「星の巡礼 フィリピン縦断2500km バス紀行」5ーレイテ戦跡
フィリピン縦断2500km バス紀行5
ーレイテ戦跡ー
<2015年3月10日~15日 「ルソン⇒レイテ⇒ミンダナオ2000km縦断バス紀行」>
km、48時間の過酷な縦断バス旅行が始まる。
バスはフイルトランコ社を利用。マニラのダウンタウンにあるパサイ市のフイトランコ社バス
ターミナルより正午(12:00)に出発する。終点のミンダナオ島ダバオには2日(48時間)後の
正午に到着予定だ。
Philtranco社バス
ルソン南部の風景
途中、約3時間に一回程のトイレ休憩がある。食事もとりたいが胃腸に自信のない者には細菌性
さに触れたいために我慢の連続であった。
マニラをでると、ルシアナ、ナガ、レガスピを経由しルソン島最南端Matnog港に深夜2:00am頃に着く。ここから5:42amフェリーに乗換え、サンベルナルジノ海峡を渡りサマール島Allen港に6:45am
入港、約1時間の乗船時間であった。
フェリーは、サンベルナルジノ海峡を渡る
「サマール島に上陸せんとす」
詩・後藤實久
白波けりわけて フェリー巨体をゆすり
海道をつけて 悲しき戦跡に近づけり
天裂けて 陽光を照らししめるに
「栗田艦隊、サンベルナルジノ海峡を通過」
太平洋戦争中のレイテ沖海戦にて、1944年10月24日深夜半に栗田艦隊が通峡した海峡である。
の上から見ても艦位の把握などに大変に慎重さを求められるものであったが、艦隊は闇に乗じて
1時間かけて25日0時30分に通過したと戦史にある。
10月25日19:35pmに沈没したことは有名である。
「ああわれいま サンベルナルジ海峡を渡る」
詩・後藤實久
最後の日本帝国海軍連合艦隊たる栗田艦隊の
通峡せる幻の雄姿をみるなり
戦局不利のなか フィリピン防衛のため
また 集結せし米国艦隊を壊滅させんがため
その任にありしは 日本艦隊最後の出撃の姿なり
制空権奪われ 灯火を消しての闇夜の渡峡
若き海軍将兵はいかなる光明を求めしか
ああわれいま 彼らの心情を察するに
熱帯の深き暗闇に帝国海軍の悲しき叫びを聞くなり 》
「栗田艦隊の幻の雄姿をみる」
詩・後藤實久
《 栗田艦隊暁に出航し 濃紺の波を打ちけりて
整然とサンベルナルジ海峡を突き抜けんとす
今日もまた波高く強風ありて 敵艦もとめし
海男なる武士-もののふ-の意気を感ずるなり 》
サマール島を南下するとサンファニコ水道を渡り待望のレイテ島にはいる。現在、ここには日比
友好橋『サンファニコ橋』がかかり、平和な緑の島レイテに通じる。
サン・ファニコ海峡をわたりレイテ島に入る
西方に激戦地ピナ山・カンギポット山を望む
レイテ島最北端(入口)の街・タクロバン
した飛行場があったことはすでに述べた。
当時米軍のレイテ島上陸侵攻をくいとめるにあたって、日本軍のマバラカット飛行場にはたった
30機の戦闘機しかなかった。
「寡勢をもって有効な攻撃を行うためには、特別志願による体当たり攻撃を直ちに実行するほかは
なかった」といわれる。
神風の編成は、米軍のレイテ島上陸の日1944年10月20日と重なる。レイテ島上陸をもくろむ米機動艦隊に対しわずかの戦闘機で、できるだけの損害を与えるのが神風特攻の役割であった。
神風は米軍侵攻から日本本土を防衛する為の決死の手段であった。
しかし、米軍のレイテ上陸をゆるし、食料も弾丸も尽きた日本軍は貧弱な装備、間に合わせの
作戦、途絶えた補給、飢えや病によって命を落とす者も後を絶たなかった。それでも兵士たちには、戦い
を続けることが命じられ、二か月間の死闘が繰り返された。
そして、太平洋戦争の“天王山”と呼ばれたレイテ戦も果てしない消耗戦に突入し、日本軍84,000人
もの犠牲をだし壊滅した。
ついては大岡昇平著『レイテ戦記』上中下三巻(中公文庫)に詳細が綴られている。
レイテ島を縦断しつつ、異国の地に散った多くの若い兵士の御霊に哀悼と感謝の気持ちを
捧げた。
の亡き兵士達のうえにも輝いていたであろうと思うと目頭が熱くなる。
北極星をさがしだして、その延長線上にあるわが故郷を思いだし、父母や兄弟家族をおもって
泪したことであろう。
2015年3月11日19時08分レイテ島最南端Liloan港に到着。ここよりフェリーでスリガオ海峡を
約3時間でわたり、ミンダナオ島の北端のSurigao港経由ダバオに向かった。
「スリガオ海峡を渡る」
詩・後藤實久
ああわれいま スリガオ海峡におりて
漆黒の天空は星座で満ちおる
不思議なるや 南十字星に出会いて
北の半球で 輝きをわれに送るなり
遠く陸にまばたきし燈火ありて
亡き兵士たちの御霊を見るが如し
ああわれいま 涼風に誘われ
レイテよりミンダナオに渡らんとす
ダバオは戦前より多くの日本人が移住し、マニラ麻やバナナのプランテーションを
経営していた。
最盛期には20,000人近い日本人が住みつき東南アジア第一の日本人街を形成して
いたが、太平洋戦争のミンダナオの戦いにおいて日本軍と共に行動することにより
多くの民間人が犠牲になった。
戦後は現住民による報復を恐れて現地民化し、日系人は120人近くまで減少した。
現在のダバオはフィリピン第二の都市としてドール、チキータなどアメリカの
大規模農業会社による果樹のプランテーションが広がり、発展を続けている。
最終目的地ダバオ・バスターミナル
今回のフィリピン戦跡を歩き、先人の所業に触れ、いかに平和が大切か
そして総合理解の上に立った善隣友好という地道な働きかけがどんなに
必要かということを知った。
多くの人たちが過去への反省として、両国の橋渡しとして また 償いとして
さまざまな友好関係に汗されておられる。そのご努力に頭が下がる思いである。
『フィリピン戦跡を訪ねて』
完
次回は、戦跡をはなれ現在のフィリピンの日常生活を紹介したい。