shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2003『星の巡礼 インパール南道 戦跡慰霊の旅』

星の巡礼 インパール南道 戦跡慰霊の旅』

 

 

1944年3月8日、インパール作戦開始の地、ビルマ(現ミヤンマー)のカレーミョウから旧日本軍第15軍団の3師団<弓第33師団・祭第15師団・烈第31師団>は、インパール攻略の火ぶたを切った。

その72年後の2016年3月、ビルマ側のインパール作戦退却路・アラカン山脈白骨街道を歩き、慰霊記を書いている。

それ以前の、2003年2月、インド側のインパール南道を歩いたことを思い出し、ここにインパール攻略最前線となったインパール南道の戦跡を書き残すことにした。

 

飛行機でカルカッタまで飛び、列車で太平洋戦争時の<援蔣ルート>の兵站地であったディマプールを経由し、烈第31師団の作戦目標であった<援蔣ルート>遮断のために占領したコヒマを通って、旧コヒマ街道を南下し、インパールに至った。

 

<援蔣ルート>とは、日中戦争における大日本帝国中華民国の蔣介石政権の対立の際、主にイギリス、アメリカ、ソ連が蔣介石政権を軍事援助するために用いた輸送路のことである。

 

インパールへの途次、インド国鉄 カルカッタ(コルコタ)・シ-ルダ/Sealdah駅で

    

 

      

       インパール作戦のDVD・高木俊朗著「インパール」ほかを参考にした

 

                    インド 星の巡礼ルート

<A. インパール南道戦跡慰霊B.バラナシ/ガンガー沐浴巡礼C.エローラ/アジャンダー石窟寺院巡礼>

 

 

 

 

星の巡礼 インパール南道 戦跡慰霊の旅』

 

いよいよ『星の巡礼 インパール南道 戦跡慰霊の旅』が始まる。

関西国際空港を出た飛行機は、シンガポールで乗継、カルカッタチャンドラ・ボース・インターナショナル・エアーポート>に到着。

カルカッタ・サルベーション・アーミ・ゲストハウスに数日滞在し、インパール南道戦跡慰霊の準備を整え、カルカッタ(コルコタ)・シ-ルダ/Sealdah駅より、インパールの玄関口・ディマプールに向かって列車で出発した。

 

途中、ダージリング登山列車に乗ってスイッチバックを体験したが、体験記は次回に回すことにする。

 

ディマプール方面行の列車はデリー始発の、2月12日早朝3時便なので、乗継駅であるNew Jalpaiguni前の<ヒルトン ホテル/100Rs.>で仮眠をとった。

 

Train #4056 ニュー・ジャルパイグリ駅/New Jalpaiguni 03:05am発 

       ディマプール駅/Dimapur 20:26pm 着  <664km・約18H>

 

インパールへは、ディマプールで下車し、バスまたはTukTuk(三輪タクシー)に乗換えての旅となる。

 

 

■2月12日 インパールへの道

ここジャルパイグリ駅/New Jalpaiguniは乗継駅とあって、大混雑である。

深夜であるにもかかわらず、ホームはじめ駅内外は列車待ちのため、荷物にもたれて発車を待っ人々で溢れていた。 

ひっきりなしに駅へ到着する人々の群れ、それぞれの目的地に向かうのだ。

それぞれの最終目的地は決まっているのに、ここジャルパイグリ駅からは沢山の銀河鉄道が一人一人の目的地に向かって出発していく光景に出会う。

このような人間の群れの移動は、人口大国である中国でも同じ光景に出会った。

人びとの流れに、おのれを沈めて見るとよく分かるのだが、そこには秩序というよりも、運命に流されている群衆の一人としての己に出くわすのである。

そのエネルギーに、無限なるマンパワーを感じると同時に、右往左往する人間の滑稽さも味わった。

 

人間の坩堝(るつぼ)を、一匹の蚊が飛び回り、獲物を求めての飛翔する姿が、まるでスローモーション動画のように目に映る。

 

インドでの列車予約の場合、渡されたチケットは<Waiting Ticket>であり、プラットホームの窓口<Booking Office>で登録の上、正式なチケットを発行してもらう必要があるので注意を要する。

 

<生きるとは、そこに寄り添うものがあること>

インドは人間の坩堝(るつぼ)とみたが、その生きるエネルギーの凄まじさは、

<匂い>という強烈なアピールとしても出会う。

先にも述べたが、列車が駅に停車していてもトイレ使用が可能である。

線路上に落ちた排便・排尿は、気温の上昇と共に、その強烈な個性である<匂い>をもって、その存在を最大限に主張する。

命がある限り、寄添うもうひとつの自分なのであろうが、しかし、その個性は強烈すぎるのである。

 

インドは混沌のなか、共生できる柔軟な世界でもあり、その発想にインドの未来が潜んでいるように思えてならない。

 

<インド人、その特徴>

列車待ちの間、観察した範囲内に加えて、一般的なインド人の特性に触れておきたい。

 

時間に縛られない自由な発想と行動が出来る民族である(理数系・IT系)

嘘を嘘と思わない民族である(相手への思いやりも含めて)

お金に対し、異常に関心を持つ民族である(総インド商人)

何事にもポジティブな思考をもつ民族である(成功の確信・最新技術の導入・多様性)

人種・男女に関係なくフレンドリーな民族である(語学への積極性・多様性)

お洒落な民族である(口ひげ・サリー・色彩・香水)

ナルシスト(自分大好き)な民族である(自意識・決め顔・ファッション)

階級意識が強い民族である(カースト制・不平等・見下し怒り・優越感)

誤魔化すという罪意識が極度に低い民族である(平気な嘘・誤魔化し・責任転嫁)

人の話をあまり聞かない民族である(まずは自分が中心・相槌・無理解)

寛容な民族である(許し・フレンドリー・寛大)

 

 

この列車は、ニュ・デリー発の夜行列車である。

定刻を1時間過ぎたが列車は到着しない。

みな騒ぎもせず、何事もなかったような顔して、ラジオから流れる音楽を聴いている。

こちらも<イーヤ・プラン イーヤ・ハラン シャミー・・・・・・>と、

悲しげに、甲高い声で歌い続けるインドの哀愁に満ちた、侘しいインド歌謡曲に聴き入った。

 

駅のプラットホーム下の、線路上に積み重なった人糞からの悪臭が、また鼻をついた。

これでは匂いが体にもしみ込み、食事も喉を通らないのではないだろうかと思うのだが、これまたインドにおける<梵の世界>である。

インドの朝は、人糞の匂いをまとって明けようとしている。

 

ついに夜が明けた。

ディマプール行列車は3時間遅れで、ようやくニュー・ジャルパイグリ駅を出発した。

だが、途中でまた1時間重なり、4時間の遅延となり、ディマプール駅には深夜に到着しすることとなった。 

駅のなかをうろついていた沢山の野良犬たちが、見送ってくれていたのがとても印象に残った。

整ったいい顔をしているが、ホコリと垢にまみれ、汚物によごれ、その姿はやせ細って見る影もない。

ただ目だけは清らかで、澄んでいるのが、心をとらえた。

「命とはいったい何なのか、命の輝きは星の輝きであるはずだが・・・」

おなじ<星の王子さま>として、この世に生まれながら、彼らもまた銀河鉄道に乗ってこの世を旅しているはずなのに・・・。

これもまたヒンズー教の<輪廻転生・解脱>の絵図を見せてくれているようだ。

 

