shiganosato-gotoの日記

星の巡礼者としてここ地球星での出会いを紹介しています。

2018『星の巡礼 鈴鹿山脈縦走 60km』 19

2018『星の巡礼 鈴鹿山脈縦走 60km』 18

<老人の牛歩トレッキング>

鈴鹿山脈縦走路における水場案内(4月)

鈴鹿山脈縦走路 水場A  常時豊富な水量をもつ沢水  国見峠手前(御在所⇒国見岳)
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年中、恵みの水を与えてくれている沢であると云われている。 もちろん給水した。


鈴鹿山脈縦走路 水場B> 不確実な水場の一例(沢水)
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 雨天時のみ、雨水が乾沢(からさわ)に集まり恵みの水を与えてくれる 。

 
鈴鹿山脈縦走路 水場C> 不確実な水場の一例・残雪 
  緊急時、3~5月の残雪を砕いて水を確保することも出来そうである
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鈴鹿山脈縦走路 水場D    南峠手前崩落崖に流れ込む沢水 (釈迦岳⇒三池岳)
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鈴鹿山脈縦走路 水場E> 非常緊急用水場(池)・濾過機携帯時又は煮沸   
                                         静ケ岳分岐手前(竜ケ岳⇒銚子岳)
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鈴鹿山脈縦走路 水場F>   雨水給水    藤原山荘
                                           3泊目は豪雨強風のため藤原山荘泊 <山荘右端のドラム缶に雨水あり>
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鈴鹿山脈縦走路 水場G>   御池岳7合目付近の沢水  カタクリ峠⇒御池岳)
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鈴鹿山脈縦走路 水場G>   614m地点/黒川谷の沢(犬上川源流)で給水 
                                            (鞍掛峠西側・リュック峠にデポ)
鈴鹿縦走の中で、いまだルート未開拓といっていい<三国岳~五僧峠>に入る場合は、必要な水携行が
求められる。
今回は4日目出発にあたって、藤原山荘前に備え付けられたドラム缶に溜められた雨水をお分けいただき、使用した分は鞍掛峠を西に下った黒川谷の沢水をもって満水とした。その間、リュックはお地蔵さんにお預け(デポ)して短時間での給水作業をこなした。


鈴鹿山脈縦走路 水場H>  五僧峠の沢水(湧水?)
                                           または下っての権現谷や行者谷(芹川源流)の湧き水豊富な水も美味しい。
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五僧峠の沢水                                                権現谷の水は格別に美味しい
 


◎下山後の体調(健康状態)


<4日間ほど尿が赤茶色>
縦走中十分な水分補給が出来なかったこと、疲労が限界を超えていたことによると思われる。


<睡眠の変化>
ツエルトによる露営は、歩行限界時のその場所での設営であったため、理想的な野営適地を選択しえなかったからか、正しい姿勢での睡眠は難しかったのであろう。浅い睡眠におかれていたと思われる。いまだ睡眠不足を感じて眠たい。


縦走後の妻との対話>
「肩のアザや腰痛ぐらいで、無事帰れてよかったわね。もし水と食料をたくさんもったまま、山中で行き倒れて
いたら笑いものだったわね。」 と冗談半分な高笑いで、今回のあまりにも大げさな食糧携行を揶揄した。
いや実際、下山帰宅してすでに一週間たつが、いまだ残った携行食品を食べきっていないのだから無残である。


疲労による行き倒れがない限り、この食料で生き延びることも出来ているのだと思うだけで、一つの遭難を
防げたのではないかとひとり自負しているが、情けない。


しかし、この残り物が調理の仕方で、意外と美味しいのである。
山中での、あの喉をも通すのに苦労した携行食糧が、湯だけでこうにも美味しく化けるとは天と地の差である。製造企業の工夫努力に脱帽である。紙カップに入ったカレー味のアルファー米など、山中ではカレーの塊が
溶けずに、かじって腹に流し込んでいた。食べた後は、カレーの脂で口の中がベタベタ、試食しておくべきだったと悔いたものである。


それが、お湯だけでこんなに美味いカレーライスやハヤシライスが食べられるのだと思い知らされ、山中で愚痴ったおのれの浅はかさを笑ったものである。


もし若くて、力があり、ガスストーブや調理鍋などを持参できていたら、美味しい携行食糧をわざわざ不味く食べることもなかったと思うだけで、歳をとるということがいかに惨めな結果を招くのかと思い知らされたのである。


その点、チキンラーメンは長年の友、水でふやけた緬を腹に流し込むのに抵抗はなかった。面白いことにこれで何Kcalの力がみなぎるのだと納得したものである。


やはり、単独でのロングトレイルや縦走は無理な状況にあるようだということが、今回の鈴鹿山脈縦走で明白となった。これも老化によるものとあきらめざるを得ないと思っている。


