shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼 モンゴル紀行 』 14

2017『星の巡礼 モンゴル紀行 』 14 


ノモンハン事件(ハルハ河戦争)に関する 考察

モンゴルといえば、日本と戦った国でもある。
是非ともノモンハン事件に触れておきたい。
モンゴルでは、ノモンハン事件のことを「ハルハ河戦争」とよばれている。

ノモンハンでの戦いは、「事件」で済まされるものではない。
日本軍の強弁に過ぎなかったともいえる。

当時のソビエット赤軍にとっては、周到に用意され、国際情勢を分析したうえでとられた国家最高機関が
決定した近代戦であった。
あとでも触れるが、日本軍側は当初、満蒙の国境線策定をめぐっての局地戦としてしかけ、ソ連軍の実力を
試した作戦にすぎなかった。国家戦略ではなかったのである。

 
オノン川、ヘルレン川、ハルハ河が流れる、豊かな草原で生まれたテムジンが後にチンギス・ハーンとなり、
ユーラシア大陸にまたがるモンゴル帝国を興したのは東モンゴルであった。
この地は1939年にハルハ川周辺で起こったノモンハン事件(モンゴル呼称:ハルハ河戦争)の舞台でも
あった。
 
東モンゴルは、中国に続くなだらかなメネン平原にあり、360度見渡す限りの地平線、肥えた大地、豊かな水で満ちている。
この平和な地に、世界制覇を狙ったチンギス・ハーンの誕生をみたり、本格的な戦争「ノモンハン事件」が勃発
したとはとうてい想像することができない。

モンゴル自体が天国に広がる大草原であり、時がゆったりと流れる大地である。チンギス・ハーンのような闘争心や野心が生まれる必然性を見出すことができないのである。

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 ここノモンハン事件の主戦場であったノロ高地は、モンゴル大草原の東端にある


今回は、ウランバードルより東モンゴルにあるノモンハン村への交通の便を確認できず、残念ながらノモンハン村訪問をまたの機会にまわすことにした。
ノモンハン事件は、日本軍敗北のセオリー(弱点)が隠されているということで以前より興味をもっていた。
 
モンゴルに出かけるにあたって、ハルハ河で戦われた「ノモンハン事件」(モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ばれている)について調べてみた。

半藤一利著「ノモンハンの夏」(文春文庫)からは、多くの事実と詳細な日ソの戦闘履歴を知ることができた。
また両軍の指揮官の能力、戦略と作戦の比較、当時の世界情勢、スパイによる相手国の情勢分析ほかを
興味深く読ませてもらった。

特に、国家としての大局的戦争観による戦略・戦術に対する優先順位の付けかたなどに興味をもった。
 
昭和初期、日本陸軍の対ソ戦をにらんだ北進論を大前提に、その後方である中国を叩いておく必要から
日清事変をおこしたとある。
それも3か月ほどで作戦を完了できると天皇に上奏し、允可をうけていた。
しかし、中国戦線は泥沼化し、軍装備が底をつき大幅に作戦目標が遅延していた。

かかるとき、ドイツ提唱による三国同盟が提案され、北進論の当事者はドイツによるソ連のけん制に期待した。しかし日本の期待にもかかわらず、突如一時的な独ソ不可侵条約がむすばれ、ノモンハン事件に大きな影響
を与えることになる。
 
モンゴル高原の大草原は東方のチンギス・ハーン生誕地、ノモンハン事件の戦場であるハルハ河にまで
伸びていることは先にも述べた。
地図で見るとユーラシア大陸はモンゴルを中心に大草原が広がっていることがわかる。
この大草原を生活の拠点としている遊牧民は大草原を遊牧することになる。

古代から遊牧民は真水を求めて牛馬、羊や駱駝を移動させていた。

モンゴルの東方遊牧民もハルハ河の真水の確保は死活問題であった。
なぜならモンゴル東方に点在する湖水のほとんどが塩水で、遊牧には適していなかったからである。

モンゴル当局は、ハルハ河の真水を確保するため遊牧民として当然、ハルハ河東岸一体の領域、
すなわちハルハ河より東方へ数十キロのところを国境として確保していた。
このような国境の決め方は、国境を接する国々の暗黙の了解として成立していたのである。
ノモンハンという小さい村の周辺では、このハルハ河東岸より数10キロの所にあり、たびたび国境紛争が
勃発していた。
 
一方、満州を支配し、モンゴルと国境を接していた日本帝国の関東軍の考える国境は、ハルハ河の真中の
中心線であった。
モンゴルと日本の国境線に関する決定的相違がノモンハン事件を引き起こしている。
これは遊牧民と農耕民との歴史的土地紛争の繰返しに過ぎなかった。

