shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2016『星の巡礼・東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』13

星の巡礼東海道53次自転車ぶらぶら旅500km』
 
東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 13


■38 岡崎宿
三河国・愛知県岡崎市    京より177.5km / 日本橋より314.6㎞

知立宿より岡崎宿に向かう松並木の途中に尾崎一里塚跡の石碑が東海道に面して立てられている。
熊野神社の前であり、ここにはきれいな公衆便所がある。もちろん給水ができるのがありがたい。
また、東隣りには「元第一岡崎海軍航空隊・予科練之碑」が建つ。
 
 
■83・尾崎一里塚       京より42里168km(日本橋より83里332km 
(愛知県安城市尾崎町)
 
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「83尾崎一里塚跡」

松並木のつづく街道に面して「尾崎一里塚跡」石碑がある。
日本橋から83番目である。 
後方に公衆トイレがあり、右手に熊野神社の鳥居が立つ。

  ◎元第一岡崎海軍航空隊・予科練之碑
 
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               元第一岡崎海軍航空隊・予科練之碑
 
これまでシベリア・満州・中国・ラバウルインドネシア・ミヤンマー・タイ・シンガポールフィリッピン・インド・バングラディッシュ・日本国内などで戦跡や慰霊碑、墓地を時間が許す限り詣で、慰霊と鎮魂の祈りを捧げてきた。
 
ここ「元第一岡崎海軍航空隊・予科練之碑」の存在は、今回のわれわれ弥次喜多による東海道自転車の旅の行程表にはなかった。恥じ入るばかりである。
 
亡き彼らがいま生の中にいるならば、平均85歳という「翁草(おきなくさ)の齢(よわい)におられ、この平和な日本を愛でておられていたと思う。切なるかな切なるかなである。その無念なる想いをかみしめ、感謝の気持ちを伝えて慰霊とした。
 
すこし「元第一岡崎海軍航空隊・予科練」について紹介しておく。
 
昭和17年(19426月のミッドウェー海戦敗北により、海軍は航空兵力の増強が急務となった。西三河の碧海台地に飛行場建設が計画され、半強制的な土地の買収、住民の強制退去が行われた。多数の地元民や学生、朝鮮人を動員し、飛行場建設は進められ、昭和18年に完成した。
しかし、その後の戦況悪化により、搭乗員・整備兵の拡充を図る必要に迫られ、基地には教育部隊が置かれることとなった。昭和192月から9月にかけて、第一から第三までの3つの航空隊が設立された。
 
昭和19年から20年かけて戦況が更に悪化、教育や訓練を行える余裕も次第に無くなっていった。まず昭和205月に第三航空隊が実施部隊となり特攻訓練を開始、訓練後は各地の部隊に配備されて出撃していった。続いて6月には第一、二航空隊の教育・訓練が停止され、本土決戦に向けた地上戦部隊として配備された。(出典:under zeroより)
 

 「昭和五年早期英才教育を目的に海軍飛行予科練制度が採用された。
 昭和十九年従来の予科練教育を改革して航空機整備術を取得させたのち飛行機操縦を習得させる新しい制度が実施されることになった同年五月土浦海軍航空隊分遣隊として安城・岡崎・豊田市が交差する地点に第一・第二海軍航空隊が新設され全国各地より厳選された一万二千余人の若者が第一期生より第八期生まで入隊して六か月の短期予科練課程を修了して内外地の実施部隊に配属されていった。
名古屋空岡崎分遣隊は第三岡崎海軍航空隊と改編して優秀な飛行機搭乗員を養成しのちに沖縄特別攻撃隊を編成して出陣していった。
 太平洋戦争末期岡崎海軍航空隊出身の予科練飛練で尊い生命を散華した数は以外に多いその閃光にも似た十四歳より十九歳に満たんとした青春を悼んで此処に碑を建て桜を植樹永くその意を伝えるものである。
昭和四十九年十一月三日 岡空若桜隊」 (建立之碑より)

 
 
