shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

「星の巡礼 フィリピン2500km縦断バス紀行」2 ーコレヒドール戦跡

フィリピン2500km縦断バス紀行2 

コレヒドール戦跡を訪ねてー

 

 

2015228日早朝(土曜日) 31.4  コレヒドール戦跡>


宿泊先を出てコレヒドール島行きフェリー乗場「SunCruises」の波止場にむかった。途中、バクラ

ラン大聖堂に立寄り、フイリピン戦での戦没者498,000名と太平洋戦争で散った両軍すべての
御霊に灯明をささげた。
 

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      「一灯霊魂」
       詩 後藤實久


《 ああわれいま  戦没者の灯明の前におりて


  先達の純真なる誠にこころ洗わる


  われいま  この灯明に頭たれ


  悠久に生きるもののふ(武士)の哀れを識る


  ああいま君らよ  安らかな眠りにありて


  われわれを守りたまふを こころして謝す  ≫


 
フェリー・サンクルーズ号のターミナルに到着。一日一便とのことなので急ぎ窓口で申込ん
だところ、本日はすでに満席。臨時便の正午発、18時帰着のフェリーに乗船することになった。

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コレヒドール島戦跡案内地図
 
 
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島内戦跡観光バス

 
 
コレヒドール島はマニラより西南へ約45km、約1時間のマニラ港入口に浮かぶお玉じゃくしの
形をした小さな島である。対岸のパターン半島まで約6kmの距離でもある。


マニラ防衛の重要な位置にあり、スペイン統治時代には税関がおかれ出入港の船を取締って
いた。アメリカ統治時代になって要塞化され、太平洋戦争において熾烈な日米の攻防が展開
された島である。


臨時便には、たくさんのフィリピン観光客や二組の日本人グループ12名、ほかに欧米人
カップルが乗船した。

日本軍が設置した防御反撃用洞窟を見ながらフェリーはコレヒドール島のノースドッグに

着岸する。

ほとんどの人はトロッコ型観光用オープンバスに分乗しサウスドックにあるレストランでランチ

をとったあと出発となる。


わたしはツアーには参加せず全コースを徒歩でまわった。
70年前の空気を吸い、風にあたり、草花と話し、小鳥たちと共に歌い、土の感触を味わい、
スケッチをし、亡き兵士たちと静かに話をしたかったからである。
そして持参した比良山系の天命水をささげ、線香を焚き亡き人々を弔うためである。


もちろんトロッコ型ツアーバスに乗車すると、英語と日本語ガイドに分かれ戦跡を回ってくれる。
水やランチを詰めたバックパックを担いで、磁石と地図をみながらひとり先にスタートした。

コレヒドール戦跡ウオーキングをしながら、亡き先達たちと共に般若心経を唱え、白隠禅師坐禅

和讃を唱和し、詩吟を吟じながら悠久の時を過ごした。


コレヒドール島 の攻防」


  太平洋戦争開始時の19421月、フィリピンにおける米軍の司令部はコレヒドール島におかれて
 いた。日本軍はパターン半島とコレヒドールに立てこもった米軍(比軍を含む)を攻撃。マッカーサ
 ー司令官のオーストラリアへ脱出後、頑強な要塞に立てこもったコレヒドール米軍守備隊を
 1942イメージ 156日に降伏させた。


しかし19452月、米軍反攻に際して、コレヒドール島防衛日本軍4500名は要塞のトンネルを
駆使して夜襲による抵抗を終戦後の19461月まで続けた。生存者は18名といわれており、これ
また全滅に近かった。

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  マリンタ・トンネル
 
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マニラ港防衛砲台
 
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ミドルサイド旧兵舎

 
 
《 南風  こころ吹き抜け  無のこころ 》  實久
 


島を後にするにあたって、ノースドック・フェリー乗り場近くにある「コレヒドール教会」に跪き、亡き将兵に思いをはせ《みたま、安すらかならんことを 》静かなる祈りを捧げた。遠くから木魚を叩く

音が風に乗って聞こえてきた。気のせいだろうか。


コレヒドールに散華せし大先達にささぐ」

       詩・後藤實久


 《 ああわれいま  コレヒドールにおりて


      椰子の木陰に  涼をもとめし


      70年の月日去り  今なお傷は癒えず


      壕にこもりて  息をひそめ


      猛攻に散りし  6千数百の御霊


      海風に乗りて  その霊をいやす


      ささげし漢詩  吟じて唱和す


      草木に宿りし魂  いまだ健在なり


      ああわれいま  その血の同胞に


      誇りと真誠を授かるなり


      君よ  安んじて眠りたまえ 》


 

 

「パターン半島 死の行進」


コレヒドール攻略前に日本軍はパターン半島を占領した際、想像していた捕虜の数25,000名を
大きく上回る約76,000名を後方に移送しなければならなかった。
194249日に起こった死の行進、炎天下での徒歩行進による疲労、食糧不足による飢え、輸送手段の不足、殴打、処刑、マラリアの蔓延、不服従に対する暴力ほか悪条件がかさなり起こったのが「パターン死の行進」(マリベレス⇒サンフェルナンド間 88km)といわれる。
これは東西両文明観や戦争観、とくに戦争捕虜に対する基本的なルールの相違からくる齟齬があったともいわれる。
今回、赤道に近いパターン半島をバスで走ってみてその過酷な暑さは身に染みるものであった。


 
 
 
フィリピン2500km縦断バス紀行 3
    -ルソンの戦いー につづく

 

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