しかし当時の世界情勢からみて、この片田舎の国境問題は連合国側と枢機国側、南進運動を繰り返すソ連
北進論をとなえる日本帝国の実験的衝突でもあったといわれている。
 
ノモンハン(村)満州国の西北部にあり,外モンゴルとの国境が不明確な,国境紛争の発生しやすい地帯であった。
遊牧民でない大日本帝国満州の資源に目をつけ満州に傀儡政権を樹立させ、満州国を建国したことにより、ソ連およびモンゴルとの曖昧な国境をハルハ河の中心線であると宣言し、国境を一方的に策定してしまった。

これに反発したモンゴル、いやソ連の援助で建国したモンゴル人民共和国との間に小競り合いが発生する
こととなる。
もちろん国境紛争拡大に伴い、モンゴルは宗主国ソ連の助けをうけ、ソ蒙連合軍として対峙することとなった。

ノモンハン事件とは、1939年、モンゴルと満州 (中国東北部) との国境地区で起った日本軍とソ連軍の大規模な衝突事件である。 結果は,日本軍の惨敗に終った。

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 ノモンハン事件の象徴としての典型的な日本軍万歳写真 ― 事件勃発初期

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ハルハ河戦争のソ連軍の戦車・飛行機と赤軍兵士                モンゴル人民軍の騎馬兵団の兵士
                                         <以上三点の写真は専門誌よりの転写>

ノモンハン事件での敗戦の最大の要因は、ソ連に事件拡大の意図はないとソ連の意図を完全に読み違え、
兵力の増強を怠った日本陸軍中央というよりも、関東軍の甘い情勢判断にあった。
ソ連軍はハルハ河西岸一帯に大量の軍需物資を鉄道輸送と陸送によって貯蔵すると同時に強固な陣地を
構築して、日本軍を待ち構えていた。

ドイツとの電撃的な不可侵条約を締結したソ連は、西部戦線の兵員、武器等を東部戦線での日本軍との衝突に備えて移送、万全な準備を期していた。
ソ連としては西部戦線でのドイツとの本格的戦闘に勝利するために、東部の日本軍を徹底的にたたいておきかったのである。
 
ノモハン事件に対する専門家の見方は、次のように要約できるであろう。

ノモンハン事件に見る日本軍の特徴はその後の太平洋戦争に引き継がれ、一部参謀の暴走となる。
ノモンハン事件の首謀者である関東軍参謀、服部征四郎や辻正信の強権な作戦指揮による敗北にも
かかわらず、陸軍は軽い処罰におさえ、太平洋戦争の作戦指導をまかせるという愚かを犯す。

ノモハン事件の敗北は、インパール作戦の失敗をへて、そのまま太平洋戦争敗北の教科書であったに過ぎない。反省・改善・改良もなく精神主義をもとめて、近代合理戦に遅れをとったと言える。
日本軍は頭がいいというだけで参謀や上級将校のもつ変質的な精神性に兵士の命や国民の命をまかせてしまっていた。
これらの大切な命を消耗品として玉砕へと追い込んでいった」(半藤一利著「ノモンハンの夏」文春文庫)

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ナダーム(革命記念日)参加の退役軍人
チンギス・ハーン像がおさまる政府宮殿、モンゴルの英雄・スフバートル像を背景に写す


ランバードルのスフバートル(チンギスハーン)広場で出会ったモンゴル軍退役軍人。
ちょうど7月11日は革命(独立)記念日「ナーダム」で、多くの軍服姿のリタイアした元軍人と出会った。
ハルハ河戦争(日本ではノモンハン事件)を知っているかとの質問にもこころよく答えてくれた。
ノモハンでの先輩たちの勇敢な戦いを賞賛し、誇りに思うと口々に語っていた。


かれらの先輩は1921年、モンゴル人民義勇軍として中国と戦い中華民国より独立を果たし、1939年からは東部国境で日本軍の大規模な侵入を受け、ソ連軍と共に日本軍を撃退し、勝利を収めている。


日本人にはあまり知られていないが、第2次大戦では、先にも述べたように1945年にソ連と共に対日宣戦
に参加している。
そして戦勝国として多くの日本軍捕虜をウランバードル近郊ほか数か所に抑留し、戦後のモンゴル復興に強制労働として利用した。
現在のウランバードルの近代都市の基礎、レンガ積みが旧日本軍の抑留者の汗と労力で出来上がっている
ことをしり、何とも言い難い感慨にふけった。


