである。しかし現実には他民族によって支配され、少数民族の悲哀を味わっているのである。
世界はなぜ他民族を尊重し、共存できないのであろうか。世界平和はただの夢なのであろうか。
どこか哀愁の漂う ウイグル民族舞踊
<尊敬する友、アロン氏の素顔>
世界を旅していると、いろいろな人生を歩む人たちに出会って、心の交流を楽しむことが出来る。
シルクロードの途上、ここトルファンで一人のフランス人アロン氏に出会ったこともわたしのメモに書き加えられることになった。
彼は53歳、最初に出会ったとき日本人と知って、自分の息子が慶応大学の夏期講座で学んでいるという。彼は、5年間北京の高校で校長を務めあげ、次の赴任地ハンガリーへの間、中国を旅行している。
前任地はアルジェリアで、海外赴任には自分の夢、世界に羽ばたいて色々な人種と交流したいという夢を実現させたいためであったと熱く語ってくれた。
仕事の内容は、高校でフランス語、会計簿記、介護を教えていたと話す。
青年時代は、ホンダの1240㏄にまたがり、世界一周した猛者でもある。
物静かな哲学者タイプで、個性を大切にする紳士である。
退職後は、中国にセクレタリー(秘書)の学校を全国展開したいという抱負と計画があることを熱く語ってくれた。
語る時の笑顔がいい、彼独特のひとを惹きつける雰囲気がいい。
自分なりのファッション観にも、オートバイ派・ミリタリールック派としての野性味があり、それに加えてヒッピー、一匹狼、放浪者としての雰囲気をそのファッションにのぞかせているのが自然でいい。
わたしにとって好ましい人物像である。
このような素敵な出会いがあるから旅は楽しい。
明日、8月14日朝7時にユースホステルを出て、ウルムチ行の長距離バスに乗るスケジュールであり、出発前にデポジット(保証金)の精算することを忘れないことをメモって就寝した。
《 8月14日 トルファン出発日 快晴 39℃ 》
アロンとハグして別れを惜しみ、彼の赴任地ハンガリーで再会することを約束する。
朝食にと、道で立ち売りしている特産のハミウリ(哈密瓜)を切ってもらったが、大きすぎて食べきれないので、先ほどからじっと見つめているウイグル人の爺さんと分けあって食べた。
ハミウリは、爽やか味でうまい、評判通りである。
<トルファン ⇒ ウルムチ・烏魯木齊 長距離バス#1051 ゲート#1 座席#2>
《 8月14~15日 ウルムチ・烏魯木齊 》
ウルムチは、新疆ウイグル自治区の首府であり、大都会である。
ウルムチ・烏魯木齊では、8月14と15日の二泊を『新疆飯店』(長江路107号 3人部屋 @12元)で連泊。
このシルクロード踏破の旅行では、目的地に着いたらまず宿泊先を決め、荷物を置いて次の目的地への交通機関(バスや汽車)の予約を取ることを何よりも先に済ませることにしている。
<汽車予約 8月16日 ウルムチ⇒コルラ・庫尓勒 20:00発 #7076 硬臥下段>
無事、汽車の予約が取れたので、市内バスで<新疆維吾爾自治区博物館>に向かい、楽しみにしていたミイラの<楼蘭美女>と出会って、スケッチすることにした。
<新疆維吾爾自治区博物館> (西北路132号) バス#7・51・906「博物館下車」
スケッチを仕上げるのに半日かかった。その間、博物館の館長が<楼蘭美女>を紹介(解説)したり、何度も温かいお茶をもってこられたのには恐縮したものである。スケッチを仕上げて館長に見てもらったとき、「楼蘭美女のミイラに命吹きこむため全身全霊を傾けて描き上げた」と説明すると、感動した館長はスケッチに自ら証人として署名するという。
<楼蘭美女>は、写真よりも美しく、茶髪の2m近い長身大柄な西欧系美女に見える。館長によると、日中合同調査隊によって発見されたという。
☟ 新疆維吾爾自治区博物館 館長署名
3800年前のミイラ<楼蘭美女> Sketched by Sanehisa Goto (補色加筆)
楼蘭シンボルマーク Sketched by Sanehisa Goto
<楼蘭美女のつぶやき>