特攻隊員への想いを胸にすすむと、天下普請の矢作橋(幕府が直接工事管理する橋)を渡る。
岡崎は家康が生まれた、いやこの国の近世という形や心を作った歴史上のプランナーが生誕した地でもある。
また、家康が浜松城に移るまで本拠にした岡崎城の城下町である。

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現在の矢作橋矢作川
 
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歌川広重東海道53次 岡崎」 浮世絵   矢作川矢作橋が描かれている>     葛飾北斎矢作橋


天下の矢作橋を渡り、旧東海道に入るとこれまた有名な「八丁味噌」の生産地、岡崎八帖町(旧八丁村)に出る。この地は岡崎城から八丁(約800m)離れていることから村名の由来となったといわれている。
 
では「八丁味噌」のつくり方や時代背景をのぞいてみよう。
 
 
米麹麦麹を用いず原材大豆の全てをにした豆麹で作られる豆味噌の一種であり、赤褐色の味噌である。名古屋圏では「味噌汁」といえば八丁味噌を用いた赤い汁のものが一般的であり、米味噌を用いた味噌汁のことは「白味噌汁」と言って区別している。
 
木製の大桶に空気を抜きながら味噌を敷き詰め、その上からピラミッド型に石積みし、長期間(1年半~2年以上)天然醸造され、腐敗を防ぐために塩分濃度を高めているため独特の渋みとうまみが特徴。全国的には豆味噌(赤だし)というと塩辛いイメージがあるが、八丁味噌は塩分が少ない。
 
岡崎市矢作川地域で収穫される矢作大豆と、知多の成岩(ならわ - 半田市)や饗庭(あえば - 吉良町)でつくられる塩を用いて、主に八丁村で作られていたことから、八丁味噌と呼ばれた。八丁味噌は「三河味噌」や「三河味噌」とも呼ばれ、江戸時代は江戸へも出荷されていた。(ウイキペディアより)

 
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八丁蔵通り                                                               八丁味噌の老舗  

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松葉総門跡は、浄瑠璃姫と義経が待ち合わせたという伝説が残っている


総門には番所も併置され、西から東海道矢作橋を渡ってきて岡崎宿に入る旅人をここで厳しく改め吟味した
写真にもあるように「岡崎城下二十七曲り」の道順標識が街角に立っていて旅人を導いてくれる


もちろん「二十七曲り」は岡崎城防衛のための敵方に対する目くらましではあるが、商業的にも宿場街の総延長を引き伸ばし、その沿道におおくの店を開かせて藩財政を潤すように工夫したものであるとも言われている。

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今日も自分の健康チェック                                        東海道から抜けてバイパスとして国道1号線が走る
 
                            
■80・大平一里塚       京より45里180km(日本橋より80里320km) 
                                  (愛知県岡崎市大平町岡田)

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80・大平一里塚
 
「大平一里塚は東海道の一里塚の一つで、日本橋から八十里にあたる。領主である本田重次の子重成が築いた。
現在のものは、昭和30年道路改修の際、南側だけを残したものである。塚の大きさは、高さ2.4m、底部縦7.3m、横8.5mで中央に寝針がよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎(えのき)が植えられている。」(岡崎市教育委員会説明板より抜粋)
 
 芭蕉句碑  

 藤川の松並木に入るまえの巴川を渡った右手(南側)にゲンジボタル発生地碑があり、その側に芭蕉句碑がある。
 
草の葉を 落つるより飛ふ ほたるか南>  芭蕉

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    芭蕉句碑<草の葉を> 
 
「大平一里塚」をしばらく行くと乙川を渡って、芭蕉句碑をめぐり、藤川宿の松並木に入って行く。
 
 
■37 藤川宿
三河国・愛知県藤川>     京より184.1km / 日本橋より308.0km
 
 国道1号線より斜めに東海道に入るところに立派な「藤川宿」という看板がでている。その先には松並木が宿場まで続く。
藤川宿は官民挙げてその面影(高札場跡・本陣跡ほか)を大切に復元し保存に努めている宿場である。

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これより「藤川宿」  嬉しいお出迎え                           藤川宿の美しい松並木が続く



東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 14
 ■37藤川宿 につづく