 
◎日本人墓地跡


モンゴル人民共和国は、ノモンハン事件(ハルハ河戦争)の賠償請求を目的として、ソ連の対日参戦の10日後に派兵した。
スターリンに要請し、ソ連が捕虜にした日本軍将兵をモンゴルにも分駐させ、戦後のウランバードルの首都建設に従事させた。
いまでも焼失し、日本人抑留者の手により再建(1950)されたオペラ座やスフバートル広場を囲む博物館、宮殿などはモンゴルの人々に利用され、愛されている。抑留者の血と汗で積み上げられたレンガひとつひとつに日蒙の礎が輝いているように見える。

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                 ウランバードル国立オペラ座

第二次大戦の終戦時、ソ連により抑留された日本軍将兵は、当時のモンゴル人民共和国(ソビエット連邦衛星国)内16か所の抑留所(ソ連のいう捕虜収容所)にも分散抑留された。抑留された日本人捕虜は総勢12318名であり、ソ連によって抑留された全捕虜650000名の  約2%にあたる。


敗戦国日本と戦勝国ソ連では、敗戦時の捕虜に関する見方が違っていた。日本側は捕虜に関して、終戦後の抑留者と解釈していた。一方、ソ連側は戦闘時の捕虜という見解をもっていた。


冬には零下40度にもなる酷寒のもとでの(強制)重労働や病気ほかにより抑留期間中(1945-1947)に亡くなられた方は、約1600名といわれる。


ここダンバダルジャーの丘に、ノモンハン事件の賠償としてウランバードル首都建設に使役され、亡くなられた方々を慰霊するため、厚労省により日本人墓地跡に慰霊碑と記念堂が建てられている。

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         日本人墓地跡に建てられた記念堂と慰霊碑
 


この日も暑い日であった。彼らの手で造られたウランバードルの街を遠望しながら霊を慰め、あとにした。


<アクセス>
循環バス・ダンバダルジャー線#27に乗り、終点一つ手前「VOKZAL」で下車する。
日本人慰霊堂のあるダンバダルジャー寺に立寄り、寺の西方にある丘へ坂を約1km上ると慰霊碑の
ある公園にでる。
慣れていないとバスはむつかしいので、タクシーの運転手に行先のメモをみせて、確認を取ったうえで
連れて行ってもらうことが無難である。

 


◎ ジューコフ博物館


ノモンハン事件に勝利したソ連側の戦争博物館にも足をのばした。
ジューコフ博物館へは、ウランバードル市中心・スフバートル広場南のエンフイバン(平和)大通り前の東行きバス停からトロリーバス3番に乗り、ジューコフ博物館前で降りる。
ジューコフ広場の中央にジューコフ元帥の胸像があり、東側(向かって右)に瀟洒な建物の入口がある。


博物館のチケット売場で、写真撮影の許可を申出たが、撮影禁止だとのことで残念ながら貴重な写真資料を残すことができなかった。
もちろんソ連側(現ロシア)の展示なので、そのほとんどが当時のソ連製最先端近代兵器の展示であり、ジューコフ元帥を讃え、戦闘の作戦地図にあふれている。
最近のロシア側研究によると、ノモンハン事件ソ連側損害の規模は日本で伝えられているよりも甚大であったということが発表されている。ジューコフ元帥の人気を抑えるため、スターリンはその功績を修正して発表させていたきらいもある。


ただ、日本軍の善戦にもかかわらず、大敗にいたった作戦計画に問題があったとする見方があ。、
日本軍敗北の原因は、前項のノモンハン事件でも取り上げたが、指揮系統の脆弱さ、最終責任の所在の曖昧さ、戦略にたいする組織的欠陥、近代戦争への無思想などが挙げられている。


敵将・ジューコフ元帥も、日本軍兵士の勇敢さを賞賛し、指揮官および参謀の無能さ、無責任さを指摘していることは注目すべきである。
ノモンハン事件の真相を再検討し、再評価する時期であるともいえる。


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ランバードルにあるジューコフ博物館 (ノモンハン事件ソ連側展示)
 
■結び
モンゴルは、蒙古と言っていた時代がある。
モンゴル、蒙古、チンギス・ハーン、ノモハン事件・元寇という言葉を聞いても、遠い国であるように
感じていた。
元寇による倭の国への襲来という歴史や、満蒙国境(ハルハ川)で接していた隣国の時代もあった
ことを考えると、案外近い国でもある。

大切にしたい隣人である。

以上、日本とモンゴル間の歴史の触れ合いにスポットを当ててみた。
こころにあたためていたゴビ砂漠カラコルムでのトレッキングと露営を無事なし終え、
こころ満ち足りた気分でモンゴル大草原を後にし、機上の人となった。
 
感謝の一言である。  合掌
 
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 ウランバードル・チンギス・ハーン国際空港を飛び立ち、帰国の途についた
 KOREA AIR LINE #KE-868) 



                               2017『星の巡礼・モンゴル紀行』