犬たちのもの悲しい眼光に見送られながら、列車は静かに駅を離れた。

 

<コンパートメント  インド人家族と>

車中のコンパートメントでは、デリーからのインド人家族グップラ家と一緒で、インドのインテリ家族に接することが出来た。

ご主人は50歳前後で弁護士、奥さんは高校の宗教主任で、二人の子供を連れて、奥さんの実家アッサム地方にあるジョルハットに向かうところだと紹介された。

息子アミータ君16歳は、MBA取得のため飛び級による大学受験中であり、娘エミさん14歳は音楽学校にすすみたいとのこと。

家族全員宗教心にあふれ、知的で、それぞれの目標に向かって人生を進めている健全で、賢明なインド人家族である。

インドの歴史、宗教、産業、気候、風習について話を聞かせてもらった。

こちらは、インパール戦跡を訪ねるのだと伝えると、インドのここ東北の僻地<三角地帯>は中国・ミヤンマー・バングラディシュ・ブータンと国境を接する暗黒の三角地帯と言われる危険地帯であるので、旅行者は特に気を付けるようにとのサジェスションを受けた。

 

また、ご主人が弁護士であることから、東京裁判でのパール判事の被告人全員の無罪主張に対する意見を聞いてみた。

パール判事は、インド独立運動の父ガンジーを尊敬し、英国はじめ欧米による植民地主義を批判しており、日本の対外侵略に対しても批判していたという。 ただ、東京裁判における平和と人道に対する罪という事後法をもって裁くことは国際法に反するという法定主義に基づいて主張したのではないか、との法科学生時代に学んだ意見を聞かせてくれた。

 

      ディマプールへ向かう列車で出会ったデリーから奥さんの実家に帰るインド人家族

 

 

<車内の汚れ  発展途上国インド>

発展途上国という状況は、日本もインドと同じ時代が過去にあった。

丁度、発展途上国である日本の1960年代に、わたしも青年時代を過ごし、先進国入りを意識して日々仕事に励んだものである。

1回目の東京オリンピックまでの日本もまた現在のインドのように、衛生状態はじめ、海外旅行におけるマナーにおいても発展途上国という汚名の中にあった。

インドもまた、発展途上という労苦の上に、先進国としての栄誉を勝ち取る日がこれより四半世紀内に訪れるであろうことを確信している者である。

(2022年現在、これより数年以内にGDPで日本・西欧諸国を抜き、第3位に浮上することが統計的に確実視されている)

 

一日列車内で過ごすと、手のひらは真っ黒に汚れる。

この汚れた手で、ビスケットや蜜柑、バナナを食べたが、今のところ胃腸に異常がないのが不思議である。 もちろん非常用に除菌用ウエットペーパーは携行しているが、このレベルでは使うことが出来ない。 ただ胃腸の消毒として、正露丸を放り込んでおいた。

剥いたミカンの皮の内側で、指を拭くと真っ黒に変わるから、日本の戦後もそうだったが、発展途上国の列車の凄さが分かるというものだ。 

なぜ清掃しないのだろうかと思うが、発展への情熱とパワーは衛生意識よりも、生活向上というゴール目指して、国民一丸となって突っ走っているように見えるのである。

 

<インド香料に導かれて>

参詣者により、白檀などを調香したお香が、聖なる供え物としてヒンズーの神様へ奉納され、ヒンズー寺院はいつもお香で満ちている。

お香は、同じ空間に居合わせたおのれと神との一体感を感じさせてくれるのである。

 

お香がたかれたのであろう、一筋の白いお香の煙が、真夜中の寝静まり返った車内にたなびき、鼻腔をくすぐる匂いに、聖なる心の高鳴りを感じた。

あの泥の中で清純なる蓮の花を咲かす仏教的高潔さにたいして合掌する姿と、どこか似た感情を味わった。

 

<▼2/12    列車 車中泊 及び ディマプール警察にて尋問> 

 

 

■2月13日 ディマプール/Dimapur    快晴

 ―インパール南道戦跡への入口―

 

<深夜の尋問  インパールへの道>

午前0時45分、列車は、お香の匂いを残しながら、インパールへのバス乗継の街ディマプールに到着した。

深夜のプラットホームに、数十人の乗客が降り立った。

薄暗い裸電球がかろうじて線路を照らし、ここが駅であることが分かる。

懐中電灯が近づき、乗客の顔を見定めている。 

前に立った警官は、こちらを一目見て、パスポートの提示を求めてきた。

どうもアーリア系インド人でない顔つきに、不信感を持ったものと思われる。

こちらも、ここディマプールが<暗黒の三角地帯>と言われる麻薬の密売地帯の入口であると、警戒していたものから、少し緊張したが、当然の尋問として冷静に受け止めた。

列車で同じコンパートメントで出会ったデリーからの家族の注意を聞いていたからでもある。

 

警官は、下車した乗客の内、不審なわたし一人を伴い、駅の向かいにある警察署に連行して、詳細な尋問を始めた。 また、こちらからも逆質問をしてインパールへの道をさぐった。

 

 目的地に対する尋問 「何しにインパールに行くのか」 

  (目的・滞在先・滞在期間・連絡方法)

② 本人確認 パスポートの提出とコピー保管

➂ 「NAGALAND 通過許可証」と共に「RAP=Required Area Permission」

   (入域許可証)の提示を求められたが、不所持を申告

「NAGALAND 通過許可証」・「RAP=Required Area Permission」

   (入域許可証)の取得先は下記とのこと :

  • コヒマ/Kohimaの中央警察署 
  • SP(Special Police/特別警察) 

⑤ インパールやマニプールに滞在せず、バスで通過するだけでも上記許可書は必要か

   (ここディマプールより先を旅行する場合、各許可証が必要であるとのこと)

 許可証は巡回SP(特別警察)が発行するので、巡回まで当警察署に留まること

⑦ パスポートと手荷物は警察が預かる

⑧ それまで身柄を拘束するとのこと(署内の留置所にて待機

 

これから先の<インパール戦跡巡礼>の困難さが予想されるが、4時間の尋問が終わった早朝、時を告げる鶏の声がディマプールの警察署にも聞こえてきた。

緊張を強いられた尋問を終え、安堵感からか、あくびをする余裕も出てきて、眠気が襲って来た。

ディマプールで一番安全な警察署の留置所に案内され、ひと時の睡眠に沈んだ。

 

        ディマプール警察での取り調べを終えて、解放された体を休める

 

 

ディマプール警察の尋問は、非常に紳士的であった。

主任警察官は、東洋人風な感じの係官で、威圧することなく非常に公正で、その尋問能力の高さをうかがわせた。

国防上、国境の街を守るという使命感に燃えた係官の厳しさに、緊張感が走ったが、その接し方に触れるに従い、彼らの親日的態度への変化に気づいたのである。

それは、尋問が進むにつれ、日本の大東亜戦争の戦争目的の一つであった<八紘一宇>、それに基づく<インド解放・独立>掲げた<インパール作戦>、その作戦に参加した<インド国民軍>の創設者チャンドラ・ボースインパールへの進軍などがあったこと、また、その激戦地インパールでの日英印の戦死者の慰霊をするための旅であることが、担当係官の間に伝わったことによるものだということがわかってきた。