『われ3800年間タクラマカン砂漠に埋もれ来て、君に出会える日を待ち焦がれていた。いまわれは君にまみえて再生復活の命を与えられたことに感謝する。3800年はわれにとって一瞬の時の流れ、これで君の魂に生きて、これからの歴史の中に生きることが出来ることを喜ぶものである。霊魂は、ひとの命のみにあらずして、神のみこころの中にあるを知るに、共に悠久なる神の命に生きられることを嬉しく思う。』と、スケッチしているわたしにミイラは語りかけてきたのである。
<天池1日ツアー参加 125元 ランチ付き>
8月15日、今日はウルムチ近郊の<天池>に出向きスケッチの予定。
今日も一日神のもと、こころも天気も晴れ渡り、感謝の一日である。
新疆(ウイグル)賓館近くの<正宗杭州小籠包>で馴染みのお粥と包(バオ・肉まん)で朝食をとる。
清掃のおばちゃんたちが竹箒で道路を掃き清め、その横をメイドインジャパンの中古車がわがもの顔で走っている。あちこちの屋台で料理するトントンと包丁さばきの音が聞こえてくる。肉まんを蒸す蒸気が顔にあたる。
ここはウルムチ、地球のヘソにいる。
ウルムチの日常の朝の風景の中に溶け込んでいるのであるから不思議なものである。
ゆっくりとジョギングの男が走り去っていく。
2004年の中國、いまこの国は江沢民時代から胡錦涛時代へ舵を取切った政治・経済の変革期の中にある。
そして中国は、超大国として再興する勢いを見せ始めている。
天池1日ツアーはガイド付きだが、中国語オンリーなのが残念。
ただツアーに参加しなくても、直通ミニバスで独りでも行けるが、かえって高くつくのでツアーに参加することにした。 (ミニバス代35元、別途高速料金15元、入場料60元、パス代35元、ランチ15元の合計160元)
ゲル(パオ)が緑の平原に白い花を咲かせる少数民族ウイグルの領地に<天地>がある。
のんびりと一匹の子羊があくびをしている横で、小さな男の子が大きなギターを抱えて奏でている。
遠くにボコダ山(5445m)が天に屹立し、少年のギターに合わせて歌をうたってる・・・・
<ハレルヤ、ハレルヤ ここはウルムチ、天池の里 ランランラーラン ランララン>
桃源郷とはこういうところを言うのであろうか、ステップを踏みたくなる気持ちを押さえて、夢中にスケッチに励んだ。
<天の池> 誰が命名したのであろうか。いにしえの人々はなんとロマンに満ち溢れていたのであろう。池に降り注ぐ無数の星をみて、夢をふくらませたのであろうか。われわれは降る星のごとくこの天池に降りたったのだと。
なんとロマンあふれる物語ではないか。
雪をたたえたボコダ山(5445m)が映る<天池> Sketched by Sanehisa Goto
<ああわれいま天池におりて>
詩 後藤實久
神 われに天池与うるに
われ天池になりて
悠久の宇宙を讃えるなり
ああわれいま天池になりて
一体にして一心なるを
誇りて君に抱かるるなり
ボゴダ山脈の雪解け水を湛えた天池に抱かれて
天池の中央にそびえるボゴダ山(博格達山・5445m)は、ウルムチの東に位置する。天山山脈の一部を構成している山である。天池はボゴダ山の麓の北東にあり、その雄姿を雪解け水に美しく映し出している。
シルクロードからその雄姿を望みながら西へ東へと旅人はその歩みを進めていたのである。
ボゴダ山脈を背に、ウルムチ近郊に広がるゲル<パオの花> Sketched by Sanehisa Goto
ゲル(パオ)の内部<ワンルーム>
<天山山脈の万年雪解け水でシャワー>
天池の桃源郷に心奪われて宿・新疆飯店に帰り、天山山脈からの万年雪解け水でシャワーを浴びる。
この冷たい水は、あの天池と同じボゴダ山(天山山脈)の万年雪が解けた水であるのだ。
凛とした水霊の冷たさを感じた。
<籠の中の歌姫たち―紅山公園>
その後、中心街のフリーマーケットに出向き、半ズボンを購入。
紅山公園では、子飼いの小鳥を持ち寄って鳴声の交歓会というか、小鳥同士の交流会をやっていた。
これは中国の路地裏などでよく見かける鳥籠の小鳥たちである。
鳴声を楽しむ会は、北京伝統の趣味であり、習慣の一つである<画眉鳥 ・がびちょう>からきているという。
小鳥たちは、みな仲間たちに会えて嬉しいのであろうか、それはそれは楽しい声で呼び合っている。