最後の単独縦走となった鈴鹿の山旅に感謝したい。単独の私にいつも語りかけてくれた山の神をはじめ、わたしを導いてくれたこころの神に感謝したい。老化による死に向かって、わたしはどのような形で感謝の気持ちをのこし得るか考える時期に近づいているのであろう。


 次からは、妻を連れ、山小屋のある日本アルプスをゆっくりと、身軽な縦走を楽しみたい。


<体重および重量の変化>
鈴鹿山脈縦走にあたって、その前後の体重および重量を計ってみた。
縦走前の体重は68.65kg、リュック12.00kg、すなわち縦走中の両脚にかかる平均的総重量は80・00kgであった。
食糧の消費減量は、疲労や不適切な選択のため体が受け付けなかったこともあり、下山時約40%の残量があったことと、二回の大雨による携行品への湿気が加わり、全重量はさほど変わらなかったとおもわれるからである。


とくに、全重量の約20%を占めた飲料水を縦走中、可能な限り給水・満水につとめたので減量につながらったことも大きくい。
縦走下山後、帰宅してからの測定では、体重65,30kg、リュック10・35kg及び装備1.50kg。全重量は77.15kgであったから、縦走前に比べて総重量は約5.00kg減に過ぎなかった。 それも体重と食糧と飲料水の減量からきているに過ぎなかった。
結局、縦走中、体重を含めた総重量は+-(プラスマイナス)5kgにとどまった。


<猫背、腰痛いまだ治らず>
リュックの肩紐により、両肩に痣(あざ)ができていた。 それを分散するためリュックの腰バンドを使用した。
腰バンドにかかる重量を分散させるため腰を受け皿にするための前かがみの姿勢をとったことにより、
前かがみの姿勢が下山後も元に戻らず、腰の痛みがいまだ残っている。


今回のリュックおよび装備の重量12kgは、わが縦走/ロング・トレッキング行の中では一番重いものとなった。 ちなみに、今までの最大重量は、「高島ロングトレイル」での、9.83kgであった。


老齢で、なおこの重量となった理由および原因は、給水の困難な山域であったことからチャンスがあれば常時給水・満水を心がけたこと、縦走途中でのデポ(残置補給)に頼れなかったこと。当たり前だが、一番の理由は単独行による必須携行品をひとりで背負ったことによる。 すべて承知で鈴鹿山脈縦走にチャレンジしたことへの結果であり、なし終えた喜びも大きい。


いまだ、両肩のアザも残り、腰の痛みからさらに猫背がひどくなって、背中をのばしなさいとの妻からの恨めしい叱責がとぶ。
下山して一週間が経つが、いまだ藤原岳をよじ登る、重いリュックを背負っての前かがみの姿勢であり、
猫背いまだ治らず、である。


 


◎歴史から見る鈴鹿の峠


<根の平峠 803m ⑦> (千種峠)  東近江市永源寺町三重県三重郡菰野町(こものちょう)


今回の鈴鹿山脈縦走にあたって、根の平峠近くで露営し、四日市コンビナートの不夜城を見下ろしながら、松明をかざして伊勢の国に急ぐ軍勢の幻を頭に描き、歴史の中にいる己が歴史ロマンにひたっていることに満足したものである。


根の平峠は、また東海道中山道の間にある間道として古来多くの人々が越えた峠であり、千草街道又は夷峠として知られていた。


日本統一の野望に燃えた武将には、信長はじめ武田氏や朝倉氏、それに毛利氏、ほかに近江の佐々木六角氏もその一人であった。


戦国の佐々木氏の軍もまた、この動きの中で、鈴鹿山系の千草越え(杉峠 1036m・根の平峠803m)山路を使って伊勢に攻め入っている。。


この先の八風峠越えと千草(根の平)峠越えの山路は、近江と伊勢を結ぶ交通要路であり、周囲の国々に知られずして軍を移動させる最適のルートでもあった。このように鈴鹿の峠は、時には隠密裏に兵を動かす軍用路として歴史を作ってきたのである。


信長もまた、ここ根の平峠を越えて伊勢に侵攻している。 ある日、京から岐阜に帰るため浅井氏にふさがれていた中山道を避け、千草(根の平)峠越えをしているとき、佐々木六角氏に頼まれた杉谷善住坊から鉄砲で狙撃されたことが言い伝えられている。

 
八風峠940 ⑲>  東近江市永源寺町三重郡菰野町(こものちょう)       <はっぷうとうげ>
石榑峠688 ㉑>  東近江市永源寺町三重県員弁群石加村(現大安町   <いしくれとうげ>


