<2015年3月2日~7日 「ルソンの戦い ・ マニラ⇒バナウエ 500km縦断バス紀行」>
フィリピン縦断2500km バス紀行 3 <ルソンの戦い>
《 美しいバナウエの棚田 と ルソン戦跡 》
高架鉄道Line 1 の始発駅「Baclaran」より乗車し、「Doroteo Jose」駅で下車。トリサイクル(サイドカー)でQuiapoのLacsan Ave.にある「OHAYAMI BUS TERMINAL」に到着。
ここよりルソン北部約500kmに位置するBanaue<バナウエ>へ夜行バスでむかう。
発車時間21:00まで時間があるので、近くのセブンイレブンで夕食をとる。
この日は22:00発の臨時便も増発された。
OHAYAMI BUS TERMINAL
バス内はほとんど欧米人のバックパッカー、フランス人・ドイツ人・オランダ人ほかで満席である。
夜行バスはあろうことに冷房がききすぎて寒さに震える。途中二度のトイレ休憩をし、翌朝4時30分、
バナウエに到着した。
バナウエは、ルソン島中央を走るコルディレラ山脈の中央に位置するイフガオ州の町である。世界
遺産に登録されているライステラス(棚田)で有名であり、世界中から「天国への階段」と言われる
のどかな棚田を観賞するために訪れる。
これらの棚田は、約2000年前にイフガオ族によって造られたものだ。現在は後継者が少なくなり、
棚田も一部荒廃しかけていると古老は嘆いていた。
Banaue Tour Map<バナウエ観光地図>
Banaue Rice Terrace<バナウエ棚田>
Batad Rice Terrace へ向かうジプニー
バタッド棚田の全景
しかし、いまから70年前の太平洋戦争において、この牧歌的な山岳地帯では日米両軍による激し
い攻防戦が展開されたのである。
わたしはこの激戦の地に残された棚田のなかを日本軍の敗残兵が山岳地帯に逃れいく姿を思い
つつ、その畦道を歩き回った。
そしてそれらの棚田を画いてこころにとどめてきた。
ライステラス(棚田)の畦道
バナウエのライステラス(棚田)
バタッドのライステラス(棚田)
《 ルソンの戦い 》
司令官 山下泰文大将降伏の地キアンガンの町は、ここバナウエよりジプニー(ジープ改造乗合
バス)で1時間半のところにある。
町の中央にある小学校には大将が降伏を申し入れた教室が残っており、現在は資料館となって
いる。
山下将軍が降伏を申出た小学校(現在資料館)と案内板
「SURRENDER OF GENERAL YAMASHITA」
On this site, General Tomoyuki Yamashita together withhis staff
surrendered to the Elements of the U.S. 6thArmy in the morning of
September 2, 1945.
The final surrender ceremony took place the followingday at the
High commissioner’s residence, Camp John Hay, Baguio City.
「ルソン島の戦い」
集中しての平原部での決戦を変更し、司令官の山下泰文大将は「持久戦により敵をルソン島に
可能な限り引き付ける」方針に転換した。
方面軍司令部も北部山地のバギオへと移動した。
地である。
とどめようとする日本軍との激しい攻防が展開された。
「激戦地・バレテ峠の戦跡碑」
戦跡碑には、
「ここバレテをめぐる山野は1945年1月から半年にわたり『鉄・撃・泉』の日本軍と
米比軍が壮絶な死闘を続け阿修羅の鮮血で染められた天地慟哭(どうこく)の戦跡である。
この決戦は北部ルソンの命運をかけ祖国のため17100余の両軍の戦士が砲火の中に散った。
ここにその遺烈をしのび鎮魂の祈りを捧げ人類永遠の平和を願ってこの碑を建てる」
とある。
激戦地バレテ峠の戦跡碑 戦没者追悼之碑
「バレテ」はルソン島中部の山岳部にある峠、「鉄」は陸軍第十師団、「撃」は戦車第二師団、「泉」は陸軍第二十六師団を意味している。
バレテ峠は、マニラの北210キロに位置する。太平洋戦争末期、旧日本軍がルソン島をめぐり最後
の防衛線を敷いた要害の地であった。半年近い攻防の末「鉄・撃・泉」はほぼ全滅した。(2002/
1/13 まにら新聞より)
こうした中で兵士たちに下されていた命令がある。『自活自戦・永久抗戦』、補給なき永久抗戦、
食糧も物資も自ら調達し永久に戦い続けろというものであった
1945年4月23日、日本軍はバギオを放棄、更にバナウエ近くの北部山岳地帯に拠点を移す。
米軍は、ガダルガナル戦から始まるレイテ戦・ルソン戦までの激戦により、日本軍の徹底抗戦を
見て日本への本土上陸戦を躊躇したとも言われる。
しかしこれらの島にある飛行場をつかっての戦略爆撃機B-29よる日本本土を絨毯爆撃で屈服さ
せられるとの見解を持っていたらしい。
ルソン戦での日米間の戦力は日本軍250,000名(内戦死217,000名)、米連合軍175,000名(内戦死
8,310名)であり、日本軍の生存率は13%(生存者33,000名)であった。
そして終戦(1945年8月15日)後、1945年9月2日フイリピンにおける日本軍最後の抵抗の地、バナウエ近郊のキアンガン(当時日本名:桜町)にて日本軍は降伏する。
山下将軍は翌日バギオに移送され降伏文書に調印した。
フィリピン縦断2500km バス紀行 4
<マバラカット戦跡>につづく