 

大辞林』などでは、「八紘一宇」とは第二次世界大戦中、日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられ、「全世界を一つの家にすること」を意味する語句として使われたと記されている。

 

インパール作戦そのものは稚拙であり、無謀であり、特に日本側将兵に多数の戦病死(退却路が白骨街道と呼ばれるほど)をだして失敗したが、インドにとっては英国植民地からの解放闘争の一つの好機としてとらえた面が、地元には残っていたことに気づかされたのである。

 

朝が来た。

インド東北部の隘路に位置するディマプールの警察署の一夜を明かした留置場に、一杯の熱いミルクティーが差し入れられた。

差入れの老警官が微笑みながら「大変だったね」と、ねぎらいの言葉をかけてくれた。

言い方が適切ではないかもしれないが<地獄で仏>、いや神様の愛がこの老警官をとおしてもたらされたような気がした。

私はこの時、インパール戦跡への道が開かれたことを確信した。

やっと鉄格子のはまった息苦しい窓や鍵付きの扉から解放され、自由の身となった。

その後の対応は一変し、許可書も準備されており、パスポートも返却され「あなたは、これで自由にインパール南道戦跡を巡礼できますよ。 よい旅を!」と。

 

最後に、コヒマ(インパール作戦の激戦地)での、日本のミッショナリーによる、戦争に対するお詫びとして、住民の福祉向上の活動を続けていることに感謝の意を伝えられた。

わが同胞にもかくありし活動がなされていることを聞き、こころで手を合わせた。

 

担当者全員がディマプール警察玄関前で見送ってくれたのである。

 

なお、インパール作戦ビルマ側に関する詳細は、2016年にミヤンマー(ビルマ)のアラカン山脈に残された白骨街道慰霊に出かけた『星の巡礼 インパール作戦』を参照していただきたい。

 

『2016星の巡礼・インパール作戦退却路・アラカン山脈白骨街道における露営・慰霊紀行』~⑱

https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/14290567


 

<解放感溢れるインド式田舎のトイレ>

警察から解放され、インパール行きバスを探しにディマプール列車駅にもどって、洗顔日課を済ませるため、まずトイレに立寄った。

インド式便器の横の水道栓から豊富な水が流れているではないか、ネパール以来の左手での懐かしき事後処理にとりかかった。

左手で水をすくいあげ、直接尻にあてがい、洗うのである。

何とも言えない柔らかい快感とすっきり感がいい、触感を通して脳に伝わってくるのがいい。 

日本の自動化された水洗便座式とは趣が格段に異なり、実に爽やかである。

紙を使わないインド式トイレ文化、左手は不浄と考えるヒンズー文化、食事はフォーク・ナイフ・スプーンを使わない右手でおこなう食文化・・・

何事も現地に飛び込み、直接体験することにより異文化を理解しえると云える。

 

警察署での緊張したやり取りから解放され、インド式用便で本当の自由を味わった気がした。

 

                       

                                                              インド式トイレ・Indian toilet

                       ディマプール駅にて

 

 

<インド側インパール南道の戦跡を行く>

 

 Dimapu       ➔     Kohima    ➔    Imphal            ⇔  Turfan  

ディマプール  ➔    コヒマ    ➔      インパール       ⇔    トルブン隘路口

(by TukTuk) 100Rs.              500Rs.            <戦跡巡り貸切 1000s.>    

      65km/2H      170km/ 6H               80km/ 7H

 

 

コヒマに立寄りたいため、バスの便が悪いので三輪タクシー/TukTukを乗り継いで、コヒマ経由インパールへ向かうことにした。

ちなみに、ディマプールよりインパールへの直通バス便は、ディマプール04:00発、インパール11:00着がある。 このバス路線は、ディマプール手前の街ガヒチ/Gahiti経由し、インパールへ向かう国道(AH‐1/アジアンハイウエー#1)を走っており、近道であり、最短時間の約6時間で着くという。

 

ディマプールより、コヒマ経由インパール行ローカル・バスは、旧日本軍侵攻路<コヒマ街道>を走っている。 

こちらは、インパール作戦時、最初に作戦を開始した<烈第31師団>が、英印軍の兵站路を遮断するために侵攻した街道をTukTukで走って見たかったのである。

 

帰路、ローカルバスを利用したが、殺人的断崖絶壁を、息を細めて乗ったことを今でもはっきりと記憶に残している。

 コヒマからインパールへ延びる当時の軍用道路<旧コヒマ街道>を、TukTuk(三輪タクシー)で走ってもらったが、使われず荒れ放題である。

旧街道にポツンと残っている英国植民地時代に設置されたマイル表示の距離道標を、進攻中の<烈師団>の将兵も目にしたに違いない、と思いながらインパールに向かった。

 

TukTukに向かって、懐かしい砂糖きびをしゃぶりながら、村の子供達が手を振ってくれている。

風をあびながら三輪タクシーは、不安定な図体を上下左右に揺らし、ガタピシの道路をかなりのスピードで走り続けている。

胃腸がねじれ、尻も跳ね上がるのだから、コヒマ侵攻の<烈第31師団>の将兵も難儀したに違いないのではと、想い描いていた。 

コヒマ街道を南下するには、若い体力が要求される。

 

烈第31師団の作戦目標は、コヒマを占拠し、インパールへの英印軍の兵力・兵站を遮断するとともに、兵站基地であるディマプールを攻撃することにあった。

しかし、ここコヒマ街道に到達した烈第31師団は、林第15軍からの兵站が絶えて、他師団がインパール攻略中にもかかわらず、撤退に踏み切ってしまうという作戦に齟齬を生む結果となってしまった。

 

先でも述べたが、ここインド東北部は、現在、各国と国境を接した暗黒の三角地帯と言われ、麻薬の密売組織の暗躍や、国境の小競り合い、難民の出入りが激しい地帯であり、また独立を主張する山岳少数民族のテリトリーでもあり、複雑な要素が絡み合った危険地帯であると、ディマプール警察で聞かされていた。

 

もちろん、ゲリラ・テロ地帯として、軍隊によって管理されている。

国道39号線(旧コヒマ街道)や、主要な橋を確保するため、完全武装の兵士によって厳重に防備されていた。

コヒマを中心としたナガラン州は、シッキムやカシミールと同じく、準臨戦体制下にあった。

 

<旧コヒマ街道  コヒマ➔インパール> 

コヒマ街道は、英印軍の主要兵站ルートであったがゆえに、インパール作戦北方の防禦を担当していた<英第4軍団所属 第23インド師団>の火力集中はすさまじかったと戦記には書かれている。

コヒマは標高1444m、インパールは標高788mにあり、ネパールのイラムや、この旅でトイ・トレイン乗車のため立寄ったダージリンと同じく山岳都市である。

 

作戦のネーミングとなったインパールが、最終攻略地であった。

もし攻略できていれば、インド解放を目指してチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA : Indian National Army)がデリーまで侵攻する計画であった。

 

                                        コヒマ周辺戦闘経緯図 (烈第31師団/英印軍2・7師団)

                                               (川北英隆のブログ 「コヒマでの戦闘」より)

 