この中には、恋をしている小鳥たちもいるであろう、この日を待ちに待ったのであろうか切なく悲しくも聞こえてくる。
紅山公園入口で
画眉鳥の鳴き声観賞会での<籠の中の歌姫たち>
東方見聞録を書いたマルコポーロもまた天山山脈の雪解け水でシャワーを浴びながら画眉鳥(がびちょう)の鳴き声を聞き、故郷のイタリア・ベネチアを思い出していたに違いない。
鳴声観賞会の皆さんに迎えられ筆談での日中交流である。友多きこと世界平和の礎である。
<紅山公園のひととき>
今日は時間にとらわれず、中国の悠久の時の流れに身を沈め、ここ<紅山公園>の頂上にあるパーラーで生ぬるいビールを流し込み、中国の仙人・酔人の粋な心地よさを味わっている。
遠くで中国歌曲が流れ、人々はゆるやかな曲に体を預け、その緩慢な手足の動きの中に埋没して静なる
動体である太極拳を楽しんでいる。
わたしもビール<乌苏啤酒・ウイグルビール・5元>をかたむけながら読書し、沈思し、詩をうたい、時の流れに身を任せている。
この後、ウルムチからコルラ・クチャに汽車で移動し、バスでタクラマカン砂漠を縦断し、ホータン(和田)に立寄り、カシュガルに向かう。地図を広げて行程を確かめた。
しかし、後日現地で分かるのだが、タクラマカン砂漠縦断のバスは現在運休していることが判明する。幻のスケジュールとなったが、地図は残しておきたい。
当初予定のタクラマカン砂漠縦断ルート (砂漠公路交通手段無く変更)
<ここウルムチの新疆飯店で出会った二人の青年>
新疆飯店にあるドミトリー(相部屋の格安宿泊施設)に相違う二人の同室青年がいる。
昼間はベットで寝ており、どうもバックパッカーではないらしい。一人は30歳前後のパキシタン青年、もう一人は台湾の28歳ぐらいの青年である。
パキスタン青年Aは、とても外交的で人懐っこく、会話も自然でハートを感じさせる青年である。
宗教や命、異性についての己の考えを語ってくれ、これから向かうパキスタン国内での問題発生時の連絡先を紹介してくれるなど、親切心を見せてくれる。
台湾の青年Bは、中国で英語の教師を1年前までやっていたという。かれの英会話は正確であり、キングイングリッシュを話す。精悍な面構えで、めったに笑顔を見せないクールガイで、凄味すら感じる。
じっと人を観察し、無言で人を見計らっているさまは、無情でハートを感じさせない冷徹な青年のように見える。
どうも観察していると、二人ともこの格安施設に半年ほど住みついているようである。今日もそれぞれの人生の1日を薄汚いこのドミトリーで過ごし、何を考え、何を待っているのであろうか。
青年が、時の流れに身を任せている姿に久しぶりに出会った。世界を旅していると、それぞれの人生を背負って、己を見つめながら旅を続けている多くの青年に出会うのである。
旅の間に、次なる目的を見つけたり、己の弱点を見つめなおしたり、やり直し人生のスタートにしたり、生涯の友や伴侶を見つけたり、また自然の中を彷徨し、神に出会ったりとそれぞれの生きがいを見つめなおしたり、発見するものである。
今日は、この二人の青年の生きている世界に迷い込んで、あれこれとわが青春時代を思い返してみた。
ー旅行者に現在の中国はどう見えるのであろうかー
ウルムチの新疆賓館をあとにして、予約してある<ウルムチ⇒コルラ・庫尓勒 20:00発 #7076 硬臥下段>の列車に乗るため烏魯木齊火車駅へ向かう。
夜行列車は、帰省するウイグル族の人たちであふれかえっている。
下段に横たわり、新疆賓館で同室者であったインド人アリ君の言葉を思い出していた。
<チャイニーズは、一般的にハートがない。たえずお金で動く人種だ>と。
しかし、わたしは若干意見を異にしていた。
この広大なほとんど荒れ地に縦横にハイウエーを走らせ、近代都市を造り続ける中国は侮れない国に成長する気がする。
もちろん貧富の差は歴然と残るであろうが、インフラは中国全人民の生活向上と、自信を持たせるに違いないと。
以上のような考えをアリに話し、中国の将来に期待する一人であると伝えたことを思い出していた。
シルクロード中国
<シルクロード踏破 ウルムチ/烏魯木齊⇒ カシュガル/喀什>
に続く