いまから約60年前 1960年8月大学1年生のとき、ボーイスカウト京都第11団年長隊(当時シニアスカウト)ではアドベンチャーハイキングとして国道1号線(東海道)を東京に向かうことになった。京都より東京まで約500キロをヒッチハイクで踏破するのだ。
その第一日目に露営したのがここ熱田神宮の参道横の杜のなかであった。青春時代の懐かしい思い出の地である。
■笠寺一里塚 京より37里148km/日本橋より88里352km
「笠寺一里塚 一里塚は旅の目印となったり、人足が荷物を運ぶとき運賃計算の目安にされたりしたようです。
市内にはかつて9カ所に一里塚があったと言われていますが、現存するのはこの「笠寺一里塚」だけです。かつては一対の塚で、道を隔てた南側に大正時代までムクノキが植えられていました。
土を盛った上に大きなエノキが根を張っています。春には水仙、秋には曼珠沙華(マンジュシャゲ(ヒガンバナ))が加わり、昔の東海道の面影をしのばせています。」 (名古屋南区役所案内板)
笠寺一里塚
この日は、一里塚のまわりに植えられたビヨウヤナギの黄色い花が満開であった。
宮宿から鳴海宿まで、約6km。笠寺一里塚から南東に約500mすすむと天白橋を渡って鳴海宿に向かう。
■40 鳴海宿
<三河国・愛知鳴海> 京より151.6km / 日本橋より340.5km
鳴海宿の夕暮れだろうか、足袋に草鞋(わらじ)に笠や杖を持っての歩きや、駕籠に乗ったり、馬に乗っての今夜の宿場の様子が描かれている。旅籠(はたご)なのか茶屋なのかすでに早めの明かりがついている。背景として松や瓦屋根、蔵、お地蔵さんが配されているのがいい。
そして当時としては広々とした街道が解放感を醸している。春先、夕暮れ前、行灯に火を入れるには当時としては少し早い時間だろうか。
旅人は馴染のまた噂の旅籠を目指しているのであろう。 宮宿(名古屋)からなのか、桑名宿からなのか1里半(6.5km)から7里(28km)を歩いての、籠での、馬での到着である。
やれやれ、ほっとした表情での軽やかな歩みが見て取れる。
打ち水を踏んで旅籠に入ると番頭さんの出迎えを受け、荷物を預け、足を水で洗い、宿帳に記入し、お茶を飲んでから階段をあがり階上の部屋に案内される。大部屋か個室か、金子の置き場は、布団があるかないか、夕食はどうしたのだろうか・・・ 般若湯とツマミは持ち込みか、夜の遊びは・・・・
あなたも東海道53次を歩きたくなること間違いなしである。
鳴海宿西の入口を照らした丹下町常夜灯 梅屋鶴寿作の句碑
◎梅屋鶴寿作の句碑
「 あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の立ちとまりけり 」梅屋鶴寿
梅屋鶴寿は秣 (まぐさ:家畜の飼料) を販売しており、尾張家の御用商人を務めていた。また狂歌師としても活躍する文化人で20代の頃、国芳と知り合い、金銭的な援助だけではなく画題を提供したり、多くの国芳作品に賛を書いていたりしている。
「あり松」とは、名鉄本線・有松駅付近(鳴海宿の街道)に店を構え、有松絞(ありまつしぼり)を商う地域をいう。
往時の街道を保存している素晴らしい街並みを自転車をおりて散策してみたい。
鳴海宿の趣き
鳴海宿には現在でも、多くの「有松絞」扱う店が多く、昔の店を再現し、宿場の雰囲気を醸している。
有松成美絞を扱う店並びを過ぎ、東へ約1.5km先に有名な「桶狭間古戦場」がある。
<東海道53次の一里塚跡をたどりながら日本橋に向かう> 12
桶狭間古戦場より
■39知立宿 につづく
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