1.黒羽⇒芦野⇒白河 <奥の細道紀行1>
④ 芦野の里(あしののさと)を自転車で走る-2
◎境の明神
芦野の里をあとにして国道294号線(旧奥州街道)を北上、栃木と福島の県境に「境の明神」がある。
文禄4年(1595年)、当時白川を支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営。
このため道中の安全を祈ったり、寄進なども多くなされたようである。
みちのくに入って耳にする田植歌。 白河の関を越えると歌いながら田植えをするという
風流な習慣があることを詠っている
恐れながらわたしも一句
境の明神
芭蕉句の文字が風雪に消えつつある句碑「風流の はじめや」
「境の明神」の国道を越えて「白河二所之関跡」の石碑が建つ
県境にある「境の明神」を越え、歌枕「白河の関跡」に向かう。
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芦野の里を出て、旧奥羽街道である国道294号線を北へ向かい、境の明神を越えた。
ここまでが「奥の細道」の序奏である。
栃木と福島の県境に境の明神があることは先でも述べた。 下野(しもつけ)と陸奥(むつ)の国境を守る神社で、旅人が道中の安全を祈って詣でたところである。福島県側の神社奥に芭蕉が須賀川で詠んだ「風流の 初めや奥の 田植うた」の古い句碑が立っている。
境の明神から200mほど先の北隣に駐車場がある。
片道約6km、往復約12kmのサイクルロードでもある。
車や人とめったに出会わない山道「卯の花街道」を、新緑の美しい山村風景を楽しみながら走る。
蝦夷(えみし)の南下や人、物資の往来を取り締まる関所であった。
「心もとなき日かず重るままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ」
白河の関が機能していたころの王化の北限といわれていた東国(あずま)とは、一体どのようなところであったのだろうか。
「白河の関であった。本土はこの関で尽き、奥州の山河はこの関から始まっている。 古来、都人は都にあってこの辺境の関門にかぎりない浪漫の想いに駆られた。 かれらはまだ見ぬこの関門を詩想し、かぞえきれぬほどの数の歌や詩を作った。
「(白河の関)―これより蝦夷(えぞ・えびす)の地。とは書いていないが、この傲然たる関の構造物は、その言葉を天地にわめきちらしているようであった。 関の門は開いていた。 (これが、白河の関か) と若者(義経)は風の鳴るなかで、関の柱をなでた。詩情ではなく、詩情よりも哀切な思いであった。 都育ちのこの若者にとっては、この門をくぐればもはやそこは蛮国であると思っていた。」
また後でも出て来るが、ここ白河の関のある旗宿は「庄司戻し」とも呼ばれ、次のようなエピソードが残っている。
治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは庄司佐藤基治の子、継信(つぐのぶ)、忠信兄弟が加わった。
庄司佐藤基治は息子2人を白河の関の旗宿まで見送り、別れの時に桜の杖を地面に突き刺して「忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろう」と言って励まし福島に戻って行った。それ以来、白河の関の旗宿のこの場所は「庄司戻し」とも呼ばれている。
杉木立に囲まれた白河関跡
白河の関跡にある「古関碑」 樹齢800年の「従二位の杉」が見下ろす
白河神社 社殿横に立つ「三首和歌碑」
能因法師は、都より遠く離れた白河の関を次のように詠んでいる・・・
(みやこをば かすみとともに たちしかどあきかぜぞふく)
また西行法師の和歌も特に有名である・・・
西行法師 「 白河の 関屋を月の もる影は 人の心を とむるなりけり」
(しらかわの せきやをつきの もるかげはひとのこころを とむるなりけり)
「奥の細道・白河を走る-2」
につづく