八風街道は、近江八幡永源寺を経て鈴鹿の峠を越えて伊勢・美濃そして東国へ通じる古くからの街道であった。
八風街道は、八風峠を越える主街道と石榑峠を迂回する枝街道があったいわれる。
八風峠は、現在でも見晴らしがきき、風あたりの強い峠であるところを見ると、その名にふさわしい気がする。伊勢・伊賀の平氏が乱を起こしたとき(1204年)、鈴鹿峠八風峠を固めたということが東鏡にでてくるという。


鈴鹿峠の盗賊徘徊や戦乱のため中山道をさけて、山越商人が積極的に、裏道として八風峠を使っていた。
また、近江の守護佐々木六角氏は伊勢を攻める時、軍を二手に分け千草越え、と八風越えの二つの間道から、兵器や兵糧を大量に背負わせて峠を越えている。


信長も又、ここ八風峠を越えている。信長は隠密裏に京へ上がった帰りの船で、刺客に襲われて守山に上陸し、八風峠を越えて、清州城に逃げ帰ったという話が語り継がれている。


当時の八風峠はその役割を終え、現在の石榑峠の下を走る国道421号線に引き継がれている。


八風峠は、八風神明神社(八風大明神)の碑と鳥居が立ち、のどかな空間が広がる。東には伊勢平野、北東に三池岳を望み、振り返れば釈迦岳のさらに奥に御在所岳が霞の中に浮かぶ。


石榑峠は、旧国道421号線が八風街道の後を引き継いでいたが、トンネルの開通でその役目を終えている。 現在は自動車止めがあり、車で峠を越すことは出来ない。ただ、滋賀県側よりの登山者に便宜をはかるため登山口駐車場への道路は開かれている。

 
<治田峠769  ㉗>       東近江市永源寺町いなべ市北勢町        <はったとうげ>


鈴鹿山脈の中央部を近江と伊勢を結ぶ治田峠は、永源寺町山上から政所、君ケ畑、茨木(いばら)、治田峠へと延々と続く山道である。この山道を古くから近江の文化である木地師(ロクロを用いて椀や盆などの木工品を加工、製造する職人)や、近江商人が創り上げてきた文化伝播の道でもあった。


峠には昔、筒井千軒という集落があったというから驚きである。 昔の鈴鹿山脈には人の生活が息づいていたのである。
鈴鹿山脈を縦走するとき、文化を支えた木地師鈴鹿山麓の孤絶の村に住みつき、鈴鹿の峠を越えてその勢力を全国にのばしていたことを知ることにより、鈴鹿の山は生きいきとその姿が蘇ってくるのである。


山歩きをするとき、山の歴史を知っておくと、そこに流れた多くの汗や血によって作られた山道がいとおしく思えてくるのはわたしだけであろうか。山は、昔から人とのつながりをもち、人を迎え入れ、人に多くの幸せを届けてきた。


ここ鈴鹿山脈の峠が、ひとや文化の往来を助けてきたと思うだけで、ひとり山旅もまた孤独から解放されていくのである。

 
<鞍掛峠 796m ㊸> (大君ケ畑越―おじけはたごえ)  <くらかけとうげ>
                滋賀県犬上郡多賀町岐阜県いなべ市藤原町


近江と伊勢を南北に分ける標高が平均1000mもある鈴鹿山脈は、近江平野の生産力と社寺の権力を背景にした近江商人によって伊勢方面への販路としてルート開拓がなされた。その峠路の一つが鞍掛峠である。


北岳よりなだらかな尾根を下った、そして三国岳への急登との間にある狭い鞍部が鞍掛け峠である。


今では考えられないが、昔、お伊勢参りの帰路、多賀大社へ参拝する人々が、この峠を参宮道路として利用することが多かった。


いま、狭い鞍部の鞍掛峠に立っていると、多賀参りの参拝客や、商品や産物を馬に乗せて引く馬子のひっきりなしに往来する姿がまぶたに浮かんでくる。そして、昔と変わらないびわ湖の涼しい風が吹き抜けていた。


<五僧峠> (保月峠/杉坂峠/牧田峠/島津越え  標高505m)  多賀町大垣市上石津町  <ごそうとうげ>


五僧は、むかし美濃、元岐阜県大垣市上石津町の時山から五人の僧がここへやってきて道場を開き、住み着いたのでこの名がついたと言われる。


今でこそ林道が来ているが、それまでは人里まで遠く険しい山道であったと想像できる。
現在は、廃屋の周りに見られる畑だったらしい平らなところも草木が生い茂り、人を受け付けない過疎の地、いや放棄の地と化して侘しい。
また、林道も崩落個所があり、かっての峠の賑わいは、今はない。静かである。