インパール作戦とは>

文献によると、

インパール作戦の目的は、「大東亜共栄圏」の西端に位置するビルマ北西部の山岳地帯から国境を越えて英領インドに侵攻し、連合国による中国国民党支援を目的とした「援蒋ルート」を遮断することを主目的とした、きわめてギャンブル的性格の強い作戦であった。』 と言われている。

 

1944年(昭和19)3月、インパール作戦を開始した第15軍は、第3師団(祭師団)を投じ、一時インパール北方まで侵攻し、コヒマ街道を遮断したが、兵站に失敗し、糧食・武器の補給が続かず、無念のなか祭師団は撤退を余儀なくされたことは先にも述べた。

 <武器は敵の物を奪って戦え> <糧食は現地調達せよ> との無謀な作戦計画の下で、立案されたインパール作戦は成立・完遂されることはなかった。

敵の武器奪取による補充に至っては、英印軍の戦術的後退により、計画通りに確保できなかったこと。 また糧食現地調達は、進軍路であったタクラマカン山脈には村落・民家が少なく最初から不可能であった。

一人1日握り飯1個で戦ったと生き延びた兵士の回顧録に見られる。 

それも退却時には木の皮や、昆虫やネズミ、昆虫や屍まで口にしたともいわれ、マラリアコレラ赤痢など熱帯性疫病の症状を呈して、タクラマカン山脈はじめすべての退却路は死傷者であふれ、白骨街道ともいわれる惨状を呈したといわれる。

 

インパール作戦失敗の要因は幾つも挙げられているが、作戦そのものが英印軍に早くから察知・研究され、防衛体制を構築され、作戦開始を待ち構えていたと、英印軍資料に残されている。

 英印軍は、豊富な物量と、堅固な陣地構築、制空権の確保、機動性を生かした退路遮断という日本軍とは対照的な定石戦術をとって大勝利している。

作戦前から、日本軍は<英印軍のインパールの罠>にかかり、すでに勝敗は決していたといわれている。

 チャンドラ・ボース率いる<インド国民軍>6000人は、<自由インド>・<インド解放>をスローガンに、日本軍と共にインパール作戦に参加し、ビルマ・アラカン山脈を越えインパールを目指した。

しかし、ビルマ側チンドウイン川に到達できたのは半数以下で、さらにアラカン山脈越えで戦病死約1900人を数え壊滅している。

その後、チャンドラ・ボースはインド解放のため、ソビエット連邦の支援を要請するために向かう途中、台北においてインド独立を見ずに、飛行機事故による非業の死をとげている。

 

 

2016年のミヤンマー(ビルマ)側からインパール(インド)方面に向かった際は、ラカン山脈の東南側にあるカレーミョよりトンザンに向かい、国境の街チカ/Cikhaからインパール(インド)方面を望見している。

この時は、<弓第33師団>の進軍路、特に佐久間連隊の足跡をたどりマニプール河沿いのトンザン経由インパール南道をめざして北上した。

その後、カレーミョウ、インタンジーよりカバウ河谷を北上し、<弓第33師団山本支隊>の進軍路をたどり、タム/モレ―から国境を越え、インパール方面<タム・パレル道>に足を延ばした。

 

2016年に歩いたビルマミャンマー)側<インパール戦跡>に関するブログを参照願いたい。

    『インパール作戦退却路・アラカン山脈白骨街道における露営・慰霊紀行』~⑬

 

          2016年作成のビルマ側<インパール作戦 白骨街道を歩く>

 

 

ジンギスカン作戦― 生きた牛を運搬・食料とせよ>

インパール攻略には、日本アルプスと似た峻厳な道なきアラカン山脈を越えなければならず、日本軍は武器や糧食輸送に牛を使うと言った奇抜なアイデアのもと、山岳地帯の突破を図った。

もちろん牛は、運搬の他に、将兵の食料としての役目を負わされ<ジンギスカン作戦>と期待されたが、緒戦のチンドウイン渡河で大半の牛を失い、アラカン山脈の谷では、滑落により兵站・食料としての目的を果たすことが出来なかった。

結果的に、食料不足は<インパール作戦>そのものを頓挫させ、撤退を余儀なくされ、多くの将兵を亡くし、<白骨街道>という戦史上不名誉な名を冠した。

 

<2/13 ▼ユースホステルインパール 宿泊>

 

インパールでの宿泊先である<Youth Hostel Imphal>に着き、宿泊を申し込んだが、なかなか許可が出ない。

後でわかったが、身元が確かな人間かどうか見定めていたようである。

ただでさえ物騒なインド東北の僻地である暗黒の三角地帯、テロ・ゲリラの横行する地で、誰でも歓迎されるわけではなさそうである。

入れ替わり立ち代わりスタッフがやって来て同じ質問を繰り返し、パスポートや警察発行の入域許可証をチェックしてから、初めて宿泊滞在の許可が出た。

後でわかったことだが、今夜の宿泊客30名全員が女子大生であり、男性はわたし一人であった事が問題となっていたようだ。

夕食はインドカレー、パラパラご飯にベジタリアンカレー・塩・水だったが、食べ盛りの彼女たち、一瞬のうちにカレーは、麗しき乙女たちの胃袋におさまったようで、その食欲旺盛はこちらに一粒の米も残さない徹底ぶりである。

スタッフが急遽準備してくれたので助かったが、カルカッタ(現コルコタ)以来、行動食であるビスケットと水、ほかにチョコバーとミカンとチューイングガムで過ごしてきただけに、ご飯にカレーは絶品であり、カレーのおかわりは嬉しかった。

 

     Youth Hostel Imphal前で、<インパール南道戦跡>ガイド兼ドライバーのMr.Babooと (2003)

 

         Youth Hostel Imphal since1987                           Youth Hostel Imphal Gate

 

                              After renewal 2021 of   Youth Hostel Imphal- entrance

 

                       

                     インパール概略市街図

              (ユースホステルインパールの所在地近辺)

        YOUTH HOSTEL IMPHAL : Khuman Lampak P.O. Imphal, Manipur

                                                          TEL : 03852-320013

 

<インドのご婦人たち>

インド女性が結婚すると、結婚前のしなやかな体形を捨て去り、最大限の肥満体へと変貌を遂げる。

インド旅行で出会うご婦人のみなさん、その体重はこちらの倍はありそうである。

何といっても目が行ってしまうお腹の脂肪が凄い、これ見よがしにサリーからはみ出た腹脂肪は目をそむけたくなるほどのたるみである。

更に大胆なのは、太ったご婦人方はすぐ横になりたがり、足を延ばしたがる習性があるようで、列車内では特にこまったものである。

今宵、ここユースホステルで出会った大学生たちの健康美に包まれた笑いのなかに、変異種を見るような新鮮な驚きがあった。

 

<停電多きインパール と ロウソクのゆらぎ>

それはともかく、ここインパールでは停電がよくあるようで、この夜も、ホステルのスタッフがロウソクを配り、火をつけてくれた。

こちらもさっそくヘッドライトと、ペンライトの灯りで旅日記を綴る。

 

