shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 9

2017 星の巡礼奥の細道2400kmをたどり、恐れながらわたしも一句』 4

                                                         
 ② 日光 1  平成29(2017)年5月6日

② 日光    
日光街道杉並木 家康家臣・松平正綱寄進、上今市駅東武)よりスタート  
□裏見ノ滝 奥の細道「岩頭の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ち」  
□句碑・芭蕉「暫時は」 バス停近くの安良沢小学校 「暫時は 滝に籠るや 夏の初め 」(しばらくは)
□句碑・芭蕉「あらたふと」 大日堂跡と東照宮宝物館に有り 「あらたふと 青葉若葉の 日の光」
□含満ケ渕(がんまんがふち) 化け地蔵 急流うずまく奇観、無数の物悲しい赤涎掛け地蔵
東照宮参詣 二荒山神社輪王寺 男体山(黑髪山)しなやかな稜線、杉並木、裏見滝
□句・芭蕉「あらたふと 」 高野家敷地内 「あらたふと 木の下闇も 日の光 」
□句・曽良「剃捨て 」   「剃捨て 黒髪山に 衣更」
□句・芭蕉「暫時は 」   「暫時は 瀧に籠るや 夏の初」
 
 
 
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深川を舟立ちした芭蕉曽良そして見送りの一行は隅田川を遡上、千住大橋に上陸した。 ここで盛大な見送りを受けた二人は、日光街道を北に向かった。

現在、千住大橋の手前に位置する素戔嗚神社(すさのお)にある芭蕉句碑「行く春や」、千住大橋北詰の大橋公園にある「矢立初の碑」はすでに見てきた。
 

いつだったか数年前、NHK歴史秘話ヒストリア日光東照宮徳川家康~、<家康の暗号を解読せよ>という番組を見たことがある。
今回、芭蕉の跡をたどり、日光に立寄るにあたって「家康は、なぜ日光に東照宮を建てさせたのか」という歴史的空想にひたった。
 
なぜなら、家康の遺言である「遺骸は久能山へ納め、後に日光に移せ」によって日光東照宮が建てられたからである。
番組でも指摘していたように、この遺言にある隠された謎を解くには、つぎの二つの事象にあるということに気付かされる。
神になって徳川家の永続的な安泰を願うため、現在の男体山に抱かれた神域・日光の地を選んだと思われるから興味深い。
  1. 久能山と日光の間に富士=「不死」の山があること
  2. 東照宮社殿の真上に北極星=天の最高神が輝くこと
死んでのちまでも権威によりこの国の安寧を願ったのであろう。いや、幼い頃の人質としてのみじめな、はかない命の流浪をおもい平和を強く願っての遺言であったかもしれない。

と空想すると、権謀術策にたけた家康が江戸300年の平和な時代を築いたことが、日本の文明開化の礎になっているから歴史は面白い。家康もまた歴史上、日本近代化の基礎をつくった偉大なる貢献者の一人であることは確かである。
 
しかし、後世の人間は、なにかと講釈をつけたがるものである。芭蕉もまた、江戸幕府の各藩に対する探索の忍びではなかったかと推し量ることになる。芭蕉は、服部半蔵の仮の姿であるという説さえある。

案外、歴史と言うものは実情とは大きくかけ離れ、その時々の都合の良いように解釈され、面白おかしく語り継がれているのかもしれない。

しかし、歴史に夢を追うことの楽しさだけはやめるべきではない。
歴史への夢は、そこにある遺跡や遺構、生活や思想、自然を訪ねることから始まるからである。そして、そこに歴史の道が残され、そこに営みがあったからである。
 
男体山 (なんたいさん)

日光は、男体山を背に拓けた山岳信仰の地である。この神域に抱かれるように二荒山神社輪王寺東照宮が荘厳な杉木立の中にある。
余談だが、この男体山日本百名山の一つであり、山頂2484.15mに二荒山神社奥宮と宝剣が立っている。

ここから眺める緑の樹海に光る中禅寺湖の美しさはまた格別である。


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樹海に神秘な姿をあらわす中禅寺湖男体山より)
 

 

この期間は5月のゴールデンウイークであり、杉並木の日光街道は押し寄せた車列で渋滞。

この辺りは、家康の家臣・松平正綱が慶長元年(1648)、約370年前、日光街道をはじめ37kmにわたり寄進した杉並木の一部である。樹齢三百数十年の杉並木が空をおおっている。


芭蕉曽良もこの杉並木の街道を歩いている。

 

日光駅から発する東武線とJR線の分岐、国道119号線の陸橋付近にある旧日光街道の杉並木を日光ベースキャンプとすることにした。

 

ここ旧街道は砂利道をそのまま残し、屹立する日光杉並木はその威風堂々たる立ち姿をいまに伝えている。その旧街道をまたぐように東武線が走っており、その電車音が心地よい。廃屋の庭には木蓮の白花が美しく咲いていた。

 

さっそく自転車を組立て、奥の細道第二ステージ・日光めぐりに出かけた。

 

いっこうに動こうとしない車列をぬいながら国道119号線を西走。日光駅辺りからの坂道は、人の波が車道にもあふれている。自転車を手押し、人の波に押されながらの日光詣もたのしい。


鉢石宿本陣跡・高野家

 

日光市役所前の歩行者専用信号よりすこし駅寄り(東へ)の道を北へ入った旧鉢石宿(はついししゅく)本陣跡・高野家の敷地内に芭蕉の本真蹟を彫り付けた句碑「あらたふと」(元禄25月・1689)がある。

 

