shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2015『星の巡礼・フィリピン縦断2500KMバス紀行』4ーマバラカット戦跡

 『星の巡礼・フィリピン縦断2500KMバス紀行』4
 ーマバラカット戦跡ー

 

201539日(月曜日)快晴 32.8  神風特別攻撃隊発祥の地・マバラカット訪問>

 

マニラのダウンタウン・パサイ市にあるVictory BusTerminalより乗車し、マニラ北方約80km,

 2時間のところにあるマバラカットに向かった。

マバラカットに下車しての第一印象は、神風が飛び立ってから70年目の街の様子があまりにも
現実的でその戦跡すら消えてしまっていたことに驚かされた。神風特別攻撃隊の聖地は日常の
生活の中に埋没していた。

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マバラカット バスターミナル
 
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 Kamikaze EAST(Divine Wind) AIRFIELD 標識 <神風東飛行場>

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神風特別攻撃隊 隊員像前で
 
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神風平和祈念廟正面入口鳥居

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神風特別攻撃隊が最初に飛立った西飛行場記念碑


 
 
マバラカットのバスターミナルよりトリサイクル(三輪オートバイ)を雇い戦跡を回った。

ターミナルより国道を北へ約3km、右側に「Kamikaze East Airfield」(神風平和祈念廟)のマバラカ

ット東飛行場跡標識・記念碑・特攻隊員像・壁面の日比両国旗そして正面に鳥居がある。


この敷地内だけには、70年目前の張りつめ、思いつめた特攻隊員の顔々、覚悟をきめ晴々した
隊員の表情がただよっていた。
かの日も同じ風が吹き、ブーゲンビリアが情熱的に咲いていたであろう。吸い込まれそうな南国の
青い空を仰ぎ見ながら、同じ風を吸った。
 
持参した比良・蓬莱山の天命水と折鶴を供し、線香をあげ、煮ぬき卵に日本からの塩をふりかけ
供え、慰霊の時間を亡き特攻隊員と共に過ごした。

帰路、マバラカット西飛行場跡に立寄ってもらった。
現在ここは、クラーク米軍飛行場(噴火により閉鎖してフイリピン政府に返還していたが、中国との
領有権争いで基地再開)となっており地元人の立入が厳しくなっている。マニラからの戦跡ツアー
に参加されることをすすめたい。

マバラカット飛行場や神風特別攻撃隊誕生に関する経緯は碑文によって紹介しておく。

なお、第二次世界大戦の終わりまでに、「神風」、陸上、海上、海中全ての特攻は合計322隻の

米軍船を撃沈または大破の損害を与え、米海軍水兵1万2千3百名を戦死させ3万6千名に重大
な戦傷を与えたと記録されている。

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「神風東飛行場平和記念碑」<碑文紹介>


『 本場所は、第二次世界大戦中、日本最初の神風特別攻撃隊が飛び立ったマバラカット東飛行
場の跡である。19441020日、神風特別攻撃隊は海軍中将大西瀧治郎により此処ルソン島

パンパンガ州マバラカットに於いて創設された。
 

同攻撃隊の最初の志願隊員は、当時マバラカットに駐留していた日本帝国海軍第一航空艦隊・
201航空隊に所属する玉井浅一中佐麾下の23名のパイロット達であり、敷島隊・大和隊・朝日隊・
山桜隊の4隊に分けられ、関行男大尉が全体の隊長に任命された。19441025日朝725分、
関行男大尉は中野盤雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長及び大黒繁男上飛の敷島隊を率い

てこの東飛行場から飛び立った。
 

 同日午前1045分、レイテ島沖の米機動部隊に対し同敷島隊は攻撃を開始、関機が先ず最初に米空母セント・ローに体当たりした。同艦は炎上、20分後に沈没した。
他の隊員も全員体当たりを果たし、米空母カリニン・ベイ、キトカン・ベイ、サンガモン、サンティー、スワニー及びホワイト・プレーを大破あるいは中破させ、米軍に多大な損害を与えた。
 

 成功裡に終わったこの最初の神風特別攻撃は、当時敷島隊を空から掩護・誘導した西澤広義飛曹長103名の米軍撃墜死が確認されている、日本の撃墜王と言われた名パイロットによって目撃・報告されている。
 

 戦後、多くの戦争歴史研究者が関行男大尉を世界最初の人間爆弾であったと公に認めている。
マバラカット観光局(MTO)が神風平和記念廟の建立を推進した理由は、神風特別攻撃隊の栄光を称賛する為ではなく、その歴史的事実を通じて世界の民族に平和と友好の尊さを訴える為である。
 

 神風平和記念廟が神風特別攻撃隊のような不幸な出来事を二度と繰り返さないと誓う場所となることを祈念する。


マバラカット観光局長  ガイ・インドラ・ヒルベロ 
 
 
 
 
フィリピン縦断2500KMバス紀行』5
 ーレイテ戦跡ーにつづく