ロウソクの淡く、ゆらぐ姿にヒンズーの世界へと誘われている気分になったものである。

文明の利器である電気の明かりに慣れ切った目や、それを見る脳や、心揺さぶられるハートには刺激的な出会いである。

志賀の里でも、ときどき入浴しながらロウソクの炎の繊細な揺れに見入りながら、瞑想にふけることがあることを思い出した。

そこには、原始の光があり、ゆらぎの世界があり、空想の世界が広がり、宇宙の世界へと導かれるのである。

ここインパールで見る炎のゆらぎは、宇宙の闇に踊るヒンズーの神々に見えてきた。

いや、ここインパールに散った多くの英霊の無念さを見る思いであった。

 

夕食も、ロウソクの光で食べるのである。

1946大東亜戦争末期、5歳であった少年時代にタイムスリップである。

ノスタルジーに心癒される一瞬であった。

 

ここインパールの北部、南部は、多くの日本軍将兵インパール攻略に命を捧げた激戦地である。

インパール作戦は、結果的にインパール攻略に失敗し、日英印軍の多くの将兵を死に追いやった。

その将兵たちの魂が、ロウソクのゆらぎの中に現れ来ているような気がした。

 

<Woman Sociery of Movement のリーダーたち>

食事をしていると、同席の女子大生やホステルのスタッフから、

「なぜ、ミスターはこのようなインドの僻地であるインパールに来たのか」との質問を投げかけてきた。

どうもインドの若い世代は、今から約60年前、ここインパールで何が起こったのかという歴史的事実、日本軍によるインド侵攻を学んでいないようである。

古老から聞いていたとしても、実感の伴わない昔話として記憶の奥にしまい込まれているようである。

日本でも同じく、<インパール作戦>は歴史の一片として学習したに過ぎなく、記憶として残している青年層は、ほとんどいないのと同じである。

インパール作戦>は、すでにみなの記憶から消え去りつつあるのである。

 

インパール戦跡慰霊>について、

―日本軍によるインパール作戦で亡くなられた日英印軍将兵はじめ、この作戦に巻き込まれた住民のみなさんの慰霊と、二度と侵略による人の命を奪う戦争はすべきではない―

という気持ちから、ここインパールにやってきたと紹介した。

もちろん<インパール作戦>について、説明したものである。

とくに、チャンドラ・ボース率いる<インド国民軍>についての話では、みな歴史で習っていたのか興味を示した。

 

「それじゃ、わざわざインパールだけに来たの?」

このあと、バラナシのガンガー(ガンジス)川で沐浴し、ヒンズー教の言うリーンカネイション(輪廻転生/Reincarnation)についてヒンズーの神々と語ってみたいと思っていることを話すと、みな興味を示し、熱を帯びたディベート(討論)になった。

 

―あなたがたはリーンカネイション(輪廻転生)を信じているの?

灰になってガンガー川に流されることによって、悟り(自覚)を得て輪廻から解脱すると

言われているじゃないかー

との問いかけに、みな神妙にうなずく姿が印象的であった。

 

最後に、

―日本では、食事をする前後に、手を合わせて頭を垂れる習慣<いただきます>という言葉があるのだ。

 それは、命への尊厳、あなたの命をいただき、あなたによって私は生かされますー

 という意味があるのだとの説明に、

「インドにも<ナマステ/NAMASTE>という挨拶の仕方があり、手を合わせるよ」と。

 

ローソクの灯りの中で、お互いに手を合わせ、食事を終え、それぞれの部屋に帰って行った。

 

 

<英霊よ、静かに眠り給え>

私はいま、第二次世界大戦大東亜戦争)において、援蒋ルートをたたくため、無謀だと言われ続けてきた旧大日本帝国陸軍が実施した<インパール作戦>(作戦名:ウ号作戦)の最終攻略目的地であり、インド東北部マニプール州都であるとともに、軍事・交通の要所であったインパールの中心街にいる。

インパール作戦の最高司令官は、作戦開始3月から2か月後の天長節昭和天皇誕生日)である4月29日までにインパール攻略を命令していた。

丁度、いま(2003年)から59年前のこの季節(3月)に、インパール攻略作戦は開始された。

 

しかし、インパール作戦は、攻略地インパール近くまで迫りながら、兵站の失敗から従軍した将兵約90000人のうち、その多くの74000人が戦病死し、壊滅した。

英霊とともに、いまインパールにいることを彼らに報告したのである。

「ああ英霊よ、静かに眠れ」と。

 

    

               2003/2016 インパール周辺巡礼エリア

              Dimapur-Kohima-Imphal-Tiddim(2003/2016)

                      Tiddim-Tamu-Palel(2016)

                    (英国戦史文献より)

 

 

<▼ 2/13    インパールユースホステル泊>

 

 

■2月14日 <インパール南道戦跡を巡る>

 

<英霊に手向けるブーケ作り>

朝、ここインパールに大きな真紅の太陽が、遠くに霞むアラカン山脈の峰から顔を出しかけている。平和な時間が流れる静かな朝だ。 あの喧騒のなかのインパールはどこへ消えたのであろうか。

この平和な街を巡って、激しい攻防がなされ、多くの日英印軍将兵が血を流し、呻きながら、故郷を想い死地についたと思うと胸が痛む。

 

明日朝一番でのディマプール行、帰路のバスチケット手配にバスターミナルに向かう。

 

(バス予約) 2/15 Imphal 07:45am発 ➔ Dimaphl 14:30pm着 200Rs.

 

途中、朝食用に屋台に積まれた蒸しパンのようなイドリや、巨大なクレープのようなドーサを見ながらの散歩である。

これから出かける、インパール南道の戦跡巡りの供え物として、また行動食としてドーサを買い、慰霊用ブーケ作りに花も手に入れた。

食料すら手に入らなかった将兵たちは、花の美しさを忘れさっていたに違いないと思うと切ない気持ちにさせられた。

 

        インパール南道戦跡を巡る貸切TukTuk(三輪タクシー)にまたがって

 

 

<一杯の個性あるミルクティー  マサラチャイ>

インパールユースホステルでの朝食は、バター付き食パン2枚・個性あるチャイ(ミルクティー)・ボイルドエッグ・バナナである。

なかでもミルクティーの複雑なインド風味に興味を持った。

ダージリンのトイ・トレイン停車中に、路上で味わった煮たてたスパイシーな紅茶を思い出した。

たしかに、鍋にミルクと紅茶と砂糖を入れ、煮たてて、最後にスパイスであるジンジャーを入れていた。

ジンジャー(生姜)の他に、カルダモン、シナモン(桂皮)、クローブ、黒胡椒、黒砂糖などインドカレーに使う香辛料やハーブを一緒にミルクティーに入れて煮出し、マサラチャイとして飲むと、その香りがリラックス感、幸福感をもたらしてくれるのである。

 

こうして飲まれるマサラチャイもまた、ヒンズー教的な宇宙観を体現するインド風味なのであろう。

茶は中国よりもたらされ、日本で育まれた「抹茶・煎茶」もまた<侘び寂び>という宇宙観を体現する日本風味を創り出した。

ちなみに「チャイ」とは、インド・ネパール地方の煮出し式ミルクティーのことで、スパイスで香りつけしたものを「マサラチャイ」という。

 

マサラチャイを飲みながら、人間もまた同じであると思った。

それぞれの生き方により、一味違ったその人独特な持ち味がにじみ出るものであると。

人は、その味を好むかどうかでその人を判断してしまう傾向があるが、それはその人だけの味として尊重されるべきであると思う。

また、自分の味は、神よりの自分だけへの贈り物として謙虚に受け止め、自信を持つべきである。

マサラチャイから学習する朝食であった。

マサラチャイを中庭に持ち出して、大地にもしみ込ませた。

亡き将兵たちにもマサラチャイを飲んでもらいたかったのである。

 

