shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2017『星の巡礼・奥の細道紀行-句碑の前でわたしも一句』 16

2017 星の巡礼奥の細道2400kmをたどり、恐れながらわたしも一句』 10

1.黒羽⇒芦野⇒白河 <奥の細道紀行1>
④ 芦野の里(あしののさと)を自転車で走る-2 

◎境の明神

芦野の里をあとにして国道294号線(旧奥州街道)を北上、栃木と福島の県境に「境の明神」がある。
この白河市にある「境の明神」の境内の裏に、古い芭蕉句碑がある。
 
境の明神は、旧奥州街道に面して陸奥福島県)と下野(栃木県)の県境を挟んで「境の明神」が二社並立して建っている。奥羽側の境の明神は玉津島明神を、下野側の明神は住吉明神をそれぞれ祀られている。
 
文禄4年(1595年)、当時白川を支配していた会津藩主蒲生氏が社殿を造営。
境の明神前を五街道の一つである奥州街道が南北に通じている。 奥州、越後などの諸大名が参勤交代で通行し、旅人や商人などの往来が盛んであった。
このため道中の安全を祈ったり、寄進なども多くなされたようである。
 
境内には、越後新発田藩南部藩士などが寄進した灯籠が並んでおり、その奥に摩耗激しく文字も不鮮明な松尾芭蕉の句碑が多くの歌碑と共に建立されている。
 
芭蕉句碑 「 は世を ― 風流の はじめや奥の 田うえ唄  (ふうりゅうの はじめやおくの たうえ うた)
                     みちのくに入って耳にする田植歌。 白河の関を越えると歌いながら田植えをするという
                     風流な習慣があることを詠っている

恐れながらわたしも一句
實久         「 踏越えし 陸奥峠 朧月 」  (ふみこえし みちのくとうげ おぼろつき)  



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境の明神

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 芭蕉句の文字が風雪に消えつつある句碑「風流の はじめや」

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「境の明神」の国道を越えて「白河二所之関跡」の石碑が建つ

県境にある「境の明神」を越え、歌枕「白河の関跡」に向かう。


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2‐1  白河の関須賀川飯坂温泉奥の細道紀行 2>


白河の関を自転車で走る-1     201757日>


 いよいよ「奥の細道」の入口、白河の関跡に立つ。


芦野の里を出て、旧奥羽街道である国道294号線を北へ向かい、境の明神を越えた。
ここまでが「奥の細道」の序奏である。


栃木と福島の県境に境の明神があることは先でも述べた。 下野(しもつけ)と陸奥(むつ)の国境を守る神社で、旅人が道中の安全を祈って詣でたところである。福島県側の神社奥に芭蕉須賀川で詠んだ「風流の 初めや奥の 田植うた」の古い句碑が立っている。


境の明神を北へ向かい、白坂を右へ曲がって現在の「卯の花街道」をのんびりと卯の花を愛でながら白河の関跡のある畑宿へ向かった、と曾良も日記に記している。


ここ境の明神から白河の関までの道は、5月下旬に咲き乱れる卯の花から「卯の花街道」、または白河の関のある旗宿に向かう「旗宿道」として知られている。


境の明神から200mほど先の北隣に駐車場がある。


車から自転車をとりだし、国道294(旧陸羽街道)から離れて「卯の花街道」をサイクリング、白河の関を往復する。


片道約6km、往復約12kmのサイクルロードでもある。
車や人とめったに出会わない山道「卯の花街道」を、新緑の美しい山村風景を楽しみながら走る。

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白河の関は、奥州三関のひとつであり、5世紀頃奈良時代から平安時代頃)に機能した国境の関門で、
蝦夷(えみし)の南下や人、物資の往来を取り締まる関所であった。
 
都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として名高い。
 
また、関門としての機能が失われてからは、『歌枕』(和歌の名所)として文学的に有名になり、能因や西行など時代を代表する歌人俳人たちが訪れ、多くの歌を残している。
 
もちろん芭蕉曽良と共に、ここ白河の関跡を訪れている。
芭蕉は、その「奥の細道」で次のように心細い気持ちを書き綴っている。
 
「心もとなき日かず重るままに、白河の関にかかりて旅心定りぬ」

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 白河関の森公園にある奥の細道「心もとなき日・・・」石碑

白河の関が機能していたころの王化の北限といわれていた東国(あずま)とは、一体どのようなところであったのだろうか。
芭蕉が訪れたときはすでに白河の関は廃され、歌枕として有名な史跡となっていた。


白河の関を通った歴史上の人物として源義経がいる。司馬遼太郎著「義経」の中で、当時の白河の関について次のように描写している。
白河の関であった。本土はこの関で尽き、奥州の山河はこの関から始まっている。 古来、都人は都にあってこの辺境の関門にかぎりない浪漫の想いに駆られた。 かれらはまだ見ぬこの関門を詩想し、かぞえきれぬほどの数の歌や詩を作った。


都をば霞とともに発ちしかど秋風ぞ吹く白河の関―この作者の能因法師も都にあって関への旅を夢想しつつ机上でうたいあげた。」
 
「(白河の関)―これより蝦夷(えぞ・えびす)の地。とは書いていないが、この傲然たる関の構造物は、その言葉を天地にわめきちらしているようであった。 関の門は開いていた。 (これが、白河の関か) と若者(義経)は風の鳴るなかで、関の柱をなでた。詩情ではなく、詩情よりも哀切な思いであった。 都育ちのこの若者にとっては、この門をくぐればもはやそこは蛮国であると思っていた。」


また後でも出て来るが、ここ白河の関のある旗宿は「庄司戻し」とも呼ばれ、次のようなエピソードが残っている。


治承4年(1180年)源頼朝が挙兵した時、義経は平泉から奥州各地の兵を引き連れながら鎌倉に駆けつけ、福島からは庄司佐藤基治の子、継信(つぐのぶ)、忠信兄弟が加わった。
庄司佐藤基治は息子2人を白河の関の旗宿まで見送り、別れの時に桜の杖を地面に突き刺して「忠義を尽くして戦うならこの杖は根づくだろう」と言って励まし福島に戻って行った。それ以来、白河の関の旗宿のこの場所は「庄司戻し
」とも呼ばれている。


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杉木立に囲まれた白河関

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 白河の関跡にある「古関碑」                                             樹齢800年の「従二位の杉」が見下ろす

杉の巨木に囲まれ昼なお暗き「白河の関跡」の石段をあがると簡素な白河神社の社殿があり、平兼盛
能因法師梶原景季の和歌が刻まれた碑がその横にある。

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白河神社 社殿横に立つ「三首和歌碑」
 
因法師は、都より遠く離れた白河の関を次のように詠んでいる・・・


能因法師  「 都をば  霞とともに  立ちしかど 秋風ぞ吹く 」
                          (みやこをば かすみとともに たちしかどあきかぜぞふく)


 また西行法師の和歌も特に有名である・・・


西行法師   「 白河の 関屋を月の もる影は 人の心を とむるなりけり」
            (しらかわの せきやをつきの もるかげはひとのこころを とむるなりけり)


また、右手奥に「奥の細道」にでてくる白河の関の章を刻んだ碑もある。


                     
         「奥の細道・白河を走る-2」
               につづく