このほかに、後で立寄る大日堂跡と東照宮宝物館に芭蕉句碑「あらたふと」がある。

 

芭蕉 「あらたふと 木の下闇も 日の光」   (あらとふと このしたやみも ひのひかり)  

           高野家にある芭蕉句碑 ・ 初案 ・ 曽良書留


「あらたふと 青葉わか葉の 日の光」  (あらたふと あおばわかばも ひのひかり)  

           大日堂跡・東照宮宝物館にある芭蕉句碑 ・ 推敲 ・真蹟懐紙


 この句も初案から推敲によって大きく変った。


 なんと尊いことだろう日光山は。新緑に埋もれる木の下闇まで燦 々と日の光が射している。これは、
弘法大師さまと東照宮さまのおかげだ。


 奥の細道>卯月朔日、御山に詣拝す。
  往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。
  千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。
  猶、憚多くて筆をさし置ぬ


 <現代語訳>元禄二年(1689四月の一日、日光山東照宮にお参りする。その昔、この御山は「二荒山」と書かれていたのを、弘法大師がこの御山を開いたときに音を合わせて「日光」と改めたという。大師は、千年の後のこの繁栄を予見されたのであろうか。東照大権現様以来の徳川家のご威光は、日の光のように天空に輝き、その恩沢は八方にあふれ、士農工商すべての人々はみな安堵した生活をおくっている。なお、書くべきことは沢山あるが、おそれ多いので筆を擱く。


 

         實久 「杜の海 緑波打つ 日の光」   (もりのうみ みどりなみうつ ひのひかり)


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  高野家の句碑「あらたふと」       東照宮宝物館の芭蕉句碑「あらたふと」    大日堂跡の句碑「あらたふと」


神橋


高野家をあとにして進むと、その真紅が青葉若葉を背に鮮やかな大谷川(だいやかわ)に架かる「神橋」にでる。神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流の日光橋を使用した。神橋はアーチ形の木造反り橋で、山口の錦帯橋・山梨の猿橋と並んで日本三奇橋の一つに数えられている。


この日も世界遺産である神橋の周辺は、世界各地からの旅行客でにぎわいを見せていた。その美しい曲線は、二荒山神社へといざなう神の道の入口にふさわしい尊厳を湛えていた。

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大谷川に架かる世界遺産「神橋」 と 愛車「ワイルド・ローバー号」


 
慈雲寺・化け地蔵・含満ケ淵

 

すこし横道にそれるが、「化け地蔵」に出会いたくて「含満ケ淵」(かんまがふち)におりてみた。

119号線にかかる日光橋をわたり左(西)へ自転車を走らせ、約600m先にあるバス停「総合会館前」の三叉路を左に入る。


大谷川へ下って、橋を渡り道なりに走ると日光植物園の南端にある「化け地蔵(ばけじぞう)」で有名な慈雲寺山門をくぐり「含満ケ淵」(かんまがふち)にでる。大谷川の渓流を見下ろすように化け地蔵さんたちが新緑を楽しんでいた。


これら70体以上の石地蔵が大谷川に向かって一列に並んでいるが、何度数えてもその数が合わないので「化け地蔵」という名がついたそうである。


含満ケ淵は、男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝。大谷川の急流の水音が、不動明王真言の一節のように聞こえることから、漢字をあてて命名された。上流の絶壁には、弘法大師の投筆といわれる「かんまん」の梵字が刻まれている。(地元観光情報より)

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 慈雲寺山門                                           化け地蔵                                      含満ケ淵


 

ここから自転車を担いで大谷川沿いに大日堂跡に抜けられるのだが、石段が多く体力的に無理と判断(徒歩での通り抜けは可能)、もと来た道をもどり、国道120号線をバス停「裏見ノ滝」までの約2kmの緩やかな坂道、自転車を走らせる。暑さに加え、ゆるやかな上り坂、バス停手前の左側にある「スーパーさがみや安良沢店」で休憩、日光名物・揚げ湯波(ゆば)饅頭をいただく。



裏見ノ滝


国道120号との分岐を右に入り約2km先の「裏見ノ滝入口」に自転車をおいて、山道にしたがい滝を往復する。



芭蕉 「暫時は 滝に籠るや 夏の初め 」 (しばらくは たきにこもるやげのはじめ)      安良沢小学校句碑


         「裏見の滝」を見物しながら、まるでその夏行に入ったような気分になった。そういえば、もうそろそろ
        夏行の始まる季節だ。


          句にある「夏(げ)」とは、夏行(げぎょう)・夏篭(げごもり)・夏安居(げあんご)の略で、僧の修行の
     事をいう。


          奥の細道>二十余丁、山を登って滝有り。岩頭の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩(せんがん)

     の碧潭(へきたん)に落つ。岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏より見れば、うらみの滝と、申し伝え

     侍るなり

   <現代語訳> (東照宮から)二十余丁ほど山を登ってゆくと滝がある。岩が洞穴のようにくぼんだ

     ところの頂上から百尺も飛ぶように流れて、たくさんの岩が重なり合っている青々とした滝壺に落ち
     込んでいる。岩屋になっているところに身をかがめて入り込んで滝の裏側から眺めるので、裏見の滝
     と言い伝えられている。


 

          實久 「光り絶つ 裏見の滝や 芽吹き哉」     (ひかりたつ うらみのたきや めぶきかな)


          實久 「あの世へと 夏弾きしや うらみ滝」    (あのよえと なつはじきしやうらみだき)  



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右手前が「裏見ノ滝」バス停と分岐(滝は右へ)         裏見ノ滝入口                            日光・裏見ノ滝