                     インパールの商店街

                     Imphal shopping street

                     Drawing by Sanehisa Goto

                        Feb. 14, 2003

 

 

インパールユースホステルで同宿した女性グループは、女子大生であるが、<India Woman Society of Movement>の全国リーダー研修会に参加したメンバーであった。

中産階級以上の家庭のお嬢さんなのであろう。 みな実に爽やかで、屈託なく、健康であり、快活である。

この世界も、女性が幸せであれば、平和な世界になることを示しているようだ。

今朝の朝食でも、紅一点ではなく黒一点であるわたしに、上げ膳据え膳と世話をやく彼女たち、レディース・ファーストをモットーとするこちらは、かえって居心地の悪さを味わったほどである。

 

 

インパール南道における戦闘跡を歩く>

今日は、三輪タクシー<TukTuk>を貸切り(1日850Rs.+チップ)、ミヤンマー(旧ビルマ)国境までのインパール南道のインパール作戦時の戦跡を巡ることにしている。 

運転手兼案内人は、インパール戦跡を知るというバブーさん/Mr. Babooで、すでに顔見知りである。

途中、現在の国道39号線(Rout39South/旧インパール南道/ディティム道)にあるログタ湖畔、北ニントウコン(瀬古大隊・第4中隊と英印軍との攻防戦跡)で慰霊祭を持つことにしている。

 

                貸切TukTukで、インパール南道戦跡を巡る

 

 英印軍は、インパール作戦が開始される前までに<シャーマンM-3戦車>が走行可能な5m幅の道路<インパール南道>を完成させていた。 

 

 

    英印軍シャーマンM3軽戦車            日本軍九五式軽戦車ハ号

 

これから南下する国道<旧インパール南道>がそうである。

しかし、約60年後の現在は、当時の面影はなく、凸凹の続く平和な田舎道に変わっていた。

 

ここインパールを攻略するために、インパール作戦は、アラカン山脈を越えて三方向から侵攻を開始した。

とくに、ここインパール南道に侵攻し、北進したのは、弓第33師団であった。

 

A 列第31師団  インパール後方の英印軍の兵站路を叩き、すなわち要所ディマプールと

攻略地インパールの中間点コヒマを制圧したあと、コヒマ街道を南下して

インパールに至る作戦隊。 北方南下隊

 

B 祭第15師団   アラカン山脈を越えインパール北方より侵攻する作戦隊。 西進隊

 

C 弓第33師団  アラカン山脈南方より、インパール南道を北上する作戦隊。 北進隊

 

     

                 インパール作戦要図

                 (高木俊朗著「インパール」より)

 

インパール南道 戦没関係者慰霊 >

バブー君(Mr.Baboo)の運転する貸切TukTuk(三輪オートバイ)に乗って、手書きの地図<インパール南道>に従って、<インパール南道戦跡慰霊>にスタートした。

まずはインパールの青空市場で、食料(水・お供え・菓子パン・バナナ・リンゴ・ビスケット)の調達である。

旧日本軍の攻略目標であったインパールを出発し、まず<インパール南道>、現在の国道39号線南(Rout39South)をビルマ国境(チカ村)方面に向かって、南下を始めた。

 

     

                                           2003インパール南道 戦跡巡礼ルート図

 

当時英印軍は、日本軍を迎え撃つ、いやインパールへ誘い込むため道幅5mのインパール南道を、インドと同じく英国の植民地であったビルマのカレワ辺りまで造りあげていた。

インパール南道は、敵の造った道路を占拠使用し、北上できるルートとして、インパール作戦立案に盛り込まれた。

大げさに言えば、この<インパール南道>を確保さえできれば、インパールからデリーまで、チャンドラ・ボースを司令官とする<インド国民軍>を先頭に、戦車や軍用車を走らせ一挙に進撃できるという夢が実現するはずであったからである。

 

                              <激戦地ニントウコン> ニントウコン川に架かるニントウコン橋を背に

 

インパール作戦で、一番インパールに迫った14km地点であるビシェンプールの少し南に位置するニントウコン川に架かる22㎞地点ニントウコン橋近くのログタ湖畔にある一本木の樹下に質素な手作り祭壇を設け、手作りブーケと果物、チョコレートを供え、香を焚き、日本から持参した比良の霊水を土に撒き、般若心経をとなえ、集まった村民の方たちも交えて、インパール作戦における戦病死将兵日本軍約74000人(作戦参加兵力約86000人-残存兵力約12000人)と、インド国民軍戦病死将兵約5000人(作戦参加兵力約6000人の内)、英印軍の戦病死将兵約15000人(英印軍発表)、加えて多くの民間人の慰霊に、鎮魂の黙とうを捧げた。

 

写真でもわかるように、ログダ湖の水は干え上がり、湖畔が後退し、一面の湿地帯が顔を見せていた。

遠くにアラカン山系の山麓を確認できたのが印象的であった。

 

           インパール南道戦跡に眠る日本軍及び英日軍将兵の慰霊を行う

            (ニントウコン橋近くのログタ湖畔にある一本木の樹下で)

 

        遠くに見える山並みがアラカン山系の山裾であり、山脈はその背後にある

 

当時、このニントウコン橋が、旧日本軍の第15軍、弓第3師団所属<佐間連隊と笹原連隊>が英印軍に攻撃をかけた激戦の地であった。

ニントウコン橋を攻略突破した両連隊は、前進しビシェンプールに至るが、ここでも兵站が機能せず、また英印軍の防禦に屈し、撤退を余儀なくされた。

ロクダ湖の湿地から発生する大量の蚊によるマラリアはじめ、虱(しらみ)による発疹チフス、飲料水とした泥水からの細菌性下痢、排便の垂れ流しからくる腸チフスを起因とした多くの死人、屍がここインパール南道(Rout39South)に放置され、<白骨街道>の一つに数えられたのである。

 

今は、山間のマニプール河沿いに広がる、のどかな田園風景が続く田舎であり、なぜここが戦場であり、激戦地であったのかと考えてしまった。 

平和の大切さが身に染みて感じられる瞬間でもあった。

 

インパール近郊の作戦跡地を歩いてみて、その村民の顔たちがインド系アーリア人ではなく、日本人に似て柔和であり、典型的なモンゴリアンであることに驚いたのである。

このインパールをはじめ近郊の村々が、日本人によって行政・管理されているような錯覚に落ちた。この村落の平和な風景に、心底リラックスさせられたのはわたしだけではないはずである。

一瞬、インパール作戦時、白骨街道で戦病死された将兵方の転生を見る思いであった。

 

インパール作戦でお亡くなりになったすべての関係者の慰霊を終えることが出来、また一つ心の重荷が軽くなったような気分である。

学生時代に読んだ高木俊朗著ノンフィクション「インパール」はじめ、多くの<インパール作戦>関係書に接し、旧日本軍による無謀な作戦のもと散っていった数多くの英霊にその無念を感じたものである。

 

インパール作戦から半世紀近く、平和な世が続くなか、激戦地に立って、慰霊が出来たことに感謝している。 平和は大切である。

 