この峠もまた、古くから美濃の国と近江の国を結ぶ交通の要路であった。
五僧村は、現在人の声の絶えた廃村となっている。しかし、見方を変えれば、あたかも人が住んでいるかのような廃屋が残され、ひとの温もりがいまなお感じられる不思議な廃村でもある。 亡びゆく者への共感というか、廃村への哀愁が迫りくるのである。


昔、牧田(岐阜県大垣市)から五僧峠(牧田越え)を越えて多賀大社滋賀県)に詣でる牧田多賀講という奉仕団が現存しているという。
また、慶長5(1600年)年、関ヶ原の合戦に破れた薩摩の武将島津義弘の一行は、同じく岐阜城より敗走中であった小林新太郎(岐阜城織田秀信の旗本として、西軍に参加していた近江国川瀬の者)の案内で、密かにここ五僧峠を通り、多賀高宮の河原(現・南彦根の犬上川原か)で一泊し、翌朝早く甲賀を通って堺浦に出て、薩摩に帰った。ここから五僧峠は「島津越え」ともいう。


関ヶ原の合戦より400年以上たった現在でも、その島津隊を追尾した彦根藩の井伊隊を讃える体験踏破や、先祖の苦難を忘れず、みずからも先祖がたどったコースを歩くことで心身を鍛え、薩摩の命、薩摩のこころを伝える「関ケ原戦跡踏破隊などの行事が受け継がれていることに、日本人の魂を垣間見るおもいである。

 
                                            
 
 
                         2018『星の巡礼 鈴鹿山脈縦走 60km』 
                                                   <老人の牛歩トレッキング>

                                                                
 
 
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2018年5月12日現在   いまだ行方不明の親子が山のなかにいると思うと胸が痛む。
息子さんは6歳という・・・悲しい遭難である。
すでに1週間が経つ。 一日もはやい発見を共に祈りたい。
 


登山の親子遭難 範囲広げて捜索    新潟 NEWS WEB NHK


2018年(平成30年)58日 火曜日 0507日 1708


5日、新潟県阿賀野市の山に登山に出かけたまま会社員と小学生の親子2人が下山せず、警察や消防は2人は遭難したと見て、7日朝から行方を捜していますが、今のところ2人は見つからず、範囲を広げて捜しています。

遭難したと見られるのは新潟市北区の会社員、渋谷甲哉さん(37)と長男で小学1年の空くん(6)の2人です。
警察によりますと、2人は5日、阿賀野市の五頭連峰の登山に出かけ、夕方になって「道に迷ったのでビバークする」と渋谷さんから家族に携帯電話で連絡があり、6日朝には、「これから下山する」と再び電話がありましたが、そのあと連絡が取れなくなり、家族が警察に届け出たということです。
警察や消防は2人が遭難したと見て、当初、家族などの話から赤安山と扇山の登山道を中心に捜していました。
しかし、その後、2つの山より標高の高い松平山の登山口で渋谷さんの登山届が見つかったことや、5日昼ごろ、渋谷さん親子に似た2人を見たという情報があったことから、松平山の登山コース周辺を重点的に捜していますが、今のところ、2人は見つかっていません。
警察などは範囲を広げながら2人を捜しています。

 
 
■祈りむなしく、遺体で発見。 哀悼の意を表します。

不明の親子か、五頭連山で2人の遺体発見 新潟・阿賀野

5/29(火) 14:48配信
朝日新聞デジタル
 
       
 29日午前11時20分ごろ、新潟県阿賀野市の五頭(ごず)連山の沢で、県警のヘリコプターが男性とみられる2人の遺体を発見した。五頭連山では新潟市北区の親子が今月5日に登山に入ったまま行方不明になっており、県警が捜索していた。県警は29日午後2時35分ごろに遺体を収容し、この親子とみて身元を調べている。

 県警阿賀野署によると、行方不明になっているのは新潟市北区の会社員渋谷甲哉(こうや)さん(37)と、長男で小学1年の空くん(6)。駐在所員が6日午前に渋谷さんの父(73)から「遭難の可能性がある」と連絡を受けたが、夕方まで署に伝えず、県警は7日から市消防本部などとともに40~50人態勢で捜索を開始。目撃情報のあった登山道などを中心に捜索してきた。

 遺体は2人が向かったとみられる松平山(954メートル)の山頂から約1・7キロ南西にある「コクラ沢」の斜面で、うつぶせに折り重なるようにして倒れていたという。遺体の身長はそれぞれ180センチと124センチ。服装も含め、渋谷さん親子と特徴が一致するという。