インパールまで足を延ばすには随分と骨が折れるのだが、今回は出来る限り陸上交通を使い、時間をかけて倒れていった将兵の無念を共有し、原風景に接しながら、ここインパールに来てみたかったのである。

もちろん、カルカッタからインパールへの飛行機便もあることを書き添えておく。

 

今日はバレンタインデーである。 一片のチョコレートを慰霊に添えて、平和を報告した。

 

 

       

            インパール作戦初期の第三十三師団前進予定路と周辺図

               (『戦史叢書 インパール作戦』472頁より)

 

1944年3月8日、チャンドラ・ボース率いる<インド国民軍>は、旧日本軍の第15軍の将兵とともに、インパール攻略目指して侵攻を開始した。

しかし、見てきた通り、作戦そのもののずさんな計画のもと、兵站に失敗し、<インド国民軍>はインパールからデリーへの進軍による<インド解放・独立>という目的を果たせず、アラカン山脈の露と消えた。

その<インド国民軍>の将兵の無念さは、自分たちの国を想う力が、新しいインド創生につながり、現在のインパールの平和な生活の基となっていることに満足しているようにみえた。

 

ここインパール南道の自然の美しさは、彼ら<インド国民軍将兵の夢の花を咲かせているようであった。

 

振り返って、白骨街道に散っていった日本軍将兵の苦痛、その無念の内に白骨化していった霊魂の叫び、愛する者との別れの辛さ、その情況を察するに胸が痛む。

インパール作戦の企画立案作戦に関わった総司令官は、敗戦国の戦争指導者を裁いた東京裁判において、戦犯として裁かれることもなく寿命を全うされたという。

武士道の国に生まれた者として、その責任の重さがいかほどであったか、はかり知ることはできないが、同時代に生きたものとしてこれまた胸が痛むのである。

 

 

チャンドラ・ボース記念館>

チャンドラ・ボースは、自由インド・独立インドをめざす<インド国民軍/INA=Indian National Army>の総司令官である。

日本軍の主宰する<大東亜会議>に参加し、インド解放・独立のため<インド国民軍>を編成、<インパール作戦>に参加・侵攻したことはすでに述べた。

英国の植民地であったインドで、チャンドラ・ボースは、ヒットラームッソリーニ、東条といった戦争指導者よりも評価は高く、多くのインド人男女がシンガポールにあった<インド国民軍>に参加した。

現在でも、母国インドではインド独立の基礎を創ったヒーローとして尊敬されている。

 

チャンドラ・ボースインド国民軍にとって、<インパール作戦>は、インド解放の第一歩であり、大いなる希望をもって参戦したが、日本軍の作戦失敗により、インド国民軍もまた壊滅状態に陥ったこともすでに書き記した。

英国のインド植民地支配は、<インド帝国>として1858~1947の約90年間にわたる。

早くからカンジ―は、インド国内における非暴力主義で宗主国・英国に抵抗、外からはチャンドラ・ボースが武力解放を推進していた。

日本軍は、チャンドラ・ボースを支援、<インパール作戦>立案の基本戦略である援蒋ルート遮断に、インド解放を加えることにより、作戦遂行の大義名分とした。

しかし、インド人にとっては英印軍として、日本軍従軍のインド国民軍という同胞インド人と相戦う悲惨な戦いであった。

 

ここモイランは、インパール作戦に従軍したインド国民軍が、インドで最初に<インド国民軍の旗>をおしたたてた記念すべき土地である。 その場所に<INA博物館-チャンドラ・ボース記念館>が建っている。

 

       

                     インド国民軍の旗

 

チャンドラ・ボース記念館には、国民的英雄であるチャンドラ・ボースに関する資料の他に、少ないが旧日本軍の武器や軍服、軍刀や遺品なども飾られていた。

インパール南道に面する村落や村民は、全体として日本人に対しての同情心があるようで、ここ記念館でも、歓迎される客として丁重に扱われて、こちらの方が戸惑いと、少し驚かされたのである。

この辺りも戦場となり、殺戮が繰り返されたうえ、将兵が飢えをしのぐために村民の食料を略奪し、蹂躙されたにもかかわらずである。

 

それよりもまして、インド独立に立ち上がったチャンドラ・ボースに、理解と支援をしてくれた日本人や、祖国解放に立ち上がったインド国民軍を、旧日本軍が共同作戦に加えてくれたことへの感謝の気持ちが、親日的感情として残っているように思えた。

 

記念館では、インパール軍管区司令官からのミルクティーの差入れがあったり、館長みずから案内し、詳しく当時の英印軍の防禦情況や日本軍の侵攻、撤退情況を説明してくれた。

 

去るにあたって、<チャンドラ・ボース記念館>の維持管理のためにと寄付をし、感謝の意を伝えた。

 

          チャンドラ・ボース記念館にて館長、スタッフと共に

         <INA Museum/Indian National Army/自由インド軍博物館> モイラン

 

2003年当時、ここインパールへの日本人訪問者は慰霊のための旧軍人の遺族以外は少なかったのではないだろうか。 今回のもてなしも、日本人がインパール戦跡を訪問するという情報を知っていたような気がしてならない。

なぜなら、スタッフがこちらの名前を先に切りだしたからである。 

恐らく、ディマプールの警察を通して、インパール軍管区に情報伝達されていたのではないかと推察した。

 

 

       

              インパール作戦 インパール南道戦跡 2003慰霊の地

                チャンドラ・ボース記念館<INA Museum>

                                                           近辺戦闘図と案内図

 

貸切TukTukによるインパール南道における<ニントウコン橋>でのインパール作戦に倒れた将兵や関係者の慰霊を済ませ、チャンドラ・ボース記念館に立寄り、夕闇迫る激戦地跡<トルブン隘路口>まで再度南下し、インパール南道の風景を瞼に焼きつけながら帰路についた。

 

 

■2月15日 インパール最後の朝

 

15日(土)朝4時、インパールの街中にあるモスク(イスラム寺院)から、すべての平安と安寧を祈るコーランが流れてきた。 ここインパールは、バングラデシュに近く、分離独立後もイスラム教徒が多く住んでいるようである。

まだ外は暗い、インパール最後の朝である。

 

昨夜から停電が続き、暗闇のなかロウソクの灯りで旅日記を綴っている。

ロウソクは自分の身を削って、燃やして、いのち火を提供してくれるものである。

このようなロウソクの当り前な使命に感動している自分に、ふと親しみを感じた。

人間もまた、与えられた使命だけを守り生きられたら、そこには煩悩もなく、平安と安心だけの世界に生きられるのではないか、なぜ、何を、そのように悩むのであろうか。

なぜ人間は、ロウソクのように灯りだけを与え続けることが出来ないのだろうか。

自分の使命さえわからずに生きて悩む、そこに人間の原罪が潜んでいるような気がしてならない。

 

この小さなロウソクの光が、<幸せとは何か>を教えてくれているように思えた。

<おのれを滅却し、光を、愛をのこす> 

ロウソクの光が、くすっと笑ったように揺らいだ。

                  

高木俊朗著「全滅」を、そっとリュックにしまい込み、

インパール作戦 インパール南道慰霊の旅>を終えることにする。

 

          同乗したインパールの住民の皆さんと、カルカッタに戻る列車内で

        <みなさん日系なのか、ここはインドなのか>と、ふと親愛の情が湧いた 

 

         インパールの帰り、ディマプールからの夜行列車の風景

 

   インパール南道での慰霊を終え、安堵の体をカルカッタ行夜行列車の上段ベッドに横たえた

    

インパールの攻略ならず撤退路で倒れていった将兵の霊魂と共に、夜行列車に乗り、カルカッタ(コルコタ)に向かっていると思うと気持ちが昂って眠れない。

目の前の天井扇が、58年前の将兵の呻きのように、オイル切れの錆びた音をたてて喘いでいるように聴こえてきた。

安らかに眠ってもらいたい、と願いつつカルカッタコルカタ)についた。

 

 

<概略 インパール作戦とは>

インパール南道 戦跡慰霊の旅を終えて、インパール作戦そのものを俯瞰しておきたい。

インパール作戦の目的は、大東亜戦争における、日本軍の敗戦が濃くなり、起死回生の作戦として起案されたともいえようか。

太平洋戦争開始と共に、1932年勃発の日中戦争における中国へのビルマ経由の英米の武器輸送路を絶つために日本軍はビルマを占拠した。

2000~3000mの山々に囲まれたビルマは難攻不落と思われ、南方軍は最小の4個師団を防備にあてた。

だが、すでに連合国側はその約4倍の師団をもって、西方面(現バングラディシュ)、北方面(アッサム)、東方面(中国雲南昆明)から、ビルマ方面日本軍4個師団を取り囲んでいた。

 

日本軍のビルマ占領により、米英は、武器輸送路(援蔣ルート)を陸路(ラングーン~昆明ルート)から、インド経由ヒマラヤ越えの空輸に切り替えたが、最悪の気象条件にさらされ、再度、カルカッタからインド北東のレド経由、中国の昆明への陸路ルートを再計画するとともに、ビルマ奪還を狙って盛んにゲリラや偵察隊を潜行させていた。

南方軍は、レド公路建設阻止を実施するにあたって、そのインド側の起点となるインパールを攻略することを最重要作戦目標とする。

また、大東亜会議で約束したアジア各国の独立支援、とくにチャンドラ・ボース率いる<インド解放・独立>を旗印にするインド国民軍を加え、インパール作戦大義名分とした。

ビルマ方面軍は、林第15軍旗下の3個師団をインパール作戦にあてる。

 

インパール北方からの英印軍兵站線を遮断する<烈31師団>、インパール東方からの<蔡15師団・弓33師団 の1支隊>と、インパール南方からの<弓33師団>のインパール攻略のための3師団である。

 

インパールへは、タクラマカン山脈を越えねばならず、企画立案準備段階から困難を極めた。

兵站、すなわち作戦遂行のための糧食や兵器補充をどうするかである。

 

インパール北方の制圧と、インパール防禦英印軍への兵站路を遮断し、レド公路分断という作戦目的をもって侵攻した<烈31師団>は、最難関のアラカン山脈を克服し、目的を達成している。 しかし、師団を支える糧食・弾薬の後方からの兵站が続かず、師団長は抗命をもって退却を決断する。

 

一方、戦車や軍用車両がつかえる道路、即ちインパール南への道は、ビルマ・カレーミョからトンザンを経由し、国境を越える道<インパール南道・ティティム道>があった。

インパール南道は<、今回と2016年の旅で縦断しているが、当時、すでに英印軍が戦車を走らせるために5m幅の道路をインパールから、同じく英国の植民地であったビルマのカレーミョあたりまで通していた。 

ビルマ国境の村・チカからインパールまでが約80kmで、インパール南道方面を侵攻した<弓33師団>がインパールの南に最も近づいたのは、5月20日 レッドヒルの約15㎞地点であった。

 

ほかに、<蔡15師団・弓33師団 の1支隊>が侵攻したビルマ国境タムからパレル経由インパールまでの最短距離約68㎞の道路<タム・パレル道>があった。 ここは山岳道路で防禦も堅固、前進は難儀している。 

ここ<タム・パレル道>では、弓33師団山本支隊と祭15師団2大隊が、英印軍第20師団(ネパールからの勇猛果敢なクルガ兵も含まれる)と激戦を繰り返している。 このとき第15師団は、インパール北15km地点カングラトンビに到達している。

 

どのインパールへの道も、待ち構える英印軍の防禦が固く、山中に散開しての英印軍各個撃破を強いられている。 この立派なインパール南道<ティティム道>も侵攻時は、敵の標的になるため自ら切り開いたジャングル道を進み、インパールに向かっている。 

各師団ともインパールのすぐ近くまで進撃肉薄しているが、最後はインパールを防御する英第4軍団の待ち受け猛反撃と消耗戦という罠にかかるとともに、自軍の兵站・補給線の延びきり、雨季の到来によってインパール攻略を放棄せざるを得なかった。

 

ただでさえ糧食・弾丸の尽きた困窮の将兵に襲いかかったのは、マラリア赤痢と飢餓であった。

雨季や兵站の失敗から、ようやくビルマ方面軍は各師団に転進(退却)を命じるが、すでに各師団は総崩れのなか退却の途にあった。

 

ましてや制空権を失っていた第15軍の各師団の撤退は、退路を断つために降下した英印軍の落下傘部隊による殲滅戦が加わり、撤退路すべてに凄惨な屍が重なり、いわゆる白骨街道と化した。

 

インパール作戦は、作戦遂行に必要な要件がそろっておらず、将兵の消耗の激しさから、各師団長は退却を具申するが、受け入れられず、日本軍はじめての抗命事件に発展する。 三師団長ともに、作戦遂行中に罷免・更迭され、ビルマ方面軍・林第15軍は組織としての体をなさなくなっていた。

 

この悲惨なインパール作戦は、日本軍の弱点がさらけ出された特異な作戦であったと、識者のあいだで言われている。

旧日本軍の軍人精神を支えていたと言われる、特有な人情、組織内融和、絶対服従天皇忠誠、物量・情報・人命にまさる忠義、特攻精神論、絶対命令と服従、命は預かった自決せよ、退却許さず転進せよ、切込み玉砕せよ、ピンタこそ鍛錬、責任は上司に転嫁するな、などに旧日本軍の姿勢が見られるようだ。

 

インパール作戦は1944年7月1日に中止され、8月12日、大本営が「コヒマおよびインパール周辺の日本軍部隊は戦線を整理した」と発表して、終結した。

 

 

 

(注・このブログは2003年2月に訪れたインパール南道の旅日記をもとに、2022年6月に仕上げたもので

   あり、時間差があることをご了承願います)

 

なお、2016年、ビルマ(現ミヤンマー)側のインパール作戦 戦跡<白骨街道➀~⑱>を歩いているので、合わせてお読みいただければ、インパール作戦全体像を見ていただけると思います。

https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/14290567(➀~⑱)

 

 

次回は、ヒンズー教の輪廻転生の世界<バラナシ>を訪ねます。

 

               

       『星の巡礼 インパール南道 戦跡慰霊の旅』

               後藤實久記

 

                

 

        次回   《星の巡礼 バラナシ ・ ガンガー沐浴巡礼の旅》 

                に続く

 

                   

 

 

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<関連ブログ>

 https://shiganosato-goto.hatenablog.com/entry/14290567(➀~⑱)

 

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